第十四話 恋の話のかけら
その夜は、鉄の巣には行かなかった。
風が弱く、体育館の中は稲と汗と、少しの潮の匂いで満ちている。
子どもたちは寝床を作りながら、最後の小さな仕事をしていた。 ほつれた服を縫う子、明日の籾をより分ける子、眠くて舟をこぐ子。
アキは、入口近くの柱のそばに座っていた。 膝の上には、破けかけた魚網。 向かいに、スゥが腰を下ろしている。触れ手であり、アキを育てた人だ。
「ここ、ゆるい」
スゥが、アキの指先をとって、網の穴を指し示した。
「ほら、結び目が逃げる」
「・・ごめん」
「謝らなくていいよ。引き方の匂いを覚えればいい」
スゥは、アキの手を包み込むようにして、縄をぎゅっと引き締める。 藁と潮のざらつきが指に食い込んだ。
「こう。ね?」
「うん」
アキは、自分の手だけで同じ動きを繰り返す。 縄の擦れる音が、しばらく二人のあいだだけに響いた。
◆
「ねえ、スゥ」
網が半分直ったころ、アキが口を開いた。
「何?」
「この前、途中で終わった話。戦争の前の頃の・・二人で歩く人たちの話。あれの続き、聞きたい」
スゥの手が、少しだけ止まった。
「覚えてたんだ」
「・・忘れられない。言ってることは半分も分からないのに、あの話を聞くと、ここが変な感じになる」
アキは、自分の胸を人差し指で軽く突いた。
「匂いはしないのに、何かが動く感じ」
スゥは、網を膝に置いて、体育館の天井を見上げた。
「わたしを育てた触れ手――ナツさんがね。ナツさんが小さい頃、年上の女の人から聞いたって言ってた話だよ」
「その人は、戦争の前に生きてた?」
「そう。火が降る前の、大きな巣で。まだ“巣”じゃなくて、“町”って呼んでた頃」
スゥの声が、少しだけ柔らかくなる。 ナツの話し方を、無意識に真似ているのだろう。
◆
「その町にはね、人がたくさんいて、光る箱や、走る鉄の蛇や、夜でも昼みたいな道があったんだって」
「鉄の蛇・・線の上を走る箱?」
「そう。ナツさん、Λ−Logosが見せてくれた昔の絵を見て、『これだ』って言ってた」
アキは、コンテナの壁に映されたことのある映像を思い出した。
光の穴から人が出入りする、長い箱。 中にぎゅうぎゅう人が入っているのに、誰も匂いで話していない。
「その女の人には、好きな人がいたんだって」
スゥが、床を指でなぞりながら言った。
「巣母じゃなくて?」
「巣母じゃない。『一緒にいてほしい人』『離れていると胸が痛くなる人』」
「・・巣の声じゃなくて?」
「うん。巣の声じゃなくて、自分の胸の声」
アキは眉を寄せた。
「その人たちはね、よく夜に二人で歩いたんだって。川のそばとか、光る店の列から少し離れた暗い道とか」
「どうして、暗い道?」
「よく分からないって。でも、その女の人は『二人だけで歩く時間がほしかった』って言ってた」
「二人だけで?」
「巣母にも、家族にも、仕事にも呼ばれない時間。手をつないで、他の誰にも聞かれない話をする時間」
「何の話をするの?」
「ナツさんは覚えてないって。ただ、その女の人は『その時間の匂いを思い出すと、今でも胸が痛い』って言ってた」
「痛いのに、思い出すの?」
「うん。何度も。町が燃えたあとでも、病が広がったあとでも、その夜のことだけは何度も」
体育館のざわめきが、少し遠くなった気がした。
◆
「火が降る前の日も、二人で歩いたんだって」
スゥは続ける。
「そのとき、彼が言ったんだって。『明日、会えなかったらごめん』って」
「どうして?」
「兵隊に行く日が近かったから。でも、その女の人は『明日も会える』と思ってた。町が燃えるなんて、知らなかったから」
網の端をつまみながら、スゥは言葉を探すように話した。
「それで、火が降って、病が来て。彼は戻らなかった。女の人は、そのあと誰とも子どもを作らなかったって」
「・・巣母だったら、怒らない?」
アキの感覚では、子どもを増やさない選択は、どこかで「間違い」に近い。
「その頃は、今みたいな巣母じゃなかったからね。もっと小さな巣――“家族”っていう小さい巣がたくさんあって、それぞれが自分で決めてた」
「だから、世界は壊れた?」
口に出してから、アキは少し後悔した。 スゥは怒らなかったが、目を伏せた。
「ナツさんはね、『あの頃の人たちは、自分の小さな巣のことしか見てなかった』って言ってたよ。でも同時に、『あの頃の人たちは、今よりずっと自由だった』とも言ってた」
「自由」
アキは、その音を口の中で転がした。 匂いのつかない言葉だ。
「自由ってなに?」
「それを聞いたら、ナツさんは笑ってね。『それが分からないままでいい。今のあんたたちには、あれは毒だよ』って」
「毒?」
「巣の外に歩いて行きたくなる毒。二人だけで歩きたくなる毒。巣の声より、自分の胸の音を聞きたくなる毒」
スゥは、自分の胸を軽く叩いた。
「でも、ナツさんがその話をするとき、いつも少し嬉しそうで、少し悲しそうだった」
「スゥは、どう思う?」
「分からない。わたしは巣で子どもを抱いてる方が落ち着くからね。でも、その話を思い出すときだけは、わたしの胸も、ちょっとだけきゅっとなる」
スゥは笑った。 懐かしいような、まだ嗅いだことのない匂いが、アキの鼻先をかすめた。
「だから、あなたにも話したの。たぶん、巣母が聞いたら、あまり喜ばない話だけどね」
◆
夜、子どもたちの寝息がそろいはじめても、アキは眠れなかった。
体育館の天井板。 隙間から覗く夜の闇。 外の波の音。
(朝、目が覚めて、一番に思い出す顔)
巣母の顔は、毎朝見る。 スゥの匂いは、いつもそばにある。 でも、それは“特別”というより、“当たり前”だ。
(二人だけで歩く時間)
巣から離れて、匂いを分け合う相手が一人だけ。 それを隠してまで作ろうとする時間。 巣の誰に話しても、首をかしげるだろう。
(・・鉄の巣の人たちは、知っているだろうか)
アキは、そう思った。
巣母に聞く話ではない。 噛み手に話せば、「巣を守る邪魔だ」と言われる。 触れ手たちも、「子どもを増やさない話」に眉をひそめるかもしれない。
けれど、鉄の巣から来た女の人――ユウなら。 昔の世界の匂いを、少しだけ別の形で知っているかもしれない。
胸の奥が、ざわざわして眠れない夜だった。
◆
翌日。鉄の巣との「橋」の日。 坂の上のコンテナの前。
接触テーブルの上には、今日は何も置かれていなかった。 ただ、薄い布が一枚敷いてあるだけだ。
「今日は、何の授業?」
キが、期待まじりに尋ねる。
「今日は――」
綾瀬ユウが言いかけたところで、アキが口を挟んだ。
「ユウに、聞きたい話がある」
ユウは少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な目つきになった。
「いいよ。座ってからにしようか」
三人は、接触テーブルを挟んで向かい合って座る。 マオは少し離れて、いつでも立ち上がれる姿勢でこちらを見ている。
Λ-Logosは、コンテナの中で静かに記録を続けていた。
◆
「・・“恋”って、知ってる?」
アキは、いきなり本題をぶつけた。
「こい?」
ユウは一瞬だけ目を瞬かせて、それから苦笑した。
「知ってるよ。言葉としても、自分の体の感覚としても」
「スゥが話してくれた。スゥを育てた触れ手が、戦争の前に生きてた女の人から聞いたっていう話」
アキは、昨夜聞いた話を、自分なりの言葉でたどっていった。
町。 光る箱。 走る鉄の蛇。 朝、一番に思い出す顔。 二人だけで歩く夜道。 火が降って戻らなかった人。
キは半分くらいぽかんとして聞いている。 マオは腕を組んだまま、眉間に皺を寄せていた。
「巣の仲間に話したら、『それは巣母のこと?』『子どものこと?』って言われた。ちがうと思う。でも、わたしにもよく分からない。ただ、聞くと胸がざわざわする。これが“恋”なのかどうかも分からない」
アキは、自分の胸の上で手を握ったり開いたりしながら言った。
「ユウは、“恋”を知ってる?」
◆
ユウは、テーブルの端に指を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「知ってる。ログで見たものだけじゃなくて、自分でも」
「ログ?」
「月には、戦争の前の人たちの映像や声がたくさん残ってる。Λ−Logosが整理してくれた記録。その中には、“恋の話”もいっぱいある」
ユウは、空の方をちらりと見た。
「町で手をつないで歩く人たち。空港って場所で、泣きながら抱き合う人たち。戦争で離ればなれになる人たち」
「・・スゥが話してたのと、似てる」
「そう。たぶん同じ時代の匂い」
ユウは、自分の胸を軽く叩いた。
「それとは別に、わたし自身にも、一人だけいたよ」
「好きな人?」
キが先に口を挟む。
「うん。同じ訓練班の人。月でね」
「月でも“恋”するの?」
「するよ。こっちは、あの病にはかかってないからね」
ユウは、少し冗談めかして笑った。 アキには「病」がどの病を指すのか分からなかったが、その笑いの奥に、かすかな苦さが混じっているのは嗅ぎ取れた。
「その人と一緒に外の訓練場を歩いて、酸素残量を気にしながら、『もし地球に降りられたら何を見たい?』って話をした」
「・・二人で歩いた」
アキが、小さく繰り返す。
「うん。二人で。でも、その人と“結婚する”ことは、最初からあり得なかった」
「どうして?」
「月では、子どもを持つ相手は、『優勢遺伝子強化システム』っていう仕組みと、それを見ている委員会が決めるから」
また、匂いのつかない言葉だ。 アキとキの鼻が、同時にぴくりと動いた。
「・・それ、巣母みたいなもの?」
キがそう言うと、ユウは少し考えてから頷いた。
「少し似てる。あなたたちの巣母と触れ手が、誰が誰と肌を合わせるか決めるんでしょ? こっちは、数字と法律と委員会が決める」
「恋は?」
アキが尋ねる。
「恋は、その外側にあることが多いかな」
ユウは、両手で小さな輪を作り、その外に指を一本そえる。
「巣の輪の中に、“役に立つ恋”が入ることもある。たまたま仕組みと合うとき。でも、多くは輪の外で、ひとりで揺れてる」
「揺れてるだけ?」
「それで救われることもあるし、壊れることもある。人による」
◆
「その人のこと、今でも思い出す?」
アキが、少し息を詰めて訊いた。
「思い出すよ」
ユウは、正直に言った。
「その人と別の人の名前が並んだ通知を見たとき、ああ、『あの人はもうどこかで誰かと子どもを持つんだ』って分かった。そのとき、訓練メニューより、その人の歩き方ばかり思い出してた」
「胸が、ざわざわ?」
「そう。重くて、苦くて。それでも訓練には行くし、仕事もやめない。月の巣は、そういうふうに出来てる」
ユウは、苦笑いを浮かべた。
「だからわたしは、“恋”が分かる。でも、“恋の通りに生きる”ことは、あまり許されてない」
◆
「巣ではね」
今度はアキが言う。
「子どもを増やす人は、巣母と触れ手が決める。誰が誰と肌を合わせるかも、巣のために決まる」
「うん。聞いてる限り、そうだと思う」
「わたしたちは、『この人と子どもがほしい』って考えたことがない。巣にとっていい組み合わせが決まる。それだけ」
「月も、実はあまり変わらない」
ユウは肩をすくめた。
「地球側は、巣母と・・ここに染みついた“何か”が決める。月側は、システムと法律が決める。どっちも、“巣のための正しさ”を優先する」
「じゃあ、“恋”は?」
「どっちでも、ちょっと邪魔者扱いされることが多い」
ユウは、冗談のように言ってから、小さく続けた。
「でも、邪魔者だけど、それでも消えないから、たぶんどこかで必要なんだと思う」
◆
「アキ」
ユウは、少し声を落とした。
「今、誰かの顔ばかり思い出す?」
「・・まだ、誰の顔も浮かばない」
アキは正直に言った。
「でも、スゥの話を聞いてから、目を閉じると、知らない人たちが歩いている気がする。二人で、手をつないで」
「それでいいよ。分からないまま、“話”として持っておけばいい」
「話として?」
「もし、いつか本当に誰かの顔が浮かぶようになったら、そのとき、この話をもう一回思い出す。それで十分」
「巣母には、言わない方がいい?」
「それは・・」
ユウは少し考えた。
「そのときになってから決めた方がいい。わたしが言えるのは、『友だちには話してもいい』ってことくらい」
そこで、キがぱっと身を乗り出した。
「ねえアキ。もし“恋”をしたら、最初にわたしに話して」
「どうして?」
「巣母にいきなり言うと怒られるかもしれないでしょ。だったら先に、友だちと匂いを確かめてからの方がいい」
「匂いのない話なのに?」
「そこをどうにかするのが、匂い手の仕事じゃない?」
キが笑い、マオが鼻を鳴らした。
「噛み手には、よく分からん話だな」
そう言いつつも、マオの耳も、さっきからアキとユウの会話をちゃんと拾っていた。
◆
その夜、アキは体育館の外に出て、空を見上げた。
薄い雲の切れ目に、小さな白い石が浮かんでいる。 月。
あの小さな丸の上にも、巣があって、恋を知っている人たちが暮らしている。
胸の奥が、少しざわざわした。 それは巣母のささやきでも、吠え場の興奮でもない。
まだ名前のつかない、匂いのないざわめき。
「・・これが毒かどうかも、いつか自分で嗅がないといけないのかな」
アキはそう呟いて、体育館の中へ戻っていった。
稲の巣と鉄の巣。 ふたつの巣のあいだに、「恋の話のかけら」が、静かに浮かびはじめていた。
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読むための手助け用語・世界観ノート 14
■ 「自由」という名の毒 スゥが語った昔話(私たちにとっては現代の話)。 「自由恋愛」や「個人の幸せ」は、現代社会では当たり前のことですが、生存がギリギリの世界では「群れを乱す毒」として扱われます。 自分の心に従うことが、みんなを危険に晒すかもしれない。 この切ないジレンマが、アキたちに「大人の葛藤」を教え始めます。
■ 鉄の巣と稲の巣の共通点
地球(稲):巣母が決める「直感的なお見合い」。
月(鉄):AIが決める「遺伝子マッチング」。 手段は違いますが、「個人の恋よりも、種の存続(効率)を優先する」という点では、実はどちらも同じくらい不自由な管理社会です。 ユウが「月もあまり変わらない」と言ったのは、この諦めと共感からです。
■ 匂いのない言葉 「自由」「権利」「法律」といった抽象的な概念は、アキにとって「匂いがしない(実体のない)言葉」です。 でも、「胸がざわざわする」「二人だけで歩きたい」といった身体的な感覚を通して、アキは初めて「恋」という概念を理解しました。 「頭で分からなくても、心(身体)が知っている」。これが恋の正体かもしれません。
■ 邪魔者だけど消えない ユウの名言。 どんなに合理的な社会を作っても、恋心だけはバグのように発生して消えません。 それは一見無駄に見えますが、管理社会の息苦しさから人間を守るための「最後の砦」なのかもしれません。




