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第三話 群れの島

第三話 群れの島

海は、昔より近くなったらしい。

アキが生まれる前の話を、年長の者たちはそう言っていた。

波に削られたコンクリートの断面が、丘の途中でざっくりと途切れている。 そこから下は、ビルの骨と電柱の残骸がそのまま海に沈み、満潮のたびに錆びた鉄筋の先だけが顔を出した。

ここが、かつて「港町」だったことを知る者はほとんどいない。

アキにとっては、最初からこういう島だった。

崩れた建物と、草に飲み込まれた道路と、それでもどこかしらから漂ってくる鉄と油と潮の匂いが混ざった島。

夜明け前、巣の中がざわめき始める。

狭い体育館のような空間――かつて学校だった場所の天井には、鉄骨むき出しの梁の間から朝の光が筋になって差し込んでいた。

床には古いマットや布、ビニールシートを重ねた寝床がびっしりと並び、そのあいだを、眠そうな子どもと、もう若くはない大人とが、ほとんど言葉を交わさずに歩き回る。

空気には、汗と、人の皮膚の匂いと、ごく薄い血の匂いが漂っていた。

アキの鼻腔の奥で、そのブレンドが、懐かしさと安心に近い感覚を引き起こす。

巣母すぼがおりてくる。

二階の職員室だった場所を巣室にしている女が、緩やかに階段を降りてきた。

四十に届くかどうかの歳で、ここではほぼ最年長だ。 髪には早くから白い筋が混じり、腹はまだ少し膨らんでいる。

彼女の周囲だけ、空気が微かに甘く感じられた。

巣母が通り過ぎるとき、アキは自然に頭を垂れた。

彼女は誰の名前も呼ばない。 ただ、周囲の身体に軽く手を触れていく。

肩、首、頬。 触れられたところから、じん、と温かさが広がる気がする。

触れられた者は、それだけで今日一日の役目を理解する。

アキの肩に、指先がかすめた。

内側で何かが「立ち上がる」感覚がする。 胸の奥がざわりとし、足が自然に入口の方へ向かった。

狩り班だ、とわかる。

はらの底から突き上げてくるような空腹感が、急に増した。

腹はさっきまで、そこまで減っていなかったはずだ。 それでも今は、外に出て、何かを追い、噛みつき、内臓の温かさを舌で感じたい――そんな映像が、言葉になる前に頭の中を走る。

(まただ・・)

アキは、自分の中で何度も経験したその感覚に、小さく舌打ちしたい衝動を押し殺した。

巣母に触れられたときから、体内にしみ込んでいるなにか――昔の話では、「ささやき」と呼ばれていた――が強くなる。

出入口から外に出ると、朝の空気が一気に肺に流れ込んだ。

冷えた鉄の匂い。湿った土。遠くの潮風。

その上に薄く重なっているのは、人間以外の生き物の気配だ。

カラスの群れが、電線の残骸に止まってこちらを見下ろしている。 ここのカラスは昔話に出てくるよりもずっと大きい。

翼をひと振りするごとに、黒い羽根の間から銀色の下毛がちらりと光る。 数羽の額には、奇妙な瘤のようなものが盛り上がっていて、その中で何かが脈打っているようにも見えた。

狩り班は十人。

そのうち三人は「噛み手」で、三人は「運び手」、二人は「見張り」、そして二人が「匂い読み」だ。

アキはその匂い読みのひとりだった。

「いく」

隣に立っていた同年代の女が、短く言った。

彼女の腕には、古い包帯の跡が幾重にも帯状に残っている。皮膚をやたらと掻きむしる癖のある「かわ型」のひとりだ。

名前もあったはずだが、皆、彼女をただ「キ」と呼んでいた。音が短くて呼びやすかったからだ。

アキは頷き、鼻から長く息を吐いた。

巣の外の匂いは、いつも少し複雑だ。

ここから数百歩先には、魚を干す小さな場があり、その向こうには、誰も近づかない「吠え場」がある。 そこでは時々、犬とも人ともつかない声が夜通し響く。

年長者は「狂いくるいぬだ」と言う。昔はちゃんとした名前があったはずだが、今はそう呼ばれている。

「吠え場には近づくな」 それだけは子どもの頃から叩き込まれていた。

狩り班は、古い道路を辿りながら、草むらと建物の隙間をすり抜けていく。

アスファルトの割れ目からは、シダや雑草が伸び、ところどころでキノコが塊になって生えていた。 灰色と黄土色の小さな帽子を持つそれらの一部は、人の足音に反応するように、かすかに震えている。

(今日は、南の入り江かな)

アキの足は、その方向を選びながらも、鼻が拾う微細な匂いの差で進路を微調整していく。

朽ちた木材の匂い、腐った海藻の匂い、古い油の匂い――そのどれでもない、ごく薄い「生きた脂」の匂いの筋を探す。

脳の奥のどこかで、「こっち」「まだ」「そこだ」という感覚の点が灯る。

それは誰の声でもないのに、群れ全体の意志に似ていた。

やがて、視界の先に、獲物の影が見えた。

イノシシに似た生き物だった。

ゆがんだ牙と、背中に沿って立ち上がる黒い毛。 腹は不自然に膨らみ、皮膚には白い斑点が点々と浮かんでいる。

目は血走っていたが、どこか焦点を結べないまま、地面を掘っては何かを食んでいる。

はら型だな」

キが、掠れた声で笑った。

イノシシの口元からは、半分消化された何かが垂れている。小さな骨と、見慣れた布切れが混ざっているようにも見えた。

合図はいらない。

噛み手の三人が、一斉に左右へ散り、イノシシの背後を取る。 運び手は少し距離を置いて待機し、見張りの二人は周囲の音と匂いに意識を集中させる。

アキは、「ささやき」の流れをほんの少し強くした。

彼の内側で、見えない「糸」が弾むような感覚がする。 それに応じるように、噛み手たちの筋肉がわずかに緊張したのが、肌でわかった。

次の瞬間、一人が飛びかかり、イノシシの後脚に歯を立てた。

獣が叫び、暴れる。 その暴れ方の波形を、アキの脳はどこかで冷静に計算している。

それはアキ自身の意志というより、「こう動けば、こう来る」という予測が、勝手に筋肉に送り込まれてくる感覚だった。

数分後、イノシシは地面に倒れ、喉元から血泡を吹きながら動かなくなっていた。

噛み手の一人の腕には、浅い咬み跡が残っていたが、彼女はそれを気にした様子もなく、口元を前脚の毛で乱暴に拭っただけだった。

内臓は、その場で少しだけ分けて食べる。

まだ温かい肝臓と脂身の匂いに、「腸型」の者たちの目が細くなる。 アキも一口だけ齧ったが、それ以上は必要なかった。

どちらかといえば、彼の身体は土と風と匂いの変化の方に敏感だ。

残りの肉と骨は、運び手が担架代わりの板に乗せて巣へと戻す。

日が高くなるころ、巣の体育館には、狩り班以外の成果も集まっていた。

海から取ってきた魚、小さな貝、拾った木の実。 誰かが見つけてきた、まだ使える乾電池と、古びた工具。

分配の前に、短い儀式がある。

巣母が中央に立ち、薄い煙を焚く。

古い教科書の切れ端と、干したハーブと、わずかな脂を混ぜた煙だ。 それを全員で吸い込み、鼻腔の奥に、その「巣の匂い」を刻み直す。

アキは、その匂いを嫌いではなかった。 それは安心であり、帰る場所の印でもある。

ただ時々――こうして皆が同じ匂いを吸い込み、同じ方向に身体を揃えているのを見ると、胸の奥がきゅっと縮むような感覚に襲われることがあった。

(自分で、選んでいるのか?)

そんな考えが浮かんだ瞬間、それはすぐに別の感覚に押し流される。

「考えなくていい」という甘さと、「群れと一緒なら生きていける」という静かな肯定。

巣母の視線が、ふとアキの方に向いた。

一瞬だけ、彼女の瞳の奥に、別の色が見えた気がした。 それは、自分と同じように「立ち止まってしまう瞬間」を知っている者の目だったのかもしれない。

だが、彼女は何も言わず、いつものように淡々と食糧の分配を指示した。

夜、海辺は静かだった。

巣の中は、子どもたちの寝息と、大人たちの低い囁きで満たされている。

アキは、わざと少し遅れて巣を抜け出した。 監視役に見つからないように、体育館の裏手の崩れた壁から外へ回る。

砂浜は、以前より狭くなっていた。 波が満ちてくると、すぐにアスファルトの端まで水が舐めてくる。

月の光に照らされて、海面がどこまでも冷たく光っていた。

見上げると、空には星が散らばっている。

月は、今日は少し欠けていたが、それでもドームよりずっと大きく、明るかった。

アキは、砂の上に腰を下ろし、深く息を吸った。

潮と、藻と、遠くの獣と、人の匂い。 どれも、何度も嗅いできたものだ。

そのとき、いつもとは違うものが混ざった。

――金属の匂い。

それも、古い錆びた鉄ではなく、もっと鋭く、冷たいもの。

鼻腔の奥がぴりぴりと痺れ、耳の中でキーンという高い音がした。 目を閉じると、頭蓋の内側を、細い光の筋が走り回る映像が浮かぶ。

(何だ・・?)

思わず立ち上がる。

身体の奥から、「隠れろ」という信号と、「見に行け」という衝動が、同時に湧き上がる。 二つの命令がぶつかり合い、足が半歩出たところで止まった。

空を見上げる。

星のひとつが、ゆっくりと動いていた。

飛行機ではない。 この島の空を飛ぶものといえば、せいぜい鳥か、時々上空をかすめるドローンの残骸くらいだ。

だが、それらとは違う。

光は一点で、尾を引かず、音も立てない。 ただ、星空の中を、ごくわずかに軌跡を描きながら進んでいる。

胸の奥で、何かが強く脈打った。

「・・知ってる、匂いだ」

誰にともなく、アキは呟いた。

それは、巣母に触れられたときに感じる「立ち上がる」感覚と、よく似ていた。 ただし、もっと遠く、もっと大きい。

群れ全体が、ひとつの見えない糸で空につながれているような――そんな奇妙な感覚。

耳の中のキーンという音が、少しだけ形を持ち始める。

声にも言葉にもならないざわめき。 それは、昔の話で年長者が「地がしゃべる」と表現していたものに、どこか似ていた。

アキは、自分の足が、知らないうちに一歩、海の方へ出ていることに気づいた。

波が足首を濡らす。冷たい水に触れても、身体は震えない。 視線は、空の動く光に釘付けになっていた。

巣の方からは、まだ誰の気配もしない。

この島で、その光に気づいているのは、自分だけなのかもしれない――そんな予感がした。

(群れの外から、なにかが来る)

その確信だけが、アキの中に、はっきりと形を持って座った。

ただ、その情報を群れに届けなくてはならない、という衝動だけは本物だった。

それが、救いなのか、餌なのか、罠なのか。 まだ誰にも、分からないまま。



♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠


読むための手助け用語・世界観ノート 3

巣母すぼと「匂い」 この島における絶対的なリーダーですが、「女王様」というよりは「巫女」に近い存在です。 彼女が放つ「甘い匂い(フェロモンの一種)」は、言葉を使わずに群れの気分を一つにまとめる力を持っています。 日本的な「なんとなく察して動く」文化が、ウイルスによって極限まで生物学的に進化した姿と言えます。

■ 「皮型」「腸型」などの役割分担 ウイルスに感染した人類は、社会的な役割だけでなく、肉体そのものが「適材適所」に変化しています。

皮型かわがた:感覚が鋭敏で、皮膚呼吸に近いことができる偵察タイプ。少し神経質。

腸型はらがた:消化能力が高く、どんな粗末な食料でもエネルギーに変えられるタイプ。食欲旺盛でタフ。 かつての「士農工商」のような身分制度が、ここでは「身体の特徴」として現れています。

■ アキが感じた「金属の匂い」 物理的な匂いだけでなく、アキ特有の第六感(共感覚)です。 月の人類ユウたちが乗っている宇宙船や機械の気配を、アキは「鋭い金属の匂い」として感じ取りました。 これは、自然と融合した地球人類アキと、科学で武装した月人類ユウの、最初の「接触」を意味しています。

■ 「群れ」と「個」の葛藤 アキは巣の居心地の良さ(安心感)を感じつつも、「自分で選んでいない」という違和感を抱えています。 これは現代の私たちにも通じる悩みです。 「みんなに合わせていれば楽だけど、それは本当の私なの?」 この葛藤こそが、空から来る「異物ユウ」と出会うことで、物語を動かす鍵になっていきます。

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