Word.19 灰示、再ビ 〈3〉
次の瞬間、静かな森に響き渡ったのは、一つの金属音であった。
「ふぅ…」
灰示が息をつきながら、投げた針でチラシの右手から弾き飛ばし、空中へと舞い上がらせたチラシの青い言玉をそっと受け止める。
「あ…ぁ…」
命を奪われることのなかったチラシは、針は当たらずとも、恐怖心が限界を超え、意識を保っていられなくなってしまったのか、力なく瞳を閉じ、そのまま気を失った。
「殺しはしないよ」
気を失ったチラシを見下ろし、灰示がそっと呟く。
「殺したら、この“痛み”を忘れてしまうからね…」
そう言って灰示は、小さな笑みを零した。
「灰示っ…!」
「……?」
背後から聞こえてくる自分の名を呼ぶ声に、灰示がゆっくりと振り返る。木々の間をくぐり抜け、灰示のもとへと駆けてくるのは、アヒルと篭也であった。
「やぁ、安の神様」
アヒルの方を見た灰示が、軽く笑みを浮かべる。
「久し振りだね」
「おう、久し振り!って、暢気に挨拶してる場合じゃねぇーしっ!」
手をあげて、笑顔で挨拶をした後、自らの行為に突っ込みを入れるアヒル。
「っつーか、なんでお前、保の中から出っ…」
「五十音、第六音“か”…」
「へっ?」
灰示に話しかけようとしたアヒルが、すぐ横から聞こえてくる、何やら不穏な言葉に気づき、振り向く。
「解放」
アヒルが振り向くと、そこには、言玉から姿を変えた格子を構え、鋭い表情を灰示へと向ける篭也の姿があった。
「か、篭也っ…?」
「下がっていろ、神。こいつは僕が仕留める」
「待て待て待て待てっ」
迷いなく言い放つ篭也の前へと出て、必死に制止の言葉を繰り返すアヒル。
「仕留めてどうすんだよ!こいつは保なんだぞ!?」
「だが今は波城灰示だ。韻の封印が解けている以上、こいつを野放しにしておくわけにはいかない」
「あのなぁ…!」
「ハハハっ…」
『……っ』
言い争っていたアヒルと篭也が、不意に笑い声を漏らす灰示に、同時に振り向く。
「何がおかしい?」
「いや…君程度の人間に、僕が仕留められるかなって思ってね」
「何だとっ…?」
「おいおいっ、やめろって」
灰示の挑発に、険しい表情を見せる篭也。不穏な空気となる二人の間に割って入り、アヒルが何とか止めようとする。
「今はんなことより、神試験だろうがっ」
「こんな奴にうろちょろされては、神試験にも集中出来ない。あなたもそう言っていただろう?」
「いや、ま、まぁそうだけどよぉっ」
強く主張する篭也に、思わず口ごもるアヒル。確かに保が太守と知った時から、試験の最中に灰示が出て来ることを、アヒルも不安に思っていたのである。
「けど、こいつはっ…!」
「心配、ないよっ…」
「へっ?」
篭也を説得しようとしたアヒルが、後ろから聞こえてくる灰示の、どこかか細い声に、戸惑うように振り向く。
「灰示?」
「もう、時間みたいだ…」
「えっ…?」
冷笑ではない、穏やかな笑みを浮かべ、胸に手を当てて、そっと呟く灰示のその言葉の意味が理解出来ず、アヒルが大きく首を傾ける。
「ううぅっ…」
「灰示っ…!?」
急にその場にしゃがみ込む灰示に、アヒルが慌てて駆け寄る。
「灰示…!」
「ハァ…ハァ…」
しゃがみ込んだ灰示は乱れた呼吸で、大きく肩を揺らしており、額からは汗を流し、その顔色もどこか青白く、調子が悪いように見えた。
「灰示、お前っ…」
「忌々しいものだね…この韻の封印も…」
そっと目を細め見つめるアヒルに、灰示が安定しない呼吸の中、言葉を呟き、そっと笑みを浮かべる。
「安の神、これ…」
「へっ?」
そう言って灰示がアヒルへと差し出したのは、二個の青い言玉、灰示がチラシとニギリから奪った言玉であった。
「あげるよ…僕には別に必要のないものだからね…」
「言玉…」
灰示から受け取った二個の言玉を、アヒルがまじまじと見つめる。
「神試験だったっけ?精々、頑張るといいよ…」
「お前っ…」
「勘違いはしないでね。これは単なる“貸し”だよ」
何かを言いかけたアヒルの言葉を遮るように、灰示が間を置くことなく言い放つ。
「僕は必ず、“痛み”のない世界をつくってみせる…」
灰示がまっすぐな瞳を、アヒルへと向ける。
「君の“救い”なんて、認めない」
「……ああっ」
「……っ」
大きく頷くアヒルを見て、どこか満足げに微笑むと、灰示はそっと瞳を閉じ、その場に力なく倒れ込んだ。
「う、うぅ~っ…」
「あっ」
「こ、来いっ…地球外、生命たぁ~いっ…」
灰示が倒れ込んだその瞬間、そこに灰示の姿はなくなり、代わりに何やらあれこれと寝言を放っている保が姿を現わした。
「保に戻った」
「よくわからない仕組みだな」
アヒルの後ろから保を見下ろしながら、少し肩を落とした篭也が、構えていた格子を言玉へと戻し、戦闘態勢を解く。
「篭也、保の傷を」
「ああ」
そう言うと、保の傍に駆け寄っていたアヒルが、その位置を篭也と交代する。保のすぐ横にしゃがみ込んだ篭也は、格子から戻ったばかりの言玉を、保へと向けた。
「“回復しろ”…」
言玉から放たれた赤い光が保の体を包んでいき、徐々にその傷を塞いでいく。
「それにしても…」
回復を続けながら、篭也が少し視線を動かし、近くで倒れているチラシとニギリ、それぞれの姿を確認する。
「五団メンバー二人を、一気に圧倒するとは…」
まだ五十音士になったばかりとはいえ、七架があれほどまでに苦戦したニギリと、そして恐らくはニギリと同じ程度の力を持っていたであろうチラシの二人を同時に相手し、灰示はそれを圧倒した。
「恐ろしい男だな…」
その力を目の当たりにし、思わず呟く篭也。
「本当にあの男に勝ったのか…?我が神は」
「んん~っ?これ、どれをどこに入れるんだぁ?」
篭也の見つめる先には、プレートのどこに言玉を入れるかで頭を悩ませている、アヒルの姿があった。
一方、遊園外。モニター前。
「へぇっ」
戦いの一部始終をモニター越しに見終えた恵が、軽く腕を組み、少し驚いたような声を漏らした。
「意外と丸い奴じゃないか、波城灰示っ」
そう言って、恵が小さく笑みを零す。
「話に聞いた時は、もっとヤバイ奴かと思ってたが」
「忌発生やハ行との戦いの時のことを考えると、間違っても、親切に言玉を渡すような人には思えませんでしたけどね」
「ただの気まぐれじゃなぁ~いぃ~っ?」
的確に答える雅の横で、雅とは真逆に、適当な言葉を放ちながら、扇子を扇いでいる為介。
「高市の勝算の中に、波城の出現を含めていたのか?為介」
「さぁ~?どうでしょうっ?」
「まったく…」
誤魔化すように答える為介に、恵はそれ以上の追及はせず、ただ呆れた様子で肩を落とした。
「まぁ、確かに彼の行動は、予想外なものが多かったですけどねぇ」
為介がそっと目を細め、モニターに映る、まだ気を失っている状態の保を見つめる。
「余程、入れ込んでる高市クンのいる安団に勝たせたかったのか…」
「あるいは、高市保に居場所を与えた、安の神へのお礼の気持ちだったのかも知れませんわねぇ」
『……っ』
背後から響いてくる声に、恵や為介たちが同時に振り向く。
「こ、言姫様っ…!」
驚いたように名を呼ぶ雅。黒い着物を纏った従者を数名引き連れ、その場へと現れたのは、今日も艶やかな着物姿に、品の良い笑みを浮かべた、五十音の世界の言姫、和音であった。
「和音っ…」
「そうは考えられませんか?恵さん」
「……っ」
同意を求めるように問いかけてくる和音に、恵がそっと眉をひそめる。
「お前のその、無理やり美談に持っていく感じが好きじゃない」
「よく言われますわ」
はっきりと言い放つ恵に動じることなく、和音は穏やかな笑みを浮かべる。
「なぁ~んでまた、言姫サマがただの神試験なんかにぃ?」
「……?」
為介に問いかけられ、恵の方を見ていた和音が、ふと振り向く。
「韻の仕事で波城灰示の監視か?なら、もう出終わったぞ」
「いいえ、今日は韻の仕事ではなく、個人的にこの神試験の見学に参りましたの」
「言姫様が、個人的にっ…?」
笑顔で答える和音に、恵や雅がその表情を曇らせる。
「彼が、どうしても神試験を見たいと仰るので、その付き添いで」
「彼?」
「ええ」
和音の言葉に、首を傾げる恵。
「ねぇ?」
『……っ?』
後方を振り向く和音につられるようにして、恵や為介たちも後方へと視線を移す。
「あっ…」
「あなたはっ…!」
和音の後方から、ゆっくりとした足取りでその場に現れるその人物に、恵たちが皆、驚きの表情を見せる。
「檻也…」
「…………」
その場に現れたのは、艶やかな黒髪に鋭い瞳の、まだ幼さを残した顔立ちの青年であった。
<安団“太守”、以団“知守”“仁守”の言玉を奪取。現在の言玉数、安団、二。以団、一。以上>
「あぁ~らら、逆転っ」
原始の森地点では、流れる放送を聞き、まだ待機したままの金八が、少し呆れるように肩を落としていた。
「チラシとニギリをいっぺんにとは、結構やる太守だったのかねぇっ」
―――バァァァァン!
「うおっ!」
その時、森の奥から聞こえてくる大きな声に、金八が驚き、思わず背筋を震え上がらせた。
「何だぁ?」
「…………」
「あ、神っ」
戸惑った様子で金八が振り向くと、そこには元々恐ろしい表情を、さらに恐ろしく歪めたイクラが立ち尽くしていた。イクラの前方には、先程までイクラが座っていたはずの大岩が、粉々になって砕け散っている。
「びっくりしたよぉ?びっくりし過ぎて俺、泣いちゃうよぉ?神ぃ~」
「どいつもこいつも役立たずが…」
「……っ」
いつものように泣きそうな表情を見せて話しかける金八であったが、粉々になった岩を踏み潰して、さらに粉々にしているイクラの様子を見て、そっと眉をひそめる。いつも冗談など通じないが、今はいつも以上にさらに、冗談の通じない状態のようである。
「金八」
「あっ?」
「わかっているな…?」
「…………」
イクラに圧のある瞳を向けられ、金八が少し目を細める。
「ああ、わかってるっ」
軽く口元を緩め、当然のように答える金八。
「俺だって、神はあんただけで十分さっ」
金八が迷いのない笑みを浮かべ、はっきりと言い放つ。
「行け」
「仰せのままに、我が神」
イクラの命に、答えながら軽く頭を下げると、金八は素早くその場を飛び去った。
「…………」
原始の森に、イクラだけが残る。
「これで終わりだ…安の神っ…」
「さぁ~てとっ」
原始の森を素早く移動した金八は、遊園内でも特別高い木のてっぺんに立ち、どこまでも広がるいくつもの森を見渡した。
「じゃあまっ、とっととやるかねぇ」
そう言って金八が、ズボンのポケットの中から青い言玉を取り出す。
「ウチの神、怒らせちまったのが、運の尽きだったなぁ?安団っ」
金八が、右手に握り締めた言玉を、ゆっくりと持ち上げる。
「これで終わりだ」
手の中の言玉が、青い光を放つ。
「“築け”っ!」
―――バァァァァン!
「何っ…?」
遊園内から響き渡る大きな音に、シャコと戦いを繰り広げていた囁が、素早く顔を上げる。囁が周囲を見回すと、遊園内に広がる森のあらゆるところから、大木よりもさらに高い位置まで、まるで巨大な噴水のように水が噴き出し始めていた。
「あれはっ…」
視界に入るいくつもの噴水を見つめ、囁がそっと眉をひそめる。
「ん、んん~っ…」
「あっ…」
噴き出した水の一部が流れついたのか、近くで眠っている七架へと、その水が迫る。
「“遮れ”」
素早く言葉を放ち、横笛の音色を響かせる囁。すると七架の周囲を、赤く光る振動の膜が張り、水の浸食から七架の身を守る。
「ふぅっ…」
囁が少しホッとしたように息を吐く。
「それにしても、これは…」
再び眉をひそめ、囁が地面を埋め尽くすほど、あっという間に広がっていく水を見下ろした。
「始めたんだね…」
同じように舞い上がった噴水を見つめながら、シャコがどこか遠い瞳で呟く。
「それが神の意志なら…」
言玉を握る右手に、力をこめるシャコ。
「あたいはそれに従うっ…!」
「……っ」
右手を振り上げるシャコに気づき、囁が戸惑うように振り向く。
「何をっ…」
「“閉めろ”…!」
「……っ!」
シャコが放つ言葉に、大きく目を見開く囁。先程の噴水の時と同じように大きな音が響き渡ると、今度は遊園内の壁一面を水の壁が埋め尽くし、窓や出入口など、外部と繋がる場所をすべて、水で閉ざしていく。
「水の、壁っ…?」
その様子を見つめ、さらに険しい表情を作る囁。
「まさかっ…」
何か考えを過ぎらせた囁の額から、静かに汗が流れ落ちた。




