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第四話 月を離れる日

荷物と言えるものは、驚くほど少なかった。

綾瀬ユウの支給ロッカーには、硬質ケースが二つ。

一つは、折り畳み式の標準スーツ《ワーカー》用インターフェースと、個人カスタムのツール類。

もう一つには、簡易の衣類と衛生用品、それに「個人許可データ」と呼ばれる数ギガ分のメモリチップだけが収まっている。

生まれてから二十数年分の人生を詰め込んでも、指先でつまめる重さにしかならない。

《搭乗班ER−07、集合時刻まで三〇分。忘れ物はありませんか?》

天井の端のスピーカーから、ルナ・センターの居住区AIが声をかけてきた。 感情の起伏は薄いが、訓練教官のそれよりは、わずかに柔らかい。

「忘れ物って、そもそも持っていくものが少なすぎるんだけど」

ユウはケースのロックを確認しながら、独り言のように返した。

《感傷類は重量制限に含まれていません。データでしたら、あと二メガバイトまでなら許容量がありますよ》

「二メガって・・今どき、アイコンのスタンプセットくらいしか入らないよ」

そう言いつつ、ユウはポケットの中の古びたメモリチップを取り出した。

銀色の表面には、旧世紀の企業ロゴがかすかに残っている。 アーカイブ塔の隅の方で見つけて、こっそり個人領域にコピーしていたニュース番組の断片。

それをまたケースの中へ戻す。

「こいつだけで手一杯だから、いいよ」

《了解。情緒的重量は換算不能ですので、現行の貨物規約の対象外です》

AIがさりげなく冗談を混ぜる。

ユウは、思わず笑った。 こういう半歩ズレた返しを聞くと、まだここが自分の“ホーム”なのだと実感する。

もっとも、そのホームを、あと一時間もすれば離れるのだが。

搭乗ブロックへ向かう通路は、いつもより少し静かだった。

ルナ・センターの居住区から工学区画へ抜ける通路は、本来ならシフトを終えた作業者や訓練明けの学生たちで、そこそこ賑やかだ。

だが今日は、すれ違う人の数が少ない。 皆、わざとこの通路を避けているようにも見えた。

「見送り禁止、ってわけじゃないんだけどね」

隣を歩く森下チカゲが、タブレットを抱えたまま呟いた。 白髪が混じり始めた髪を一つに束ね、医官用の青いジャケットを羽織っている。

「重力訓練よりこっちの方が、よっぽど息苦しいですよ」

ユウが苦笑すると、チカゲも少しだけ口元を緩めた。

「“出発前の感情負荷はミッションリスクを増す”って、心理班のレポートにあったでしょう。だから、あんまり派手な送り出しはやめましょうってことよ。納得はしてないけどね」

通路の壁には、小さな窓が等間隔に並んでいる。 外には、月面の灰白色の地平と、その上に浮かぶ青白い球体が見えた。

ユウは、立ち止まりたい衝動をこらえながら歩を進める。

「先生は、地球に行きたいと思ったこと、あります?」

ふと口をついて出た問いに、チカゲは少しだけ目を細めた。

「若い頃はね。まだ第一世代が何人か生きていて、“海が”“森が”って散々聞かされたから」

「今は?」

「今は・・」

チカゲは言葉を選ぶように少し間を置いた。

「今の地球は、私にとって“患者”よ。医者が患者の家に遊びに行きたいかどうか、って質問と同じ」

「それ、あんまり行きたくないって意味ですよね」

「そうね。でも往診には行かなきゃいけない」

それが、あなたたちの仕事だから――と、最後の一言は口にしなかった。 ユウには、言わなくても伝わっていた。

搭乗ゲート前には、すでに数人が集まっていた。

重装スーツ《ロック》の調整をしているルイス・ハーン。 自分のヘルメットに落書きをしていて、整備士に小言を言われている通信士の若い女。

バックアップクルーの一部も、簡単な見送りに来ていた。

そして、その場を静かに見渡している男が一人。

カラム・ウォン。 ERユニットの隊長にして、今回の地球降下の全責任者だ。

百八十を超える長身に、筋肉質な体つき。短く刈られた黒髪と、薄い傷跡のある口元。 その佇まいは、かつて鉱山作業と治安維持任務を兼ねていた「外仕事」世代の名残を感じさせた。

「全員、揃っているな」

カラムが腕時計型端末を一瞥し、低い声で言った。

「六人の先発調査隊と、軌道上待機の五十四名。今日から、お前たちの人生は地球とつながる。――ただし、地球に“帰る”わけじゃない」

それは、幾度となく聞かされた言い回しだったが、出発直前に改めて告げられると、胸の奥に冷たいものが落ちる。

「俺たちは、月の代表として行く。月の資産を賭けて送られる“探査機”だと思え」

その言葉に、ユウは内心で反発しそうになった。

(探査機、ね)

人間と機械を同列に扱う表現には、どうしても少し引っかかる。

だが同時に、月面社会で生きてきた誰もが、それをある程度は受け入れている現実も知っていた。

空間と資源と寿命がきっちり計算されたコロニーでは、一人ぶんの「投資」を回収するために、どれだけの訓練と教育が注ぎ込まれているか。

ユウ自身、その「投資対象」の一つに他ならない。

「地球が、どうなっていようと」

カラムはスクリーン越しの青い球体を一瞥した。

「あそこに、まだ“話のできる何か”が残っているなら、それを見つけてこい。残っていないなら――その事実を、正確に持ち帰れ」

「了解」

ユウたち六人は、一斉に敬礼した。

その声に、バックアップクルーの中から、抑えた拍手が起こる。 それは公式には認められていないはずだが、誰も止めなかった。

発射ブロックへ続くエレベータの中で、ユウは深呼吸をした。 耳の奥で、血流の音がざわついている。

月面重力から解放され、短時間だけ無重量になる区間を経て、今度は発射時の加速度が待ち構えている。

訓練で何度もシミュレートした感覚だが、本番の一回目は、やはり別物だ。

《心拍数上昇。ER−07、深呼吸を継続してください》

チカゲの端末から、落ち着いた声が聞こえた。 彼女は医官専用のインターフェースで、全隊員のバイタルを監視している。

「先生、そっちは?」

ユウが聞き返すと、チカゲは肩をすくめた。

「こっちはいつも通りよ。・・あなたたちより、少しだけ脈が速いかもしれないけど」

エレベータの扉が開くと、そこには銀色の胴体を持つシャトルが横たわっていた。

ルナ・ドック三号。 月面打ち上げ用に最適化された再使用型の輸送機だ。

その上部に、小ぶりな円筒形のモジュールが連結されている。 あれが、彼らの長旅の居住区になり、地球軌道上での拠点にもなる《ER−Seed》モジュールだった。

タラップを上る途中で、ユウは反射的に振り返った。

巨大なドーム群と、放射線防護のためのレゴブロックのような建築物。 そのすべてを、青白い地球光がぼんやりと照らしている。

「・・行ってきます」

誰にともなくそう呟いてから、ユウはシャトルの中へ入った。

発射シートに身体を固定し、ハーネスを締める。

視界の先には、小型スクリーンに写る簡易インターフェースと、緊急時用のマニュアル。

左側には、チカゲが同じように固定されているのが見えた。 彼女はタブレットを胸の前に抱えたまま、静かに目を閉じている。

「聞こえるか、ERユニット。こちら発射管制」

ヘッドセット越しに、カラムの声が入る。 彼は別の座席ブロックで、管制と同調しながら最終確認にあたっている。

「機体固定解除。外部接続カット。・・いいか、ここから先は、お前たちの世界だ」

短い沈黙が落ちた。

次の瞬間、機体の奥で、重い音がした。 燃料ラインが開き、核融合補助ブースターが始動する。

その振動が、シートのフレームを通じて全身に伝わってきた。

《発射まで、カウントダウンTマイナス一五秒》

AIの無機質な声。 ユウは、両手の指先が自然とハーネスを握りこんでいるのに気づいた。

十秒。 五秒。 ――三、二、一。

世界が、縦方向に押しつぶされる。

胸に鉛の塊を載せられたような圧迫感。 肺が縮み、血液が重力に逆らえず下半身に溜まろうとする。

訓練で何度も味わった一Gや二Gではない、一瞬だけ三G近くまで上がる初期加速。 そのすべてが、ユウの身体を座席に叩きつけた。

歯を食いしばり、意識が狭くなるのを耐える。

視界の端で、チカゲの表情がわずかに引き締まるのが見えた。 それでも彼女の目は、しっかりと開いている。

やがて、圧迫がわずかに軽くなった。 月面重力圏を抜け、加速が一定になった証拠だ。

《初期加速フェーズ終了。推力安定。お疲れさま》

同じAIの声なのに、先ほどより少しだけ柔らかく聞こえるのは、ユウの主観のせいだろう。

「・・生きてる」

ユウが絞り出すように言うと、チカゲが横目で笑った。

「まだ、打ち上げただけよ。ここからが長い」

数時間後。

《重力状態、ほぼゼロ。モジュール内、自由行動に移行》

安全ベルトを外すと、身体がふわりと持ち上がる感覚がした。

無重量。 月面の六分の一Gとも違う、完全な浮遊の感覚。

ユウは、慎重に足と手で壁を蹴り、通路を進む。

《ようこそ、ER−Seedへ》

天井から聞こえてきた声は、さっきまでの管制AIとは違う響きを持っていた。 少し低く、抑揚があり、言葉の間合いに妙な“癖”がある。

「誰?」

ユウが思わず問うと、スクリーンの一つに、抽象化されたロゴが浮かび上がった。

逆三角形の中に、幾本かの線が重なった図形。その下に、小さな文字で表示が出る。

〈行動パターン解析モジュール Λ-Logos/ER〉

「・・ラ、ムダ・ロゴス?」

「ラムダよ」

後ろからチカゲが訂正する。

「ギリシャ文字。Λ(ラムダ)。“門”とか“分岐”とか、そういう意味合いを持たせたんでしょうね。こいつの名前には」

《簡潔に言うと、皆さんの旅のナビゲーター兼、行動リスク管理担当です》

Λ-Logosは、淡々と続けた。

《地球軌道までの軌道計算、月面との通信中継、環境モニタリングに加え、皆さんの意思決定パターンと、地球表層のマクロ行動パターンをリアルタイムで比較し、危険度を評価します》

「地球の“マクロ行動パターン”?」

ルイスが、天井のスピーカーを睨むように見上げる。

《はい。数十年前に途絶したはずのネットワーク群の“残響”と、現在の地表からのセンサー情報を組み合わせると、いくつかの興味深い周期性が見えてきます》

興味深い、という単語を、Λ-Logosはわずかに楽しげに発音した。

《たとえば――人間の集団暴力行動と、感染ネットワークの位相が、きれいな波形を描いて同期している、とか》

ユウは、思わず耳の奥がざわつくのを感じた。

旧世紀のニュース映像の断片。 群衆が暴れ回るショッピングモール。誰かの腕に噛みつく人間。

あれが単なる“社会不安”ではなく、「波形」の一部だと言われると、背筋に薄い寒気が走る。

「俺たちは、何の上に乗っかってるんだろうな」

誰かが呟いた。 冗談とも本音ともつかないその問いに、Λ-Logosは即座に答えを返すことはしなかった。

《その質問の答えを見つけるために、このミッションがあるのかもしれません》

ほんのわずかに間を置いてから、そう言った。

ユウは、自分の小さな居住ユニットに戻ると、壁面の端末を操作した。

「旧世紀地球ニュースアーカイブ、個人領域07−A。再生」

静電気の走るようなノイズのあと、画面にざらついた映像が現れる。

薄暗いリビング。コンビニ弁当。ニュース番組のにぶい光。 そこに座っている男の名前は知らない。だが、ユウは何度もこの映像を見ていた。

――五年後、その会社は倒産し。 ――職安のロビーで、誰かが誰かに噛みつく。 ――テレビの中では、「非致死性の行動制御技術」が「ゾンビ病」と揶揄され始める。

画面の隅に映るニューステロップを、Λ-Logosの小さなサブウィンドウが解析している。

〈時刻:GT暦前八三年 日本列島・地方都市〉 〈非構造暴力事案:この日だけで一二件〉 〈発言パターン:“頭の中がうるさい”“ここが臭い”〉

「この人たちは、どうなったんですか?」

ユウは、誰に聞くともなく呟いた。 Λ-Logosのカーソルが、一瞬だけ揺れる。

《現在、追跡可能な個体識別データは残っていません。ただ――》

「ただ?」

《この当時の映像記録に映っている“第三者”の一部と、現時点で地表から得られる生体信号の一部の“動き方”が、驚くほど類似しています》

「同じ・・?」

《人間の一生は短く、遺伝子の変化は遅い。しかし、行動パターンの“写し”は、もっと速く、もっと遠くまで届くものです》

それは、まるで哲学講義の一節のようでもあり、冷たい観測結果の報告のようでもあった。

ユウは画面から視線を外し、窓の外に目をやった。

宇宙空間に浮かぶ、青と灰の混じった球体。 そこからは、まだ何の声も届かない。

ただ、Λ-Logosがいう「波形」だけが、センサーの向こうで静かに揺れている。

「行くしかない、か」

ユウは、自分に言い聞かせるように呟いた。

月で生まれた月の子が、 自分の骨と血を作った星へと向かう。

それが、帰郷なのか、侵入なのか、あるいは―― 牧場に戻る家畜の行進なのか。

答えは、まだ、どこにも書かれていなかった。



♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠


読むための手助け用語・世界観ノート 4

■ 「情緒的重量」は計算不能 AIが言った冗談のような一言。 物理的には「ゼログラム」のデータでも、そこにはユウの「懐かしさ」や「故郷への執着」といった、とてつもなく重い感情が詰まっています。 「心の重さは機械には計れない」という、これからの旅を暗示するようなセリフです。

■ 地球は「患者」 チカゲ先生にとっての地球は、もはや美しい故郷ではなく、「病気にかかって狂ってしまった親戚」のようなもの。 行きたくはないけれど、医者としての責任感(あるいは後ろめたさ)だけで向かう。この複雑な距離感が、彼女の大人としての魅力を引き立てています。

■ 行動パターンの「写し」 Λ-Logosが指摘した怖い話。 遺伝子はそう簡単に変わりませんが、「親の振る舞い(癖や空気の読み方)」は子供にそっくりそのままコピーされます。 かつて日本社会で暴動を起こした人々の「空気」が、80年経った今の地球の感染者たちにも、幽霊のように受け継がれているということ。 「三つ子の魂百まで」どころか、「三世代先の孫まで」呪縛が続いているのです。

■ 波形と同期する 個人の感情だと思っていた「イライラ」や「攻撃性」が、実は社会全体の大きなリズム(波形)に操られているだけだとしたら? 私たちは「自分の意志」で怒っているつもりでも、実はウイルスの指揮に合わせて踊らされているだけなのかもしれません。 そんな「自由意志への疑い」を、AIはさらりと指摘しています。

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