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失墜  作者: ゆかこ
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「核兵器、反対、あなたの温かい救いの手を! さあ……さあ……!」


ゾクゾクするような誘いの文句だ。声を枯らした若者たちのデモの声を聞き、30代前半程度であろう男が椅子から立ち上がった。窓を開け、そこからカメラを翳し、レンズに写す。まるで怪しい宗教の熱心すぎる勧誘のような叫びに、幸次郎は背筋を凍らせた。


「父さん……。僕、やっぱり母さんと行くことにするよ」


ぽつり、ぽつりと言葉を漏らすように囁く。少年は冷たい表情で俯きながら話していた。そんな幸次郎の様子に男は虚ろな目でカメラのレンズから目を放した。


「そうか、そうか」

「うん」


少年は男の手を握り、頷いた。ほろり、と涙が華奢な手に零れる。無表情で少年の涙を見つめながら、男は空を見上げた。濁った色だ。無言で幸次郎の肩を抱き、男は微笑んだ。幸次郎は男の息子だったのだ。だが、その親子の縁はいま、繋がりを切られようとしていた。


(いとしい息子よ、おまえはあの女を信頼しているのか、そうなのか! 卑怯だ……こんなにも弱弱しい少年を術中に陥れるとは。どうしてあんな女との間におれは子供など作ったのだろう。かわいそうに、かわいそうに! そういえば、おれはこいつと同じ……いや、少しばかり年上のときも間違いを犯したんだ。名前をなんと言っただろうか……あの美しく綺麗だった女の名をなんといっただろう。あの女と結婚し、子供を作るべきだった。女房との子供……幸次郎も十分かわいい。だが、やはり……あの女との子供は格別だったに違いあるまい。ああ、ああ! おれはとんだ失敗を犯してしまった。時間に焦らされたがために、こんなにも綺麗な目をした少年を不幸にしてしまったのだ!)


「母さんを大切にするんだよ。おまえはおれの誇りだ」

「うん。わかってるよ、父さん。父さんも元気で」


ああ。二度と会えないかもしれない息子への最後の言葉とは思えぬほどの素っ気無さだったが、それが逆に幸次郎を笑顔にさせた。父さん、愛してるよ、だって僕の父さんは父さんだけだもの。その一心を込めた笑顔で、幸次郎は部屋を去った。大きな瓶を左手の脇に抱え、彼は静かに出て行ったのだ。その瓶は五年後に味わいなさい、と父が渡したロマネ・コンティのボトルだった。母にそれを見せれば、大層に騒ぐことだろう。母は料理研究家なのだ、ビーフシチューが云々などと言って取り上げられてしまうに違いない。少年は父からの最後の贈り物と挑戦として、この瓶を母親から隠し通そうという旨を心に決めたのだった。




「遅いわ、幸次郎。3時の飛行機に乗らなければいけないのに」

「ごめんなさい、母さん。父さんにさよならを言ってきたんだ」


少年は俯き、苛立った様子で早口に話す母から顔を背けた。母は大きな鞄を片手に、しきりに携帯電話を触っている。これから離婚しようとしている亭主のことなど、少しも気に留めていないようだ。少年は少しばかり、父親に別れを告げてしまったことを後悔した。幸次郎は実を言うと、母よりも父のほうが好きなのである。だが、父についていかなかったことには理由があった。


(父さんには、きっと僕以外に大切な人がいるんだ。母さんよりも、僕よりもたいせずっと大事な人がいる。もしかすれば、子供だっているかもしれない。いや、それとも恋人なんかじゃなくて友達かな。けれど父さんは優しいから、母さんが嫌いなわけはないんだ。伯父さんのことが理由かもしれない。いや、お祖母ちゃんか、それともお祖父ちゃんか? いいや、でも父さんは僕と母さんに色々してくれた。父さんには幸せになる権利があるんだ。だから、僕はどんなことがあっても父さんを不幸にしてはならないのだ)


幼い少年だったが、その思考は吃驚するほどにしっかりとしたものだった。彼の表情は常に緊張し、唇は青白く震えていた。大人はしきりに彼のことを心配したが、彼にはそんなことはどうでもよかった。もっと重要なことはたくさんあったのだ。はたして、彼ほどに健気で子供らしくない子供を見たことないという大人はとても多かった。


「さあ、早くかばんを持ってきなさい。そうしたら朝食のケーキを切るわ」

「いつものチョコレートのやつ?」


幸次郎がかばんのなかにいそいそと本を詰め込みながら聞くと、母親は笑った。エプロンを腰に巻きつけながら、彼女は言った。


「ばかね。朝からチョコレートケーキなんて食べられる人がいるのかしら。メープル・ケーキよ」

「僕は大丈夫なのに」


ちぇ、と少年が唇を尖らせた。母親のチョコレート・ケーキは彼の好物だったのだ。幸次郎の歳は、もう15にもなっていたが、それでも彼はまだ幼い少年だった。綺麗で純真な心を持ち合わせ、彼は疑うことなど知らない。そのために、彼は幾度となく傷つけられてきたのだ。


「ところで、明日はどこへ行くの?」

「明日は伯父さんのところへ行くわ。覚えている?」

「アカル伯父さんでしょ?」


そうよ、と母は頷いた。彼女が大きな皿に狐色の焼き菓子を並べ始めたので、幸次郎はあわてて手伝いに近寄った。

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