第8話 胸騒ぎ
雨音だけが静かに窓を叩いていた。
短い仮眠を終えたイリシアは、身支度を整えて部屋を出た。
ホテルの応接間へ足を踏み入れると、暖炉の前のソファに2人の姿があった。
ヴィクトルとジュリアンである。
2人とも湯気の立つ紅茶を片手に、小声で何かを話し合っていた。
イリシアに気付くと、ヴィクトルが柔らかく微笑んだ。
「おはよう、イリシア」
「おはようございます」
「ミレイユ嬢は?」
「まだ眠っていますわ」
軽く一礼してから、イリシアは首を傾げた。
「お2人とも、お休みになられていないのですか?」
ジュリアンが肩をすくめる。
「交代で寝たんだ。俺が先に3時間寝て、その後ヴィクトル。今ちょうど起きて、少し話してたところだ」
「そうですか」
イリシアも向かいのソファに腰を下ろした。
タイミングよく給仕係が新しい紅茶を運んでくる。
礼を述べて一口だけ口に含むと、温かな香りが身体に広がった。
しかし、心はちっとも落ち着かなかった。
ヴィクトルが静かに尋ねる。
「使い魔から何か連絡はあったかい?」
イリシアはゆっくりと首を横に振った。
「まだ何も……」
「そうか」
それだけで十分だった。
ルークもミーナも、軽率に連絡を寄越すような2人ではない。
何も来ないということは、まだ調査を続けているということ。
それでも──
(嫌な予感がしますわ……)
イリシアは窓辺へ歩み寄った。
灰色の空。
止む気配のない冷たい雨。
視線は自然と、遥か東──カント・マリスのある方角へと向かっていた。
(恐らく……)
胸の奥で、前世の記憶がざわめく。
ゲーム本編における『カント・マリス編』。
あれは、プレイヤーの心を最も抉るシナリオの一つだった。
(人魚族の乱獲……)
美しい鱗は削ぎ落とされ、ガラス細工として加工される。
長く艶やかな髪は一本一本抜き取られ、光を通す高級繊維として売り出される。
そして、その身体から抜き取られた血液。
(人魚族の血液には微量の毒が含まれておりますわ)
人間には害となる毒。
だが魔族にとっては違う。
酒にも似た高級嗜好品。
極上の贅沢品として、闇市場で高値で取引されていた。
(……本当に、胸が悪くなりますわ)
イリシアは唇を強く噛んだ。
時期も一致している。
ゲームより少し早いかもしれない。
だが完全に外れているとも思えない。
(もし予想通りなら……既に捕らえられた人魚族は……)
その先を考えるだけで胃が締め付けられる。
恐らく、生きてはいない。
しかし、まだ間に合うかもしれない。
(倉庫の地下。巨大な水槽。すし詰め状態で監禁されている可能性がありますわ)
ゲームでは、主人公たちが辿り着いたとき、そこは既に「もぬけの殻」だった。
血痕だけが残る水槽。
千切れた髪。
割れた貝殻。
ウロコの欠片。
そして、誰もいない空間。
当時はただの演出だと思っていた。
だが──
(違う。あれは、本当に“居た”からこその跡だったのかもしれませんわ)
イリシアは静かに目を閉じた。
さらに脳裏を過る人物がいた。
鯨族の長、オーリン。
ゲーム本編では、彼は魔族に捕らえられ、左腕を失っていた。
その悲壮な姿は、多くのプレイヤーの記憶に深く刻まれた悲劇だった。
(まだ……まだ間に合いますわよね?)
そう願わずにはいられなかった。
「イリシア」
穏やかな声が背後から聞こえた。
振り返ると、いつの間にかヴィクトルが隣に立っていた。
窓の外を同じように見つめながら、小さく尋ねる。
「カント・マリスが気になるかい?」
イリシアは静かに頷いた。
「ええ……杞憂で終わればいいのですが」
ヴィクトルもまた、小さく頷いた。
「そうだね。僕もそう願っている」
しばしの沈黙が流れる。
雨音だけが二人を優しく包んだ。
やがてジュリアンが紅茶を飲み干し、ぽつりと呟いた。
「ルークもミーナも、ああ見えて無茶はしない。今は信じて待とう」
イリシアはゆっくりと息を吐いた。
「……そうですわね」
信じるしかない。
今はまだ。
仲間たちが持ち帰る報告を。
そして、最悪の未来を書き換えられるという、わずかな希望を。
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