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Whenever, Forever 三

お仕事サボリジニー



 直と私は、物心ついたときにはすでに施設にいた――私たちが出会ったのはそこ――小庵乳児・児童養護施設だった。今の私の職場だ。

 今よりもずっと人が少なくて、人手が足りなくて、けれど私たちは自由だった。

 限られていたけれど自由だった。

 親からも。

 暴力からも。

 性欲からも。

 親の顔は知らない。

 けれど直のことは物心つく前から知っていた。

 直とは兄妹のように――家族のように――幼馴染みのように、一緒に過ごした。

「永遠」という概念に最も近い、あの幼少時代を。

 気づいたら、私は彼の手を取っていた。

 彼も私の手を握り返してきた。

 それが、確か二人とも三歳の頃だった。

 彼の境遇は知らない。私の境遇を彼に話したことはない(一応、十五歳ぐらいになったときに、自分の境遇は私を保護した先生に聞いたのだ)。

 けれど私たちは、なんとなくわかりあって、なんとなく助け合って、なんとなく補いあって。

 定番としては、一緒に風呂に入ったし、夏休みの宿題を写しあったりしたし、そして先生にばれたり。食い違うことがあれば殴り合うまでの喧嘩もしたし、それは小学生までだったけれど、だいたい私が勝利を収めた。

 彼はずっと、陰気だった。暗かった。それは彼がここに来るまでの家庭環境によるものかもしれないし、そうではないかもしれない。というか――「というか」というか常識だけれど、「人間の性格は遺伝と環境によって作られる」のだ。彼の場合、学校に行く前――社会に出る前に、ここにいたのだ。ということは、彼の性格は遺伝と家庭環境によるところが百パーセント、十割十分十厘である。

『それだと百十一パーセントだよ』

 と、いつだったか(たぶん中学生の頃だった)直にツッコまれた記憶がある。

 彼はだから、いつも私がいなければひとりだった。

 私がいなければ、いつも彼はどこか人気のないところへ――例えば体育館裏とか、体育倉庫の裏とか、プールの裏とかに連れて行かれて。

 複数人に囲まれて。

 殴られていた。

 蹴られていた。

『お前なんか喋れよ』

『……いやだよ』

『あ? 聞こえねーよ』

『クズ』

『黙れゴミ』

 殴られていた。

 蹴られていた。

 投げられていた。

『やめなよあんたたち!』

 私が駆けつけて、そいつらをボコボコにしたけれど。

 私が片付けたけれど。

 顔が腫れ、腕に青い痣が浮かび、口から胃液を流そうとも。

 彼は涙を流さなかった。

 できるだけ、私がいつも傍にいようとしたけれど――いつも傍にいようと。

 いつも私が彼を守ろうとも。

「他から浮いた存在は、槍玉に挙げられ、出る杭として打たれ、均されるのだ」。

 彼は、今度は「女に守られるゴミ」とか、言われるようになったけれど。

 これまでもずっと『お前ら兄弟でもねーのになんで同じ苗字なんだよ結婚しろよ』とか言われたり、教室で授業間の休み時間(「放課」と呼んでいた)に『キース。キース』と刺すような視線で囲まれながら低い声で手拍子もなしで囃されていたけれど(因みに、テンション高く手拍子交えて『キース! キース!』ってなんかクラスの中心人物的に囃し立てられていたら直とキスしていた自信がある)。

 ……そんな、どうしようもない環境の中で、けれどどれだけ鬱屈しようと、どれだけ屈曲しようとも、彼の心は折れることなく。

 中学校に入る頃には、彼の心はどうしようもなくなって――

 中二病を患った。

 因みに私も例に漏れず中二病だった。

 その頃には、二人とも「訓練され」きってしまって、他人の目とかはどうでもよくなってしまっていた。

 そんな中学時代は、私が直の学ランをパクって着て登校したり(直はその日そのせいで学校に来られなかった)、私の場合はスカートを長くしてみたり逆に短くしてみたり、髪をウェーヴさせてみたりストパーにしてみたり。……いってみたけれど、思い返してみたらこれただのオシャレじゃね。

 その点、直のそれは酷かった。重度の疾患だった。授業中にしょっちゅうトイレに行くと言って世界を救いに行っていたし、ベタなところでは眼帯と右手に包帯、ファッションは黒を好み――授業中はぼんやりと、どこをともなく空を見ていた。

 まるで「自分のいるべき世界はここじゃない」とでも言わんばかりに。

 ……それは確かに、そうだったのかもしれない。

 彼は、フェンシングに関しては、端から見ても少なくとも「天才的」ではあった。

 めきめきと成長して――しかも一人の練習で、だ――結局彼は、九年前、二〇〇九年のあのインハイで優勝してしまった。

 そんな彼、小庵直。

 そんな私、小庵美紀。

 まるで夫婦のように、いつも一緒だった。

 まるで夫婦のように、いつまでも一緒だと思っていた。

 ずっと一緒だと思っていた直。

 けれど私のあの「照れ隠し」の言葉がきっかけで、彼は結を好きになり、一緒になった。

 どうやら彼は私に「無条件に守ってくれる」という「父親」のような愛を。

 ――金沢結には、「無条件で許してくれる」という「母親」のような愛を、求めたらしかった。



 ……まあ、苗字が一緒だったのは、単に、そういう決まりだったからだけれど。

 親から強制的に保護され、以降ここに住むことになった(或いは保護が一時的なものではなくなった)子どもたちは、みな「小庵」を名乗るのだ。

 直は、六歳になって「回文」というものを知って、「いやだー」って、少し冗談めかして言っていたけれど。

 望めば、元の苗字のままいられる。

 直は望まず。

 深結は望んだ。

 金沢深結。

 金沢県の「金沢」に、「深く結ぶ」と書く。

 何と何を深く結ぶのかは、結に訊かないと解らないし、結は答えてくれないだろう。

 そして彼が何を望んで、或いは何を知って、その姓を選んだのかは、私の理解の範疇から超えていたのだけれど。



 そんな彼と出会う、少し前。

 そんな――直と結の愛の結晶が生まれたその次の月(そんなことはこの時点では私は知らなかったけれど)。

 深結と出会う、七ヶ月程前。

 現在から六年と二ヶ月前。

 二〇一二年五月。

 五月の――産後休暇が明けて一週間経った或る日。

 今私が勤務している養護施設に就職したときに初めて担当したのは、その年で十八歳になる女の子だった。

『よろしくお願いします、美紀さん』

 赤井(あかい)紫苑(シオン)は、高く澄んだ声でそう言って、腰を折って深々と頭を下げる。

 彼女は、私の肩くらいしか身長がなく、小さくて大人しめな子だな、というのが第一印象だった。なんとなく、高校のとき始めて会った頃の結を想起させた。ストレートの髪は艶やかな黒色で、腰までの長さ。赤いフレームの眼鏡を掛けていて、学校の図書室のカウンターに座って文庫本を読んでいそうだな、と思った――けれど。

 彼女はいつも私服だった――学校に通うときも。

 それは本人に直接触れてはいけない話題なんだろうな、というのはたとえ何も聞かされていなくても一週間も一緒に過ごしていればわかっただろうし――勿論、その子を引き継いだときに先輩から教えてもらっていた。

 私がその子を受け持ったのは、彼女がここを――そして高校を卒業して、市役所に就職して社員寮――勿論女性用だ――に引っ越すまでの一年間弱だけで、いうなればそれは新入社員である私の「トレーニング」だったのだろう。

 彼女ももう精神的に殆ど安定していて、商業高校に通い、見た目通り優秀だったらしく、公務員試験にも難なく合格して十一月上旬に市役所に就職を決めた。

 実は私は短大を卒業する前から出産の準備に入っていて、卒業して就業してすぐに四月から一月産後休暇を使うという暴挙を冒したりしたけれど――

 けれど、彼女とは二つしか年齢が変わらなかったからか、そんなことでは出端を挫かれず、携帯電話のメールアドレスを交換したりして、公私ともにいろいろな話をするような仲になった。

 ……といっても、学校に行っている間以外は大抵一緒にいたので、メールで会話する――なんか面白い表現だけれど――のは、彼女が学校に行っている昼休みか、私が宿直ではない日の夕方から夜にかけて、のだいたい二パターンだったけれど。

 話した内容は、私の学生時代の話――私と結と、直の高校生の頃の話だとか、短大の話だとか、就職活動の話だとか、彼女の学校の話だとか、同級生の話だとか、修学旅行で北海道に行った話だとか、

 私の、恋愛の話だとか。

 彼女の、恋愛の話だとか。

『私……告白されちゃいました……!』

 ちょうど――六年前の今日。その年は一学期最後の日だった。時期的にはまだ公務員試験二ヶ月前で、普通試験を控えている人はだいぶテンパっている時期だと思うのだが、彼女はその点、学力に関しても成績に関しても優秀だったので余裕なようだった。

 帰宅部だった彼女は、昼過ぎに高校から帰ってきて、少し息を切らしながら、開口一番、私にそう言った。

 ちょうどそのとき私は、当時受け持ちが一人だった上に入社一年目で、施設全体を暇さえあれば掃除させられていたので、彼女は私を見つけるのに相当苦労したようだ。

『ふーん……どんな男の子?』

 モップで廊下掃除をしていた私は折っていた腰を伸ばして背筋を伸ばし、僅かに湿ったモップを両手から片手に持ち替えながら、彼女に向き直る。気恥ずかしそうにもじもじとしている彼女を見て、私はどうしてもにやにやが押さえられなかった――まるで、友達が恋をしているかのように。

『……その、ちょっと子どもっぽくて、両方の意味で「軽薄」な感じの男の子です』

 彼女は恥ずかしそうに、私からすっと目を逸らす。

『まあ、とりあえずお昼にしようか』

 そう言いながら、私は「今日の掃除はここまでかな」と心の中で言い訳をして、彼女を先に食堂に行かせて、私はモップとバケツを片付けに、いったん掃除用の流しへと向かった。

 私が掃除用具を片付けて食堂に到着すると、彼女はすでに食事の用意を済ませていた。ここでは、子どもたち全員分の三食は当然無料で(市と国の税金で)完備されていて、いくつかあるメニューから選択できる。学校がある間は、小中学生は給食があるので施設では彼らには出ないが、高校生には弁当が出る。ご存じの通り小中高と学費は無料なので、食事と寝る場所が何とかなれば、何とか高校までは出られるようにはなっている。

 ……因みに社員には食堂では社員割りが使える。

 彼女のメニューは青椒肉絲(チンジャオロースー)定食で、私は谷川さん――通称「食堂のおばちゃん」にカツ丼を頼んだ。そう時間の経たないうちにそれが出てきて、おばちゃんが壁に張られた私の「食事表」に「今日の日付」と「カツ丼」と書き込む。

 ……なんだか特殊だと思うのだけれど、ここでは食堂で使った食費はその「食事表」を元に給料から天引きされる仕組みになっているのだ。そして私もそれが正しいかどうかをチェックしなければならないので、胸ポケットから取り出した自分の手帳にメモをする。

『自分で食事と食費を管理できるからいいでしょ?』

 と先輩に言われたけれど――危うく納得しかけたけれど、はっきり言ってちょーめんどくさい。もう「注文してご飯が出てくるまでにメモするスキル」は身につけたけれど、そうやって慣れてもめんどくさい。

『それで、紫苑はどうしたいの?』

 私は彼女の正面に座って、彼女に訊ねる。

『いただきます』

 私は彼女の答えを待つ間に、両手を合わせて食物と自然と神へのお祈りを終える。

『……いただきます』

 目の前の彼女も私につられて手を合わせてそう言う。二人同時に箸を取り、私は一口目をがっつり頬張り、彼女も青椒に箸を伸ばして、途中で手を止めた。

『あのっ!』

 若干上擦った声で、彼女が言った。――幸い、周囲には誰もいなかった。食堂のおばちゃんも私が言ったので席を外してくれている。私は口に入っているものを飲み込んで一旦箸を置き、無言で先を促す。

『私……私、無理、なんです』

 彼女は目を泳がせ、私を見たり、天井を見たり、テーブルを見たり、そしてまたテーブルを見たりして、たっぷり間を開けて、

『私……、私昔――』

『言わなくていいよ。私は知ってるし。それで、その男の子は紫苑から見てどうなの?』

 私は彼女の言葉を食い気味に――というか丸齧りして、またカツ丼を貪る。

 彼女は茶碗に渡し箸して、そしてごそごそと座り直し、言葉を紡ぐ。

『それまでずっとお友達だったんですけど、今日、体育館裏に呼び出されそうになって』

「そう」という言葉に引っかかりつつも、私は無言で頷く。

『「体育館裏」って、……そういうスポットじゃないですか』

 ……「そういうスポット」ね。彼女の事情を知らない人は、このときの私とは別の考えを抱くのだろうけれど。

 そう例えば、「体育館裏は告白スポットだから、今の関係を崩したくない彼女はその彼の告白を聞きたくない」、だとか。

『だから……私、そう言われたその場で――放課後の教室だったんですけど、「無理ですっ!」って叫んじゃいました』

『……そりゃあ……気の毒だったな』

 その、彼女に惚れた彼が。

 当然その彼は、「私、あなたと付き合うのは無理です!」という意味にとっただろうな。

 ――本当は。

 彼女にとって「体育館裏」は――「レイプされるスポット」で。

 彼女にとって「制服」は―――「レイプされる服装」で。

 彼女は中学生のとき、教師だった父親に「制服を着せられて」性的な虐待を受けてここへやって来たのだ。

 だから彼女は――制服を着られない。

 だから彼女は――薄暗いところに、一人では行けないし、いられない。

 夜も、明かりを点けて、誰かが隣にいないと――部屋にいることさえできない。眠ることなどなおできない。

 たとえ誰かが隣に眠っていても、トラウマは、悪夢としてフラッシュバックして、ときどき彼女は夜中に叫びだすときもあった。

 そんな彼女が就職を決められたのも、彼女のそんな性質を補って余りある能力と、ここを二年前に卒業して彼女と同じ職場になる彼女の先輩(女)の助力による。らしい。

 テーブルの向こうに座る紫苑は、ぐっと俯いていて、私には苦しそうに見える。

 何かを、思い悩んでいるように。

『だって……』

『あー、思い出さなくていい――』

 いけない、こう言うと逆に思い出してしまう。

『――じゃなくて、別の話をしよう、別の話を』

 と私は何とかして別の話題を見つけようとする。

『あー、そう試験。公務員試験に関して何か不安なこととかあるか? っても私は筆記はここ受けるとき受けてないから私が言えるのは面接についてだけだけど』

 我ながらなんとも微妙なものになってしまったな、というのをごまかすためにカツ丼をかっこむ。

 高校のときは、まあ結があんなだったから余計に周りからそう感じられただろうけれど――まあ私は人の面倒見がいい方だし人の面倒を見るのも好きな方なので、今もこんな仕事をしている。……しかしながら私は勉強はあまり得意ではないのである。

 あまりいいたくはないが、短大に進学していることがその証拠だ。

 紫苑は今度は俯いたまま、さっきのようにもじもじと、座ったまま両手を太腿に挟んで肩をうねうねとさせて、猫背になって縮こまる。

 …………なんだか、まるで、恋する女の子みたいじゃないか。

 ついさっき、盛大に同級生男子をフッてきた女の子のするしぐさじゃない。

 男を――男性を嫌悪し、嫌悪せざるをえない女の子のするしぐさじゃない。

 ……と自分でモノローグして自分で気づいてしまった。

『だって! 私、美紀さんのことが好きなんですっ!』

 ………………………………………………………………………………キマシタワー。

『あー、私、旦那がいるんだけど』

『それでも構いませんっ!』

 机を両手でばしんと叩いて彼女は言う。

『私が構うんだけど……』

 これまでいい子ちゃんぶってたのかなあと思うほどに、彼女はぐいぐい来た。上目遣いで眼鏡をちょっとずらしながら。

 ……食堂のおばちゃんを追い出しといてよかった。広い建物だといってもこの当時同じ建物の中に育児休暇中の旦那と生まれて間もない娘がいるのに。

 聞かれなくてよかった。

 誰にも聞かれなくてよかった。


 だって、夏のアバンチュールとして始めたその関係は。

 ――六年経った今でも続いているのだから。





「……で、あなたがたの息子さんがいらっしゃる孤児院――児童養護施設はどこなんですか? タクシーの方が早いですか? それとも在来線のほうが?」

 つい昨晩『日本語は、まだ慣れていない』なんて言っていた人とは思えない日本への馴染みようである。「在来線」て……。日本人でもそう簡単に出てくる言葉ではないと思うのだけれど。

「そこのところ、どうなんですか、結さん?」

 もうインちゃんは、私に対する仕事をさっさと終わらせたいテンションになってしまっているようだ。

 ……そんな私たちは、広島県広島市に到着した。

 とても、とても暑かった。

「語彙力!」

 新幹線が広島駅のホームに到着し、私は新幹線の中で取り出しておいた麦わら帽子を被って小さなトランクを引き擦りながら、インちゃんはその身一つで、ホームに降り立つ。

 じめじめとした湿気が肌に纏わりつき、すぐに玉のような汗が全身の汗腺から吹き出し始める。左手で麦わら帽子を押さえて右手を翳して天を見上げると、七月下旬に突入した真夏の太陽は、すでにぎらぎらと容赦なく赤外線を放出している。

「紫外線だろ。怪盗でも捕まえるのかよ」

 直が優しく訂正。

「とりあえず、新幹線でもないし在来線でもないからいったん駅から出よう」

 そう言って私は人混みをかき分けて四人――二人のうち先陣を切ってごろごろとトランクを進める。右手には小さなトランク。左手は、直が右手に握る、布製の袋に入れられた剣の(ヒルト)を――彼の右手に、重ねるように。

 彼には、直接は触れられないけれど。

 どくん、どくんと、懐かしい、恋する少女のような拍動を、自分の胸の中に感じる。

 ぼんやりと、そんな熱に浮かれた頭で周りを見渡す。

 懐かしい……七年前まで、ここで過ごしたのだ。

 ……いや、正確にいえば、私たちが過ごしたのはもうちょっと東の都市で、本当はここで暮らしたことはないし(遊びにきたことは何度かあったけれど)、そしてもっといえば、私たちはこの県では――たった二年しか、過ごしていない。

 九年前から七年前の、たった二年しか。

「……それはどういう……?」

 インちゃんがしかめっ面で私をごりごり見つめてくる。視線が背中にぐさぐさ刺さっている。私は意図的に無視してすたすたと歩く。

 エレヴェイターまでやって来たので下りのボタンを押すとすぐに扉が開いて、下から上ってきた人と入れ違いにエレヴェイターに乗り込む。

 図らずも乗ったのは私たち四人――二人だけ。

「それは、そのまままんまの意味だよ。私と直は、ここでは二年間しか過ごしていない」

 ちーん、とエレヴェイターが二階に到着して、私たちはエレヴェイターから降りる。広島駅は構造上、新幹線側の出口(通称新幹線口、広島駅の北側である)から改札を出るとバス停しかないので、いったん二階で降りて在来線の渡り廊下(?)を渡って正面のほうへ出ないと広島巡りは何も始まらない。

 私たちは一度新幹線のステージから在来線改札口を抜けて在来線のステージへと降下して、一路広島駅南口を目指す。

「ステージって……」

 直がそんなツッコミをしかけたけれど、正しい言い方がぱっと浮かばなかったのか、結局言葉を飲み込んだ。

「駅舎、といいます」

 へー……っていうか、インちゃんはもはや日本人も超越する日本語力である。

 あ、「日本語力」と「日本刀」ってなんか似てる。

 ……。

 ……そんな間中もインちゃんは鋭い視線で私の背中をみだれづきしていたし、何度も、「どういうことなんですか」ともう蓮舫さんなみに私を問い質してきたけれど、私は「とりあえず外に出ればわかるから」と言って、私たちはまたエレヴェイターで地上階へ降り、南口改札を出る。

 南口駅前の噴水広場では、巷では夏休みに突入したからか、たくさんの人たちで賑わっていた――主に学生、中高生が多いように見える。まだ午前九時前とかなのに、若いっていいね。

「……それで、いつになったら説明してくださるのですか?」

 少しの間、まだまだ現役の路面電車に目と心を奪われながらも、私に視線と関心を戻して、インちゃんはそう訊ねた。彼女は黒衣に全身を包んで、フードも被っているのに――まったく暑そうではない。何か仕掛けがあるのだろうか。

「それはね、嬢ちゃん」

 と、頼さんがまたも勝手に読心して答える。

「幽霊に会ったり、幽霊が出そうな場所に行くと悪寒がするだろ」

「お母さん……?」

「おかんじゃない」

「悪寒じゃない……??」

「めんどくさっ」

 ついに頼さんにまで諦められてしまった。

「ごめんなさい、ちゃんと聴きます!」

 両手の指を組んで顎の前、両肘で胸を挟んで谷間を強調、そして上目遣い。

 これで落ちない男はゲイだ。

「……言っとくが、私に嬢ちゃんの心の声は丸聞こえだからな」

 そうでした。

「それに私には生涯愛した嫁と娘がいたんだよ。私が死んだ時点では、娘より嬢ちゃんの方が年上だが、嬢ちゃんは娘より童顔だから、嬢ちゃんには欲情しないよ」

「そうですか……」

 私の七年間は何だったのか……。

「え? その程度でトップ張ってたの?」

 そう言ったのは頼さんだった。

「さすがにそれはないですけど」

「……そうかい」

 頼さんももう深くは追求しなかった。

「君の旦那はよく君のボケを捌ききっていたな……」

 という呟きを漏らしながら。

「要するに、霊感が強すぎる彼女は、常にそれに比例した悪寒に襲われているってわけだ。わかったか?」

 頼さんは、それこそ娘に諭すように、そう言った。

 ……私にもお父さんがいたら、こんなふうに扱ってくれるのかな。

「いや、結の両親はご健在だろ」

 直にツッコまれたけれど私が無言でいると、

「え、健在だよな?」

 と、言外に「お前殺してないよな?」と含ませて直は言った。

「殺さないよ……」

 私の手では。

「おい! お前本当に――」

「冗談だよ」

「冗談じゃねーよ!」

 と、直は伝わりにくいツッコミをした。

「……頼、あなたが盛大に話を逸らさないでください」

 頼さんを鋭い目で見るインちゃんが(私たちをガン無視して)ぴしゃっと咎めて、

「……すまん」

 ――人類史上至上最強があっさり謝った。

「で、ここから近いのか、その息子がいるっていう児童養護施設は?」

 彼女の視線に射止められて、頼さんが引き続いて私に訊ねる。……彼は少し冷や汗を垂らしているように見える。

 ……そこまでインちゃんは怖いのだろうか。確かに、仕事――〝依頼〟で私たちに会いに来たことを告げてからの彼女は、柔和とは正反対の空気を纏っている。

 鋭い――日本刀のような。

「…………」

 やばい。このままではヤバい。





 このままではヤバい。

 ――なんて、六年前から何度も思っていたけれど、結局ずるずると、私と紫苑との関係は続いている。

 紫苑は、施設を卒業してから私のことを「美紀先輩」と呼ぶようになった。なぜか……は言うまでもなく、どこからか私が「先輩」と呼ばれることが好きだという情報を仕入れてきたのだろう。誰だばらしたのは。

 ……。

 ありがとう。

 そして。

 ありがとう。

 もう教え子がかわいすぎてヤバい。こんなタイトルのライトノヴェルが出せるぐらい。

 そんなちょっと眼鏡をずらして上目遣いでこっちを見ないで!

「今年の夏休み、どこか二人で旅行に行きませんか、美紀先輩?」

 夏休みに入ると、ここにいる子どもたちは基本的に施設内で自由行動になる。つまり受け持ち――「班」で行動させなくてもよくなるのだ。まー、そうはいっても結局はいつもと同じメンバーでグラウンドで遊んでいたり、テレビを見ていたり、昼寝をしていたりするのだけれど。

「盆に帰省」なんて行事は存在しないのだ。

 全員揃っての朝食を終えて、結局いつものように五人を――じゃないわ、娘のみゆきを合わせて六人だ――一部屋でぼけーっと見ていた。深結を除く四人は何が楽しいのか、ひらがな練習帳の点線をなぞってひらがなを練習している。……なんだこいつら、かわいくねー。少なくとも私が六歳のときは直と一緒になってグラウンドを駆け回っていた。紫外線なんて気にしないで。

 誰を見習ってこの四人はこんなことをしてるのだろう。……それは当然私で、どんな風に見習っているのかといえば反面教師としてだろうけれど。

 因みに深結は私が座っている椅子の隣の椅子に座って、黙々とルービックキューブを回している。……回しているからといって、全く色が揃う気配はないのだが。そして我が娘みゆきは、床で爆睡していた。……ラジオ体操のために早起きしてる意味ねー。

「で、先輩、今年はどうなんですか?」

 今日は仕事が休みらしい紫苑は、朝食を終えてこの部屋に戻ってくるとすでにこの現在の私の隣の椅子に座っていて、どこに座ろうかと戸惑っていた深結を自分の膝の上に乗せた。狙っているとしか思えない――それこそ結の先輩特許――ヤバい動揺している――専売特許である白の清楚系ワンピースを身に纏った彼女は、そう言った。

 彼女が「今年は」と言っている通り、彼女との旅行は毎年――というより毎・長期休み恒例の行事である。みゆきを旦那に任せて、いろいろな温泉旅館に紫苑と旅行する。だいたい一泊二日か二泊三日だ。

「今年は、そうだなあ……」

「私、内海(うつみ)に海水浴に行きたいですっ!」

 だから、そんなかわいいしぐさをしないでって。もうヤバい。この場で食べたくなるから。

「いいかもね。内海に行ったの、ちょうど六年前の紫苑と出会った最初の夏休み以来だし」

 私はまだ社会人一年目だったし、彼女もまだ高校生だったしで、近場にしようということになったのだ。

 ……まー、その一泊二日の旅行が「ゆりゆららららゆるゆり大事件」だったわけだが。

 そして「ゆりゆららららゆるゆりあいちけん」でもあったわけだが。

 水着入るかな……。まー、去年は長島のジャンボ海水プールで泳いでスパーランド(温泉)でゆっくりしたあと一泊して、二日目はスパーランド(遊園地)で一日乗り放題のパスポートを使って丸一日遊んで帰ってきたのだが、そのとき着たのが入るかどうか。

名古屋直行バス、便利だったなー。

「水着、一緒に買いに行きましょうよー」

「そうだな、今度の休みはいつだ?」

 私は自分のスケジュールを天井を仰ぎながら脳内で確認する。

「えーと、とりあえず今週の日曜と、来週の水曜ですね」

「うーん、それじゃあ旅行はいつ?」

「来月の頭の月火――だから、八月の三日四日、ですかね」

「えっ、もう決定?」

 私は怪訝な顔を彼女に向ける。

「だって美紀先輩、そういうの決めるの面倒でしょ?」

「あー、確かに。じゃーあとでその日に有給取れるか訊いてみるわ」

「じゃあ水着はいつにします?」

「そうだなー……日曜日に、ふらっと大須にでも行くか」

「いいですねっ! けってーい!」

 少女アニメの主人公のように、彼女は右腕を突き上げてそう言う。

 ……あー、なんて可愛いんだ。

 と、紫苑の膝の上に座っていた深結が、こちらを向いて私に向かってルービックキューブを突き出す。

「……できないです。……っ」

 悔しそうに、ぽろぽろと涙を零していた。ぷにぷにと柔らかそうなほっぺを、玉のような滴が転がっていく。まるで砂漠に降り注いだ僅かな天の恵みのように美しい。舐めたい。……けど我慢。

「わかった、私が教えてあげるから、貸してみ?」

「はい……」

 そう言って深結は私にルービックキューブを差し出し、私はそれを受け取る。彼は右の掌でぐしぐしっと涙を拭って、ぎゅっと口を結んで泣くのを我慢しているようだ。――それでも、目は閉じずに、こちらをぐっと見つめている――上目遣いで。

 ……あー、なんて可愛いんだ。つい、顔が綻んでしまう。もーね、敬語なのが逆に距離を感じて燃えるというか、萌えるというか。

 ……紫苑から嫉妬の熱を感じる。が、それは一旦スルーして、私は深結の頭を撫でる。

 さらさらと――掌滑る――黒い髪。

 ……つい川柳を詠んでしまった。

 あー、もう食べちゃいたい。





「……は?」

 とインちゃんはもはや登場時の丁寧な口調はどこへやら、鋭い言葉をぶつけてきた。

「どういうことですか結さん」

 ……ついにバレてしまった。

 私の地元が愛知で――私と直の息子を預けた、美紀がいる養護施設も、愛知にあるということが。

 それなのに黙って私たちが大学に通っていた広島まで市中引き回しの刑にしてしまったことが。

「……そこまでひどくは……いや、インディゴ嬢の形相(ぎょうそう)から察するにそれぐらい酷いことだったかもな……」

 直が腕を組んでそう独りごちるように言ったとおり、インちゃんはブチ切れだった。

因みに「ブチ切れ」の「ブチ」は広島弁である。

「ちげーよ」

「そーだよ!」

 ……諸説あるそうな。

 そしてそんな会話に目もくれず――耳もくれず。

「頼――」

「はいはい――」

 インちゃんの一声で、頼さんが動き出し――

 直も、同時に動き出す――その左手の、布性の袋がいつの間にか消失した剣は、もうフェンシングの剣ではなく。

 レイピア。

 細身の、質素な装飾の、真っ白な――片手用両刃刀。

 頼さんの左手にも、昨晩見た直と同じ片手用両刃刀。

 ――おそらく、直が昨晩見た頼さんの片手用両刃刀を真似て、自信の剣を変化させたのだろう。『新陳代謝とか衣装を変えるのもそうだけど、幽霊はそれぐらい適当な存在で――その幽霊自身の思い次第で、どうとでもなるんだよ』とは、頼さんの談だ。

 そして交わる――一閃。ここまで零コンマ五秒。

 がしゃん。

 剣と剣が交わる音ではなかった。金属が、薄い金属を歪めたときのような。自動車がガードレールにぶつかったときのような、そんな音。

「……こんなところで、喧嘩しないで頂戴」

 そこには、一人の女性がいた。――否、女性というには少し若い。

 美しい黒髪――腰まで届くストレート。

 星がちりばめられた夜空のような色のザーサイを――

「アオザイですよ。誰が漬け物を着るとお思いですか」

 と、そのアオザイ――ヴェトナムの民族衣装を着た少女に言われた。

 あれ? 私今口に出してた?

「いえ」

 と微笑みながら言うその少女。

ノ ースリーブのアオザイを見事に着こなし、そしてその吊り()は、本来白眼(しろめ)である部分は黒く、瞳は黄色い。胸は控えめ。すべすべの腋! 真っ白な二の腕! 貧乳! 腋!

「おっさんかよ!」

 相当力を込めているらしい直がお腹からの野太い声でそう言い、しかし剣はぴくりともしない。頼さんはそれがわかっているようで、もうあまり力を込めていないように見える。

 ――そんなアオザイの少女は、片手に一本ずつ、両手合わせて二本の真っ黒な鉄扇で、頼さんと直の二人の剣をしっかりと受け止めていた。

「まだ〝依頼〟を終えていなかったのですか、インディ」

「……はい。それは――」

「勿論、見ていましたけれど」

 アオザイを着たアジアンビューティーな彼女は、どうやらインちゃんよりも立場は上らしい。

 身長も年齢も、インちゃんと変わらないか少し低いように見えるのに。

 ――〝Colours〟――WUO。そういう、秘密結社。

 アオザイの彼女もまたその構成員――なのだろうか。

「こんなところでは目立ちますので、場所を変えましょう――」

 そう言って、彼女は彼女を挟んで対峙する二人に――頼さんから順に、視線を送る。

 私からは――私の立ち位置は直の背中側だったから、直の背に隠れて彼女が二人にどんな視線を送ったのかはわからなかったけれど、二人がすっと背筋を伸ばしてすっと剣を終ったところを見ると、それは容易に想像できた。

 ただ。

「――移動しますよ。そこのホテルの宴会場を借り切りましたので」

 と言って鉄扇をばばっと閉じて、肘にぶら下げたセカンドバッグに終うアオザイの少女の背中に、私と直はそっと溜息を吐いた。

 そう言って彼女が告げたそのホテルは、この南口噴水広場とは駅を挟んで反対側の、新幹線口側だからだ。



 五階の、「悠久」という宴会場に、係員のにいちゃんに通された。

「でけえ」

 つい零れるそんな言葉を、誰が止められよう。

 開かれた観音開きの扉をくぐると、そこは大宴会場。壁の絨毯と照明の配色によって、全体的に金色に輝いて見える。八人が余裕をもって座れそうな円卓がいくつも並んでいて、真っ白な緞帳で隠された広いステージ。

 ちゃっかり玄関ホール(ここも全体的に照明とか絨毯とかで金色に見えた)で受付にもらったパンフレットによると、千十平方メートルもあるらしい。……数字を言われてもぱっとわからない。けれど、どうやら広島最大級の規模らしい。パンフレットさまさま。

 真ん中に立つと、その広さが際立つ。

「三十メートル四方だと、面積は九百平方メートルだろ。だからそれより二、三メートルずつ広いくらいかな。まあ、これは正方形の場合の話で、ここは長方形だからもうちょっと違うだろうけれど」

 と、直が助太刀してくれる。数値的にいえば、バスケットコート二つ分ぐらいかな? 数値的にいえば。

 ただ――ここは落ち着いた雰囲気で満ち満ちていて、体中が弛緩していく――落ち着いていく。空調も快適に冷房が効いていて、私は慌ててハンカチで顔や首筋、腋の下の汗を拭う。

「……」

 隣に立つ直は無言で目を逸らした。照れ、というよりはむしろ残念なものを見るような表情だった。

「……私たちの結婚式場よりも広いよね?」

「そうだな――って俺たち式挙げて――」

 直は私のむっとした表情を見遣って、

「――いや、なんでもないよ」

 と、彼は言葉を飲み込んだ――私たちは、というより私は、子どもができたことがわかってからずっとゼクシィとか式場やホテルのパンフとかを見まくっていたことを、思い出したのだろう。あの時期は、幸せの絶頂で。

ただ私たちが永遠に幸せなのだと、世界一幸せなのだと――勘違いしていた。

 私の中ではもう式場は決まっていたし、それとなく、直の目につくところにそのページを開いて置いておいたりしていた。

「あからさまだったけどな」

「そうでした?」

「うん」

 直はシンプルに肯定した。

 ……って、そんなところを突然貸し切りにできるなんて〝Colours〟どんだけー。

「適当に腰掛けてください。すぐに料理が出て参りますので」

 と、扉から数十メートルありそうな壇上まで歩いて行ってそこにあったマイクを手にとって振り返りながら、アオザイの少女は言った。小指が立っていて、もう片方の手で先程の鉄扇を開いて、口を妖艶に隠している。そうしてそのまま壇上にひょいっと座り、脚をゆっくりと組む。ふぁさっと、アオザイのスカート部分が舞い、ズボン部分の裾が擦り上がって、ローヒールの隙間から零れる若々しいつるつるすべすべ踝がえろい。

「おっさんかよ……」

 と言ったのは隣に立つ直。

「……まあ、座ろうか、俺たちも」

 直がそう言って、ステージを向いていつの間にか中心の辺りまで入っていた私たち二人が振り返ると、扉に一番近い円卓に、インちゃんと頼さんが座っていた。頼さんは結構リラックスしていたけれど、インちゃんはむすっとして緊張気味でかわいい。

「おっさんかよ……」

 直のツッコミはスルーの方向で。

『適当に腰掛けて』と言われたけれど、何かと好都合だろうし、同じテーブルにつくことにした。

 直と剣の(ヒルト)越しに手をつないだまま。

 席に座るとすぐに料理が運ばれて――

「ってこれチャーハンじゃん」

 私の右後ろから差し出された盆の料理を見て言う。

「私の最高の部下がここのレストランの厨房を借りて作りました。私はこれが大好物なのです」

 と私の呟きにアオザイの少女がマイク越しにそう言って鉄扇をばっと閉じて、それで以て開かれた扉から入ってきた女性――私の背後に立つ女性を指す。

「そして私がその最高の部下の、レイ・ホワイテスです」

 両手に乗せた盆に四人分のチャーハンを乗せて運んできてそう言ったのは、肩甲骨あたりまでのウェーヴした色褪せたブラウンの髪に、クリーム色のスカートスーツを着用してハイヒールな、そして何ものにも無関心そうな目にメタルフレームの眼鏡を掛けた、秘書っぽいまさに秘書って感じの、すらっと背の高い女性だった。

「アメリカテキサス州出身、二十六歳、既婚、〝白〟=〝特派員〟――という能力をもつ者です。どうぞよろしく」

 と彼女は一息に言った。てかみなさん日本語上手だな!

「こちらこそよろしく……お願いします。金沢結です」

 私が言うと、

「カナザワ……」

 彼女は意味深に頷いて、チャーハンを四つ並べる。その様子を見ながら、アオザイの少女がすたすたとマイクを持ったまま――閉じた鉄扇をまたセカンドバッグに(しま)いながら近づいてくる。

「朝御飯はまだでしょう? 食べながらお話します」

 と言ってアオザイの少女は空いた椅子に手を伸ばそうとして――

 びんっ

 とマイクのコードに引っ張られて無様に背中から倒れた。



「……私は、ウル・ソワールといいます。ヴェトナム出身の十五歳です。私は〝夜〟=〝未来〟――〝未来〟をこの眼で見ることができます。ウル、と呼んでください」

 マイクを別のテーブルに置いて、気まずそうに席に着いたアオザイの少女――ウルちゃんは、そう言って自己紹介を終えた。……ということはつまり、ウルちゃんはインちゃんの上司でありWUOのトップだということだ。

 因みに、ウルちゃんのパンティーは水色のちょっとひらひらしたレースのものだった。ズボン部分の裾から奇跡的にちらっと見えた。

「そんなことは描写しないでもいいです、結さん」

 と、ウルちゃんは言う。

 ……ていうかさ、なんでこう、みなさん私の心をずけずけと読んでくるわけ?

「そういう性質、性格、性癖なので仕方がないのです」

「性癖って――」

「性や癖のことです」

「セックス?」

「さがです」

「S・A・G・A?」

「佐賀です」

「みんなで行った?」

「千葉・滋賀・佐賀です」

「…………そうですか」

 はあ、と私は一つ溜息を吐いて。

「それでも、自分の未来は見えないんだね」

「……そうですね」

 ウルちゃんは恥ずかしそうに、溜息混じりにそう答えた。

 ……ところで私は、目の前のおいしそうな金色のチャーハンに目を落とす。

 スプーンで一掬い。乗り切らなかった黄金のお米たちがぱらぱらと零れゆく。

 一口。

「うめー」

「味のレポートはしないんだね」

 と直が言う。

「俺にも一口」

「あーん」

 スプーンでまた一掬いして、彼にあーん。すると見せかけて自分でぱくり。

「うめー」

「……やると思ったよ」

「次はちゃんとあげるから。あーん」

 直も一口。

「……うめー」

「でしょでしょ? もう一口いる?」

「うん」

「あーん」

 スプーンでまた一掬いして、彼にあーん。すると見せかけて自分でぱくり。

「間接キス!」

 ……、……!

 うわー! この歳になって間接キスでこんなにどきどきするなんて思ってなかった! 顔がめちゃくちゃ熱い!

「ってかここまでできたら直接キスもできそうなのに」

「やってみる?」

「うん!」

 直の誘い受けに――

「言葉のチョイス!」

 直のツッコミは、生前によく見た彼の苦笑いと照れ笑いの中間の微笑みで。

 私は彼とつないだ手を――正確には彼の剣の(ヒルト)をぎゅっと握り締め、彼の微笑む唇に吸い込まれるように、私の唇を重ね――

 ――やっぱり、感触はなかった。

「幽霊とは、そういうものなのです。物に触れ、人には触れない、そういう性質の」

 インちゃんは、頬を真っ赤に染めて明後日の方を向きながら、私に向かってそう言った。

「でも、直は(マコト)くん――デリヘルの男の子に憑依してたんだよね?」

「それは、特例中の特例です。その真さんが直さんにそっくり似ていて、かつあなたが真さんに直さんを投影して直さんと等しい愛を向けていたからです」

「じゃあ直を永続的に真くんに憑依させれば――」

「少しは他人(ひと)の人生を考えてください」

 インちゃんはすっと私の目を見据えて、そう言った。

「……そうでした」

 私が俯いて、反省の意を表明すると、

「わかればよろしい」

 と、直が私の頭を優しく撫で(るジェスチャーをし)てくれた。

「ううー直ー」

「よしよし、いいこいいこ」

 私は触れられないぶんをイメージで補う。

「……いちゃいちゃという音が聞こえてきそうですね」

「そうですね」

「そうですねー」

「そうだな」

 ウルちゃんの発言に、インちゃん、レイさん、頼さんが口々に同意する。

「しかも一言も、私のことを褒めないですし」

 と、レイさんは不満げに付け足し、眼鏡をかちゃり。

「レイの料理はうまいよ。いつもありがとう」

 と言ったのはウルちゃん。

「……はい、ありがとうございます」

 レイさんはいつも聞いているから逆にうんざりといった風に、やれやれといった調子で、しぶしぶ感謝の言葉を口にする。

 と、そのモノローグを読んだのかもぐもぐとしていたチャーハンを飲み込んだインちゃんが、

「わたくしにとってはよっぽど、読心が〝能力〟――〝色〟として組み込まれているわたくしたちよりも結さん、あなたのほうが恐ろしいですけれど」

「……そうかな」

 こういう「人の気持ちを読むスキル」というのは社会生活において必要なものだと思うけれど。インちゃんは答えて曰く。

「……必要ですが、あなたのそのスキルは突出しすぎているのですよ。まるで――」

「まるで、過負荷(マイナス)のように」

 と、引き継いだのは――眼鏡を掛けたレイさんだった。色褪せたブラウンの髪がゆらゆらと揺れる。

「……漫画とか読まれるんですね」

「――私の〝白〟=〝特派員〟という能力は、他人(ひと)から命令があればヒトができることならなんでもできる、というものなのです。まあ他人のスキルを昇華するほどのものではありませんが。ですからそんな知識――というか小ネタですね、頭に入れておくことぐらい朝飯前です」

 眼鏡がきらーんと、輝いた。気がした。

「……ぷーん」

「失礼!」

 直のツッコミが炸裂して、

「……で、ウルさん、お話というのは?」

 直が先を促すことによって、ようやく話を始める。

「私は、今回〝昼〟=〝過去〟の様子を下見しに来ただけです」

「へえ、広島の人なんですか?」

 とは直。以後、合いの手を入れるのは直だけであった(他の人はもくもくとチャーハン食べてた。頼さんもインちゃんにもらっていた)。……っていうか普通に敬語話してるのを今日初めて聞いた気がする。

「……違います。ギリシア語で言うと〝φιλοσοφία〟県です」

「……愛知県、ですね」

「そうなんですよ。それにあなたがたの目的地も愛知県のはずなのに、見たら名古屋を余裕で通過しているじゃありませんか。――私たちは飛行機で向かっていたのですが、そういう訳でレイに頼んで進路変更です。しかもあんな人前でおっぱじめようとするじゃありませんか。で、止めに入った次第」

「……なるほど」

「あとこの件には何も関係ありませんが」

 と、彼女は一つ溜息を吐いて。

「『中部国際空港』は常滑市にあるのに、この空港に向かう飛行機の行き先が『名古屋』なのにはイライラするのですけれど」

 前フリかと思ったら本当に関係なかった!

「愛知県民として、それに何か言いたいことはないのですか?」

「……もう、しょうがないのかなって。だって『常滑』って言っても誰も解らないじゃないですか」

 と、何だか悟ったようなことを私は言う。

「……それで『悟った』とか言っているようではまだまだですよ」

 と、彼女は悟ったと言うには若すぎる見た目で、その闇夜に浮かぶ月のような目を細めて私を見た。

「では、何か質問は」

 そう言って調子を取り戻したらしいウルちゃんはまたセカンドバッグから鉄扇を取り出してばしいっと直を指す(チャーハンうめー)。

「〝昼〟が〝過去〟で〝夜〟が〝未来〟なら〝現在〟は――〝いつ〟、なんでしょう?」

「あら、いい質問」

「……どうも」

 どう「いい質問」なのかよくわからない(あ、エビ入っとるげ)。

「〝現在〟は、〝夕〟です」

 ぱらぱらに炒められていてスプーンがとまらないぜ(ウルちゃんはそう端的に答えた)。

「「……」」

 二人分のジト目いただきました。ごちそうさまでした。

「〝朝〟じゃないんですね」

「朝なんて夜の一部でしょう?」

「……そうですか」

 直は一つ息を吐いて、

「……で、そんな細かい理由じゃないでしょう、ここに来たのは。お忙しいのでしょう? あなたはいわば〝Colours〟――WUOを秘密結社とするのなら、三人の社長の一人なのだから」

「……秘密結社に『社長』なんていないと思いますが」

と彼女は鉄扇でぱたぱたと自分を仰ぎながら――

「自敬表現!」

直のツッコミに訂正――扇ぎながら、そうぼやき、

「まあ、直さん、あなたは、薄々と勘づいてはいるのでしょう?」

「……薄々とは」

 ……どういうことでしょう。因みに私にはさっぱり。

「知らない方がいいですよ――たとえ忘れるにしても」

 ウルちゃんは言う。

 ……気になる。

 そう言われると気になる。

 彼女はなんだか「匂わすように言って結局言わないで伏線にする」ようなことを言っておきながら、

「そうですか。じゃあ言っちゃいますよ」

 と、平然と。

 突然の来訪者や、唐突な襲撃などの、誰の邪魔も入ることはなく。

「あなたの息子である金沢深結は、いずれ〝Colours(わたしたち)〟の仲間になって、〝Colours(わたしたち)〟の未来と、世界を救うんです」

「……」

 直は、「うわーそこまで予想していなかったぜ……」みたいな顔をしていた。

「……心を読みすぎだよ」

 と、直は少し弾いていた。

「ひゅー」

「口笛!」

 ……直は少し引いていた。

「……まあ、それはさておき」

 と、何だか私たちの人生(モノガタリ)で或いは一番大事で一番大切で一番重要でことをまるで鼻を()んだ鼻かみを炬燵に入ったまま一メートル離れた芥箱に捨てるような気軽さで、棚に上げて、横に置いた。

「ところでこの場合『はなかみ』って漢字で書くと『鼻紙』? 『鼻擤み』?」

「どちらでもよいのでは」

 ウルちゃんは食い気味で言った。

「さて」

 と、彼女は私に刺すような視線を一瞬、ほんの一瞬だけ私に深々と突き刺して――

 ウルちゃんの雰囲気が――オーラが――変わった。

「……私が言いたいことは」

 文字通り、豹変した。

 一瞬で、温かな黄金色だった――暖色だった照明が(「男色」なんて言っている場合ではなかった)――寒々とした青い、冷たい色に変化したように、少なくとも私の目には見えた。体感温度は数度下がり、すっとひんやりとした空気が肺に染み込んでいく。露出した肩が震える。何かに刺されたような、冷気――霊気。

 腰まで届くインちゃんの黒髪ストレートが、ゆらゆらと、蠢く。

「インディゴ・インスキエンティス・インテレクトゥス――あなた」

 ウルちゃんは、笑う――嗤う。微笑む。

 そして、その白黒反転した眼を見開き、(みは)り、インちゃんを見据える。

「早く仕事をなさい」

 彼女が言いたかったのは、その、たった一言だったようだ。



 チャーハンを食べ終わって後片付けをホテルの人に任せて、私たちはホテルを後にした。

「レイ、今日はジェットの運転はいいから」

 と、レイさんがウルちゃんが言った。

 今は、運転手も一緒にチャーターされたリムジン(そこまで長くないのはあんまり長いとコーナーで曲がれないからだろう)の中。広島空港に向かって高速道路を走っている――そこに〝Colours〟――WUOの自家用機がそこに停められているとかいないとか。

「いないわけないでしょう」

 そうですね、ウル様の言う通りでございます。

 ふかふかのソファな座席は前方と後方にあって対面になっていて、席順は、前方が向かって右からレイさん、ウルちゃん、頼さん。後方は、右からインちゃん、私、直。私はここでもずっと、直の剣越しに、直の手に触れている(比喩)。車内設備としては小さいながらもシャンデリアがついていて、ワインセラーまである。

「今日はインディがいるから彼に運転させるわ」

「やったーっ! じゃあ寝ていい? 飛行機で寝ていい? 寝ていい? ひゃっほーっ!」

 ウルちゃんが無言で頷くと、腕を突き上げて喜んだ、やけにテンションの高いレイさん。因みに天井は、腕を伸ばしても当たらないくらい高い。

っていうかレイさんのキャラ!

「……そういえば、レイ、今日から明日は久々のオフだったな」

「そうっ! 二年と三百二十二日ぶりの丸一日休み!」

 ブラック過ぎる!

「少なくとも|日本標準時(JST)の今晩からハワイ・アリューシャン標準時(HAST)の明晩まで休むから!」

 執念!

「……因みにお休みには何を……?」

 私か訊ねると意気揚々と彼女は叫んだ。リムジンといってもそこまで広くはない車内で。

「旦那とセッ――」

「あ、着いた着いた」

 ウルちゃんが丸被りしてそう言って、外を見るとスモークが張られた窓越しに、「広島空港」とでかでかと書かれた緑色の案内標識が見えてきていた。

 ……まだ着いてねー。



 ――広島での大学生活は、講義は適当にサボりながら適当に単位は取りながら、ほぼ部活と、あとデートに時間を費やしていた。

 我が大学のフェンシング部は月曜以外毎日練習があったし、月曜日も直は自主練をしていたので、実際には殆ど「私と直のデートのためだけの時間」というのは存在しなかった。まあ、私はフェンシング部唯一のマネージャー(監督的な意味ではない)だったので、私は直といつも一緒にいたし、学部も学科も専攻も二年からは研究室も一緒で講義も一緒のものを取っていたので、基本的にどこでもべたべたいちゃいちゃしていた。

 自炊はトーストと夜(煮物とかスパゲティとか炒めものとかカレー系とか)は二人で一緒に台所に立ってしていたけれど、昼ご飯に弁当を作るほど時間的余裕はなかったので、というかそんな時間があったら昼夜問わずいちゃいちゃしていたので、昼食は生協食堂とか近所の定食屋とかで取っていた。

 それでいて、結構私たち二人はアルバイトもがっつりしていて、直は部活の後深夜のコンヴィニエンスストアでバイトして、私も時給がよかったのでキャバクラでアルバイトしていた。そこでできたお金は部活の遠征や道具に使われ、そして残ったお金は、遠征の度に、さっきも言ったような直(と私)の高校時代や中学時代の友人巡りの旅で――あとは私と直の僅かな時間を使ったデートに費やしていた。それでももしものときのために、ちょっとは貯金していた。

 基本的な――遠征以外のデートは大学からの帰宅デートと、同棲。遠出しても、例の東京旅行は例外中の例外で、広島県内がほとんど、県外に出ても岩国の錦帯橋がせいぜいだった。しかも日帰り。

 春の宮島、厳島神社の浜辺で可愛いシートを敷いて桜舞い散る中お弁当を食べたり。

 夏の広島、ズームズームスタジアムで夏の陽射し照らす中広島対中日を観戦したり。

 秋の呉、海上自衛隊の博物館やら大和やら、紅葉降る中入船山博物館をうろうろしたり。

 冬の広島、閑散とした――乾燥した空気の中、うら寂しく佇む原爆ドームをぼんやりと眺めたり。

 ……そういえば結局私たちは今回、広島には一瞬立ち寄っただけで、中退した大学さえ見に行くことはできなかった。デートコースとかよく行った店とか、二人の最期の愛の巣とか――見たかったのに。

「……」

「ところでそういえばウルちゃん」

 私はウルちゃんの刺すような視線を敏感にキャッチして瞬時に話を逸らす。

 ――ここは、〝Colours〟専用機内(もう面倒なので〝WUO〟を並記するのはやめ)。外観は、よくある旅客機の二分の一サイズ、みたいな感じである。

「語彙力……」

 隣で地べたに寝そべっている直が欠伸混じりに言うけど、スルーで!

 内観は、ファーストクラスにも劣らない広々とした客席には八席しかない。……ファーストクラスなんて乗ったことないけれど。靴で踏むのが憚られるほど眩い赤の絨毯が敷きつめられ、席はふかふか、背もたれは百八十度まで倒せるし、眠る人用に暗いヘルメットみたいなガード(?)もついている。勿論、足を置く場所もある。

「語彙力! ってかフットレストは言ったよな?!」

 寝そべる直が荒ぶるけどスルーで!

 すでに空中に浮かんでいるこの飛行機は、なんと、幽霊である頼さんが運転しているのだ! 現代の奇跡!

 ……まあ、基本的にオートパイロットだから大丈夫だろうけれど。……大丈夫なのか?

 因みに頼さんの隣の副操縦席にはインちゃんが座っている。たぶん寝ている。

 そしてここまで――どこからかは知らないけれど――この飛行機を運転してきたところのレイさんは、客席で爆睡している。もしかして、彼女の白髪は、キャラ付けじゃなくて、過労……?

 ……こんな生活をしている私でも、心配になる。旦那さんとは命続く限り仲良くしてほしい。

「なんですか、結さん」

 一メートルぐらい離れた(寝ころぶ直を挟んだ向こうの)隣の席に座るウルちゃんが、眠たそうにアイマスクを額に擦りあげて答える。……眼は、閉じたままだった。

「ウルちゃんは……その、見えるんですよね?」

 勿論、補うべき言葉は「幽霊」である。

「……さあね」

 ウルちゃんはそう言葉を濁し、前髪を鬱陶しそうに額のアイマスクに挟む。

「見える、と言えば見えるし、見えない、と言ったら見えない。あなたには、その……」

「直です」

「そう、直さんが見えている、かもしれない。けれどあなたはそれを〝本当に〟見ているのですか? 〝本当に〟見えているのですか?」

「それは……」

「答えは、〝誰にもわからない〟」

 哲学者の誰か――或いは哲学者の誰もが言っていたようなことを、彼女は言う。

「見えていることは〝本当〟――真実ではないかもしれない。真実、かもしれない。或いはまた、見えているものだけが真実じゃないし――見えているそれがたとえ真実だったとしても、それを真実だと信じなければ――それはもう、真実じゃない」

 彼女は一つ息を吐いて――それでも目を開くことはなく、

「まあ、要するに――あなたにわかりやすく言うのなら、『見えているけれど信じていない』というところですかね」

 と彼女は、鼻で笑った――自嘲するように。嘲笑するように。

 ……一言、余計だと思ったけれど。

「私からも、言いたいことがあるのです」

 彼女は、諦めていることを、告げるように。

 返ってこない問いを――問うように。

 答えがわかっている問いを、問うように。

「あなたは、孤児院――児童養護施設が、なぜあるのか、考えたことがありますか?」

「……いいえ」

「それなら、今考えてみてください」

 彼女は食い気味に言う。

 考えてみたけれどぱっと思いつくわけもなく、絨毯で寝そべる直に助けを求めようとちら見すると、完全に狸寝入りしていた。

 ――自分で考えろ、ということだろう。

 五分ぐらいじっくり悩んだ後、苦し紛れに私は言った。

「……私みたいな……子どもを育てられない人のため……?」

 ……お。自分でも吃驚したけれど、これはもしかしたら正解かもしれない……!

「おめでたい脳味噌をしていますね」

 十四歳に言われた!

「わかっていたことですが」

 彼女は深く深く、マリアナ海溝ぐらい深く溜息を吐いた。

 そして大きく息を吸い込んで、瞳をかっと見開いて、

「てめーみてーな奴がいるから孤児がいなくならねーんだ! 死ね! 人間失格だ! 腹の中から出直せ! クズが!」

 機内全体に響くような声で――椅子に深々と座った状態から微動だにせず、そう叫んだ。

 ――直後一瞬。

 沈黙――そして、飛行機が突き進む轟々という音しか聞こえなくなる。

 ただ、誰も何も反応しなかった。もしかしたらこの椅子の頭についたダークヘルメット(仮称)は完全防音なのかもしれない――と、現実逃避をしてみたり。

 また彼女は深く溜息を吐いて――私は今度は身構えた、

「……ちょっと考えれば、わかるでしょう? 孤児院は、孤児のためにあるのです。児童養護施設は、児童を養護するためにあるのです。大学まで行ったのなら、漢字はわかるでしょう?」

 今度は静かに、彼女はそう言った。

「……ごめんなさい」

「謝るのは、あなたが世界中の子どもたちを――少なくとも親の身勝手で捨てられた子どもたちを、引き取ってからにしなさい」

 彼女は、溜息混じりに、そう言った。

「じゃあ〝Colours〟は」

「〝Colours〟は、全世界の孤児院――児童養護施設に、多額の寄付をしています。……あなたが息子のために積立貯金をしているように」

 彼女はさらに、深く溜息を吐いた。

 私がそんな風に中途半端だから、彼女も責めきれないのかもしれない。

「……そうですね」

 彼女は肯定とも否定ともとれる相槌を打ち、

「んんー、久しぶりにこんなにストレートに罵倒できて、少しはすっきりしました」

 と、彼女は両腕を天にぐっと挙げて伸びをする。

「あなたみたいなガチのクズにはなかなか出会わないですからね。出会いたくないので。今回は仕方なく、誰かさんのせいで、あなたに会うはめになりましたが」

 ごん

 と、機内放送用の、恐らく操縦席でその「誰かさん」がつけているマイクに反応があったけれど、私も、ウルちゃんもスルーした。

「まあ今回は、あなたに会っておいてもいいかな、と思った理由があるのですけどね」

「……さっきの直との話、ですか?」

「そうですね」

 今回は、彼女は肯定した。

 その話については、あの一言では私にはさっぱりだったので、

「話を戻すけど……」

 と、私は――言い訳を、彼女に告げる。

「……私はね、私が深結を育てるよりも、施設で育ててもらったほうが、いい子に育つと思うんだよ」

「……どうしてです?」

 彼女は眉間に皺を寄せて嫌な顔をしたけれど、訊ねてくれた。

「だってね、私が育てるよりもちゃんとした施設で真っ当にに育てた方が、ちゃんと育つだろうし」

「……あなたは、『私なんか』と言わないのですね。こういうときの常套句だと思うのですが」

「だって私ぐらいは私に甘くないとしょっぱい社会では誰も褒めないでしょ?」

「……そうですが」

 認めちゃった!

 ――彼女は一つ溜息を吐いて、

「すみません、話が逸れましたね。――『私が育てるよりも施設で育てた方がいい』というところまでいきました」

 彼女は私が話していた内容を忘れていることを見越して、そう付け加えた。

「うん、それにね、直は――それに美紀も、児童養護施設出身だけど、あんなに至極真っ当に育ったし。 だから、深結も、同じ環境で――同じ児童養護施設で、育てた方がいいって思って」

「……そう、ですか」

 彼女は一つ息を吐いだけで、肯定も否定もしなかった。





 深結には、私は一度も「金沢」という苗字について教えたことはなかったけれど、彼はいつの間にか自身を「かなざわみゅう」と名乗るようになっていた。

 誰が勝手に教えたんだ! と思っていたけれど、私が子どもたちの「昼寝の時間」にうたた寝していたときに、ずっとお尻のポケットに入れていた財布から、どうやら彼の――彼女のキャッシュカードを発見して、自身の名前を見たようだった。

 何たる失態。

 いずれ彼を、小庵深結にして。

 そして彼を、榊田深結にする。

 その野望に大きく立ちはだかるのが、恐らく深結の自意識になるのだろう。

 どうやら私のヒロインは深結であり、そしてラスボスも深結であるという、なんか少年マンガのような天界なのであった。

 ――間違えた、そりゃあ彼をものにできたら「天界」であろうけれど。

 少年マンガのような、展開なのであった。

 深結が大きくなったら、どんな風になるのだろうか。

 今はまだ六歳。

 この六年、彼にとっても、私にとっても、とっても色々なことがあったけれど。

 彼のおむつを交換する度に、ついつい興奮して涎を垂らしてしまったり。

 彼が涙を流すたびに、ついつい興奮してその涙を舐め取ってしまったり。

 彼が空腹でぐずったら、私の母乳を与えてついつい興奮してしまったり。

 おっぱいで抱き締めてしまったり。

 一緒にお風呂に入って、ついつい興奮して彼の全身を隈なく洗ってしまったり。

『やめてください、美紀先生……』

 そう言って目を逸らして顔を赤らめ、両手を股に挟んでもじもじしているる彼に、生まれて初めて興奮による鼻血が出てしまったり。

 眠っている間に全身をちゅっちゅしてしまったり。

「そんなことしてたんですか美紀先輩!」

 回想に入り込んできた紫苑が凄まじい形相でその長くて黒く美しい髪を逆立てている!

「犯罪ですよ犯罪! 児童ポルノなんちゃらですよ!」

 公務員なんだから知っとこうぜ紫苑。

「捕まってなきゃ犯罪じゃないんだよ!」

「完全にいじめっこの理論ですよ!」

 被害届が出なければ立件できない、みたいなことだろうか。

『別に、ぼくたちは彼をいじめていたわけではありません。じゃれあっていただけです』みたいなことだろうか。

「うわ……そう考えると私、最低じゃん」

 直をいじめていたやつらと、何も変わらないじゃないか。

 支配欲か性欲かの違いだけで。……いや、征服欲もある。直が結になびいてしまったということからくる征服欲。ついでに言うと早く深結の制服姿が見たいという、「制服欲」もある。

 深結もまた、制服力が高そうだし。

「……まあ、深結くんが『嫌よ嫌よもなんとやら』な感じがするので、そこまで犯罪的ではないかもしれませんね……」

 絵的なものを除いては。

 紫苑はそう付け足した。

 そんな会話と回想を、私と紫苑はしながら。

 深結には別の――ジグソーパズルをさせて早数時間、私は椅子に腰掛けて正六面体を弄りながら、そんな風に紫苑と近況とか旅行についてとか話している内に――

「ほーら、できた」

 私がそう言って、ほぼ白と黒のちょーむずなジグソーパズルに床に四つん這いになって苦戦している深結に、六面全部完成したルービックキューブを手渡すと、

「おー、美紀先生すごいです……!」

 深結はいつも無表情なそのかわゆい顔を綻ばせて――目を輝かせて、感動している! 立ち上がって私のもとに駆け寄ってくる!

 やばい! 普段とのギャップにきゅんきゅん萌え萌え!

「美紀せんぱーい! 顔がイッちゃってますよ!」

「まじ?」

 いかんいかん仕事中仕事中……うへへえ。

「先輩よだれよだれ」

 そう言って紫苑がハンカチで私の口周りを優しく拭いてくれる。

「美紀先生だいじょうぶですか?」

 深結が私の膝に手を置いて心配してくれている――彼の身長は、椅子に座った私と同じ視線になるぐらい。

「……うへへ、大丈夫だよ」

 ここはこの世の楽園ですか、神様――

 と、私は恍惚の表情を浮かべたのであった。





 ……私ももろもろ言いたいことを飲み込んで――っていくつか言ったこともあるけれど、一言、ウルちゃんを評価する言葉を、告げんとする。こういうときは、褒めるが勝ち。

「……十四歳なのに、達観してるんだね」

「――十四歳で子ども扱いとは、恵まれた環境で育ったんですね」

 ……失敗。そして彼女は、

「その上、こんな〝未来〟ばかり見ている生活なんて――昨日見たものと今見ているものが何も変わらない生活なんて――つまらないだけですよ」

 弱々しく笑った――状況が状況じゃなければ、年齢的にもただの中二病だ。

「……」

 彼女は無言でジト目を私に向けた後、

「まあ、〝Colours〟の資金源の半分は、この眼の情報に基づいて勝利した賭博の金なんですけどね」

 そう言って今度は彼女は――口角をあげてにやりと笑った。

 それが冗句だったとしても本気だったとしても――この流れでそれを言える彼女は、将来大物になるだろう――長生きするだろう。

 私の経験上、それは確かだ。



 結局私もうとうとと眠ってしまって――けれど一時間もかからずに中部国際空港に着陸して。

 午前十一時過ぎ。

「私は眠るから、ウルはタクシー捕まえて勝手に行ってきてよ。顔ちらって見るだけでしょ? ……てかなんでそんな用事で私が呼ばれてるわけ? もう一回言うけど、私は眠るから。ケルンまで代行運転頼んどいてよ」

 と寝言してレイさんはふかふかの客席で眠ったままでいた。代行運転、って車じゃあるまいし。あと、ケルンってのは旦那さんが住んでいる場所らしい。場所はよくわからない。

 北海道だろうか。

「ねーよ」

 直がツッコんでくれた。

 閑話休題。

 レイさんとはそんな感じで飛行機内で別れて。

「じゃあ私は〝昼〟に会いに行くから」

 鉄扇を開いて口を隠しながら微笑むウルちゃん。

「インディ、仕事、お願いね」

 ……目は笑った形をしているけれど、口元が見えない分、余計に怖い。

 ウルちゃんとはそんな感じで空港のタクシー乗り場で別れて。

 そうして元のメンバーに――頼さん、インちゃん、直、私の四人――二人に戻った私たちは、一路、深結の元へ。

 私たちの息子が――待つ場所へ。


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