後日談 第9話:二つの帰る場所
宴の熱気が去った、翌朝。
《前借亭》の開店前。
澄み渡る朝の光が、磨き上げられたホールの床を照らしていた。
「……ふぅ。これで昨日の片付けは終わりか」
カケルが最後の皿を棚に戻す。
隣では、すでに身支度を整えたヨシコが、テーブルの配置をミリ単位で調整していた。
「カケル、2番テーブルの椅子、脚が緩んでるで。あとでシロウ(四男)に送ってもらった工具で締め直しとき」
「へいへい。……母さん、朝早いな」
「総務の朝は早いんや。それに、もう『時間』やしな」
ヨシコの手が止まる。
その言葉に、カケルの胸がチクリとした。
休暇の終わり。
別れの時だ。
カケルは布巾を置き、意を決して尋ねた。
「……母さん。日本には、帰らないのか?」
次元ゲートは繋がっている。
シロウ叔父さんの技術があれば、元の大阪の実家に帰ることだってできるはずだ。
平穏で、安全で、スーパーもコンビニもある日本へ。
だが、ヨシコは迷わず首を横に振った。
「帰らへんよ」
即答だった。
「なんで……?」
「向こう(魔王城)にもな、世話の焼ける『大きな子供ら』がおるんや」
ヨシコは窓の外、次元の彼方にある魔界の空を思い浮かべるように目を細めた。
「魔王はすぐサボろうとするし、四天王は脳筋ですぐ暴れようとする。私が手綱握って、尻叩いてやらんと、あいつらまたすぐブラック企業(侵略軍)に逆戻りや」
口では悪態をついているが、その声色は驚くほど優しい。
「それにな……あいつら、私がいないと寂しがるねん。図体はデカイのにな」
カケルは苦笑した。
母さんは、向こうの世界でも「オカン」をやっていて、そこが新しい「自分の居場所」になっているのだ。
「……そっか。母さんは、向こうが新しい『職場』で……『家』なんだな」
「ま、そういうこっちゃ」
ヨシコはニカっと笑い、今度はカケルをじっと見つめた。
「あんたはどうなんや? カケル」
「え?」
「日本に帰りたいか? 今なら一緒に連れて帰れるで。もう『感情負債』もシステムごとリセットしたんやろ? 縛るもんは何もないはずや」
ヨシコの言葉に、カケルは少しだけ目を伏せ、そして店の中を見渡した。
使い込まれた厨房。
昨日、仲間たちと囲んだテーブル。
そして、2階でまだ眠っているであろう、ルシアナやミュコたちの気配。
かつては「140億ルーメ」という数字に追われ、死なないために働いていた。
けれど、今は違う。
「……ううん。俺も、帰らない」
カケルの声に、迷いはなかった。
「神界での戦いで、俺の中の借金も、強制力も消えた。……正直、日本に帰ろうと思えば帰れるんだと思う」
「せやな」
「でも、俺はこの店が好きだ。ルシアナたちがいて、常連客がいて……『おいしい』って笑ってくれる人がいる」
カケルは自分の掌を見つめ、ギュッと握りしめた。
「俺、ここでの仕事に『やりがい』を感じてるんだ。……ここが俺の、一番大切な居場所だから」
義務感ではない。
誰かに強制されたわけでもない。
カケル自身の意志で、この異世界で生きていくことを選んだのだ。
その答えを聞いて、ヨシコは満足げに頷いた。
「……似た者親子やな、ほんまに」
ヨシコはカケルの背中をバシッ!と叩いた。
「痛っ!?」
「ええ顔になったわ。……昔の、疲れ切った死んだ魚のような目は消えたな」
ヨシコは懐から一冊の分厚いノートを取り出し、カケルに手渡した。
「ほら、これやるわ」
「なにこれ? ……『前借亭・業務改善提案書』?」
ノートを開くと、びっしりと書き込みがされていた。
「昨日、一晩で叔父さん・叔母さんらとチャットして書き上げたんや。
イチロウの『コンプライアンス遵守マニュアル』、
ジロウの『季節の新作レシピ集』、
サブロウの『適正価格設定リスト』、
シロウの『店舗設備メンテナンス表』、
ゴロウの『従業員メンタルケア・チェックシート』……」
「す、すごい情報量だ……」
「極めつけは、
ハナコの『危機管理マニュアル』や。
『竜が飛来した場合』
『食中毒が出た場合』
『異世界転移者が暴れた場合』
……全300項目あるから熟読しとき」
「300!? さすがハナコ叔母さん……心配性が極まってる……」
「カケル、ええか。やりがいも大事やけど、経営は足元を見なアカン。金銭的な余裕は、心の余裕や。しっかり稼いで、しっかり貯蓄するんやで」
真剣な眼差しで説く母を見て、カケルは殊勝に頷いた。
「……うん、分かった。地道に頑張るよ」
――嘘は言っていない。
嘘は言っていないが、実はカケルには母に言っていない秘密があった。
(……実は、ラスボス討伐の特別報酬と、神界から持ち帰ったレア素材の売却益で、人生数十回位遊んで暮らせるだけの財産があるんだよな……)
その額、国家予算並み。
今のカケルは、リベリスでも指折りの資産家と言っても過言ではなかった。
だが、それを言えばどうなるか。
サブロウ叔父さんは「資産運用しろ!」と叫び、イチロウ叔父さんは「税金対策で財団を作れ!」と言い出し、何より母さんが「ほな、もう働かんでええやん!」と心配のベクトルを変えてくるだろう。
(……言わないでおこう。俺はあくまで『喫茶店のマスター』として、楽しく働きたいんだ)
カケルは心の中で舌を出し、表面上は「これから頑張る経営者」の顔でノートを抱きしめた。
「ありがとう、母さん。このノート、バイブルにするよ」
「おう。困った時は読み返せ」
よし、とヨシコがカバンを持ち上げた時だ。
ドタドタドタッ!
2階から誰かが駆け下りてくる音がした。
「ま、待ってください……っ!!」
息を切らして現れたのは、ルシアナだった。
まだ寝癖がついたまま、慌てて飛び起きてきたらしい。
「ルシアナちゃん? どうしたんや、そんなに急いで」
「ヨシコさん……ううん、お義母さん!!」
ルシアナは大声で呼びかけると、ヨシコの手を両手でギュッと握りしめた。
その瞳は真剣そのもので、潤んでいた。
「私……私、カケル君を幸せにします!!」
「……!」
「カケル君は、いっつも自分ばっかり犠牲にして、無理して……放っておいたらすぐ倒れちゃう人だから。だから私が、絶対に支えます! 笑顔にします! だから……!」
ルシアナは一度言葉を切り、深く頭を下げた。
「だから、安心して任せてください! ……そして、また絶対に来てくださいね!」
一世一代の、嫁の宣言。
それを聞いたヨシコは目を丸くし――やがて、目尻をふにゃりと下げた。
「……ふふ、ええ嫁やなぁ」
ヨシコはルシアナの頭を、優しく撫でた。
「ほんまに、カケルにはもったいないくらいや。……頼んだで、ルシアナちゃん。このバカ息子のこと、よろしゅうお願いします」
「はいっ……!」
二人の女性の間に、確かなバトンが渡された瞬間だった。
カケルは照れくさそうに頭をかき、そしてカウンターの奥から包みを取り出した。
「俺からも、これ」
カケルが渡したのは、昨日の残り物を詰めた、ずっしりと重い重箱と、リベリス特産の果物が入ったバスケットだった。
「向こうの……母さんの『同僚』たちへのお土産だよ。昨日の料理、魔王さんたちにも食わせてやってくれ」
「おっ、気が利くやないか」
「それと、手紙も入ってる。『いつも母がお世話になってます』って書いといたから」
カケルの言葉に、ヨシコは嬉しそうに重箱を受け取った。
それは、カケルが母の新しい生活を、心から応援している証でもあった。
「おおきに。魔王も喜ぶわ」
ヨシコは荷物を担ぎ直し、二人に向かってニカっと笑った。
「ほな、行くで! 体に気をつけて、しっかり働くんやで!」
「ああ! 母さんも元気で!」
「お義母さん、いってらっしゃい!」
ヨシコがドアを開ける。
朝の光の中に、次元ゲートの眩い輝きが広がった。
最強の総務・ヨシコは、一度も振り返ることなく、光の中へと消えていった。
嵐のような再会劇は幕を閉じ、店にはいつもの朝の静けさと、新しい希望が残された。
(続く)




