第14話 激辛アサシンの挑戦状
韓国・ソウルの中心部にそびえ立つ高級タワーマンションの最上階。
その防音設備が完備された配信用の専用スタジオで、チェ・ユジンはホログラムモニターを憎々しげに睨みつけていた。
彼女は韓国トップのD-Tuberであり、超高速の短剣術を操るSランクの探索者だ。ボディラインを強調した漆黒のダンジョンウェアを着こなし、美貌と実力を兼ね備えた彼女の「魅せる」戦闘配信は、常に数十万人という熱狂的な同接数を誇っていた。
だが、そんな彼女の不動の第一位という玉座が、昨日、どこの馬の骨ともわからない日本の無名チャンネルにダブルスコア以上の差でぶち抜かれたのだ。
「何よこれ……ただのおっさんが、犬に定食を食わせてるだけじゃない!」
ユジンは真っ赤なマニキュアを塗った爪を噛み、苛立ちの声を上げた。
モニターに映っているのは、昨夜のヒロトの配信アーカイブだ。無精髭の巨漢が、魔道具とおぼしき黒い鍋を使って、秋刀魚の干物や目玉焼きといった地味な和定食を作っている。
たったそれだけの映像に、世界中から五十万人近い人間が群がっているのだ。
自身の華麗でスリリングな「影舞」による命懸けの戦闘配信が、おっさんの咀嚼音と目玉焼きに負けた。プロ意識の塊であり、高いプライドを持つユジンにとって、それは自身のアイデンティティを根本から否定されるに等しい屈辱だった。
「きっと、視聴者数を水増しする違法なボットネットか、広域の幻覚魔法の類を使っているに違いないわ。私の美貌と技が、こんな地味なキャンプ配信に負けるはずがないもの!」
ユジンは勢いよく立ち上がり、クローゼットから愛用の短剣『夜影』を取り出して腰に帯びた。
売られた喧嘩は、この手で叩き潰さなければ気が済まない。
「どんな小賢しいトリックを使っているか知らないけど……このチェ・ユジンが直接暴いて、全世界の視聴者の前で恥をかかせてやるわ」
勝気な瞳にギラギラとした闘志を燃やしながら、ユジンは日本にあるという深淵の迷宮へ向けてプライベートジェットの手配を命じた。
★★★★★★★★★★★
一方、その頃のアビス・ラビリンス最深部。
エミリアという賑やかすぎるポンコツ居候が増えてから数日が経過したキャンプサイトは、朝の穏やかな空気に包まれていた。
俺は朝食後のコーヒー用の湯を沸かすため、ケトルに浄化した湖の水を満たし、かまどに近づいた。
不意に、上空数キロにある分厚い天井の岩盤のすぐ下に、巨大な青白い魔法陣が展開された。空間そのものが捻じ曲がるような不快な重低音が響き、次の瞬間、魔法陣の中から金属製の歪な球体ポッドが吐き出されるようにして落下してくる。
「な、なんですかあれ!?」
エミリアが反射的に剣の柄に手をかける。
ポッドは湖畔の平地に向けて猛スピードで自由落下してきたが、地面に激突する寸前で底部から強烈な魔力の逆噴射を行い、ズシンと重い音を立てて強引に着地した。
シューッという排気音と共にポッドのハッチが開き、中からゲホゲホとむせながら一人の女が転がり出てくる。
ボサボサに爆発した明るいブラウンのカーリーヘア。頭にはゴツい作業用の防護ゴーグルを乗せ、小柄な体にオーバーサイズの白衣をだらしなく羽織っている。徹夜明け特有の、目の下の濃いクマが印象的だった。
「げほっ、ごほっ……! はっはー! 空間跳躍の座標計算、完璧じゃない! やっぱり私の魔導工学に不可能はないわね!」
「トーコ先生!? 嘘、ギルドの特別転移ゲートも使わずに、地上から最深部まで空間に穴を開けて飛んできたんですか!?」
エミリアが素頓狂な声を上げた。
増田籐子。昨夜、五十万円のスーパーチャットと共に『明日、直接そっちに行く』と宣言していた通り、本当に自力で最深部まで乗り込んできたらしい。空間跳躍などというデタラメな技術を個人レベルで、しかもこんな即席のポッドで成功させるなど、狂気の沙汰としか思えない。
籐子は足元のおぼつかないステップで俺に近づいてくると、俺の胸板をバンバンと乱暴に叩いた。
「貴方が山本博人ね! さあ、昨日の【絶対焦げない魔導ダッチオーブン】を今すぐ火にかけなさい! 貴方の無詠唱での熱源コントロールと、私の魔力回路の同調率のサンプリングを取るわよ!」
「おいおい、いきなり距離が近すぎるぞ。それに、そんな血走った目で迫られても困る」
俺は詰め寄ってくる籐子の額を片手で軽く押し返し、強引な接近を阻止した。
「まあ、遠いところわざわざご苦労さん。とりあえずそこに座れ。お前の作った魔道具は確かに一級品だった。お礼に茶くらい淹れてやる」
俺は予備のキャンピングチェアを開き、籐子を無理やり座らせた。彼女は「私は食事や休憩などという非効率な時間的ロスには興味が……」とぶつぶつ文句を言っていたが、俺がアイテムボックスから食材を取り出すと、ピタリと口を閉じた。
俺が取り出したのは、昨夜から特製の卵液にじっくりと漬け込んでおいた、極厚の食パンだ。
新鮮な牛乳、卵、三温糖、それにバニラビーンズをたっぷりと使った黄金色の液を、五センチほどの厚みがあるパンの芯まで完全に吸い込ませてある。
「せっかくだから、お前の鍋を使わせてもらう」
俺は籐子が送りつけてきた魔導ダッチオーブンをかまどに乗せ、『極・生活魔法』で内部の温度を【摂氏百六十度】にピタリと固定した。
たっぷりの無塩バターを落とし、溶け切ったところに卵液を吸ってズッシリと重くなったパンを静かに並べる。
ジュワァァッという音と共に、芳醇なバターの香りとバニラの甘い匂いが、最深部の空気を一気に洋菓子店のように染め上げた。
「……信じられない」
キャンピングチェアに座っていた籐子が、白衣のポケットから単眼鏡のような計測器を取り出し、鍋を凝視して震える声を漏らした。
「魔力回路の抵抗値がゼロ……? 私の設計したルーンの伝導率を、一ミリのロスもなく百パーセント引き出している。熱源の分散も揺らぎもない。どうやって魔力を視覚化せずにそこまで完璧な制御を……!」
「焦げないように、全体を一定の熱のドームで包むイメージをしているだけだ。お前の鍋は、そのイメージ通りに熱を分配してくれるから使いやすい」
俺は淡々と答えながら、数分焼いたパンを裏返す。
魔法による完璧な温度管理と、魔導鍋の高い蓄熱性。この二つが組み合わさることで、分厚いパンの表面はカリッときつね色に香ばしく焼き上がりながら、中心部は卵液がカスタードクリームのようにとろとろの半熟状態で仕上がるのだ。
「よし、焼けたぞ。フレンチトーストだ」
木の皿に極厚のフレンチトーストを乗せ、上から粉砂糖を振りかけ、琥珀色のメープルシロップをたっぷりと回しかける。
「ほら、お前も食ってみろ」
俺がフォークを添えて差し出すと、籐子は計測器を額に押し上げたまま、警戒するように皿を受け取った。
「言ったはずよ、私は食事には……」
言いかけながらも、立ち昇るバターとメープルの強烈な甘い香りに抗えなかったのか、彼女は小さく切り分けた一口を口に運んだ。
「……っ!?」
籐子の目が見開き、小さな肩がビクンと跳ねた。
カリッとした表面の食感を突破した直後、中から溢れ出す熱々で濃厚なカスタードの甘みが、彼女の味覚を容赦なく蹂躙したのだ。
「な、なにこれ……カロリーの塊じゃない……! こんなに濃密な甘さ、今まで味わったことがないわ……!」
籐子は震える声で呟きながら、二口、三口と、憑かれたようにフォークを動かし始めた。日頃から味気ない栄養ゼリーだけで生活している彼女の脳にとって、この極上のフレンチトーストの圧倒的な甘味と旨味は、それまでの常識を覆すほどの衝撃だったのだろう。
俺は満足げにうなずき、深煎りの豆で淹れたブラックコーヒーのマグカップを籐子の横に置いた。
「甘いもんの後は、苦いコーヒーだ。口の中がすっきりして、研究の効率も上がるぞ」
「んっ……ふぅ……。くやしいけれど、貴方の言う通りだわ。この苦味が、甘さの余韻を綺麗に洗い流してくれる……」
コーヒーをすする籐子の顔からは、先ほどまでの血走った狂気は消え失せ、すっかり毒を抜かれたような穏やかな表情になっていた。
俺も自分用のコーヒーを手に取り、彼女の対面のチェアに座る。
そこから、籐子による機材談義が始まった。彼女が魔道具のルーンの構造について熱く語り、俺がそれに使用感と生活魔法のフィードバックを返す。互いに見ている領域は全く違うが、職人と使い手としての奇妙な噛み合いを見せていた。
少し離れた場所では、エミリアとハクが「私たちにもフレンチトースト作ってください!」と身を乗り出し、俺が次のパンを焼くのをヨダレを垂らしながら待機している。
端から見れば、年上の男と知的好奇心に溢れた研究者の、のんびりとしたお茶会のような光景だっただろう。
しかし、そんな穏やかな朝の空気は、突如として切り裂かれた。
「グルゥゥッ……」
ハクがピクッと耳を動かし、フレンチトーストから視線を外して、森の奥の暗がりを睨みつけたのだ。
直後、音もなく黒い影が木々の間を縫うように跳躍し、俺たちのキャンプサイトの真ん中にふわりと舞い降りた。
長い黒髪をなびかせた、恐ろしく整った顔立ちの美女。
チェ・ユジンだ。
彼女は周囲の空気を凍りつかせるような鋭い殺気を放ちながら、俺を真っ直ぐに睨み据え、ビシッとその細い指を突きつけてきた。
「ついに見つけたわよ、謎のおじさん! これ以上、好き勝手にはさせないから!」
韓国語訛りの流暢な日本語が、最深部の湖畔に響き渡る。
「ユジン!? なんで韓国のトップがここに……!?」
エミリアが驚愕の声を上げた。
俺は、ハクたちのために二枚目のフレンチトーストをフライパンに落としながら、今日一番の深いため息をついた。
「……また面倒なのが増えたな」
ジューッというバターの焼ける音が、緊迫した空気を間の抜けたものへと変えていく。俺は呆れ半分でフライパンの火加減を調整し続けた。




