Hong kong night
私は、怒りは正しいと信じている。
聖書にも怒るべき時があると
書いてあるではないか。
~マルコムX~
二人が訪れたホテルの部屋は、狭いツインの部屋であったが、意外なほど綺麗で清潔だった。
零は荷物を降ろすと、這い蹲ってベッドの下を確認し、部屋の中を入念に見回り、カーテンを開けてぐるりと周囲を見渡した。部屋は5階。周囲には高層ビルと雑居ビルが乱立し、狙撃手が隠れるには絶好のポイントだ。できるだけ窓に近づかないほうがいいだろう。
その姿をドアの前で見ていた斎藤が怪訝な顔で問いかける。
「……何をしている?」
「危険物がないか調べています。あと監視カメラとか盗聴器とか……非常口はあそこか。」
斎藤の問いに答えながら、零は部屋の外、廊下の突き当りに非常口があることを確認してドアを閉めた。
窓の外を見ようとする斎藤に注意を促し、自らはベッドに腰掛けた。ギシリとベッドのスプリングから嫌な音がしたが、値段相応だと諦めた。
「…ふぅ。これで70ドルならかなりいいほうかな。ベッドも綺麗だし。」
室内には小さなドリンク用の冷蔵庫、有料のテレビ、簡易シャワー室が備え付けられていた。驚いたことに無料Wi-Fiが備え付けられている。
「……本当に大陸まで来たのだな。」
カーテンの隙間から窓の外を眺めていた斎藤が独りごちた。眺めはあまりよくはないが、立ち並ぶビルの足元には、様々な屋台の電灯や、中国語で書かれた色とりどりのネオン、行き交う人々がひしめき合い、まさに不夜城の名にふさわしい光景だ。薄野とはまた違った妖しい雰囲気が漂っていた。
「初めての外国は疲れたでしょう。暫く休んでください。シャワーもありますから。」
「あの如雨露みたいな奴か。いい加減、湯船につかりたいものだ。」
うんざりしたように斎藤が振り向いた。それを見て零は自分の家のシャワールームの鏡を壊されたことを思い出した。
自宅ならともかく、此処でまたやられては堪らない。数倍の金額を吹っ掛けられるのは目に見えている。
「使い方わかります?後壊さないで下さいよ。」
「……大丈夫だ。」
シャワー室に向かう背中を心配そうに見送ると、零はテレビを付けた。4月だというのに蒸し暑い夜だ。空調の効きもあまり良くない。
蒸し暑さに顔をしかめながら暫くザッピングしていると、大きな風船を割ったときの数十倍の破裂音と振動が室内に響き渡った。窓が割れんばかりに鳴り、地震かと思うほどの揺れだった。
素早く電気とテレビを消し、窓から外を見渡す。2ブロック程先で黒煙が上がっている。その周りのネオンは無惨な姿を晒して火花をあげていた。窓越しに悲鳴とクラクションがかすかに聞こえる。これは尋常ではない。
「斎藤さん!」
零が呼ぶと同時に斎藤がシャワー室から飛び出してきた。着替える手間も惜しんだのか上半身は何も着ておらず、髪も濡れている。
「何があった!」
さっきの爆発音で飛んできたのだろう。血相を変えて零に詰め寄った。
「わかりません。だけど今すぐここを出ます。着替えを済ませてください。」
爆発音からして、ガス爆発か、もしくはテロの可能性もある。東トルキスタンの問題を抱えているこの国ではあり得ない事では無い。
斎藤がカーテンの隙間から覗き込むように外を見た。
「何か燃えているぞ……。」
「窓に近づかないで!行きますよ!」
有無を言わさずに零は斎藤を連れてホテルを出る。怪訝な顔をしていた斎藤も、零の緊迫した雰囲気に異常な事態と察したようだ。
最悪のタイミングだ。これで当局が空港をすべて封鎖したら、この国から出るのは困難だ。その前にこの国から脱出したい。
携帯で別便の航空券を探す。料金などいくらでも構わない。今から二時間以内に出られる便を探した。
自動ドアから外へ出ると、辺りは爆発音を聞きつけた人々でごった返していた。焦げ臭い匂いが此処まで漂ってくる。サイレンの音がそこかしこで鳴っていた。
「自爆テロか?クソッ。最悪のタイミングだ。」
小さく毒づくと、斎藤の腕を引き、騒然とする人込みの中を掻き分けるように進んだ。だが、しばらく歩き続けるとふと、ある違和感に気づいた。
「なんであんな所に救急車が停まっているんだ……?」
ホテルから10mほど離れた路肩に停まっている救急車に、嫌な感じがした。現場は2ブロックも先だ。いくらなんでも駐車場所には遠すぎる。
「まずいぞ!走って!」
くるりと振り返ると斎藤の背を押すように、逆方向に全力で走り出した。いきなり方向転換した零に斎藤が声を上げようとした時だった。
「おい!一体…―――」
瞬間、凄まじいまでの爆風と、破裂音が背中を打った。爆発は周囲10m以内にいた人々を巻き込み、残酷な暴君のように引き千切った。そしてその爆風は周囲のビルのガラスを吹き飛ばし、雨となって群衆に降り注ぐ。
とっさに体を丸めて地面に伏せようとしたが、想像以上の威力に体が浮き上がり、脇に停まっていた白のセダンのボンネットに叩きつけられた。まるでプロのボクサーに顎を殴られたかのように、世界が揺れた。
―――本日未明、香港市内で大規模な爆発がありました。
――――当局の発表では死傷者は少なくとも50名以上とのことです。
――――――当局はこの爆発を新疆ウイグル分裂主義派の犯行と断定。
―――――――現時点で数回にわたって爆発が確認され、当局は犯人の特定を急いでいます。
自分の鼓動と呼吸音が異様に大きく聞こえる。周囲の音が水の中に居るかのように濁っている。
誰かが、自分の肩を掴んでいた。食い込む指に顔を顰める。
埃と煙で痛む眼を無理矢理開けると、砂塵と煙が舞う中に必死な顔をした斎藤が、視界に大きく映った。
斎藤が何かを叫んでいるが聞こえない。額から血が滲んでいる。何処か怪我をしたのだろうか。
ぼんやりと周囲を見渡せば、ガラスの破片と、瓦礫、さっきまで人間だったものの一部が路上に散乱していた。隣には白いセダンが全てのガラスを吹き飛ばされて無惨な姿を晒している。
千切れかけた足を引きずりながら泣き叫ぶ男、血だらけになりながら必死の形相で何かを探す女、路上に倒れたままピクリとも動かない老人……。
焼け焦げたヘルメット、認識票、そして横たわる仲間だったもの。
あの、忌々しい日の光景がフラッシュバックした。
「―――隊長……。」
呆然と零が呟いたとき、頬に衝撃が走った。
「吉村!しっかりしろ!」
斎藤の叱咤で我に返った。途端に全ての音がクリアになる。辺り一面悲鳴と、壊れたようにクラクションが鳴り続けていた。阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
条件反射のように自分の状態を確認する。頭に切り傷はあるが、たいしたことはない。足、腕の骨折はない。これは幸運だ。骨折は下手をすれば生死にかかわる。敵地で動けなければ死ぬしかない。
脇腹の傷が痛んだが、爆発の衝撃でセダンに叩きつけられた時に傷が開いたものだろう。
「げほっ……怪我はないですか?」
埃臭い咳と出たその言葉に斎藤は、文字通りこいつは何を言っているんだという顔をした。
「馬鹿か貴様!もろに吹っ飛んだんだぞ!自分の心配をしろ!」
腕をつかまれ、よろよろと立ち上がる。力強い腕が、零の思考を正常に戻した。
世間知らずで、その辺のガキより手が掛かる男と思っていたが、かなり肝が据わっている。いい兵士になりそうだ。
「……警察が来る前に此処から離れます。行きましょう!」
力強い光が戻った眼を見て、斎藤は安心したように頷いた。
瓦礫が飛び散り、ひび割れ、滅茶苦茶になった道路をひたすら速足で進む。逃げ惑う人々の間を縫いながら、大通りから遠く離れるように。
ふと、脇道に紺色のバンが停まっているのが眼に入った。かなり古い型だ。先へ進もうとする斎藤を制止し、バンに近づいた。
ぐるりと回って中を確認し、ペンライトで車の下を覗き込む。
異常がない事を確認すると、地面に落ちていた大き目の瓦礫の破片に上着を巻き付け、運転席側のガラスを割った。音を立てて割れる窓を見て、斎藤がぎょっとした顔で零を見る。
「おい!」
斎藤が声を上げるが、零はどこ吹く風でロックを外し、運転席に乗り込んだ。
「これなら直結できるな。」
ハンドルの下あたりで何やらごそごそと繰り返すと、バンのマフラーから排気臭いガスと、年季を感じさせるエンジン音が鳴り響いた。
あっけにとられた表情でその様子を見る斎藤に、零は助手席のドアを開けた。
「これをちょっとばかし拝借します。行きますよ。」
「……またこれか。今度は大丈夫だろうな。」
あからさまに嫌そうな表情を作る相棒に、多分。と返事をしようとした時だった。短い電子音が、車内に響き渡った。
すかさずポケットから携帯を出す。画面には無料チャットアプリが起動されていた。IDには『HARMIT』と記載されている。零の全身に緊張が走った。
―――君は随分と予想外の事態に巻き込まれるのが得意なようだな。
――――1時間後にフライトのNY行きのチケットを二人分取ってある。勿論ファーストクラスだ。
―――――NYに到着次第こちらから連絡する。それまでは空の旅を楽しみたまえ。
ファック!と一言怒鳴ると、乱暴に携帯をポケットに突っ込んだ。どこからか見られているのか。辺りを見回すが、カメラの類は見つからない。
「つまるところ私らは体のいい駒という所か。クソッたれが。」
思い切りアクセルを踏むと、黒い煙とエンジン音という名の騒音をまき散らし、二人の背がシートに押し付けられる。
「吉村!もう少し控えろ!」
助手席からの抗議を聞き入れる様子もなく、古びたバンは紅いテイルランプの残照を残しながら、暗闇へ消えていった。




