第8話 この体は、私のものではない
最後の一片が、三百年の空白を埋めた。
虚偽告発から五日。書庫に籠もりきりで、魔法契約書の修復に全てを注ぎ込んだ。水濡れで癒着した羊皮紙を一枚ずつ剥がし、カビで腐食した表面を洗浄し、虫食いの穴を極薄の補修紙で塞ぎ、消えかけた文字の痕跡を丁寧に復元した。
五日間、ほとんど眠らなかった。
食事はクラウスが運んでくるパンとスープを、作業の合間にかじった。
そして今──夕刻の鐘が鳴る少し前に、最後の断片がはまった。
竹のヘラを置く。指先が震えている。疲労ではない。
「……できた」
三百年前の魔法契約書。全文。
ヴォルフを呼ばなければ。立ち上がろうとした時、作業室の扉が開いた。
「完成したか」
ヴォルフだった。この人はどうやって分かるのだろう。書庫の奥にいたはずなのに、修復が完了した瞬間に現れる。
(……まさか、ずっと待っていたの?)
いや、きっと自分の研究をしていたのだろう。たまたまタイミングが合っただけだ。
「読み上げる」
ヴォルフが作業台の前に立った。私は隣に並んで、修復された羊皮紙を二人で覗き込む。
ヴォルフが古語を読み解いていく。声は低く、淡々と。けれど一文ごとに、彼の眉間の皺が深くなった。
契約の内容は、こうだった。
三百年前。王国が大規模な疫病に見舞われた時、当時の国王と神殿の最高司祭が契約を結んだ。国民の生命力を微量に吸い上げる代わりに、聖女に回復と浄化の力を与える。一人あたりの吸収量はごく僅かで、健康な人間なら気づきもしない程度。だが国民全体から集められた生命力は膨大で、それが聖女の治癒能力の源泉となっている。
代価は秘密にすること。
この契約書の存在を国民に知らせないこと。
それが契約の条件だった。
「……国民の生命力を、知らないうちに」
「三百年間、ずっとだ」
ヴォルフの声が硬い。
「聖女の力は神からの恩寵ではない。国民の生命力を源泉とする魔法契約に基づいている。そして現聖女マティルダは──」
「この契約のことを知っている」
だからこそ、この古文書を隠したかった。封印区画に押し込め、ゲオルクに改竄させ、私の修復作業を妨害し、虚偽告発までして──全ては、この真実を隠すために。
(マティルダは知っていた。聖女の力の代価を。国民から生命力を吸い上げていることを。知っていて、隠していた)
五年前の断罪。
あれも、この秘密を守るための布石だったのだろうか。
「ヴォルフ殿。この契約書を叙任式で公開すれば──」
「聖女制度の根幹が揺らぐ。マティルダの隠蔽が証明される。ユリウスの証拠と合わせれば、五年前の冤罪も」
そこまで言って、ヴォルフが口を閉じた。
私を見ている。
いつもの無表情。けれどその奥に、何か──問いかけるような色がある。
「……叙任式まで三日だ。段取りを詰める必要がある」
「はい」
「その前に、一つ確認がある」
ヴォルフの声のトーンが変わった。学者の声から、何か別のものに。
「リーゼロッテ嬢。お前は何者だ」
心臓が止まった。
比喩ではない。本当に一拍、止まった気がした。
「……何者、とは」
「この修復技術は五年間の独学では説明がつかない。紙繊維の分析手法、インク成分の特定法、修復の工程管理──全てが体系的すぎる。まるで別の世界の技術を持っているかのようだ」
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射ている。
逃げ場がない。
(……ああ。この人は、最初から気づいていたのかもしれない)
辺境の図書館に通い始めた時から。修繕メモを読んだ時から。この技術が、この世界のものではないことに。
嘘をつくことはできる。「独学で工夫しました」と言えば、それ以上追及しないかもしれない。ヴォルフは証拠のない推測で人を断罪する人間ではない。
でも。
(この人に嘘をつきたくない)
理由は分からない。分からないけれど、この人の前では──嘘をつく自分でいたくなかった。
「……ヴォルフ殿」
声が震えた。止められなかった。
「この体は、私のものではありません」
沈黙。
「私は──別の世界から来た人間です。リーゼロッテ・ブレンターノとして生まれた人間ではありません。五年前の断罪の後に、この体の中で目を覚ました。前の世界では図書館の司書をしていました。修復技術は、そこで学んだものです」
全部、言った。
隠していた全てを。
ヴォルフは動かなかった。
表情も、姿勢も、視線も。何も変わらない──いや、変わった。
灰色の瞳の奥で、何かが揺れている。氷の下の水流のように、表面からは見えないけれど確実に動いている。
「……俺が見ていたのは」
低い声。かすれている。
「誰だったのか」
その一言が、胸に刺さった。
ヴォルフが椅子を引いた。立ち上がる。
「今日は終わりだ。叙任式の段取りは明日詰める」
作業室を出ていく背中。いつもの早足。でもどこか──足取りが、重い。
扉が閉まった。
私は作業台の前に座ったまま、動けなかった。
(嫌われた)
当然だ。誰だって動揺する。自分が見ていた人間が、実は別の世界から来た別人だったなんて。
(私は……リーゼロッテ・ブレンターノではない。この五年間、他人の体を借りて生きてきた。それを知られた)
目の前の魔法契約書が、蝋燭の光でぼんやり揺れている。三百年前の真実を暴いた偉業のはずなのに、胸の中は空っぽだった。
◇
廊下の足音が近づいてきた。
クラウスだった。夕食のトレイを持って、おずおずと作業室に入ってくる。
「リーゼロッテ嬢、夕食を──」
私の顔を見て、言葉を切った。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫よ。ありがとう」
嘘だ。大丈夫じゃない。でもこの子に心配をかけるわけにはいかない。
クラウスがトレイを作業台の端に置いた。そして、少し迷った顔で口を開いた。
「あの……師匠なんですけど」
「……何?」
「さっき廊下ですれ違ったんです。師匠の顔、怒りじゃなかったです」
足が止まった。
「怒り……じゃない?」
「はい。師匠が怒ってる時の顔は、事務局の時に見ました。あの時とは全然違いました。なんて言うか──」
クラウスが言葉を探すように天井を見上げた。
「怖がってる顔、でした」
怖がっている。
ヴォルフが。何を。
「……ありがとう、クラウス殿。夕食、いただくわ」
クラウスが出ていった後、スープに手をつけた。温かい。少し塩が効きすぎている。でも温かい。
(怖がっている顔。怒りじゃなかった。怖がっている──)
何を怖がっているのだろう。
転生者だと知って、気味が悪かったのだろうか。それとも──
──いや。分からない。今は分からない。
叙任式まで三日。
証拠は揃った。契約書は完成した。ユリウスの証拠もある。あとは公開の場で全てを明らかにするだけだ。
それだけで、いいはずだ。
スープを飲み干して、作業台を片づける。蝋燭の炎が揺れた。
三日後。全てが終わる。
──全てが終わった後、私はどこにいるのだろう。




