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「あっ……、ごめんなさい!」
高い声が耳を突く。反射的にこちらこそ、と言おうと顔を上げると、声の主と顔が合った。綺麗な顔である。
幸次郎は母に連れられ、きたこともないような大きなビルのなかに来ていた。大手の会社だと母は行ったが、会社というよりは城のようである。実際、多くの人々がなかに住んでいるようだった。母が用事を済ませると言って消えていった間にふらふらと歩き回ってみると、色々な光景が見られた。食事や茶をしている者もあれば、ロビーらしき場所で分厚い本を膝に乗せて熱心に勉強している者、楽しげに話している者もいた。特に変わった様子には思えなかったが、ひとつだけ、彼が不可解に思ったことがあった。みな、やけに整った顔立ちで、しかも揃った純白のワンピースを纏っているのである。彼はこの数時間のうちに建物を巡回したつもりでいたが、不器量な者は一人と見かけなかった。まったく不思議な会社である。それも、莫大な面積を誇っているらしく、ただでさえ大きいと思った今の建物も、全体の一部に過ぎないらしかった。窓から身を乗り出してみると、同じような造りの大きな建物が幾つも見える。
(それにしてもでっかいなあ。母さんたら、一体どこへ行ったのだろう。おっかないなあ)
少々腹が空いたため、食べ物をくれそうな人でも探そうと歩きまわっていたところ、みなと同じく綺麗な顔をした女とぶつかってしまった。幸次郎は気を取り直し、きちんと非礼を詫びた。
「こちらこそ、すみません。……あの、あなたって、とてもすてきですね」
「あ、はあ……」
彼の突然の言葉に、女はひどく戸惑ったようだった。それもそうだろう、女は恐らく20代、そして幸次郎はまだ10代の少年なのだ。
「お名前はなんと仰るのですか?」
「私?」
幸次郎が聞くと、女はなおいっそう顔を曇らせた。明らかな困惑が見える。幸次郎はこくりと頷き、ぶつかった衝撃でよろけた彼女に手を差し伸べた。女は照れたように微笑み、ありがとう、と彼の手をとった。美しいというよりは、可愛らしい印象だろうか。もちろん、彼女よりも美しく派手な女は、先ほど何人もみた。だが、彼女の場合は何かが違うのである。派手なわけではないのだが、とても可憐で可愛らしいのだ。内面から輝きが溢れている、そんな姿だった。
「僕は、幸次郎。常葉幸次郎といいます」
彼の言葉に、女は再び微笑んだ。幸次郎の手に、一瞬力をかけて立ち上がり、彼女はさっと言った。
「私はね、宮村麻というの。秘書課の人間です」
「あささん。宮村麻さんですね。わかりました。どうもすみませんでした」
いいえ、と麻が去ろうとすると、幸次郎ははっと声を漏らした。
「あの、何か食べるものを頂けませんか……」
彼は自身の発言をひどく恥じていた。豪華な絨毯が敷き詰められた大きな廊下では、恐らくクリスタル製であろうシャンデリアが輝いている。場違いな発言なのだ。だが、麻という女はそのことを気にしている様子はなく、ごく普通の表情で振り返った。
「お腹、空いてるの?」
「はい」
「じゃあ、これ食べる?」
まるで幼児が見知らぬ何かに向かって物体を渡すような目で、麻は幸次郎の目を見た。きょとん、といまいち状況を理解していないようだったが、彼にまだ温かい包みを渡した。
「これは……」
「お握り。梅干、嫌い?」
麻ははにかみつつもにっこりと笑った。その様子に幸次郎までもが思わず笑顔になったが、彼はまじまじと手渡された包みを尚も見ていた。お握りなどというものを食べたことがあまりない彼にとって、それは珍しいものだった。それも、このような豪華な場所で、質素なお握りを、だ。ものめずらしさと明るい照明に、彼はくらくらと眩暈を覚えた。
「あ、駄目だった……? ごめんね、パンか何か……」
「い、いいえ、大好きです。すいません、頂きます……」
見知らぬ者から食べ物をもらう。これは幸次郎にとって、前代未聞のことだった。だが、この麻という女なら、信用できる気がしていたのだ。根拠もなく、彼は無邪気にぱくりとお握りに齧り付いた。甘い米の味と、やさしく甘酸っぱい梅干の香りが口内に広がった。決して飾らず素朴だったが、深くやさしい味だった。行ったこともない田舎に帰ったような感覚が、幸次郎の脳内に広がった。お握り、麻、お握り、麻。同じ想いがぐるぐると巡った。母は妙にハイカラで見栄っ張りなのだ、よほどのことがない限りお握りなどは作らない。母の料理は確かに美味く、極上の素材を使用したそれは一級品だ。だが、何かが違う。温かみがないのだろう、母の料理には。きっと。
「おいしいです」
「そう? よかった」
ほわあ、と温かい湯気でも沸きそうなほどにしっとりと麻は笑った。その笑顔にまた、幸次郎は魅せられていった。
「あ、麻さん! どこに行ったのかと思ったら、こんなところに」
「まなみちゃんー。どしたの?」
麻は少年の横で屈んでいたが、不意にやってきたまなみが上から声を掛けたので、立ち上がった。ひらりとワンピースの白い裾が翻り、空調の聞いた華美な廊下で優雅に揺れる。少年はまるで百合の花を眺めるかのように、麻の眩しい姿を見ていた。だが、まなみは少年に気を留めていないようだった。
「いや、ちょっと用事があって」
まなみはふと眉をひそめ、麻の耳元に口を近づけ、声を潜めて囁いた。
「女性のね、菊果さんて方なんだけど……」
菊果。麻はその名前に、びくりと肩を震わせた。懐かしい響き。甘くやさしい記憶。思わず自身の肩を抱いた。不思議そうに見つめる少年やまなみの様子など気にしていないように、彼女はぴしっと背筋を伸ばした。まなみを正面から見据える。