Word.19 灰示、再ビ 〈2〉
「こっのっ…!仁王っ…!」
「阿っ!」
ニギリが大きく叫ぶと、仁王がそれに答えるように返事をし、灰示へ向けてニギリの乗っていない方の手を、勢いよく振り上げる。
「“握れ”っ!」
「阿っ!」
振り下ろされた仁王の巨大な手が、長身の灰示の体をあっさりと掴みあげる。だが、仁王の手に捕らえられたというのに、灰示は顔色一つ変えなかった。
「アハハっ!これで、おわおわ終わりよぉ!」
高々と灰示を見下ろし、笑いあげるニギリ。
「“握り締めちゃえ”!仁王!」
「阿!」
ニギリがそう言い放つと、仁王が灰示を握る手に、さらに力を込めようとした。
「……“払え”」
落ち着いた表情のままの灰示が、ニギリにも聞こえないほどにそっと、言葉を落とす。
「阿ああぁぁっ!?」
「えっ…?」
灰示を握り締めようとした仁王の手が、突然、滑ったかのように振り払われ、その勢いで仁王がバランスを崩し、巨大な体を傾かせていく。
「きゃあああ!」
地面へと倒れ込んでいく仁王に巻き込まれ、地面へと落下していくニギリ。
「ニ、ギリちゃんっ…」
ニギリの悲鳴を聞き、先程倒れたチラシが、ゆっくりと起き上がる。
「クソっ…!」
まだ針の刺さった腕を振り上げ、言玉を持った右手を地面へと叩きつけるチラシ。
「“地熱”っ…!」
「……っ」
周囲から噴き上げる熱湯にも、その表情は変えず、灰示は冷静に周囲を見回す。
「“弾け”…」
「えっ?」
灰示が噴き上がった熱湯へ向け、両手に構えていた針を投げると、その水の塊が、灰示の言葉に従い、チラシの方へと一斉に飛び出していく。
「ううぅっ…!うわあああああっ!」
自らの技を喰らい、チラシが激しい叫び声をあげて倒れていく。
「もっと、“痛み”が欲しいかい…?」
「グっ…」
そっと微笑んで問いかける灰示に、倒れ込んだチラシが顔を歪める。
「なら…」
「吽!」
「ん…?」
倒れたままのチラシへ向け、さらに針を構えようとした灰示であったが、その灰示の背後から突如、仁王像がもう一体現れた。言玉を届けに行っていた方の像が、戻って来たようである。
「もう一体…?」
「“躙れ”!仁王!」
「吽っ!」
「……っ」
眉をひそめた灰示へと、勢いよくその巨大な足を振り下ろす仁王。迫り来る足に、言葉を放つ時間もなく、灰示が後方へと飛んで、力を使わずに仁王の足を避ける。
「アハハ!二体になれば、こっちのもんもんもんだわぁ!仁王!」
「阿!」
「吽!」
仁王の片割れの肩の上に乗り、高々と笑いあげるニギリに、声を揃えて返事をする二体となった仁王。二体の仁王が灰示の前後にそれぞれ立ち塞がり、灰示を挟み込む。
「“躙り潰すのよ”っ!仁王!」
「阿っ!」
「吽っ!」
ニギリの言葉に応え、同時にその巨大な足を振り上げる二体の仁王。前後から向かってくる足に他に逃げ場もなく、灰示が横へと飛んで避ける。
「もっとよ!もっと“躙れ”っ!仁王!」
「阿っ!」
「クっ…!」
横へと避けた灰示に、その動きを始めから読んでいたかのように、すぐに上空から右手を振り下ろす仁王。森の木を背後に、二体の仁王に追い込まれ、逃げ場もなく、その表情を初めて歪める。
「阿ああぁ!」
「ううぅっ…!」
勢いよく振り下ろされた仁王の手に弾き飛ばされ、灰示が背中を森の木の幹へと勢いよく打ちつける。
「うぅっ…」
「アハハハハっ…!」
力なくその場にしゃがみ込む灰示を見て、仁王の肩の上のニギリが、楽しげな笑い声を響かせる。
「“変格”も持たないハ行ごときが調子に、のるのる乗るから、こういう目に遭うのよぉ!アハハハっ!」
さらに高い声を、森全体へと響かせるニギリ。
「アハハっ!アハハハっ…!」
「痛い…」
「ハっ…?」
ひたすら笑い声を繰り返していたニギリが、そっと呟かれたその言葉を聞き逃さずに、素早く笑い声を止めた。
「“痛い”、な…」
「……っ!」
額から流れる血を手で拭いながら顔を上げた灰示は、その言葉とは裏腹に、どこか楽しげな微笑みを浮かべていた。その妖艶な光景に、ニギリが思わず表情を歪める。
「な、何よっ…!」
追い込んだはずだというのに感じる恐怖に、ニギリが声を荒げる。
「“痛い”ならっ…!もっと、くるくる苦しそうな顔しなさいよっ…!」
どこか必死に、灰示へと叫びあげるニギリ。
「そうだね…」
額の血を拭い終えた手を払い、ニギリの言葉に頷きながら、灰示がその場にゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、君が見せてよ…」
立ち上がった灰示が顔を上げ、再びニギリを見つめる。
「“痛み”に苦しむ、その顔を…」
「クっ…!」
挑発めいた灰示の言葉に、ニギリがさらに表情を歪める。
「憎たらしいっ…!仁王っ!」
「阿っ!」
「吽っ!」
「“握り潰すのよ”っ!あいつをっ…!」
感情を高ぶらせ、声が枯れてしまいそうなほど大きな声で、強く叫ぶニギリ。
「阿あ!?」
「う吽っ!?」
「えっ…?」
だが、ニギリの言葉に乗り、灰示へと振り下ろされようとした二体の仁王の手は、灰示に届く手前の遥か上空で、突然、その動きを止めてしまった。戸惑うような声を漏らす仁王たちに、ニギリもその表情を曇らせる。
「な、なになに何っ?なんで、仁王の動きがっ…」
「“張りつけろ”…」
「なっ…!」
灰示の言葉とともに、仁王の周囲を目まぐるしく取り囲む、無数の赤い線のようなものが姿を現わす。
「こ、これはっ…!」
「さっきの太守の、糸っ…?」
ニギリが驚きの表情で周囲を見回す中、倒れ込んだままのチラシが、すぐ近くのその赤い線を見つめ、そっと呟く。それは確かに、先程の戦いで保が張り巡らせていた、あの赤い糸であった。その赤い糸の先に、灰示の針が取り付けられており、森の木の至るところに突き刺さって、何本もの糸を張らせ、仁王の動きを封じてしまっている。
「どうして…?」
周囲に、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた赤い糸を見つめながら、ニギリが険しい表情を作る。
「どうして君が…!太守ちんの糸をっ…!」
「残念。それもくだらない問いかけだな…」
「えっ…?」
「……っ」
灰示の言葉にニギリが眉をひそめる中、灰示がそっと構えた赤い針を一本ずつ、音も立てずに静かに仁王へと投げ放つ。放たれた針は、仁王の水の体の、その中へと入り込んだ。
「なになに何をっ…!?」
「“爆ぜろ”」
ニギリが戸惑うように声を漏らした直後、灰示が言葉を呟いた。
「阿あああああっ!」
「うううううう吽!!」
「……っ!」
体内に投げ込まれた針が、勢いよく爆発すると、二体の仁王は細かい水の粒となって弾け飛び、叫び声をあげながら、爆発した腹部を中心に、まるで滝のように一気に崩れ落ちた。
「なっ…」
崩れ落ちていく巨大な水の像を見つめながら、ニギリが信じられないものでも見ているかのように、大きく目を見開く。
「ふぅ…」
やがて仁王は見る影も失くし、代わりに空中から落ちてきた、ニギリの青い言玉を、灰示が左手でそっと受け止める。
「そんなっ…私の仁王が、私の“変格”がっ…」
先程まで仁王が立っていた、今はもう何もない景色を見渡し、唖然とした表情を見せるニギリ。
「たった、一言でっ…?」
あまりのことに思考がついていかないのか、肩を震わせ、口の前で両手を握り締めたニギリが、そのか細い声も震わせる。
「そんなことっ…!」
「少しは“痛み”を理解したかい…?」
「うっ…!」
聞こえてくるその問いかけに、表情が強張らせたニギリが、素早く顔を上げる。ニギリが見つめる先には、ニギリへと針を構えた灰示が立っていた。
「じゃあ、サヨウナラ…」
「うぅっ…!」
冷たく微笑む灰示に、さらに震え上がるニギリ。
「嫌っ…いやいや嫌!助けてっ…神っ…神っ…!!」
「いいことを教えてあげるよ…」
助けを求め、必死に叫ぶニギリに、灰示がどこか優しい口調で話しかける。
「神様は、人を救ったりなんかしない…」
冷たい言葉とともにニギリに放たれる、一本の針。
「人は“痛み”を知ってのみ、救われる…“倍せ”」
「……っ!」
空中で倍、倍へとその数を増やし、無数となった針が、逃げる隙間すらも与えず、ニギリへと襲いかかり、ニギリが大きくその表情を歪めた。
「きゃああああああっ!」
無数の針に全身を突き刺され、ニギリが力なく後方へと倒れ込んでいく。
「あ…ぁぁっ…ぅ…」
地面へと倒れ込んだニギリは、そのままゆっくりと大きな瞳を閉じ、気を失った。
「この野郎っ…!」
「んっ…?」
倒れたニギリを見ていた灰示が、違う方向から聞こえてくる声に振り向く。
「よくもっ…!よくもニギリちゃんを…!」
その表情に怒りを見せたチラシが、すでに傷だらけの体を立ち上がらせ、右手の言玉を灰示へと向ける。
「“千切れろ”っ!」
チラシの言玉が輝くと、灰示の上空に無数の水の刃が生じた。その刃を見上げ、灰示がそっと目を細める。
「…………」
「なっ…!」
降り落ちる水の刃にも、動こうともせず、落ち着いた顔つきのまま、その場に立ち尽くす灰示に、チラシが驚きの表情を見せる。
「まさか…避けない気かっ…!?」
「ハハハっ…」
「……っ!」
避けないどころか、両手を大きく広げ、まるで迎えるように、灰示は水の刃を喰らった。
―――バァァァァン!
「うっ…!」
水の刃が地面に降り注いだその衝撃風に吹かれ、傷だらけの体を少し傾かせるチラシ。軽く目を細めながら、水飛沫を向こうに霞む景色を見つめる。
「直撃、した…?」
チラシが喜ぶというよりは、どこか意外そうに呟く。
「何でだ…?急に頭でもおかしくなっ…」
「ハハハ…」
「……っ!」
豪雨のように降り注ぐ水飛沫の向こうから聞こえてくる笑い声に、チラシの表情が止まる。
「ハハハっ…」
「なっ…!」
水飛沫の向こうに立っているのは、全身を水の刃に斬り裂かれ、先程よりもさらに激しく、手や足、全身から赤い血を流している灰示であった。水も大量に流れているが、灰示が流すその血の量も、半端ではない。見ている方が、気を失ってしまいそうであった。
「ハハハっ…」
流れ落ちる血を見ながら、どこか楽しげに微笑んでいる灰示。
「あ…」
そんな灰示に、チラシは思わず言葉を失くす。
「痛覚が…ない、のか…?」
「ん…?」
思わず呟いたチラシの声に気づいたのか、灰示が血を流しながら、ゆっくりとチラシの方を振り向いた。
「面白い問いかけだね…気に入ったから答えてあげるよ…」
「えっ…?」
一層微笑む灰示に、チラシが戸惑いの声を漏らす。
「痛覚なら、勿論あるよ…今も、とても“痛い”…」
空いている右手で、そっと左手の傷を撫でる灰示。
「この“痛み”が、僕を僕で在らせてくれる…」
「痛みが…僕を…?」
灰示の言葉を繰り返し、チラシが困惑するように首を傾げる。
「そして、この“痛み”が…君に“痛み”を教える為の、力をくれる…」
「うっ…!」
血だらけの手で針を構える灰示に、チラシが怯えた表情を見せる。どんな痛みにも動じぬ灰示には、チラシももう攻撃する気力が残っていなかった。
「“爆ぜろ”…」
「うぅっ…!」
逃げる力すらもないチラシへ、一本の針が投げ込まれる。
「うがあああああっ!!」
目の前で爆発した針の爆風に弾き飛ばされ、チラシは背後の木へと背中を打ちつけると、その木の幹にもたれかかったまま、その場に力なく座り込んだ。
「う、うぅ…」
もう虫の息であるチラシのもとへ、灰示がゆっくりとした足取りで進んでいく。
「少しは“痛み”を理解したかい…?」
「う…うう、ぅ…」
問いかけながら歩み寄ってくる灰示を、“来るな”とでも言うかのように何度も大きく首を振りながら、声にならない声を漏らすチラシ。
「じゃあ、サヨウナラ…」
「うぅっ…!」
再び針を構える灰示に、チラシの表情が恐怖の色へと染まる。
『ハァっ…!ハァっ…!ハァっ…!』
その時、二人の居るその場へと、アヒルと篭也が息を切らせながら、駆けつけてきた。
「あっ…!」
追い込まれたチラシと、針を構えている灰示を見て、アヒルが大きく目を見開く。
「や、やめろっ…!」
灰示へ向け身を乗り出し、必死に叫びあげるアヒル。
「殺すなっ!灰示っ…!!」
「……っ」
「ひぃっ…!」
だが、アヒルの声も届かず、灰示は躊躇うことなく針を投げつけ、チラシの表情が勢いよく歪んだ。
―――パァァン!




