48 前門の王子、後門の魔獣
ぱちくりと瞬きしてみたが、謎の影は消えなかった。
どうやら目の錯覚ではないらしい。
「……もしかして、私が呼んじゃった?」
『いや、詠唱が完了してないのに来るとは思えないが……』
謎の影は窓に張り付きながら、じっとこちらの様子を窺っているようだ。
とりあえずこちらに襲い掛かってくる様子はなさそうだ……と安堵した次の瞬間――。
黒い影が勢いよく窓ガラスに体当たりし、ガシャンッ! と大きな音を立てて窓ガラスが砕け散る。
それと同時に、黒い影が室内に飛び込んできた。
「ひいぃぃぃぃ!!」
リリスは慌ててぬいぐるみのイグニスを抱っこして、謎の影と距離を取る。
床に降り立った黒い影は、四本足でしっかりと立っていた。全体的なフォルムは犬……いや、オオカミのようにも見える。
真っ黒な体毛に、爛々と光る紫の目が……三つ。
「魔獣……!」
ただの野生の獣ではない。目の前の怪物は、人に害をなす魔獣なのだ……!
――でも、どうして魔獣が!? ここは聖域なのに!!
厳重に結界が張られた聖域に、魔獣が入り込むなどとは信じられない。
――……いえ、実際にいるものはいるんだからそんなこと考えてもしょうがないわ! かくなる上は……。
背中を向ければ負けだ。リリスはじっと魔獣を睨み、カラテの構えを取った。
大丈夫。ナックルもしっかりと装備済みだ。
そして、魔獣が飛びかかって来た瞬間、深く腰を落とし――
「ハイヤーッ!!」
飛びかかって来た魔獣の腹に、思いっきり正拳突きを叩きこむ。
感じる確かな手ごたえ。魔獣は「キャインッ!」と情けない鳴き声を上げて、ごろごろと床を転がった。
「よし、今のうち!」
日々カラテで鍛えているとはいえ、リリスは非力な11歳の少女だ。
今の一撃も不意打ちが成功したようなもので、大したダメージにはならないだろう。
魔獣が起き上がる前に慌てて部屋を飛び出す。
『おい、どこに行くんだ!?』
「わかんない! どこか安全なところに!!」
イグニスを抱っこしたままリリスは必死に走る。
だがすぐに、背後から獣の唸り声が追いかけてくる。
――もう復活した! まずいまずい……!!
唸り声を聞く限り、魔獣は怒り狂っているようだ。
次に対峙すれば、非力なリリスなどあっけなく噛み殺されてしまうことだろう。
――どこかに、隠れられるようなところがあれば……!
必死に隠れられそうな場所を探しながら、リリスは憎らしいほど障害物の無い、一本道の聖堂の廊下を走った。
そして、曲がり角を曲がった瞬間――とんでもない光景が目に入る。
「オ、オズ様……!?」
進行方向に立っていたのは、紛れもなくリリスの婚約者であるオズフリートだった。
彼が銀色に光る抜身の剣を手にしているのが目に入り、リリスの頭は真っ白になる。
――まさかこの状況、オズ様が仕組んで……!?
リリスのことを疑っているオズフリートのことだ。魔獣をけしかけ、事故に見せかけて葬り去ろうとしたのだろう。
万が一リリスが逃げ出した時のことを考えて、確実に息の根を止めようとここで待機していたのかもしれない。
――まずい、詰んだ……。
後方には怒り狂う魔獣、前方には自身を亡き者にしようと企む武装した婚約者。
リリスはどちらにも進むことが出来ずに、その場で足を止めてしまう。
「っ、リリス!!」
オズフリートが剣を片手にこちらへ突進してくる。
一周目と同じようにグサッと刺されるのを予感して、リリスはぎゅっと胸元にぬいぐるみのイグニスを抱きしめたまま動けなくなってしまう。
――私の人生、せっかくやり直せるのにこんなところで終わっちゃうの……?
まだ、何も成し遂げていないのに。
走馬灯とでも言うべきなのか、脳裏にここ一年ほどの様々な記憶が蘇る。
屋敷にやって来たイグニスと再会したこと。
詩作朗読会で初めて皆に褒められたこと。
レイチェルと出会い、初めて友達――いや、魂の姉妹とも呼べる存在ができたこと。
大嫌いだったギデオンと、少しづつ打ち解けられ始めていること。
屋敷の使用人たちがリリスのことを気にかけてくれているのがわかり、少しだけ彼らに優しくできるようになったこと。
――嫌、まだ、終わりたくないっ……!
最期まで足掻いてやろうと、必死で涙で滲んだ目を開き、リリスはカラテの構えを取る。
眼前に、剣を構えたオズフリートが迫っていた。
彼はそのままリリスの目の前までやって来たかと思うと……迎撃準備万端のリリスの横を素通りしたのだ。
「えっ?」
リリスはとっさに背後を振り返る。
ちょうど剣を振るったオズフリートが、リリスを追いかけてきた魔物に斬りかかったところだった。
とても11歳の少年だとは思えない、鮮やかな動きでオズフリートは魔獣の息の根を止めた。
そのまま、彼はリリスの方を振り返る。
「ひっ……」
次こそはこちらの息の根を止めようとする番か……と、リリスは思わず息を飲む。
次の瞬間、オズフリートは握っていた剣を手放した。
――えっ……?
剣が落下する軌跡に、自然と視線が吸い寄せられる。
「リリス!」
剣が床に落ち、カラカラと音を立てるのと同時に、リリスは駆け寄ってきたオズフリートに強く抱きしめられていた。