後日談 第2話:《前借亭》の繁忙と、謎の悪寒
「いらっしゃいませー!! 《前借亭》、今日も元気にオープンです!」
リベリスの町に、俺――カケルの声が響き渡った。
神界での「世界初期化」を巡る大激闘から数日。
世界は平和を取り戻し、俺たちの日常も戻ってきた。
……と言いたいところだが。
「カケル! 2番テーブル、パスタ追加! それと5番テーブル、シチューまだ!?」
「今やってる! パスタは茹で上がりあと30秒!」
「ピュイ!!(お水持っていく!)」
「おいカケル! こっちの客が『まだか』って暴れそうだぞ!」
「グレン、そこはお前のスマイルで何とかしろ! 暴れたらボビンにつまみ出させろ!」
「……心得た。」
戦場だった。
いや、ラグナ残滓との戦いより、ある意味こっちの方が激戦かもしれない。
俺が店主を務める《前借亭》は、連日超満員の大盛況を迎えていた。
神界での戦いの影響か、人々の感情が戻り、町全体が活気づいているのだ。
「美味いもん食って笑いたい!」というエネルギーが、この小さな店に一極集中している状態だった。
「ほらよ、特製ミートソース! 熱いから気をつけてな!」
俺はフライパンを振り、皿に盛り付け、カウンターに出す。
休む暇はない。
額の汗を拭う余裕すらない。
(……忙しい。目が回るほど忙しい)
ブラック企業時代、デスマーチの最中は「死にたい」としか思わなかった。
でも今は、不思議と嫌じゃない。
「美味い!」という声。
「ありがとう!」という笑顔。
それがダイレクトに返ってくるからだ。
(まあ、ちょっと働きすぎな気もするけどな……)
ルシアナやミレイユも手伝ってくれているが、調理の主力は俺一人だ。
「人を雇おうか」という話も出ているが、教える時間も惜しいほど忙しい。
結局、「俺が頑張れば回るなら、それでいいか」という、いつもの社畜根性で乗り切ってしまっている。
ジュウウウウッ!!
厚切りのベーコンを焼きながら、俺は次々とオーダーをさばいていく。
ゾーンに入ったような集中力。
今の俺は無敵だ。どんなラッシュも怖くない。
――そう思っていた、その時だった。
ゾクッ。
背筋に、冷たいものが走った。
瞬間。
世界から「音」が消えた。
あれほど喧しかった客たちの話し声も、食器が触れ合う音も、まるでスイッチを切ったようにフッと止まる。
そして――。
ボッ……。
目の前のコンロで勢いよく燃えていたオレンジ色の炎が、一瞬だけ、幽霊のように青白く揺らいだ。
「……っ!?」
ガシャン。
俺の手が止まり、フライパンがコンロに当たって乾いた音を立てた。
今の冷気は、殺気ではない。
神界で感じた「感情を消される圧」とも違う。
もっと根源的で、もっと日常に根ざした……生理的な恐怖。
「……カケル? どうしたの?」
配膳から戻ってきたルシアナが、不思議そうに俺を見る。
店内は、何事もなかったかのように再び喧騒に包まれていた。
今の静寂を感じたのは、俺だけなのか?
「い、いや……なんだ、今……」
俺は厨房の入り口――店のドアの方角を振り返った。
壁の向こう。
まだ見えぬ遠くから、何かが近づいてくる気配がする。
この感覚、知ってる。
なんだっけ。
魔王?
いや違う。
邪神?
もっと違う。
これは……そう。
夏休みの最終日、宿題が終わっていないのにゲームをしていた時、玄関のドアが開く音を聞いた瞬間の……。
あるいは、会社の決算期に、税務調査官がエレベーターに乗ったと知らされた時の……。
『逃げ場のない監査』が迫ってくるような、絶対的なプレッシャー。
「まさかな……」
俺は引きつった笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ここは異世界だぞ。俺の母さんも、税務署も、ここにはいない。母さんが来るわけないだろ。……百歩譲ってあったとしても、『回覧板』を届けに来るくらいだ」
そんな庶民的な用事で、異世界に来られてたまるか。
自分の立てたフラグの無茶苦茶さに、少しだけ気が楽になる。
「疲れてんのかな、俺」
「カケル、顔色が悪いわよ? 少し休む?」
「いや、大丈夫だ。……オーダー溜まってるしな。やるよ!」
俺は再びフライパンを握り直した。
この「胸騒ぎ」が、神界のラスボス以上に恐ろしい存在の接近を告げているとは知らずに。
厨房の熱気の中で、俺は再び調理の渦へと戻っていった。
ただ背中の悪寒だけが、青白い炎のようにゆらゆらと、警告として残り続けていた。
(続く)




