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「おい、絵実?」
こてん、と横たわる女の体。陽がいくら触れようが、それは動くことをしなかった。浅い呼吸だけが耳に入る。不味い、と陽は顔を顰めた。また‘売り物’を壊してしまったのだ。
「あ、何をやっているの、それは来月にアーク様にお渡しする予定の娘だったのに!」
慌ててその体を毛布に包んでいると、百合が部屋に入ってきた。煙草の匂いをぷんぷんさせながら、昭和の女の空気を醸し出している。女主人らしく、彼女はキッと陽を睨んだ。
「こ、壊した訳じゃないんです。たぶん、まだ息は……」
「ないわよ」
百合は顔を歪め、大きな溜息を吐きながら、青白い顔で横たわっている女の手首と首元に触れた。それに続き、陽も手を触れたが、生暖かいその肌はすでに硬くなっていた。死んでるじゃない、と百合は面倒臭そうに携帯電話を取り出した。
「処理は私がしておいてあげるから。早くそこら辺の娘でも連れてきて、ここ、掃除させなさいよね」
絵の具と水、そして血にまみれた床を、百合は顎で指し、携帯電話を耳に押し当てたまま部屋を出て行った。陽は肩を落とし、外から入ってきた女中に声を掛けた。
「ごめん、麻を呼んできて」
「あ、はい。でも、確か麻は依子様と本日はご一緒では……」
「いいよ。依子には俺が謝っておくから、とにかく麻を連れてきて」
陽が面倒くさそうに、しかしおろおろと言うと、矛盾した陽の態度に違和感を感じたような表情をしながら女中は頷き、出て行った。
人身売買、という言葉を身近に感じる人間はそういないだろう。少なくとも、日本ではそうであるはずだ。けれど、陽たちは違った。人身売買、特に裏企業などを経営する富豪家のメイドや女中を育成し、派遣するのが目的の会社に勤めているのだ。当然、社は国外にあり、買い付けもすべて国外で行われている。そのなかで、最も危険ともいえる日本支社に勤めているのが陽たちなのだ。見つかれば、どんなことになるかは分からない。怖いのは日本警察からの刑よりも、本社からの弾圧と攻撃、そして刑だ。それを覚悟でやっているため、陽や百合に戸惑いはなかった。
「今月は所属85人中、14人ですか……。厳しい世の中ですねえ」
「仕方がないでしょう? ウチの会社は通常派遣と違って人員も優秀だし、何よりも終身雇用だから好きにできる。まあ、一番の差は本人に自由や権利を与えない、ということでしょうけれどね」
「それにしても、不味いですよ」
「そうね。そのうちクライアント集めには行くわ。それより、あなたは育成と教育に力を尽くせば結構」
年々悪化していく経済に伴い、膨大な財産を抱え裕福だった陽の会社も、日々状態は悪くなっていた。が、支社長である百合にこの不安を話しても、仕事に専念しろと冷たくあしらわれるだけだった。複雑で緻密な情報管理組織でもあるため、ストレスは絶えない。そんななかで、唯一陽が心を許していたのは、ある日百合が新しい‘商品’候補だといって連れてきた、一人の女だった。
その娘は、目を見張るほどの美人では決してない。漫画やドラマの主人公のように、気が強く意思が強い訳でもない。だが、その儚さを秘めた瞳に、陽は一瞬にして心を奪われた。それは恐らく、単なる一目ぼれというものだったのだろう。百合は特に変わった様子もなく、普通に商品としてその娘を扱っていたからだ。だが、陽には構わなかった。 その娘を、百合は「麻」だと紹介した。今から自分が何をされようとしているか、彼女は分かっていたのだろう。特に抵抗することもなく、その無垢にも見える瞳を常に伏せながら、微笑ともいえる表情を浮かべ、彼女は話した。
『宮村です。お世話になります』
程よく低い、中性的な声だ。陽は思わずその姿と声に頷いたものだ。百合は、いつも商品として教育する娘には、膝までの丈がある真っ白なワンピースを着せていた。やつれているともいえるほどに痩せている麻は、そのワンピースがよく似合っていた。