僕と親友と剣道小町と ~剣道小町の決闘~
うちの高校の特徴は、やたらと敷地が広いことだ。
でっかいグラウンドがあって、校舎があって、さらに体育館、格技場、それに茶室まである。
格技場も大きく、柔道場と剣道場とがある。
今回僕らが使うのは、剣道場だ。
時刻は既に午後六時。剣道部の練習が終わるのを待ってから、僕らは剣道場にやってきた。
蘇芳里和と栂椹茉莉の決闘を見届けるために。
そのためにわざわざ時間外活動届けを提出し、格技場を押さえたのだ。生徒会役員の職権乱用な気がしなくもない。
下校時刻を過ぎての活動については監督の教師がいなくてはならないので、生徒会顧問の槇嶋先生に依頼した。しかし格技場まで来て生徒を監視、というタイプでもないので、「あとは勝手にやれ。俺は忙しい。俺の手を煩わせるようなことだけはするんじゃねえ」と言い残して去っていった。無論、それを見越して彼に頼んだのである。僕も一年近く生徒会役員を務めているので、顧問の怠惰ぶりは熟知しているのだ。
というわけで、決闘の場は整った。
剣道場には、僕、杉村、蘇芳、栂椹、それから女子剣道部員二人がいる。練習を終えた男子剣道部員も、興味があるようで何人か居残っている。
「丁度いいや、ねえ男子、審判やってよー」
居残っている男子部員たちに、栂椹が声をかけた。部員たちは面倒臭そうにしつつも、引き受けてくれた。
剣道部の男女間の関係は、比較的良好なようだ。
審判は、女子部員二人に頼もうと思っていたのだけれど、男子部員にやってもらうほうが、利害関係が絡まない分、フェアでいいな。
「……ん。何やってんだ蘇芳、早く着替えてこいよ」
僕は、剣道場の入口で突っ立っている蘇芳に声をかける。
眉をひそめ何やら思い悩んでいるような表情だ。剣道場に入るのが嫌なのか?
「あ、ああ、雄漂木先輩。そうしたいところなんだが、どうにも、身体が言うことを聞かなくて」
「そうなのか? 大丈夫か。体調が悪いとか……」
急にセッティングしたからな。
しかし蘇芳は首を横に振った。
「ああ、違うんだ先輩。そうじゃない。私は肉体的にはすこぶる健康だぞ。何なら今ここで脱いで証明してもいい」
「脱ぐ必要はないけどな? お前は僕の幼馴染かよ」
「自信はあるんだが……」
「目的を既に履き違えてるよな」
何にせよ脱がんでよろしい。
「それで、どうして身体が言うことを聞かないって?」
「いや、ほら、剣道場には神様がいるわけだろう。何だか拒絶されている気がして」
蘇芳はちらりと神棚に目をやる。そんなことを気にしていたのか。
剣道をやる人間にとっては、大事なことなんだろうか。いや、蘇芳が比較的そういうことに拘りを持つタイプだと考える方が自然か。蘇芳の剣道に対する思い入れはたいそう強いようだし。
「こんな私が、いいのだろうか」
「駄目なら、中学の時点でバチが当たってるだろ。大丈夫だよ、神様は度量が広い」
「そう……か。そうかもしれないな。ありがとう、雄漂木先輩」
得てしてその手の拘りに囚われる人間は、後ろから背中を押せばあっさりと抜け出して行ってしまうものだったりするのである。
蘇芳はすっと一礼し、剣道場に足を踏み入れた。木目の床を踏みしめ、一歩一歩中へと進んでいく。
「とても、懐かしい。二度と足を踏み入れるものかと思ったけれど、やはりこの雰囲気は落ち着く」
「蘇芳さん、更衣室の場所分かる? 案内するよ」
剣道場の空気を懐かしむ蘇芳に、栂椹が声をかけた。これから決闘するとは言っても、二人の間にはさほど緊張というか緊迫した空気は見られない。
いいことなのかな。
二人が着替えに行っている間、僕は壁に背中を預けぼーっとしている杉村の元に行く。
「ここまでは何とか上手くいったな」
「んー、ああ。そうだな」
蘇芳里和と栂椹茉莉のマッチメイク。
昨日、蘇芳家を辞した後、僕はすぐさまそれを杉村に提案したのだ。
蘇芳が抱えるわだかまりを解消できるとすれば、それは杉村か、そうでなければ栂椹だと踏んだからだ。
僕は栂椹の剣道の実力を知らない。栂椹が蘇芳に憧れて剣道を始めたこともついさっきまで知らなかった。ただ、栂椹が女子剣道部の次期部長として一生懸命に努力しているということや、彼女が剣道にかける想いを、生徒会室における『面談』で僕は聞いている。
だから、栂椹は蘇芳の相手に相応しいと思ったのだ。おそらくそれは正解だろうが、しかし二人の勝負がどうなるかにも寄るところだ。
「それにしても、驚いたよ。杉村が栂椹にあんなこと言うなんて」
蘇芳との決闘を躊躇う栂椹の背中を押したのは、杉村だった。それが僕にとっては一番の衝撃だった。
基本的に杉村はドライだ。気心知れた仲ならともかく、この間まで知らなかった人間に対して叱咤激励をしてやるような熱い性根の持ち主では、ない。
「どういう風の吹き回し?」
「……まあ、な。ちょっとした縁だよ」
「縁? 縁って……」
「お、二人が来たぜ。剣道小町のお出ましだ」
僕の言葉を遮るように杉村が言った。
道義を身につけた二人が、剣道場に入ってくる。なるほど、二人共綺麗な黒髪が白の道義によく映える。
「うし、始めようぜ」
防具を身につけた二人が、対峙する。
互いに向かい合い、礼。三歩前に出て、構えながら蹲踞して、剣先を交える。
「はじめ!」
主審の合図でお互い立ち上がり、試合開始だ。
さて、どんな試合になるのだろうか。
「めええええええええええええええええええええぇんッ!」
うんうん。剣道といえば面だよな、って……え?
今、何が起きた?
僕の目の前には今、残心を終えて振り返り、位置に戻る蘇芳の姿がある。
一瞬だった。
瞬きをする間に、蘇芳は間合いを詰め、栂椹の面に打ち込んでいた。
何が起きたのか、全然わからなかった。打ち込まれた側の栂椹も、理解が追いついていないのか、呆然と立ち尽くしていた。審判ですら、あまりの早業に旗を上げるのが遅れたほどだ。
「面有り!」
赤旗が挙げられた。面有り一本。
ええと、確か剣道は二本先取だから、もう一本取ったら蘇芳の勝ちか。
栂椹も慌てて開始位置へと戻る。防具をつけているから、どんな表情をしているか窺えない。焦っているだろうか、戸惑っているだろうか、嘆いているだろうか。
「笑ってるな」
「え?」
「栂椹、笑ってたぜ」
いや何で見えるんだよ、と突っ込みそうになったが、杉村の身体能力は常軌を逸している。それは視力においても然りなのだ。
「はじめ!」
二本目が始まる。次も蘇芳が速攻で決めるのかと思いきや、
「やああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
気迫の篭もった叫び声と共に、栂椹が勝負を仕掛けた。
先ほどの蘇芳ほどではないが、速い!
そしてそのまま、蘇芳の面を捉え――
「めえええええええええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇんッ!」
二人が交差する。
よく見えなかったけど……今、どっちが打ち込んだんだ? 栂椹は面を取れたのか?
主審が赤旗を挙げる。
「面有り!」
「ど、どっちが?」
「蘇芳だよ」
隣で杉村がぽつりと呟いた。
「栂椹の面を完全に見切ってやがった。圧倒的だな」
杉村の声色には感嘆が含まれていた。
かつて杉村は、蘇芳の心を折るほどに圧倒的な勝利をしたというけれど、今の蘇芳はどうなのだろう。
ともあれ、二人の決闘は、蘇芳里和の圧勝という形で幕を閉じた。
当然のことではあるけれど、蘇芳は一切の手加減をしなかった。「全力で相手する」という言葉通り、全力で栂椹を叩きのめした。
「……負けちゃった」
防具を脱いだ栂椹の表情は、あまり落ち込んでいるようには見えない。
むしろ、嬉しそうだ。
「負けたのに、何か嬉しそうだな」
「あ、そう見える? うん、負けたのはすごく悔しいけどね、でもやっぱり蘇芳さんはすごいんだなって。ウチも結構練習してきたのに、てんて適わなかった。ショックがないわけじゃないけど、でも、やっぱり蘇芳さんはすごい。ウチも、もっと頑張らなきゃ」
そう語る栂椹は、本当に嬉しそうだった。
爽やかな笑顔。
青春の輝きっていうのは、こういうのを言うのかな。
「それじゃ、次は杉村君が戦うんだよね。でも、どうするの? 剣道でやるの?」
「おっと」
そうだった。試合形式については話してなかった。
僕は防具を脱いでいる蘇芳の元へ小走り。
「蘇芳、お疲れ。次は杉村とやるけど、大丈夫?」
蘇芳は汗一つかいていない。防具と竹刀を床に置き、神妙な面持ちで杉村のほうを見ている。
勝利の悦びはない、か。当然だけど。
「…………」
蘇芳は何も言わず、コクリと頷くだけだった。しかも俯いて。
疲れてるのかな?
「えっと、試合形式なんだけど、どうする?」
「…………」
蘇芳は俯いたまま何も言わない。
え、どうかしたのか? やっぱりどこか悪いとか?
「雄漂木。試合形式なら、俺に考えがある」
ぽん、と僕の肩を杉村が叩いた。
「あ、待ってくれ杉村。蘇芳は何か様子が変……」
「大丈夫だよ」
僕の懸念に対し杉村は断言した。
「そいつは、そうなんだ。だから平気。な、蘇芳」
蘇芳は何も言わなかったが、こくりと頷いた。
何がなんだか、分からない。
それに杉村は、まるで蘇芳のことをよく知っているかのような口振りだ。
どういうことなんだろう。
「試合形式だけどな、雄漂木。蘇芳は竹刀持ち、俺は徒手空拳。これで行く」
剣道vs喧嘩殺法、ってことだろうか。
「勝利条件とかは、どうするんだ?」
「蘇芳が俺から一本でも取れれば勝ちだ。俺は時間内――そうだな、三分間しのぎきれば勝ち。こっちからは攻撃しねえ」
竹刀を防具もつけていない人間に打ち込んで平気なのか。
さすがに危ないことは許可できない。
そんな僕の危惧を読み取ってか、杉村はニヤリと笑った。
「心配すんな。寸止めできんだぜ、蘇芳なら」
そういうものか?
まあ、そこは杉村を信用するとしよう。
「……待たせたな、杉村先輩。始めよう」
竹刀を握った蘇芳が言った。今度は普通に喋っている。
さっきのは、何だったんだ?
「雄漂木、審判頼む。あと時間測ってくれや。三分な」
「わかった。それじゃ……始め!」
杉村恭一対蘇芳里和。
二人の『再戦』が幕を開ける。
蘇芳は竹刀、対する杉村は制服姿。普通に考えたら危険極まりない光景だ。
だが、ファイティングポーズを取る杉村の表情は、かつて中学時代、『修羅』と呼ばれた頃の雰囲気を纏っている。
油断はない。
真剣だ。
「きああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁッ!」
蘇芳が雄叫びを挙げ、杉村に襲いかかる。
無論、蘇芳も本気で真剣なのだ。お互い怪我だけはしないでほしいんだけど……。
蘇芳が竹刀を振り下ろした。本気で面を狙う、一撃。だが杉村はこれを軽快なフットワークで後退し、回避。これに対して、元々蘇芳も寸止め狙いであるからなのか、躱されることなどとうに予想していたのか、とにかく竹刀の軌道を途中で変え、横に薙いだ!
右から迫り来る竹刀。杉村はこれをしゃがむことで回避する。しかしその姿勢は隙だらけだ。もちろん、その隙を蘇芳は逃さない。容赦なく、竹刀を振り下ろしに行く。
そこから杉村は予想外の動きを見せた。両手を床に着いたかと思いきや、両足を思い切り跳ね上げたのだ。逆立ちでもするように。そして跳ね上げた両足は蘇芳が振り下ろした竹刀を弾く。……いや待て、ここ剣道場だから杉村は裸足なんだぞ。それで竹刀を蹴るとか、普通に考えたら大怪我ものだろう。
「……っ!」
竹刀を蘇芳はやや仰け反る。その隙に杉村は両足を再び地面に着け、ファイティングポーズ。
あくまで、自分から仕掛けるつもりはないらしい。
今も昔も、杉村曰く「女を殴る趣味はねえ」そうだ。
けれど、そんな杉村の姿勢を、蘇芳はどう思うのだろう。
「強いじゃないか……やっぱり、杉村先輩は、強い」
ぽつりと。
蘇芳が呟いた。
「私は剣道が好きだと思っていた。でも私は人を叩きのめすのが好きな、最低の人間だった。剣道をやる資格なんてない。でも……それでも、強くなるために頑張ることが、私は好きだった!」
呟きはやがて、叫びに変わる。
まるで自分に言い聞かせるような、悲痛な叫びだ。
杉村に敗れてから、剣道をやめてから、それでも修練を怠らなかった蘇芳。
己の努力を無駄にしたくないという想い。
生き甲斐をなくしたくないという想い。
「だから強くなりたかった! 強いお前に憧れた! 私は強くなって、お前に勝ちたかった! 違う、今でも勝ちたい! なのにお前は、私の気持ちに応えてくれなかった! 果たし状も、それに、あの時だって!」
あの時、っていうのは、杉村と蘇芳が最初に出会った時ってことかな?
杉村が不良をボコボコにしているところを蘇芳が見掛けて、蘇芳が杉村に勝負を仕掛けた時……。
蘇芳は、杉村に勝負すらしてもらえなかったのだ。
「……悪かったな。お前の気持ちを受け止めてやれなくてよ」
対する杉村は、どこまでも冷静だ。
けれど、ドライな感じはしない。
「来いよ」
杉村は右手を突き出し、手のひらを上に向け、そして指をちょいちょいと数度曲げる。
手招きしている。
かかってこい、と。
「お前の気持ち、受け止めて、その上で――叩き伏せてやっからよ」
「――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉッ!」
雄叫びと共に、蘇芳が神速の足さばきで間合いを詰める。さっき栂椹を打ち据えた時よりも速いのではないか。
竹刀が杉村の面を狙う。速い! もしかして、これなら杉村も避けきれないのでは――?
そして。
蘇芳の神速の太刀に対して杉村が取った行動は、シンプルだった。
「――…………ッ!?」
息を呑んだ。目を疑った。
白刃取り。
蘇芳の剣を、受け止めた。
しかも両手で挟むのではなく、右手で握りしめて。
嘘だろ。
「いい一撃だよ、蘇芳。強くなったな」
「あ、う、う」
もはや戦意を喪失した蘇芳は、床にへたりこんだ。
勝負有り、か。
杉村はやっぱり、蘇芳を超えて、圧倒的だった。
またしても蘇芳は敗れた。
けど、前回と違うのは、勝負をした上で負けた、ということだ。
蘇芳にとって、救いになればいいのだけど。
そんな蘇芳に、栂椹がそっと駆け寄る。
「蘇芳さん、ううん、里和ちゃん。言いたいこと、言わなきゃ」
「……うん」
ん?
何だろう。蘇芳はすっくと立ち上がって、杉村の目をまっすぐ見つめる。
「負けました、杉村先輩。ありがとうございました」
礼儀正しいなあ、と僕は呑気に感心していたのだが。
蘇芳の言葉は、それだけではなかった。
「私は、ずっとあなたに勝ちたかった。憧れていた。あなたのことを――想っていた。茉莉先輩が、私の背中を追いかけてくれたように。
私は恥ずべき人間だ。剣道は好きだけれど、剣道をやる資格なんてない。今でもそう思っている。けど、茉莉先輩との試合は、楽しいと思った。思って、しまった。そして栂椹先輩に勝った時、どうしようもなく、嬉しかった」
一息。
「でも、その嬉しさは、茉莉先輩を叩きのめしたからじゃ、なかった。嬉しかったのは、茉莉先輩が強くなってくれたからだ。こんな喜びがあるなんて、知らなかった。茉莉先輩は私を見て剣道を始めてくれたと言い、そして茉莉先輩は私の背中を追って、強くなってくれた。こんな私に、だ。そのことが、たまらなく嬉しかったんだ。
杉村先輩、先輩は、どうだろう。私が強くなったことを、喜んでくれるだろうか」
蘇芳の問いに対し、杉村は静かに左手を差し伸べた。
握手か?
でも、それなら右手を出すのが正しいはず。
「俺たちは互いに全力で戦ったんだ。握手でシメようぜ。けどわりぃな、左手で勘弁してくれや。なにせ、右手が痺れて使い物にならねえ」
そう言って、杉村は笑った。
「俺の右手を痺れさせた奴は、お前で二人目だよ。すげぇな」
それは最大級の賛辞だった。
蘇芳もはにかんで、左手を差し出して、がっちり握手をする。
杉村はようやく、蘇芳の想いを受け止めた、ってことなのかな。
「杉村先輩。最後に、もう一ついいか。改めて、私に機会を与えて欲しい」
「……おう」
蘇芳はきっと表情を引き締める。杉村の方も真剣な顔になった。
え、何だ。まさかもう一戦始めるつもりか?
しかし、僕の予想は、見当違いも甚だしかった。
次の瞬間、蘇芳が吐き出した言葉は、僕がまるで思いもよらなかったようなものだったのだ。
「――杉村先輩。小学生の頃から好きでした。私と、付き合ってください」