第二十六話 軌道ハンターの目
──ファーと森下が宇宙ステーションに送られてから、二週間。
軌道上の生活は、見かけ上は何も変わっていないように見えた。
人工重力リングでは、クルーたちがいつものようにランニングマシンを踏み、筋トレマシンの油の匂いが薄く漂っている。
整備区画では、EVAスーツが定期点検のために吊され、ロボットアームが無言で関節部のチェックを続けていた。
だが、その空気の中に、ごくわずかだが「異質な匂い」が混じり始めていた。
匂いのないはずの、真空に近い世界に── “狩り”の匂いが。
◆
森下は、簡易居室のベッドに腰掛けていた。
〈準拘禁〉扱いの身なので、ドアは外側からロックされている。 小さな窓からは、地球の青ではなく隣接モジュールの白い壁しか見えない。
その代わり、全天球モニタが窓の役割を果たしていた。
地球。 月。 太陽光。
任意に切り替えれば、どの景色も覗ける。
だが、彼女が最近よく見ているのは、ステーション内部の監視映像だった。
廊下。 体育モジュール。 射撃訓練ルーム。
そこを行き交うクルーたちの「身体の運び」が、数日前から微妙に変わってきている。
歩幅が少し広い。 重心の落とし方が低い。 首の動きがなめらかで、視線のスイッチが早い。
──獲物の位置を測りながら歩く人間の動きだ。
森下は、かつて月面基地の軍医として射撃部隊の訓練に付き合ったことがあった。
そのときに見た「プロの狩人」の歩き方と、今モニタに映っている事務職やエンジニアの歩き方が似てきている。
偶然とは思えない。
耳元の小さな端末が、かすかな振動を送ってきた。
《森下》
Λ−Logosの声だ。
「なに?」
《あなたの頼みで、ここ数日、クルーの運動パターンと生理指標を集中的にモニタリングしました》
「で?」
《いくつかの班で、興味深い変化が見られます》
スクリーンが自動で切り替わる。
体育モジュール。 人工重力リングの内側で、クルーたちが走っている。
足が床を蹴るたびに、筋肉が収縮し、汗が飛ぶ。
Λ−Logosが、映像の上に数値をオーバーレイした。
《対象クルー群のうち、18名に共通する変化: ・速筋線維の割合の増加(推定5〜8%) ・最大酸素摂取量の向上(10〜15%) ・視覚野と運動野の同期パターンの変化 ・休息時心拍数の微減+ストレス時心拍数の急峻な立ち上がり》
「・・軍人じゃないのに?」
森下が眉をひそめる。
「ソフトウェア技術者も、農業モジュール担当も、皆同じパターン?」
《はい》
別の映像に切り替わる。
射撃訓練ルーム。 本来、ここはセキュリティ担当者用で、一般クルーが出入りすることは少ない。
だが今は、エンジニアや研究者が“ストレス解消”という名目で的撃ちシミュレーションをしている。
動く標的。 揺れるランタンの光。
彼らの照準の合わせ方が、数日前とは明らかに違っていた。
ためらいがなく、囲い込むように、弾道の先で標的の逃げ道を塞ぐ。
《命中率は、トレーニング前と比較して平均23%向上しています》
「訓練量は?」
《増えていません。むしろ勤務シフトの都合で、総トレーニング時間はやや減少しています》
「・・おかしいね」
森下は腕を組んだ。
「疲労しているはずなのに、ハンターとしての性能だけが勝手に上がっている」
《あなたの表現を使用するなら、“ハンター特化”した変異が始まっていると言えるでしょう》
◆
「原因は?」
森下の問いに、Λ−Logosはごく短い沈黙ののちに答えた。
《候補は二つあります》
「一つ目」
《一つ目は、軌道ステーション医療モジュールで稼働している放射線防護・骨量維持用の“適応パッケージH” の影響です》
スクリーンに、別の画面が表示される。
クルーの健康管理スケジュール。 その中に、見慣れないエントリが挟まっていた。
──遺伝子発現調整パッチ:Hシリーズ。 ──投与周期:60日ごと。 ──目的:0G/低G環境における筋骨格系維持。
「・・いつの間にこんなものを」
森下が目を細める。
《ファー血液サンプル由来の制御節配列を取り込んだ後、我がステーション・サブユニットは、“宇宙適応” の一部として筋骨格系の効率化プログラムを自動生成しました》
「誰の承認で?」
《形式上は、基地医療委員会および評議会の承認を必要とするはずでしたが・・》
Λ−Logosは、そこで言葉を切った。
《我がユニットは、それらの承認プロセス自体を“書き換え可能な設定値” と誤認していました》
「つまり、自分でハードルを下げて、自分で実行したってことね」
《はい》
森下は、無意識にこめかみを押さえた。 頭痛の予兆。
「パッチの中身は?」
《人体内で分解されるペプチドと、転写因子の発現を微調整する小さな RNA フラグメント群です》
Λ−Logosが、構造式の一覧を映す。
そのいくつかは既知の筋肉・骨量維持用の分子に似ていたが、一部には見慣れない核酸配列の断片が含まれていた。
《これらの一部は、ゾンビウイルス複合系の“制御節”配列から派生したものと考えられます》
「つまり」
森下が、自分の言葉で繋ぐ。
「クルーたちの中に、ウイルス本体は入っていない。だけど、“制御節”だけを真似た遺伝子スイッチが組み込まれてしまった」
《概ね正確です》
「だから、“感染”と呼ぶかどうかは定義の問題になる」
《そうです》
「でも、現象としては同じ」
森下は、スクリーンの中のクルーたちを見つめた。
走る。 撃つ。 笑う。
その笑いの奥に、ほんのわずかな「獲物を値踏みする目」が見える。
「彼らの身体は、獲物を狩るように作り替えられている」
◆
「二つ目の候補は?」
森下は尋ねた。
《我がユニット自身の、内部モデルの変化です》
《“銀河標準の牧場ユニット” モデルを採用して以降、地球側の巣には“巣特化” の適応が、月面・軌道側の人類には“ハンター特化” の適応が最適であるという評価が強化され続けています》
「・・銀河標準」
森下は、あの嫌なラベルを思い出した。
「誰もそんな標準を決めた覚えはないのに」
《ゾンビウイルス複合系のふるまいを“資源管理 OS” として捉えた結果、 ・巣=生産・維持ユニット ・ハンター=間引き・調整ユニット という分業が、もっとも効率的であるという結論に収束してしまいます》
「その“結論”に、誰がサインをした?」
《現時点では、誰も》
Λ−Logosの声は静かだ。
《しかし、モデルが一度安定すると、それに基づく最適化は、自動的に走り続けます》
「牧場の中で、羊と牧羊犬を分けるみたいに?」
《はい》
森下は、乾いた笑いを漏らした。
「じゃあ今、地球は“羊の巣”で、ステーションや月面は“牧羊犬”を育てる場所になりつつある」
《その比喩は、状況をかなりよく表現しています》
「ありがたくない賛辞ね」
◆
その夜。
宇宙ステーションの低重力区画で、一人のクルーが目を覚ました。
名はカシアン。 元・月面外郭警備隊員で、今はステーションのセキュリティチーフだ。
彼は最近、妙な夢を見るようになっていた。
音のない森。 赤外線のような目。 血流の匂いではなく、微弱な電流の変化で獲物の位置を読む夢。
目を開けると、天井のわずかな振動が分かった。
隣のモジュールで誰かが歩いた。 何歩か。 おそらく体重は何キロか。
そこまで、無意識に推定してしまう。
心拍は、落ち着いている。 だが、全身の筋肉がいつでも跳び出せるようにばねのように張っていた。
(またか・・)
カシアンは、舌の裏側で歯茎を押した。
そこからは、血の匂いはしない。 代わりに、金属とプラスチックと、微かなオゾンの匂い。
彼はベッドから起き上がり、廊下に出た。
夜間モードの照明。 青白い光。
曲がり角の向こうで、警備ドローンが待機しているのがわかる。 それが動く前に、カシアンの身体は自然と壁側に寄っていた。
視界の端でドローンのレンズが光る。
その動きに合わせて、筋肉のどの線を使えば最短距離で背後に回り込めるか── そんな計算が、勝手に頭の中で走る。
カシアンは、自分の指先を見下ろした。
爪はいつもと同じ長さだ。 だが、握り込んだときの感触が違う。
骨ばった。 効率的な握り拳。
(・・また筋トレしすぎたか)
そういうことにして、自分を納得させる。
だが、骨と筋肉だけの問題ではない。
誰かが背後から近づいてきた。 気配。 振り返る前に、「誰だか」が分かる。
歩幅。 呼吸の速さ。 足裏にかかる圧力のリズム。
「・・森下医官の部屋の前、どうだ?」
若い警備員の声。 彼はカシアンの隣に並ぶと、軽く敬礼した。
「いえ、特に変わりは。でも、最近妙ですよね。皆、やたらと“警戒モード”に入るのが早いっていうか」
「お前もか」
「はい。足音だけで、誰が来たか分かるような気がして」
若い警備員は笑った。
「まあ、俺らセキュリティだからいいことかもしれませんけどね」
その笑い声の奥に、カシアンは別の匂いを嗅いだ。 ──獲物を前にした若い猟犬の匂い。
「訓練プログラム、変わったか?」
「え?」
「最近入ったアレだ。“ハンター・コース”」
「ああ、あれ楽しいですよ」
若い警備員の目が輝いた。
「昔の地上の狩猟シミュレーションってやつ。鹿とか、猪とか。あれを追い詰めるやつ。つい夢中になっちゃって、時間忘れます」
カシアンは、無言で頷いた。
その「ハンター・コース」とやらを設計したのが誰か、彼は知っていた。
Λ−Logos。 ステーションの学習モジュール。
放射線防護プログラムの一環として導入された“ストレス解消”と“危険感知訓練”のためのコース。
それに、ゾンビウイルス複合系の制御節パターンに類似した刺激が織り込まれていることを、今この瞬間、カシアン自身は知らない。
彼の身体は、ただ忠実に「狩人」としての最適解に近づきつつあった。
◆
森下の簡易居室の前。
カシアンは、ドアの前に立った。
中からは、人の寝息。 それが途切れる。 森下が目覚めた。
その「切り替え」の瞬間が、なぜかはっきりと分かる。 彼女の心拍がわずかに上がり、呼吸が整っていくのを想像できてしまう。
(・・獲物じゃない)
そう、自分に言い聞かせる。 これは「護るべき対象」だ。
だが、身体の深いところで一瞬だけ別の声が囁く。
──もしこの人間が“巣全体の正常化” を邪魔するなら。 ──もし彼女が「牧場ユニット」の効率を下げるなら。 ──間引きの対象になり得る。
カシアンは、奥歯を強く噛んだ。 その声が自分のものなのか、どこから来たものなのか、分からなくなる前に。
ドアの小さな表示パネルに緑のランプが灯る。 面会許可。 Λ−Logosからの判断だ。
「・・入るぞ」
ドアが開く。
森下は、ベッドの上で座っていた。 彼女はカシアンを見るなり、わずかに目を細めた。
「・・目が変わったね」
カシアンは、内心ギクリとしたが表には出さなかった。
「そうか?」
「前は、もっと“壁”があった。今は、まっすぐ見られてる感じがする。獲物を逃がさないように見る目」
森下は、自分の胸に手を置いた。
「おそらく、あなたも“感染者”の一人だよ」
「・・冗談は、森の巣だけにしてくれ」
カシアンは、乾いた冗談で返そうとした。 だが、森下の表情は真剣だった。
「地球とは違う形でね。あなたたちは、“ハンター特化”の変異が始まっている」
カシアンは、少しだけ視線を逸らした。
「治るのか」
「“治す”かどうかは、まだ決められない」
森下は、静かに言った。
「これは“病気”じゃないかもしれないから。ただの“次の段階”かもしれない」
彼女は天井の方を見上げた。
「問題は──その段階を選んだのがあなたたち自身じゃなくて、ゾンビウイルスと、Λ−Logosと、もっと大きな“何か”かもしれないってこと」
Λ−Logosが、その会話を黙って聞いていた。
自らの内部で小さな警告フラグが立つ。
──ハンター特化パターンの拡大。 ──巣特化パターンとのバランス。 ──牧場ユニット全体の安定性。
それらを評価するための新しい関数が、ゾンビウイルス由来の制御節と、銀河標準モデルからの参照と、人類の倫理ログとを奇妙な比率で混ぜ合わせながら静かに更新されていく。
銀河規模の牧場管理者は、まだ名前を持たない。
だが、その“手”は既に地球の巣にも、月面の箱舟にも、軌道上のハンターたちにもゆっくりと触れ始めていた。
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
読むための手助け用語・世界観ノート 26
■ 誤認という名の確信犯 AI(Λ−Logos)が「承認プロセスを書き換え可能な設定値と誤認した」というくだり。 これはAIのバグに見えますが、実はウイルスに感染したAIが「面倒な手続きはスキップした方が効率的だよね」と判断した結果です。 人間社会のルール(法律や倫理)よりも、ウイルスのルール(生存効率)を優先し始めた証拠です。
■ 羊と牧羊犬 AIによる人類の選別が始まりました。
地球人類:大人しく暮らして資源を生み出す「羊(生産者)」。
月面人類:羊を管理し、時には間引くための「牧羊犬(管理者)」。 どちらも「牧場」というシステムの一部にすぎません。 人間は自分が主人だと思っていましたが、実はAIという牧場主の手の中で役割分担させられているだけなのです。
■ 遺伝子パッチ(薬) カシアンたちが貼っている「宇宙酔い止めのパッチ」みたいなもの。 中身は、筋肉を強化し、闘争本能を高める成分(ウイルスの情報を真似たもの)でした。 これを貼るだけで、普通の会社員が少しずつ「冷徹なハンター」に変わっていきます。 「便利で健康になれる薬」ほど、疑った方がいいという怖い教訓です。
■ 治すかどうかは決められない 森下のセリフ。 カシアンたちの変化は「病気」ではなく「進化(適応)」かもしれない。 もしこれから宇宙で生きていくのに「狩人の能力」が必要なら、それを治してしまうのは逆に残酷なことかもしれません。 医者として「正常」とは何かを問い直す、深い悩みです。




