俺の可愛くて仕方がない婚約者
俺には、幼い頃から可愛くて仕方がない婚約者がいる。
子爵家の一人娘にして俺の愛しい婚約者の名前は、リナリア・バルデート。そんな彼女とは、母親同士が友達であったおかげで、幼なじみとして育った。出会った頃からリナリアは、向こう見ずで、意地っ張りで、だけど泣き虫で、他の誰よりも感情表現が豊かな女の子だった。楽しい時は思い切り、嬉しい時は顔を真っ赤に染めて、顔全部で笑う。悲しい時は素直に泣き、怒る姿も拗ねる姿も可愛らしい。そんな3つ下の女の子を、好きになるのに時間はかからなかった
母に我儘を言い、彼女と婚約までこぎつけたのはまだ幼かった頃。リナリアは婚約者ではなかった頃を覚えてもいないだろう。
婚約者となり、いつも一緒にいたリナリアだったが、ある時から悲しい顔ばかり見せるようになった。どうしたのかと尋ねると、女の友達が欲しいのだという。女というものは怖いもので、幼いながらも、俺の婚約者であるという理由でリナリアに冷たくしているらしかった。そうでなくとも、いつも俺とばかり遊んでいたので、女の友達などできるわけもなかったのだ。
だが俺は、まだまだリナリアと一緒に居たかった。加えて、リナリアに冷たくする女の世界に、彼女を送るなどもってのほかだった。
そうして俺は、リナリアといるときだけ、女言葉を使うようになったのである。
リナリアは女友達ができたみたいだと喜んでくれ、俺のことを「ルシー」と呼び、今まで以上に一緒にいるようになった。ドレスや身の回りのものなども一緒に選ぶようにもなり、リナリアの身を構成するのはこの頃からすべて俺の選んだものになったといっても過言ではない。これは今尚続いているし、止める気もさらさらないが。
そんなこんなで女言葉もすっかり板についたが、成長したリナリアにまで女友達と見られていてはかなわないと、ちょっとした行動を起こすことにした。俺はリナリアが好きなのだから、リナリアにも「男」として好きになってもらわないと困る。
そこである日、素の自分の話し方で、男としてリナリアに話しかけてみた。するとリナリアは、顔を真っ赤にさせてまごついたのだ。どうやら素の俺に弱いらしい。これは良いことを知った。男として意識されていることも知れたので、この手はここぞという時にとっておこうと、とりあえずは今まで通り女言葉で話すことにした。
リナリアが社交界デビューを迎えてからは、彼女に近寄ろうとする男を二度とその気が起きない程度には叩きのめした。俺が傍にいないときの防衛のためでもある。本当はいつでも彼女に付いていたいが、公爵家の嫡男である以上、他家の人々を蔑ろにするわけにもいかない。夜会に出席する際には、多少なりともリナリアと離れる時間ができてしまうのだ。
その時間に他家の令嬢と話すのは、正直煩わしいことこの上ないのだが、リナリアが嫉妬の籠った目で見てくれることなど早々無いので、今ではある意味楽しんでもいる。
今日も今日とて、リナリアの視線を感じながら令嬢方の相手をしていた。
「マルシアル様、また新しい品種の薔薇を開発なされたとお伺いしましたけれど、本当ですの?」
「ええ、そうです」
「月光のように輝く薔薇だとお聞きしましたわ。今までのどんな薔薇よりも美しいのだと」
「おや、そんなことはございませんよ。今私の前にいる女性より、美しいものなど存在しませんから」
「まぁ……!」
にこりと微笑みかけると、目の前のご令嬢は頬を真っ赤に染め、周りのご令嬢方はうっとりと俺を見上げてくる。が、正直何とも思わない。これがリナリアなら、今すぐに抱きしめているが。
「今私の前にいる女性」、と言ったが、何も「すぐ目の前にいる」と言ったわけではない。少し離れた前方にはリナリアがいる。新しい薔薇の開発も、リナリアが薔薇を好むために行っただけである。
今気づいたかのようにリナリアを見ると、鋭く睨みつけられた。その視線に込められた嫉妬に気づけないほど鈍くはない。思わず頬が緩み、口の端が上がった。そろそろタイムリミットだろう。俺自身も、煩わしいご令嬢相手に疲労がたまっている。
「素敵な淑女の方々、私はそろそろお暇しなければ」
「そんな、もう行かれてしまうのですか?」
「まだご一緒したいのは山々ですが、私の薔薇が寂しそうにしているもので」
「マルシアル様の薔薇?」
「麗しの婚約者殿ですよ」
「まぁ、リナリアさまが……」
リナリアからの視線が一層鋭くなったが、気にしない。ご令嬢たちをかき分けて彼女のもとへ歩み寄ると、そのまま腕を差し出した。リナリアは渋々ながらも腕を絡めてくる。いくら今すぐ抱きしめたくとも、衆目の前ではエスコートをすることくらいしかできないのが辛いところだ。背中に視線を感じつつ、2人揃って広間を後にした。
今日の夜会はサルディネロ公爵邸で行われているので、馬車に揺られて帰宅する必要はなかった。公爵邸にはリナリア専用の部屋も存在するが、このまま部屋に返す気はさらさらない。腕をとったまま、俺の自室へと一直線に向かう。やっとでリナリアと2人きりになれる喜びから俺は終始笑顔だったが、リナリアはすれ違う人に笑顔で会釈する以外はむくれたままだった。拗ねた横顔が可愛い。
やっとで自室に辿り着き、部屋に入ってドアを閉めたところで、大きく息を吐いた。
「はぁ。まったく、疲れたわねぇ」
女言葉になった俺を、リナリアが呆れたように見た。
「マルシアル、その言葉遣いはやめてっていつも言ってるでしょ」
「いいじゃない。2人しかいないんだから」
疲れた疲れた、といいながらタイを緩め、ソファーに腰掛ける。
「疲れたなんて嘘ばっかり。綺麗で可愛いご令嬢に囲まれて鼻の下を伸ばしてたくせに」
「何言ってるの。あんなセンスの悪い香水の山に囲まれて、鼻の下なんて伸びるわけないわ。もう気持ち悪いのなんの、倒れそうだったわよ」
これは本当だ。香水の渦で今にも目を回しそうだった。リナリアに似合う香水を日々探しているので、香水には詳しいと自負しているが、よくもまああれほど趣味の悪いものばかり選べるものだと思う。
ソファーにぐったりと体を預けたまま、少し離れたところに立つリナリアを手招きする。なんの警戒もなく傍にやってきたリナリアの腕を掴み、そのまま抱き込んだ。
「ぎゃあ! 何するのよ!」
「はぁ……やっぱりこの香りが落ち着くわ」
背後からリナリアを抱き込み、肩口に顔を埋めて深呼吸する。
俺が選んだ香水はリナリアに良く似合い、彼女自身の匂いと混ざり合って何とも芳醇な香りを醸し出していた。
「ちょ、やめ、息が、息がくすぐったいってば!」
リナリアは暴れるが、離す気はさらさらない。思う存分リナリアを堪能していたが、ふと抱き心地がいつもと違うことに気づいた。リナリアは元から細いのでさほど気にはならないが、腹まわりに少し肉がついた気がする。少し視線を動かすと、どうやら胸の辺りも窮屈そうだ。これはいけない。採寸しなおさねばと、リナリアの胸に手を伸ばした。
「ひいっ」
「やっぱり。リナリア、胸が大きくなってるわよ。そのドレス、今夜を限りに新調しなくちゃね」
「なっ、なっ、なっ……!!!」
リナリアの頬に熱が集まったのがよく分かる。全力で暴れようとしたので拘束を解いてやると、慌てて離れて胸を両腕で守った。
「どこ触ってんのよ!」
「リナリアの胸」
「そんなこと知ってるわよ!」
怒鳴られても、真っ赤な顔では可愛いだけである。邪な気持ちなどほんの僅かしかなったが、そんな顔を見ているともっと悪さがしたくなった。思わず口の端が上がる。
立ち上がり、距離を取ろうとするリナリアにすたすたと歩み寄って、壁際まで追い詰めた。
「リナリア、ちょっと脱いでみなさい。新しいドレスのためにしっかり採寸しないと」
「なんであんたに採寸されなきゃいけないのよっ」
「明後日、ガーデンパーティに呼ばれているでしょ? 新しいドレスを新調しても間に合わないから、そのドレスを昼用に手直ししようかと思って。もちろん、すぐに夜会のドレスも新調するけどね」
「そんなの、家に帰って誰かに頼むからいいわよっ」
「だめよ。人に頼むなんて。いつも誰があなたのドレスを作ってると思ってるの」
「うっ…………」
リナリアのドレスを人に頼むなんてとんでもなかった。
公爵家嫡男として山のような仕事に追われつつも、これだけは欠かしたことがない。元々なんでもそつなくこなせる性質であるため、裁縫技術とその速度は磨きに磨かれ、王都1番のお針子にも引けを取らないと自負している。
「だからほら、潔く脱ぎなさい」
「やっ、やだ! いや! やめて!」
脱いでたまるかと力の限り暴れるリナリアを抑えようとしてみせるが、何も本気ではない。本気を出せば、女のリナリアなど1秒で床に組み伏せられるだろう。脱がせてしまったら衝動を止められる自信もないので、必死なリナリアを思う存分愛でた後に適当なところで止めるつもりだった。
だが、不意に廊下につながるドアが開かれたことで、中断を余儀なくされた。
「マルシアルお兄様、いらっしゃる? ……って、あら、お邪魔だったかしら」
そこからひょっこり顔を出したのは、見覚えのある少女だった。
何を誤解したのか、ほんのり頬を染めてドアを閉めようとする彼女を、リナリアが必死に止めた。
「待って閉めないでっ」
「え、でも……」
「お願いっ」
リナリアに言われ、彼女がまた顔を出す。これ以上楽しむのは無理だろうと判断し、そっと息を吐いてリナリアから離れ、闖入者を睨めつけた。
「何の用? アデルミラ。良いところを邪魔してくれたわね」
「ごめんなさい、お兄様。その方、婚約者様?」
そう言い、アデルミラは興味津々にリナリアを見た。できることならこの2人を会わせたくなかった身としては、なんとも残念な結果である。
説明をしろというリナリアの視線を受け、しぶしぶ口を開いた。
「彼女は私の従妹の、アデルミラ・ニコラス侯爵令嬢。アデルミラは生まれてすぐ、デラヴィア皇国に療養兼留学に行っていたのよ。帰国したばかりで、今夜の夜会にも参加していないし。リナリアが知らなくても仕方がないわ」
「はじめまして。アデルミラ・ニコラスと申します。ご挨拶が送れてしまって申し訳ございません」
紹介を受け、アデルミラが一礼し、リナリアもそれに倣った。
「リナリア・バルデートと申します。こちらこそ、失礼いたしました」
「まぁ、やっぱりリナリア様でしたのね! お話しはかねがね伺っておりますわ。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
笑顔で話し続けるアデルミラに、リナリアはぽうっとした表情を浮かべる。何に感動しているのかは言われるまでもなかった。
こうなると分かっていたから、会わせたくなかったのだ。アデルミラならば、リナリアを虐めも蔑みもしないだろう。俺自身に何の興味も抱いていないのだから。
アデルミラが生まれてすぐに療養に行き、今まで留学していたのは本当だ。だが、一度も帰国しなかったわけではなかった。俺がこの2人を徹底的に会わせないようにしていただけだ。
アデルミラと初めて会った時、すでにリナリアの女友達という地位を確立していた俺は、戦慄した。この少女をリナリアに会わせてはならない、俺の地位が奪われる、そう思ったのだ。今はともかく、その時の俺は幼いリナリアに「婚約者」としてではなく「女友達」としてしか認識されていなかったのだから。
その後も帰国するたびにリナリアに会いたいというアデルミラをなんとかはぐらかし、今に至る。しかし此度の帰国ばかりはそうはいかないため、とうとう観念した。
「明後日のガーデンパーティには出席していただけるのでしょう? そのパーティが、わたくしの帰国を発表する場でもあるのです。こじんまりとした場で恐縮ですけれど、一緒に過ごすのを楽しみにしておりますわね」
「は、はい。私もですわ」
リナリアはますます頬を染め、興奮した様子で俺を見上げてきた。なんとも面白くない。
俺は不機嫌を隠そうともせず、2人の間に体を割り入れた。
「それで、アデルミラ、用件は何よ」
「まぁ、途中で入ってくるなんて、せっかちですのね。そんなんではリナリア様に愛想をつかされますわよ」
「余計なお世話よ。あなたは話し出すと長いんだから、早く本題を切り出してあげたにすぎないわ」
「わたくし、まだリナリア様とお話しがしたいのに」
「明後日たくさんすればいいじゃないの」
「あらお兄様、まだ根に持ってらっしゃるの? わたくしがリナリア様をお誘いしたこと」
思わず舌打ちをすると、アデルミラがにこりと笑った。
「今回ばかりは観念してくださいまし。わたくしの婚約発表も兼ねるパーティですし、誰でも誘って良いと、サルディネロ公爵夫人のご許可も頂いておりますから」
アデルミラが笑顔のまま言い切った。
この「サルディネロ公爵夫人」、つまりは俺の実の母が厄介であった。実質、母に逆らえる者は誰もいないと言っていい。実の息子である俺でさえ、リナリアとの婚約を頼みに頼んで無理やりこぎつけてもらった手前、リナリア絡みのことでは頭が上らなかった。
「絶対に邪魔をしないでくださいませ、とお兄様に忠告しにきたのです。用件はそれだけですわ」
言い終え、アデルミラはさっさと退散するようだった。やっとで出て行くか、と息を吐き、ふと背後のリナリアがあまりに静かなことに気づいた。
「リナリア?」
名を呼ぶと、リナリアは我に返ったようだ。俺の後ろから出てきて、隣に並んだ。
「では、私はそろそろお暇いたしますわね。リナリア様、また明後日お会いいたしましょう」
「はい、宜しくお願いいたします」
にこりと笑い、アデルミラが一礼して踵を返す。ドアを開けて一度外に出たが、すぐにまた顔を出した。
「あっ、どうぞ続きをなさってくださいませね」
淡く頬を染めてそれだけ言い置き、ドアが閉まった。
訪れた沈黙。
隣のリナリアが一瞬で緊張したのが分かる。今日はもう何もするつもりはなかったが、そんな反応をされるともう少しからかいたい気持ちが沸き起こり、にやりと笑った。
「……そうねぇ。リナリア」
「……なによ」
「とりあえず、この部屋に泊まっていく?」
「泊まるわけないでしょ!!」
*****
夜会の次の日。俺は夜なべしてリナリアのドレスを手直ししていた。いくら気乗りしないパーティだからといって、中途半端なドレスで参加させるわけにはいかない。胸回りと、あとは全体的に緩やかに作り直し、露出も抑えるように布を足した。流行を抑えつつ、リナリアにも似合う中々の出来である。
ドレスを広げ満足気に頷いていると、ドアがノックされた。こんな時間の来訪者といえば、我が家では1人しかいない。
入ってきたのは、サルディネロ公爵夫人その人だった。
「相変わらず見事なものねぇ」
部屋に入り、出来上がったドレスをしげしげと見つめてそう言うと、手近な椅子に腰掛けた。
「こんな時間に何の用ですか、母上」
「いやね、母が息子を尋ねてきては行けないかしら?」
「時と場合によります」
「まぁまぁ、良いじゃないの」
ころころと笑い、母は言葉を続けた。
「ところで、わたくしの不肖な息子は、リナリアに『好き』と言ってもらうことができたのかしら?」
言われ、悔しくも押し黙った。それを見て母がさらに笑みを深める。
婚約者となって何年も経ち、2人とも結婚適齢期を迎えているのにいまだ結婚式を上げていないのは、この母が原因であった。リナリアが結婚できる年になり、俺はすぐさま結婚式を上げたいと両親に伝えた。それに待ったをかけた母は、いくつかの条件を提示してきたのだ。その条件の1つに「リナリアがマルシアルに『好き』と言う」というものがある。
実をいうと、俺はまだ、リナリアに「好き」と言われたことがないのだ。
「『好き』といってもらわないと、結婚できないのよ? 何をうかうかしているのかしら?」
「うかうかなどしておりません」
「そうこうしているうちに、リナリアが運命の相手を見つけてしまっても知らないわよ。それこそ明日にでも」
明日といえば、アデルミラのガーデンパーティがあるくらいだろう。何を言っているのか、と眉を寄せた俺を見て、母は「まぁ」と声をあげた。
白々しい演技だ。これは知らないのを分かって言っている。
「明日のガーデンパーティ、アデルミラってば隣国の外交官の方々もお呼びしているみたいよ? 中には未婚の方もいらっしゃると言っていたし、どの殿方も将来有望な方ばかりですって。まさか知らなかったのかしら?」
母の言葉に、俺は盛大な舌打ちをした。国内の男どもで今更俺の婚約者に手を出そうという馬鹿はいないだろうが、国外の男となれば話は別だった。リナリアに近づく輩が現れてもおかしくはない。
アデルミラが母と組んで故意に黙っていたとしか思えなかった。不機嫌を顕にした俺に、母はこれ以上ないほど楽しげに笑った。相変わらず食えない人である。
「情けない嫉妬心にかられて、アデルミラをリナリアから遠ざけ続けた罰でしょうね。せいぜい頑張りなさいな」
母は高らかに笑いながら、用は済んだとばかりにさっさと部屋から出て行った。
おやすみなさい、という挨拶に返すこともなく、俺は必死で明日の予定を思い返す。ドレスは家人に届けてもらう予定だが、これはリナリアに直接会わねばならないだろう。どうにか会いにいく算段をつけたところで、やっとで息を吐いた。
*****
翌日。ドレスだけは先に届けさせ、朝の予定をこなした後に俺はバルデート子爵家へと急いだ。
なんとか間に合ったようで、リナリアはまだ着替えの途中だという。いつもなら流石に着替えの途中に入室はしないが、予定をやりくりして作り上げた僅かな時間しか残されていないため、侍女に頼んでリナリアの部屋へと通してもらった。
部屋に入ると、ちょうどリナリアがドレスを着つけてもらったところだった。とてもよく似合っているのを見て、満足気に1人頷く。
「うん、私の見立てはぴったりだったね」
まさか俺がいるとは思っていないリナリアが、凄い勢いで振り返った。目を真ん丸に見開いている。
「マルシアル! なんでここに!」
心底驚いた様子のリナリアに微笑みかけ、部屋の中心へと進んだ。
「優秀な侍女の方々、パーティまでにはまだ時間の余裕もありそうだし、少しだけ2人にしてもらってもいいかな」
「はい、マルシアル様」
微笑みかけると、侍女達はそそくさと部屋を出て行く。バルデート家の侍女達は俺に対して物分かりがよく、大変助かっていた。
「着替えの最中に入ってくるなんて、非常識過ぎるわよ」
「そうね、それに関しては謝るわ。ドレスの出来も見たかったし、この時間しか来れなかったのよ」
「そんなに忙しいなら、来なくてもよかったのに」
「あら、つれないことを言ってくれるわね」
突然やってきた俺に、リナリアは心底不思議そうであった。小首を傾げて見上げてくるものだから、堪らなくなってその腰をさらい、抱きしめた。
「ぎゃっ」
「思った通り、少しふくよかになったみたいね。あと、石鹸を変えた? 私が贈ったものと匂いが違うわ」
今の石鹸も割と良い線を行っているが、やはり俺の選んだものが1番リナリアに似合うと思う。俺には、リナリア以上にリナリアのことを知っているという自負がある。
「またすぐにでも贈るわね。他のものは残っている?」
問いかけると、リナリアは黙って頷く。それなら良かったわ、とリナリアを抱きしめ続けた。
そこでふと、違和感を感じた。いつもならそろそろ怒るはずなのに、今日は何ともおとなしい。
腕の力を緩め、リナリアを見下ろした。
「どうしたの。今日は怒らないのね?」
「別に、ちょっと機嫌がいいだけよ」
その返答に、小さく心臓が跳ねる。俺の預かり知らぬところで何かあったのか、と不安にかられた。いつもならさして思わないのに、今は母とアデルミラの思惑が蠢いていると知ってしまったからだ。
不安な気持ちを飲み込み、いつもと同じ口調で問いかけた。
「何か良い事でもあった?」
「ふふふ。今からアデルミラ様にお会いできるからよ」
なんだ、そんなことか。
恐れていた返答ではなく、俺は胸を撫で下ろした。
多方、アデルミラと友達になってのあれこれを想像しているのだろう。何を考えているか手に取るように分かった。ほんのり頬を染めて笑顔を浮かべるリナリアは驚くほど可愛かったが、俺はその想像が殆ど叶わないということを知っている。
それに、俺以外との時間を楽しみに考えているのは、やはり面白くなかった。知れず、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「そうそう上手く行かないわよ」
「なによ。そんなの分からないじゃない」
「いーえ。賭けてもいいわ。今リナリアが想像してることは殆ど叶わないってね」
否定的な言葉に、リナリアがあっという間に不機嫌になった。
「ねえ、なんでもっと早く教えてくれなかったの。あんな素敵な従妹がいるってこと」
「別に教えなくてもいいじゃない。リナリアには私がいるんだから」
「良くないわよ! マルシアルがいるところで何だっていうの」
「へえ。じゃあ私は、いてもいなくても変わらないかしら?」
そう言うと、リナリアは押し黙る。分かっていてそう問いかけた俺は、自分で言うのもなんだが相当意地が悪いのだろう。
嫌われていないことは確信しているし、好かれているのではないかと思っている。リナリアがガーデンパーティに行く前にそれを確信に変えるため、今日はやってきたのだ。
「……し、知らないわよ、そんなこと」
「答えになってないわね、リナリア」
リナリアは俯いててぼそぼそと呟く。いつもなら逃してあげるが、今回はまたとない機会だ。もう少し追い込んでみるのも手だろう。
リナリアの顎を持ち上げ、上を向かせると、至近距離で見つめた。彼女の鮮やかな緑の瞳とまっすぐに視線がぶつかる。
「正直に言ったらいい。俺にいてほしい、ってな」
そこで、伝家の宝刀である。
案の定、リナリアは瞬時に顔を真っ赤に染め、何も言葉が出ない様子で口を開け閉めした。
「なぁ、リナリア。俺のことが好きだろう?」
リナリアはこれ以上ないくらい真っ赤になっている。瞳が潤み、目眩がするほど可愛らしい。寝室がすぐ傍にあるのに縺れ込むことができないなど、今ほど結婚していないことを呪ったことはなかった。
まあ、いい。このリナリアの反応で答えは明らかである。
リナリアの心が誰かに動くのではないかと焦ってやってきたが、この分なら大丈夫そうだ。
「し、しらない! 知らないわよ! 馬鹿! 出て行って!」
リナリアが身をよじって暴れるので、仕方なく彼女の体を放した。本当はもう少し一緒に居たかったけれど、時間も迫っているため、押されるがままには大人しく扉へと向かう。
扉の向こうに押しやられ、ドアが閉められた途端、堪え切れずに満面の笑みになった。
「あー可愛い」
本当に、可愛くて仕方がない婚約者だ。
ご覧いただきありがとうございました!