第1話 無能の烙印と最深部への切符
深淵の迷宮、第60階層。
どこまでも続く陰鬱な石造りの通路は、足を踏み入れる者の精神を削り取るように薄暗い。壁面には不気味に明滅する魔石が時折埋め込まれているが、その光すらも淀んだ空気に飲み込まれているようだった。重苦しい空気が肺を圧迫し、呼吸をするたびにざらついた冷気が喉を焼く。湿ったカビの臭いと、魔物たちが流した血液の鉄錆びたような悪臭がドロドロに混ざり合い、鼻腔にねっとりとまとわりついていた。
周囲には、つい先ほど倒されたばかりの巨大なアビス・スパイダーの残骸が散乱し、まだ緑色の体液を石畳の隙間に滲ませている。
「おい、オッサン! ポーション出せ! なにトロトロしてんだ!」
静寂を切り裂くように、Aランクパーティー「赫き剣」のリーダー、レオンの苛立った声が反響した。
24歳という若さでAランクに上り詰めた彼は、一見すれば整った顔立ちをしている。だが今は、それを怒りと焦燥で醜く歪ませてこちらを睨みつけていた。最高級の魔獣の皮革で作られたはずの革鎧も、度重なる戦闘と回避の遅れから酷く汚れ、所々に裂け目さえできている。彼自身の余裕のなさが、その立ち姿から痛いほどに伝わってきた。
「はいはい、すぐに出すよ。少し待ってくれ」
31歳にもなって、一回りも年下の若者にオッサン呼ばわりされる日々。Fランクの専属荷物持ち、山本博人という俺の立ち位置は、このパーティーにおいて底辺中の底辺だ。
俺は背負っていた巨大なバックパックをドスンと地面に下ろした。成人男性三人は余裕で入るであろうその巨大な鞄は、中に詰め込まれた数日分の野営具や大量の予備の武具、魔物のドロップアイテムによって、常人なら持ち上げることすら不可能な規格外の重さになっている。
長年、こうして重い荷物を背負って悪路を踏破し続けた結果、俺は190センチ近い長身で、丸太のように太い腕と厚い胸板を持つ、岩山のような筋肉の塊に仕上がっていた。長髪を無造作に後ろで束ね、無精髭を生やした俺の見た目は、誰がどう見ても底辺ランクの荷物持ちには見えないだろう。事実、他の探索者とすれ違うたびに「あの巨漢が荷物持ち?」と二度見されるのが日常だ。
「ほら、上級ポーションだ。傷口にふりかけるより、飲んだ方が効きが早いぞ」
俺は『超・無限収納』のスキルから直接取り出すのではなく、あえてバックパックの奥底を漁るふりをして、冷えたポーションの瓶をレオンに放り投げた。アイテムボックスのような超絶レアスキルをFランクの俺が持っていると知られれば、面倒なことになる。彼らにはただの「力の強い荷物持ち」として雇われているのだ。
「うるせぇ! 荷物持ちのオッサンが俺に指図すんな!」
レオンはポーションをひったくると、忌々しそうに一気に飲み干し、空になったガラス瓶を壁に叩きつけて割った。パリンという甲高い音が響く。
彼の隣では、魔法使いの女と盾役の男が疲労困憊の体で石壁に背を預けて座り込み、荒い息を吐いている。二人の装備もボロボロで、特に盾役の男の巨大なシールドには、いくつもの深い爪痕が刻み込まれ、ひしゃげていた。
「……なぁ、レオン。もう引き返した方がいいんじゃないか? 今日は想定より魔物との遭遇率が高い。皆、魔力も体力も限界に近い」
俺は周囲の気配をさりげなく探りながら、そう言った。
ここは人類最大にして未踏破の超難関ダンジョン『深淵の迷宮』。第60階層ともなれば、一瞬の油断や判断ミスが即座にパーティーの全滅へと直結する。現に、先ほどの蜘蛛の群れとの戦闘でも、彼らの動きは明らかに精彩を欠き、連携が乱れていた。
「はっ、ビビってんのか? 荷物持ちの分際で偉そうに。俺たちは『赫き剣』だぞ。このまま第65階層まで一気に踏破して、トップパーティーの座を確固たるものにするんだよ!」
レオンは剣の柄を強く握りしめた。荒い息を吐く仲間たちへは視線すら向けず、前方の暗がりだけをギラギラとした目で見据えている。
「それに、お前のせいだろうが。足手まといのお前を護りながら進んでやってるから、俺たちの消耗が激しいんだ」
盾役の男が、荒い息を吐きながら吐き捨てるように言った。
「そうよ。ただでさえ歩きっぱなしで足が痛いのに、あんたがチンタラしてるから余計に疲れるのよ。本当に目障りなんだから」
魔法使いの女も冷笑を浮かべる。
俺は小さくため息をつき、黙ってバックパックを背負い直した。彼らが俺を雇っている理由はただ一つ。相場の10分の1という破格の安さで、どれだけ重い荷物でも文句一つ言わずに運ぶからだ。いざという時の肉壁くらいにはなる。彼らにとって俺は、便利な使い捨ての道具でしかない。
「わかったわかった。戦闘じゃ役に立てないのはわかってる。だが、前方の通路、なんだか嫌な気配がする。せめて罠の探知くらいはしっかりやってくれよ」
そう言うと、レオンは顔を真っ赤にして激昂した。
「いちいちうるさいんだよ、オッサンが!」
レオンが苛立ち紛れに、足元の石畳を強く蹴りつけた。
その瞬間だった。
カチッ、という乾いた音が、静寂のダンジョンに不気味に響き渡った。
レオンが踏みつけた石畳が、不自然に深く沈み込んでいる。彼の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「……あ?」
直後、足元から禍々しい紫色の光が立ち上った。
「転移トラップ……!?」
魔法使いの女が悲鳴を上げた。しかもただの転移トラップではない。渦巻く魔力の密度が異常だった。大気がビリビリと震え、肌を刺すような圧迫感が全方位から押し寄せてくる。
この魔力密度はまずい。深層への強制転移か、隔離部屋送りか。どちらにしても、生きて帰れる保証はない。
光の陣がレオンの足元から急速に広がり、周囲の空間を歪め始める。このままではレオンだけでなく、パーティー全員が巻き込まれる。
「クソッ、ふざけんな!」
レオンはパニックに陥り、身をよじって光の陣から逃れようとした。だが、強固な魔力の拘束が彼の足を石畳に縛り付けている。
レオンの目が、陣の外側に立っている俺を捉えた。
怯えていた彼の口元が、何かを思いついたように緩んだ。
「レオン、無理に動くな! 魔力を抑えて……」
警告を言い終えるより早く、レオンが怒鳴った。
「お前が身代わりになれ!!」
レオンが渾身の力を振り絞り、俺の胸ぐらを掴んで陣の中心へと強引に引きずり込んだ。
俺ほどの巨体を、体格で劣るレオンが力ずくで引きずり込めるはずがない。しかし、彼の手から魔法の奔流が至近距離で放たれ、俺の体を強引に陣の中へ叩き込んだ。
「っ……ふざけるな!」
俺は咄嗟にレオンの腕を掴み返そうとした。だが、俺の体が紫色の光の中に入った瞬間、レオンを拘束していた魔力が俺にまとわりついた。
拘束が解けたレオンは、弾かれたように陣から飛び出すと、尻餅をつきながら荒い息を吐いた。
「はぁっ……はぁっ……! た、助かった……」
光の陣に囚われた俺を、レオンとパーティーのメンバーたちが見下ろしている。
魔法使いの女は自分の身を抱いて安堵の息を吐き、盾役の男は気まずそうにスッと目を逸らした。
そしてレオンが、勝ち誇った笑みを浮かべる。
光が視界を白く染め上げていく。空間が引き裂かれるような強烈な吐き気と、内臓が裏返るような感覚が全身を襲う。
恐怖と怒りがごちゃ混ぜになり、心臓が早鐘のように鳴り響く。
ふざけるな。なんで俺が。こんな奴らの身代わりになって死ななきゃならないんだ。
声にならない叫びを上げた次の瞬間、世界が反転した。
★★★★★★★★★★★
強烈な浮遊感の後、背中にドスッと硬い地面の感触が伝わってきた。
「痛っ……」
肺の空気が押し出され、思わず咳き込む。重いバックパックを背負ったまま落ちたせいで、背中に鈍い痛みが走った。
ゆっくりと目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……は?」
ダンジョンの第60階層にいたはずだ。カビと血の臭いが充満する、暗く狭い石造りの通路に。
だが、今俺の視界にあるのは、突き抜けるような青空だった。
背負っていたバックパックを外し、警戒しながらゆっくりと立ち上がって周囲を見渡す。
一面に広がるのは、丁寧に手入れされたような美しい緑の草原。少し離れた場所には、透明度の高い水をたたえた大きな湖が陽の光を反射してキラキラと輝いている。湖畔には色とりどりの花が咲き乱れ、穏やかな風が頬を撫でていく。小鳥のさえずりまで聞こえてきそうだ。
「どこだ、ここ……。幻術か?」
足元を確認する。土の感触、草の匂い、肌に触れる風。どれも本物だ。
だが、ここはダンジョンの中だ。空などあるはずがない。
上空をよく見ると、はるか上方に巨大な分厚い岩盤の天井があり、そこから発せられる魔法的な光が、太陽のようにこの空間を照らしていることがわかった。
疑似太陽。完全に隔離された独自の生態系。
これまでの階層とは全く異なる、人工的でさえある異常な平和と美しさ。こんな空間が存在し得るのは、ダンジョンの心臓部――「コア」がある場所だけだ。
「最深部……ボス部屋か」
誰も到達したことのない最深部。帰る道などあるはずがない。そして、ここには人類未踏破のダンジョンを統べる、凶悪なボスが潜んでいる。
膝の震えが止まらない。喉がカラカラに渇き、冷や汗が背中を伝う。
来た道を戻るゲートもなければ、身を隠せるような地形もない。絶望的な状況に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
ぐぅぅ、と。
静寂の中で、情けない音が鳴った。
極度の緊張と恐怖の中で、俺の体は本能的に空腹を訴えていた。朝からろくなものを食べていないし、重い荷物を背負って歩き通しだったのだ。
「……腹、減ったな」
自分のあまりの図太さに、ふっと乾いた笑いが漏れた。
どうせ帰れない。もがいても無駄なら、恐怖に震えながら飢え死にするのだけはごめんだ。
「どうせ死ぬなら……最後に、美味い飯を食おう」
両手で顔を覆い、深呼吸を一つして、ヤケクソ気味に腹をくくる。
俺は自分のポケットから、小型の通信端末を取り出した。「D-Tube」の配信アプリを立ち上げ、カメラのスイッチを入れる。最深部でもなぜか電波は通じているようだ。
いつもなら同接数など一桁がいいところだ。誰が見るわけでもない、底辺チャンネルの配信。だが、これは俺が生きた証を残すための、ささやかな遺言代わりだ。
「さて、と」
端末を岩の上に立てかけ、意識を集中させてアイテムボックスを開く。
中には、俺が個人的に買い集めていた大量の食材とキャンプ道具が眠っている。背負ってきたバックパックの中身はレオンたちの野営具だが、今となってはただの重いゴミだ。
「焚き火台、ダッチオーブン、極厚の鉄板……おっ、こいつの出番か」
虚空から取り出したのは、一枚の巨大な肉の塊だった。
昨日、ダンジョンに潜る前に奮発して買っておいた、A5ランクの最高級和牛サーロイン。赤身の中に雪のように細かく入った美しい霜降りが、これから始まる食事への期待を高めてくれる。
湖畔の安全そうな平地に焚き火台を設置し、太い薪を井桁に組んでいく。風が通り抜けやすいよう隙間を調整する。
準備が整ったところで、もう一つのスキル『極・生活魔法』を発動した。
指先から小さな火種を生み出し、薪の中心へと放つ。長年使い慣れた魔法だ。薪はすぐに燃え始め、ほどよい火力の炎が立ち上がった。
パチパチという心地よい音が鳴り始め、周囲に暖かな空気が広がる。
「浄水」
さらに生活魔法で湖の水を空中に汲み上げ、不純物を完全に除去する。そのまま使い込まれたケトルに注ぎ入れ、焚き火の端のゴトクに置いた。食後のコーヒー用だ。肉に振りかける調味料も準備する。岩塩と粗挽きの黒胡椒。ただそれだけでいい。極上の肉には、余計な味付けなど不要だ。
炎が安定したのを見計らい、ずっしりと重い極厚の鉄板を焚き火台の上に乗せる。
鉄板から薄く煙が立ち始めたところで、用意しておいた上質な牛脂を引いた。
ジュワッという軽快な音と共に、甘く香ばしい脂の匂いが立ち上る。最高級の脂が溶け出す匂いは、空腹を容赦なく刺激し、口の中に一気に唾液を溢れさせた。
「いけっ」
分厚く切ったサーロインを、熱された鉄板の中央に乗せる。
ジューーーーーッ!!
弾けるような肉の焼ける音が、静かな湖畔に響き渡った。
肉の表面から上質な脂が溶け出し、熱い鉄板の上で激しく踊る。焼け焦げる醤油にも似た肉本来の香ばしい匂いが、誰もいない最深部の澄んだ空気の中へと、ゆっくりと広がっていった。




