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第四章 小旅行

第四章 小旅行


 七月。

 試験やレポートに学生が追われ、終わると同時に始まる夏休み。

 日差しは強く、日陰でも居るだけで汗が吹き出る時期。空は快晴ではなく大きな入道雲が育っているのが見える。夕方には大きな雨を降らせそうだ。

 紗奈はこの時期の日中に、しかも遊びで出かけるのは生まれて初めてだった。紫外線に耐性の無いアルビノである彼女にとって、強い日光は有害なので避けてきたからだ。照り返しだけでも肌が赤くなってしまう。紫外線だけなら春から初夏にかけてが一番きついのだが、この時期は暑さ故に厚着ができず、服装で肌を守りきれないので厳い。また代わりにUVカット性の高い日焼け止めをたっぷり塗るので、毛穴が塞がって不快指数が上昇する。

 それでも経済的に余裕があるため、家までタクシーを呼んだりして何とか回避できるだけ、彼女はましだろう。

 待ち合わせの場所が改札を出たところだったので、出てすぐのなるべく日なたから離れた位置に立っていた。若草色を基調とした長袖のワンピースに濃緑色のベスト、手の甲まで隠れるようなベージュの手袋に、緑地に花のアクセサリーの付いた鍔広の帽子といつもの色眼鏡。なんとなく夏の草原を思わせる服装。ビルの立ち並ぶこの駅周辺では、真っ白な長い髪も含め、ある意味目立つ格好だった。

 その隣に、長身の身体を灰色を基調としたジャケットとタイトスカートに収めた夕が立っている。ジャケットの下は薄手の黒のタートルネックシャツを着て、サングラスをしていた。地味目の色合いなのだが、小さなヘッドのネックレスが良いアクセントとなっており、体のラインが想像できる服装が、女性としての身体つきをアピールしている。

「居た居た。お待たせ」

 菜々美が二人を見つけてやってきた。ショートの髪に、ジーパンに赤を基調としたTシャツという動きやすい格好。腰に紺色のシャツを巻きつけているのがアクセント。格好だけ見たら男っぽいが、Tシャツを大きく押し上げている女性固有の膨らみが、問答無用の自己主張をしていた。

「ぉはよう、ございます」

 紗奈が挨拶すると、菜々美がごめんごめんと謝った。

 待ち合わせの時間から五分遅れ。遊びの待ち合わせなので、別に気にするほどのことでもない。

「では行こうか」

 目指すは駅ビルに隣接しているデパート。

 すでに試験が終わり、夏休みに入っている。社会人の夕に紗奈と菜々美が合わせて今日、水着を買いに来たのだった。

 事の起こりは一月前になる。

 修が夏の小旅行をもちかけたのだ。試験終了後の七月二十八日に、知り合いのコテージが借りれたからと。

 海に行けない紗奈のことを考え、場所は山。バーベキューするも良し、花火をするも良し、ちょっと山を登れば景色のいい場所もあり、また沢が側にあるので泳ぐこともできるという。

 泳ぐこと自体に興味はあったが、体質的に海に行けない紗奈にとって、なかなか興味深い提案だった。沢なら木陰も多く、海ほど紫外線を浴びなくても良いというのが彼女にとってありがたい事だった。

 菜々美は海の予定はあったが山はなかったので、紗奈が行くなら行くと簡単に了承した。

 夕は少し渋った。もともと学校関係者でもないうえ、その日が休めるか判らなかったからだ。紗奈の護衛の仕事は七月の試験終了と同時に終わる。しかし修がその後何度か連絡をとり、さらに紗奈からお願いされたこともあり、なんとかスケジュールを調整し参加することになった。

 しかしこの提案で一番意外だったのが、提案者が一志だったことだろう。もっとも大まかなことは決めても細部は全て修に任せていたので、本当に提案だけだったようだが。

 三人は駅ビルを通り、三階の連絡通路からデパートに入る。夏物最大八十パーセントオフというバーゲン中なのが菜々美の琴線に触れたらしく、買い物はここでと強く希望した。しかしバーゲンも最終日ということもあって、混雑しているほどではない。紗奈は人混みに突撃しなければならないかと身構えていたが、そんなことは無いようなので安堵した。

 目的の水着売り場に辿り着く。

 そこは他に比べても人混みは少ない。目ぼしいものが大抵完売しているせいなのか、水着の購入希望者はとっくに買い終わっているのか、おそらく両方だろう。時期的に密に押し込まれているほどに並んでいるはずの商品は、余裕のある配置をされていた。

「ほなら、適当に見て回ろうか」

 菜々美が嬉々として先頭に立って売り場に入っていく。一歩遅れて紗奈が後に続いた。夕は彼女の後ろを、いつもの護衛のように歩いていく。

 今回のメインは紗奈の水着選びだった。菜々美と夕は自前のものを持っている。菜々美はいいのがあったら買いたい程度で、夕に至ってはほぼ買う気無しである。しかし紗奈は小学校のプール授業でも泳いだことはない。紫外線に当たれないという理由もあり、水着を買うことなど考えたこともなかった。

 今度の小旅行で行くのは山なのだから水着は不要と思っていたが、近くに綺麗な沢があり、木陰になった川面を泳げるとのことで、是非全員で泳ごうという話になったのだ。

 で、唯一の問題が、紗奈が水着を持っていないことだったのである。

「さて……紗奈はん、覚悟してもらうでぇ」

 菜々美の眼鏡が光った気がした。何かを企む目線に、紗奈は一歩下がりそうになる。しかし後ろにいた夕にがっしりと肩を捕まれて、下がるに下がれなかった。

「これとかどうかなぁ」

 菜々美が商品を選ぶ。あからさまに布の面積が少ないタイプを厳選している。

 空調は十分快適に効いているのに、紗奈は何か嫌な汗がでてきた。


 紗奈は一人、家の最寄駅で降りた。菜々美は二駅向こうなのでここでお別れだ。夕は帰る方向が違うので、買い物をした駅ビルで別れている。

 いつもの駅。日が高かったり、疲れていたりした場合はタクシーを使うのだが、今日はすでに日は沈んでおり、楽しかったからか足取りも軽い。日が沈んだといっても夏である。薄暗くなりだしていたが、まだまだ明るいので家まで歩く。どうせ徒歩十五分も掛からない。

 タクシーに乗るためのならロータリーのほうにでるが、今日は反対側の出入り口から出る。

 今日買った水着の入った紙袋を大事そうに抱えながら歩く。駅から少し歩くとすぐに住宅地に入るので人通りはまばらになる。それでも帰路にあるのだろう数人は、同じ方向に歩いていく。

 この辺りは昔は丘だったらしく、斜面を造成して住宅地となったので道は坂ばかりだ。登るのが苦になるほど急ではないが、ずっと続くので体力の無い紗奈には少々堪える。少し汗も出てきたので歩く速度を落とす。幾人かが彼女を追い越して歩いていった。

(ふう)

 十分ほど歩いたぐらいで街灯が点き始めた。だいぶ暗くなりだしており、人も後ろに男性が一人歩いてるだけだった。住宅地というのは人が居るはずのところなのに、どうしてこうも人の気配がなくなるのか常々不思議だった。

 自宅の近所でも子供の頃は怖くてしかたがなかったが、さすがにもう恐怖は感じない。

 角を曲がったところで、向こうから車が一台やってくるのが見えた。黒いボディに大きな車体のワンボックス。紗奈は車にはくわしくないが、とりわけ珍しい車種でもなさそうなのはわかる。この辺りの住人の持ち物だろう。

 道の端に寄る。十分通れる幅があるのだが、車は安全のためか減速して横を通り過ぎようとしている。

 注意は前の車に向いていた。

「!」

 いきなり後ろから抱きつかれた。反射的に悲鳴をあげようとするが、口にハンカチか何かを押し付けられているので、くぐもった声しか出ない。

 暴れて振りほどこうとするが、がっちりと男の腕力で押さえ込まれていてビクともしない。

(助けて!)

 目の前まで来た車に助けを求めようとするが声が出ない。それでも運転席からは見えているはずだ。

 車は真横まで来たところで急ブレーキをかけて止まった。

(助かった……)

 側面のスライドドアが開く。男が一人、無言で降りてきた。

 紗奈の顔が強張る。

 スキンヘッドに鼻ピアス、サングラスの大男だった。否、格好の話ではない。動きは早いが、慌てていない。まるでこうなる予定だと判っていたような動き。

「おい、早くしろ」

「わかってますよ……この、暴れるな」

 グルだ。それに気づき、紗奈は一層力任せに暴れた。二人がかりで押さえ込まれたら、確実に逃げられない。

(あれ?)

 パニックと恐怖に染められつつあった意識が、不意にぼやけ始める。睡魔とは異なり、意識や感情とは無関係に思考能力が落ちていく。

(何か……薬?)

 そういえばドラマとかでハンカチに染み込ませたクロロフォルムを嗅がせて誘拐する話があったっけ。

 思考が停止し始める。同時に体の力が抜けていく。

「よし、効いたみたいだな」

 口からハンカチが外された。しかし声は出せない。出そうとする意識が働かない。

(……)

「とっとと乗せちまえ」

 スキンヘッドの男が両脇を持ち、後ろから押さえつけていた男が腰を持ち上げる。

(…………?)

 車内に連れ込まれそうになりながらも、意識は朦朧としていて、身動きひとつできない。

「へへ……あとで可愛がってや、ぐぉ」

(………………?)

 何か変な声がした気がする。しかし意識はそのまま闇に落ちていった。


「なんだ、てめぇ!」

 男の怒声に、しかし相手は一瞬のひるみも躊躇もしない。

 少女を後ろから抱えようとしていた仲間の男が、相手の一撃で文字通り吹き飛ばされたのを見て、強敵であることを瞬時に悟ってはいた。

 まともに戦っては勝てない。

 だから怒鳴りながらも、目的の少女を車に引っ張り込もうとする作業は止めなかった。怒鳴るだけで相手を威嚇しようとした。しかし、それでは不十分らしい。場慣れしているようだ。

(こいつ、護衛の女か!)

 離れた街灯の明かりではシルエットしか見えないが、見覚えのある背格好だった。だとすると場慣れしているのは当然だろう。武芸のほうもかなりの強さと思われる。

 相手が躊躇無く、顔面に向かって開いた手を振ってきた。突くというより手の甲から指にかけてを叩きつけて目潰しを狙っているやり方だ。やむを得ず片手を少女の身体から離して防御にまわす。

 バチィ

 鞭のように撓った手が、腕とぶつかり合う。派手な音がしたが、お互いダメージは大して無い。

 しかし相手は止まらない。今の攻撃を眼くらましにして、間合いを詰めてきた。今とは逆の手が、今度は腹部に向かって放たれる。

 ドゥ

 鈍い音。筋肉には自信がある。咄嗟に腹筋を締めてダメージを受け止める。鍛えているとはいえ、女性の腕力程度なら防げたはずだ。しかし脇を締め、肘を腰に乗せて放たれた攻撃は、彼女の体重が乗った重い一撃だった。しかも正確に鳩尾を貫いている。内臓にかなりの激痛が走った。

「が……」

 一瞬息が詰まる。反撃に腕を大きく振るが、そんなものでは相手は捕らえられなかった。

 さらに懐に入られる。少女を掴んだままだった腕を掴まれ、逆間接を極めてくる。脚をからませこちらの動きも同時に封じられる。さらには身体ごと体当たりのようにぶつけられ、受身も取れないままアスファルトに叩きつけられた。

「いてぇ……」

 声が出ただけましな状態かもしれないが、それでも全身を叩きつけられたため、激痛ですぐに動けない。サングラスはスポーツタイプでベルトで固定されていて顔からずれずれなかった。そのため、幸い視界は妨げず、素顔も見られなかった。

「くそ、このアマ!」

 さきほど吹き飛ばされた仲間が起き上がって、隠し持っていたナイフを抜いた。街灯の光が反射して、鋭さを強調する。

 しかし相手は怯まない。護衛なら刃物相手の訓練も相当踏んでいるだろう。

(こいつはまずい……)

 護衛がまだ居たのは誤算だった。標的の身辺を調査しつつ機を伺った。時期的に護衛が居なくなる夏休みが狙い目だと教えられ、今回実行した。護衛の女と会っているのは連絡があったものの、駅で別れたはずだった。予定通りなら問題なく標的を攫えただろう。

 男は頭を切り替える。計画が失敗した今、逃げることが最優先だ。警察に捕まる愚は冒せない。

 痛みを振り切り半身を起こす。ちょうど仲間が護衛の女にナイフを持つ手を捻りあげられ、居合いの投げ技のように宙を舞わされた瞬間だった。

 ドゥ

 アスファルトに叩きつけられ、苦悶の表情を浮かべる。声は息が詰まって出せないようだ。

 護衛の女は叩き伏せた相手を拘束することなくすばやく移動する。その先には倒れたままの標的が居た。薬が効いているらしくぐったりしたまま動かない。護衛の女はあくまで護衛に徹するようだ。標的を人質にする考えは即座に捨てる。

 ポケットをまさぐる。保険のために作っておいた代物が役に立ちそうだった。

「おい!立てよ!」

 あえて名前を言わない。顔を見られているが帽子を深く被ったり、サングラスをつけたりしている。こちらを特定する要素は極力減らしたほうが良いだろう。言いながら運転手に合図を送る。手を大きく振っただけなので、護衛の女に詳細は判らないだろう。

「は、はい磐田いわたさん……」

 この馬鹿が。罵る言葉が怒りで潰れる。一瞬置いていくことを考えたが、一人でも捕まったら芋ずる式だ。連れて行くしかない。

 激痛に耐えながらか、ノロノロと立ち上がる。その間が長く感じた。明らかな強者との対峙は、必要以上に緊張がある。

 護衛の女は標的とこちらの間に立ったまま構えている。喧嘩の勘から、身長も体躯もこっちが上だが、間合いは向こうのほうが長いのが判る。二人がかりでも、一瞬の機を突かれてやられるに違いない。

「……あんた、つえぇな」

 相手は無言。隙は無い。

「あばよ!」

 手にしていた筒を向けてスイッチを押す。瞬間、筒の中のマグネシウムが発火する。おもちゃの雷管とマグネシウムを細い筒に入れて密閉しただけの簡単な発光装置。しかしマグネシウムは昔のカメラのストロボに使われたほど強い光を放つ。眼くらましにはなるはずだ。

「磐田さん!今なら……」

「馬鹿野郎!さっさと乗れ!」

 光は一秒程度しか保たない。確かに素人相手なら目潰しの間に叩きのめせるだろうが、護衛の女は構えている間、片目を閉じていた。暗闇に慣らすためと、目潰しを警戒してだろう。小細工程度では相手にならない。

 発光を合図に車が急激にバックしてきたので、それに飛び乗り、馬鹿な仲間も引っ張り込む。

(あちち)

 筒が燃えていたが、道路に捨てるわけにはいかない。火傷と引き換えで証拠は残さない。

「行け!」

 運転席の仲間が無言で車を急発進させた。標的と護衛の女が遠ざかる。追うつもりは無いようだ。

(くそ……)

 安堵と同時に憤りが沸いて出た。燃えたままの筒を床に叩きつけ、踏みつける。火の粉が散り、車の床が少々焦げるが構わなかった。

 車は夜の闇に紛れるように走って行った。


 七月二十八日早朝。

 大学の最寄り駅である大平駅。小さなロータリーがあるこじんまりとした駅。大学最寄なため周囲もそれに合わせて発展してきたが、田舎っぽさが抜け切れない雰囲気がある。

 その駅の改札を出たところに夕が立っていた。スニーカーにジーパン、Tシャツに上着代わりに厚手のシャツを羽織っているという動きやすそうな格好に小さめのリュックを持ち、キャップ型の帽子を被っている。いかにも山登りでもしそうな雰囲気だ。

「おまたせー」

 菜々美がやってきた。彼女は大学側の寮、といってもワンルームのマンション、で一人暮らししているので歩いてきたのだった。こちらもスニーカーにジーパン、Tシャツにキャップ帽。色が夕とは異なるが、基本が同じなのは山に行くという目的からだろう。山登りではないのだが、雰囲気でそういう服を選んでしまう。荷物も夕よりは大きいが普通のリュック一つだった。

「あれ? 紗奈はんは?」

「まだだ。そろそろ来るだろう」

 菜々美が周囲を見渡す。なんとなく時間から遅れるのは彼女らしくないように思えたが、大して不思議にも思わなかった。

 誘拐騒ぎのことは紗奈と夕、そして紗奈の母親だけの秘密にしている。警察には届けたが、公にしても意味が無いのと、いらぬ心配をされそうだからだ。紗奈が少々ショックを受けたものの、大きな問題が無かったからでもある。ただし、その分個人的に注意するようにしていた。今回の集合時間に五分遅れで来るのもその一環だ。早朝の駅で一人などと言うことが無いように。事実、周辺を見ても彼女ら二人以外は、大学のほうから歩いてくる男性が一人居るだけで、ほかに人は居ない。

 そうこうしているとタクシーが止まり紗奈が降りてきた。彼女はいつものようなワンピースを基本とした服装をしている。靴も踵の高いサンダルであり、山歩きには不向きそうだ。しかもタクシーのトランクから一抱えもある大きな鞄を取り出す。遠出や山歩きをしたことがないと言っていたが、その経験不足が如実にでていた。

「……指導しとくべきだったか……」

 夕がしまったと呟いた。車での移動なので荷物の量は問題ないだろうが、あの靴では転んで怪我でもしそうだ。

「ぉはよう、ございます。遅くなり、ました……先輩達、は?」

 わざと遅れてきた後ろめたさで、なんとなく深深と頭を下げてしまう。

「さあ? まだやけど」

「女性を待たせるとは、なってない男供だな」

 などと話していると、一台のRV車がロータリーに入ってきた。三人の目の前で止まる。運転席から修が降りてきた。

「お待たせ。全員揃ってるな。じゃ、荷物載せてすぐ出発しますか」

「ぇ? 荒川先輩、がまだ……」

 トランクを開ける修に、紗奈が首を傾げて問う。三人とも周囲を見渡すが見当たらない。

「おはようございます」

 不意に真横から声を掛けれれた。見慣れない男性だった。

「え? どちらさん?」

 菜々美の質問に、男のほうが驚き、頭を搔いた。そして何か気づいたように言葉を続ける。

「あー、わからないか。荒川です。荒川一志」

『え!』

 三人の声が重なる。

「うそ! いつもボサボサの髪によれよれの服着てはったのに、どないしはったん!?」

 男の、一志の見た目がいつもと違いすぎていたため、三人はわからなかった。ボサボサの髪はさっぱりと切られて整えられており、服装も真新しい黒いジーパンに白のシャツを羽織っている。長袖のシャツを少し腕まくりし、スポーツバックを持つ姿は、ガレージで汚れたツナギで何かしている彼のイメージからかけ離れていた。意外と身体が締まっていて身長もあるので、爽やかなスポーツマンといった雰囲気すらある。

 そして一番驚いたのが、顔つきが結構整っていたことだ。いつもは二枚目からかけ離れているのに、今はしっかりとその範疇に入っている。

「八幡、なんか不評だぞ」

「馬鹿。どんな眼と耳をしてやがる。好評なんだよ」

 そうなのか? と聞くと、紗奈と菜々美がそろって頷いた。

「知り合いのコーディネーターに頼んで、いろいろしてもらったんだ。まさかここまでレベルが上がるとは思わなかったけどな」

 修の説明に一志は気恥ずかしそうに頭を搔いた。


「生まれて初めて美容室に放り込まれるし、まいったよ。まったく」

 車はすでに高速道路に乗っている。一志がどういうことをされてそこまで変わったのかを、菜々美が根掘り葉掘り聞くので、答えているうちに随分時間がすぎてしまった。紗奈はもちろん、夕も興味深げにいくも質問してくるので、それだけで十分な話題となっていた。

「そういえば、どこまで行くんだ?」

 夕がいまさらながらの質問をした。彼女はスケジュール調整で目いっぱいだったので、細かいことを聞いていないのだ。

「信州の山奥です。中央道降りて少し走ります。結構穴場ですよ。使ってない別荘とかを県に登録しておいて、シーズンに安く借りられる制度があって、これもその一つです。ただ知り合いなんで直接借りるんですけどね。」

 運転しながら修が答える。

「ぁの、知り合い、のコテージって、言ってました、けど、どのような、お知り合い、なんです、か?」

「ああ、OBだよ」

 紗奈の質問に一志が答える。

「韋駄天一号の製作者」


「おう、良く来たな」

 駐車場でコテージの貸主が出迎えてくれた。

 渋滞こそしていないが、夏休みのため車が多い高速道路を四時間ほど走り、さらに下道を一時間ほど走ってようやく目的地の一つに到着した。

 入り組んだ山間に入る直前ぐらいにある工場。

 工場は一つが体育館ほどもあり、なぜこんな場所にこれほどの規模の建物があるのかわからないほど大きい。それが五棟もあった。小さいのはさらにいくつかある。

 車が到着したときに一志が電話をかけると、事務所とおぼしき場所から一人の男、貸主が出てきた。

 背が高めの一志よりさらに身長があり、なにより筋肉質ながっちりとした体躯の持ち主だった。少々汚れた作業着、たぶん仕事をしていたのだろう、を着ており、少々長めの揉み上げが、ほどほどに彼の暑苦しさを強調していた。

 彼の誘導に従って車を止めると、全員降りる。一志と修がお久しぶりですと頭を下げた。

「おお、最近の大学の新入生はレベルが高いな」

 三人を見て、がははと大きな声をだして笑う。まだ二十四歳ぐらいのはずだが、なんとなく中年親父っぽい。

「こちらから、新条さん、大林さん、篠山さん。でこの人が、韋駄天一号製作者の天王寺先輩」

天王寺勇武てんのうじ いさむって言うんだ。よろしくな。っとこれ名刺」

 紗奈達三人に名刺を渡す。見ると「韋駄天工業有限会社 代表取締役補佐 天王寺 勇武」と書かれていた。

「ぃ韋駄天、工業?」

「代表取締役補佐?」

 紗奈と菜々美が次々と声を上げた。

「ま、親父の会社を手伝ってるんでな。肩書きだけさ」

 大した事無いと笑う。とはいえこれだけの規模の工場となると、結構な立ち位置だと思われる。

「まあ立ち話もなんだ。ちょっと休憩がてら寄ってけ」


「肉と野菜は仕入れておいたぞ。捌きたての取れたてだ」

 事務室の応接室、ソファーが置かれて区切られている一角、に案内される。そこに肉の入ったクーラーボックスと野菜の入ったダンボールが置かれていた。

『ごちになりまーす』

「金払え」

 一志と修の言葉に勇武が突っ込む。お約束らしい。

「ちょっと書類とってくるから、座って待っててくれ」

 そう言って離れた勇武と入れ違いに、初老の女性事務員がアイスコーヒーを持ってきてくれた。

「外は暑かったでしょう。若旦那の後輩さん達やって? 遠いところからはるばる、いらっしゃいませ」

「若旦那?」

「勇武ちゃんのこと。社長の息子さんだから。勇武ちゃんと若旦那、どっちがいいかで、若旦那」

 この人は、かなり昔から勇武のことを知っているのだろう。おそらく子供の頃から。

「おばちゃん、いまさら、ちゃん付けはないだろう。若旦那しか選択肢がないじゃないか」

「まあまあま、勇武ちゃん、こんなに立派になって」

 からかうように一言残して離れてくおばちゃん。女性陣三人が笑いを必死に堪えているのを見て、まいったなと勇武は呟いた。

「す、す、す、すみません……ちゃん付けが、あまりに、似合って、なかったので……」

 紗奈が深呼吸をして笑いを抑えながら謝る。油断すると笑いそうになるのか、顔が引きつっていた。

「あの人は、俺がガキの頃から働いている人だからなぁ。いつまでも子供扱いなのもしかたないんだが」

「それ、わかります」

 菜々美が同意する。

「うちも近所のおばちゃんには、いつまでたっても、ちゃん付けで呼ばれますし」

 勇武がやっぱりそうなのか、と笑う。

 一志に書類を渡す。コテージを借りる関係の書類らしい。名前や住所を記入する覧がある。

「ぁ、あの、ちょっと、質問、いいですか?」

 紗奈が控えめに手を挙げる。ふとした疑問を聞いてみたくなったのだ。以前なら初対面の相手に質問するなどできなかっただろうが、勇武の人柄か、聞き辛いことはなかった。

 勇武がどうぞと促す。

「あの、天王寺、先輩は、ロボット工学科、卒ですよね?……経営者の、息子さんなら、経済学部、とかに、行かれるの、普通かと、思うのですが」

「ああ、まあ普通の会社ならそうかもな。けどここは、まあ特殊なんだよ」

「と、特殊?」

「ここいらは昔は、あちこちに小さい工場があったんだ。それが時代の流れと不況のせいで次々に潰れていった。うちは幸いにも特殊な技術を持っていたからなんとか踏ん張っていたがな。まあ潰れるといっても仕事が無くなった訳じゃない。小さい仕事ぐらいはあったがそれじゃ食っていけない。けど潰れたらその小さい仕事もどこかへ行ってしまう。そこで親父は、その仕事ごと工場を次々に買い取った。場所柄兼業農家が多かったから周三日勤務とかにして給料は低めにしてな。小さい仕事もかき集めれば、結構な額になるしな」

 一息ついてコーヒーを飲む。思わず全員が聞き入っていた。

「ところが次々に工場を買収していくと、困った問題がでてくる。仕事の種類が多すぎて、多数の専門家が必要となってくるんだ。仕事を限定していた小さい工場だったときは、ベテランが一人いればなんとか回せたが、買収しすぎて十人ベテランがいても、取ってきた仕事をしたことがないってことがザラに起こる。それでもなんとか近い経験の人をクライアントに引っ張っていって、仕事の判断をしてもらっていたが、やはり限界がある」

「ぁ、それで、ロボット工学科」

 紗奈の一言に、そのとおり、と頷く。

「多種の仕事をするには、やはり複合的な知識が必要になる。板金や溶接に特化するなら機械科とかもありなんだが、俺がならなきゃならないのは、特化した技術や知識の専門家じゃなくて、広く浅くの知識と経験を持つマネージャーなんだ。だから多種を学べるロボット工学科へいったのさ」

 なるほど、と紗奈と菜々美は頷いた。紗奈は興味半分だし、菜々美は得意なものを活かす為に進学した。将来のビジョンはないから、勇武の意見はとても高貴に思えた。

「それが韋駄天作って遊んでたんだから……」

「おいおい、あれは経験の上では役に立ったんだぞ。CADや溶接、板金、素材ほかもろもろ」

 修の茶化しに突っ込む。

「会社的には成功なのでは? これほど多くの工場が建てられるなら」

 夕が真面目に聞く。羽振りがいいというふうには見えないが、それでも経営が苦しそうにも見えない。

「まあね。昔はコストコストで品質度外視で外国に工場を建てるのが普通だったんだが、最近は外国の技術は上がったものの経済成長してくると、単純に外国に工場を作ったほうがコストが安いとは言いがたい状況もでてくる。それに輸送時間や早急な注文には、どうしたって国産に軍配が上がる。不況は続いているが、大企業もその辺りを見直してきてな、急な注文や仕様変更に応えられる工場にパイプを持っておくのが得策と考えるようなった。部品が揃って組み立てようとした時に、一つの部品に問題があって生産が止まるんじゃ話しにならない。その一つの部品を発注し直して何ヵ月止まるとなるとなおさらだ。そういうことが積み重なって、うちみたいな複合工場に注文が結構来るようなった」

 ま、それでも余裕は無いけどな、と付け加えながら一志が書き終わった書類を確認する。

「よし。じゃ、もろもろ込みで1万円だ」

「はい」

 修がお金を払うと、勇武みは領収書をきった。今回の払いは全て一志と修が持つつもりだったが、夕が社会人としての面子を立てるように迫り、三等分することになった。高速代やガス代、宿泊費と飯の材料費を含めても、一人一万円そこそこになる計算だ。五人の一泊旅行としては格安だろう。紗奈と菜々美もさすがに申し訳ないので、飲み物やお菓子など小さめのものを負担する事になっている。

「さて、それじゃ行きますか」

 全員が勇武にお礼をしながら席を立つ。

「おい荒川」

「はい?」

 全員事務所を出ようとしたところで呼び止められた。

「仕事終わったら顔出すから、そのとき韋駄天の話を聞かせろよ」

 了解ですと言って、一志はクーラーボックスを抱えて事務所を出た。


 深い森の中を蛇行する道路を走る。三十分ほどかけて、ようやく目的地に着いた。

「すごい良さげやん」

 菜々美の第一声は、他二人の代弁でもあった。

 森を抜けた場所、崖にベランダが張り出すように立つログハウス。崖といっても四十度ぐらいの坂で、五メートル下ぐらいに綺麗な沢が流れていた。すこし上流に小さい滝も見え、下流のほうを見れば、森の向こうの開けた平野が遠くまで見える。菜々美の言うとおり、ロケーションはなかなかだ。

 預かってきた鍵でログハウスの扉を開ける。ハウスは一階建てで、半分が玄関、リビング、ダイニング、キッチンが一体となった部屋となっている。残り半分に寝室と風呂、トイレ、さらにロフトがあり、五人が泊まるには十分な広さがあった。設備も整っており、エアコンや薪ストーブ、五十インチのテレビにサラウンドの音響まである。勇武が社員の福祉施設としても使っていると言っていたが、利用頻度が高いのかそれなりにお金をかけているようだ。

「女性陣は一階の寝室、俺らはロフトかな。ロフト、ドアも何も無いし。それでいいかな?」

 全員頷き、各々とりあえず荷物を置く。

「荷物は片しとくから、泳いできたら?」

 修の提案に三人がどうしようかと話す。

 時間的にはお昼だが、サービスエリアで早めの昼食をとったので、お腹はすいてない。

「沢は冷たいから、日の高いうちじゃないと体冷えるしな」

 一志が、クーラーボックスの肉、勇武が捌いたのをもらってきたから食品トレイではなくビニールに直接包まれている、を冷蔵庫に移しながら言う。

「ぁの、先輩方は?」

「ああ、夕食の……」

「荷物片付けたらすぐ行くよ」

 修が、紗奈の質問に答えようとした一志を遮る。

「片付ける量も知れてるし、男は着替えるのすぐだから、気にせず先に行って来て」

 そうですか、と三人が着替えるために寝室に入っていった。

「おい八幡。晩飯バーベキューだろ? カマドの準備しとかないと、日が暮れるぞ?」

「ばーか。俺らが準備してて、彼女らが心底楽しめるわけないだろ。気を利かせる方向が間違ってんだよ」

 一志が首を傾げ、そんなもんか、と唸る。

「どっちにしろ、とっとと全部運んじまおうぜ」


「冷た!」

 沢に一番乗りした菜々美が声を上げる。

 三人は沢に降りてきた。ログハウスの横に石を組んで作ったお手製の階段があり、サンダルでも安全に沢に降りれた。

 真夏なのに水は冷たく、森を抜けてくる風はヒンヤリとしている。今のうちじゃないと体が冷えるといった一志の言葉が実感できた。海なら夕方でも泳げるし、むしろ気持ちがよかったりするが、ここだと凍えそうだ。

「準備運動しないと怪我するぞ」

 夕は言いながら準備運動を始めている。怪我をしたら仕事に差し障るので、身体を使うことには妥協しない。

「いいやん、いいやん。二十五メートル、クロールするわけでもなし。なあ紗奈はん……あれ?どこや?」

 紗奈は木陰を求めて沢の上流側に移動していた。降りたところの河原は日向だが、ちょっと外れれば木陰は多く、紗奈にとってはありがたい場所だ。

 パーカーのフードを外す。天然の冷風が気持ちいい。深緑、水のせせらぎ、滝の水音、時々混じる鳥や虫の声、木々や草花の香りが全身を包む。

(自然て、こんなにいいものなんだ)

 生まれ育った場所は自然と呼べるものがない住宅地。体育のプール授業はもとより、修学旅行や林間学校など、学校の行事にでていない。ずっと空調の効いた室内にいた紗奈は、自然を感じることは皆無だった。テレビなどで見たことはあるが、視覚情報だけで実感はなかった。

 今は五感全てで感じることができた。泳ぐことが目的だったが、それすらどうでもいいと思えるほど心地良かった。紫外線対策に丈の長いパーカーを羽織っているが、膝下まであるほどなので風が遮られる。ここでは邪魔な気がした。

「おまたせー」

 一志と修が降りてきた。二人ともなぜか箱を一ずつ持っている。降りたところで念入りに準備体操をしていた夕と話し始めた。離れていて聞き取れないが、何か楽しそうだった。

 紗奈は疎外感を感じた。日向にでることができない自分の身体を呪う。光と影の境が境界線のように思えてくる。決して超えられない境界線ではないが、超えたら命の危険がでてくるライン。

「なにしとん?」

 いきなり横合いから声を掛けられ、びっくりして飛び上がる。見ると菜々美が立っていた。泳いできたらしく息が荒い。

「ぁ、ぃいえ、なんでも」

「?」

「……ところで……流れに、逆らって、来た、ですか?」

 疑問で誤魔化す。

「そやで。運動は苦手やけど、泳ぐんは得意なんよ。ここはなかなか泳ぎ応えあるわぁ」

 唖然としてしまう。泳ぐことがどのくらい大変かは知らないが、流れが急でないにしても逆らって泳ぐのは大変な労力だろうとは判る。

「それより、泳がへんの?」

「ぁ、私は……」

 魅力的だとは思うが、生まれて初めてのことなので躊躇してしまう。

「あー、かなずち? 大丈夫やて、パシャパシャしてるだけでも楽しいで」

 菜々美は言うがはやく、紗奈の腕をとり河に引き込む。

「ち、ちょ、ちょっと、待って……」

「待たへんー」

 問答無用。

 バッシャーン

 逆らいきれず引きずりこまれ、川底の石でサンダルが滑って、勢いよく頭から水面に突っ込んだ。

「ご、ごほごほ」

 水を飲んでしまい咽る。

「ごめんごめん。大丈夫……うわ!」

 紗奈は近づいた菜々美の胴に抱きつくと、そのまま二人して倒れこむ。

 ドバッシャーン!

 盛大に水柱が立った。

「おいおい、そんな遊びは危ないぞ」

 川面から起き上がると、夕の注意が飛んできた。沢なので周囲に岩があり、確かにぶつかると危険だった。

「……ぉ、重い」

 立とうとした紗奈がよろめく。水着だけの菜々美と違い、丈の長いパーカーを羽織っていた紗奈はそれが水を吸ってしまい、とんでもなく重たくなってしまっていた。

「大丈夫か?」

 夕が河に入って紗奈に手を貸して立たせる。

「脱いだほうがいいぞ。その辺の枝にでもかけて乾かして……どうした?」

 紗奈がパーカーを脱ぐどころか、前を隠すように抱き込んだ。

「おお、眼福眼福」

 修が遅れてやってきた。一志もその後ろに居る。

 紗奈は初めての水着姿を恥ずかしく思い、思わず隠してしまったのだった。

 夕が競泳水着を思わせる藍色のワンピースに丈の短いパーカーを羽織っている。十二分に引き締まった身体は余分な飾りすら許容しないプロポーションを誇っていた。菜々美はその大きな胸を強調するようなカットが入った紅いセパレート。向日葵の絵がワンポイントに書かれている。夕と比べると子供っぽさがでているが、その胸が強烈なアンバランスを主張している。紗奈は身体を隠したので水着はわからない。しかし濡れたパーカーが身体に張り付いているので、凸は少ないが凹のはっきりした身体のラインが良くわかる。

「八幡先輩、いやらしい目してはる」

「いつもだろう」

 菜々美の言葉に、夕が即座に痛烈な突込みを入れた。

「俺だけかよ。荒川もおんなじだぞ。なぁ」

 一志は、ああ、と思わず同意してしまう。

「ええねん。荒川先輩は。なぁ」

「まあ、そうだな。普段真面目な男性から女性として意識されるのは、結構嬉しいからな」

「ひでぇ、差別だ」

 日頃の行いだ、と夕は容赦がない。

「なあなあ、紗奈はん。そない濡れたの着とったらむしろ身体冷えるで」

「で……でも……」

 顔が赤い。

「ああ、そうだな。というわけで男性陣。回れ右」

「はいよ」

 状況を汲み取った夕の言葉に、男二人は素直に従う。

 紗奈は二人が向こうを向いたのを確認すると、恐る恐る濡れたパーカーを脱ぐ。夕がそれを受け取ると一度力をいれて絞る。水がバシャバシャと搾り出せた。

「もういいでー」

「ぇ! まだ……」

 いきなりな菜々美の言葉に、紗奈は制止を求めるが間に合わなかった。

「お、かわいい」

 修の言葉に一志が頷く。

 紗奈は蒼を基調としたセパレートだった。フリフリとした飾りが申し訳程度についており、肌の白さもあいまって、彫刻のような絶妙なバランスを感じさせる。

 男性陣の反応を見て、彼女は耳まで真っ赤にしてしまった。


 そこからはしばらく河で水遊びとなった。恐る恐るだった紗奈も慣れると皆と同じようにはしゃぐようになった。時々流れに足をとられて川面に突っ込んだが、それはそれで楽しかった。菜々美から手ほどきを受け、なんとか平泳ぎできるようになった。まだ河の流れに逆らえないので泳ぐと流されていくが、沈まなくなった分、紗奈自身余裕がでてきた。夕は二人ほどはしゃがなかったが、一度滝をよじ登ろうとして一志に止められるなど、内心かなり楽しんでいた。

 途中、一志が持ってきた箱から墨とトウモロコシを取り出して、簡単なコンロを石組みして焼き始めた。五人は一度小休止をとり、焼きたてのトウモロコシを頬張った。

 そうやって三時間ほど遊んだだろうか。少し太陽が傾き始めたと思ったぐらいなのに、急に風が冷たくなった。

「寒……」

 今までが涼風なら今は冷風だった。紗奈を除く四人は無意識に太陽の光を求めて日なたに移動する。紗奈も行きかけたが、長年染み付いた習慣がギリギリのところで踏みとどまらせた。

 また疎外感が沸いてきた。

 しかし今回はすぐに消えることとなった。

「はい」

 一志がタオルと乾かしていたパーカーを持って来てくれたからだ。

「あ、ありがとうございます」

「パーカーはちょっと裾の方が半乾きだけど、大丈夫だろう」

 風通しのいい日のあたる枝にかけていたが、さすがにこの時間で完全に乾くのは無理だったようだ。

 紗奈はタオルで濡れた身体を拭く。まとめていた髪も解き、丹念に水気をとる。一志が側でパーカーを持ったまま待っていてくれるのだが、じっと見ているため、だんだん気恥ずかしくなってきた。拭き終わり、タオルと引き換えに一志からパーカーを受け取ると、身体を隠すように着る。裾があたる膝辺りが冷たいが、水気を切り、風を遮れるようになったので、随分暖かく感じる。

 一志は受け取ったタオルで適当に身体を拭くと、それを首にかけ、水辺の岩に腰掛けた。その岩は半分が日なた、半分が木陰になっている。何か様子を確かめた後手招きするので行ってみる。

「あ。暖かい」

「ちょっと前まで全体で日差しを受けてた岩だから、けっこう蓄熱してるはず」

 なるほどと思う。それに気づいた一志は、結構アウトドア派なのかもしれない。

 他の三人は少し離れた日なたの河に居た。もう少し遊ぶ気らしい。

「せ、先輩、上着は?」

「ん? 身体拭けたから大丈夫。岩も暖かいしな」

「……あの、気を使って、くれてます?」

「え? なんで?」

 一志が不思議そうに聞いてきた。

「み皆さん、まだ楽しそうに、遊んでます……私は、あちらに、は行けませんけど……」

「単に疲れたんで休んでるだけだって。言うほど体力ないしな」

「そ、そうですか」

 言葉が切れる。会話が続かない。せせらぎの音と枝葉が風で揺れる音だけが聞こえてくる。お互い、修や菜々美のように話すのが上手くないのが原因だろう。

「なあ。太陽って嫌いか?」

「ぇ? ぃえ。別に、嫌いでは、ないです。危険、だと、思ってますけど」

 あまり聞かれない類の質問。不快は感じないが、気分のいいものでもない。

「なんでロボット工学科に入ったんだ?」

 急に話題が変わる。一瞬戸惑うが、自分と同じように話すのが苦手なのだろうと割り切ることにした。

「前から聞きたかったんだが、ソフトウェアの、情報工学ではとんでもない技術者だよな。それがなんでロボット工学なんだろうって、疑問でな」

 確かにはっきりとは誰にも言っていない。それでもなんとなく気づいているものだと思っていたけれど。以前なら普通に言えただろう。しかし勇武がロボット工学科へ進学した理由を聞いた今、自分の動機がひどく幼稚なものに思えた。口のするのが恥ずかしく思える。

(韋駄天を見たからだって……)

「ちなみに俺は、天王寺先輩の韋駄天一号を見たからだ」

「ぁ……え?」

 紗奈が言いづらいと思ったのとまったく同じ理由を、一志はさらりと口にした。それに驚きと戸惑いを覚える。

「完全人力で、動力も何も付いていない代物だったんだけど、すごく惹かれてね。今から思うとガラクタに毛のはえたようなものだったんだけど、研究……違うな、作りたいと思えた。明確な理屈はないけど」

 一志が楽しそうに話す。

 不思議だった。同じ理由なのにこの差はなんだろうと思う。

 話が続く。オープンキャンパスで見てから、進学にまつわる話、一回生の時の勇武と教授とのやりとり、次席以上をとるために無茶したこと等々。一方的な会話だったが、紗奈は聞き入った。自分と重なるからだろうか。

(先輩は一つのことに真っ直ぐ進んでいるからだ)

 ふと気づく。彼にはブレが無い。迷いすら無かったのだろう。

「ぁ、ぁの」

「ん? あ、ごめん。話してばっかりだったな。何?」

「ぃえ、その……韋駄天を見て、入学して、韋駄天を、研究して……将来性を、考えたら、別の研究、もあると思う、ですけど。なぜ、そんなに、韋駄天を、真っ直ぐ見て、いられるんですか?」

「……」

「ぁ、ぃぇ、失礼な、意味は、無くて……ですね。ものすごく、真っ直ぐ見てる、みたいなんで、どうして、そんなこと、ができる、だろうと……」

「うーん……たぶん、好きだからじゃないか」

 笑顔で言われて、紗奈の心臓は一瞬跳ね上がった。

「将来性とか言われると、確かに自律型や遠隔操作型の方がいいと思うよ。企業は確実に求めてるしね。でもやりたいとは思わないかな。何と言うか、強さが無いよな」

「……強さ……ですか?」

「そ、強さ。ショベルカーとか、モビルスーツとか、そんな強さかな」

 子供の思考だ。紗奈はようやくわかった。将来がどうこうではなく、今好きなものをとことんやる。だから真っ直ぐ進めるのだ。迷う理由すら無い。

 かつて自分がそうであったように。

 思わず笑いがこぼれた。

「ん? 変な事言った?」

「ぃえ、すみません……かわいいな、と思って……」

 かわいいのか? と一志は頭を搔いた。

「私も、なんです」

「え?」

「私も、韋駄天を、見たから、ロボット工学科に、入ったんです」

 もう後ろめたさも何も無い。すっと言葉が出てきた。


「いい雰囲気、やな?」

「笑ってるから、そうじゃね?」

「……そうだな」

 離れた川べりで、修達三人が話していた。遊んでいるが、ちらちらと一志と紗奈を見ている。

 修は先月ガレージで見た二人の様子から、お似合いだと思った。あれほど韋駄天の話ができる男女はいないだろう。

 実は一志から今回の小旅行の提案があった際、修はお似合いならくっ付けてしまえ、と菜々美と夕に相談を持ちかけたのだ。水着を買いに行ったのも含め、二人ともかなり乗り気で裏工作に付き合ってくれている。

 二人きりにして話させる。まずは大成功だろう。

「さ、次のステップに進ませないとな」

「せやね。夜までが勝負かな。そこからは、ふふふふふ」

 何かを想像して菜々美が不気味な笑い声をもらす。

「あの唐変木がどこまで進展させれるか、見ものだな、って篠山さん、どうかしました?」

 夕が難しい顔して考え込んでいる。

「あ、ああ……まあ、これは個人的な感情なのだろうがな」

「え、ひょっとして荒川先輩狙ってはった?」

「違う」

 菜々美の期待に満ちた眼を見て、即座に訂正する。

「なんとなく、妹を取られた気分と言うか。いやまあ、妹はいないのだが」

「なるほど」

 修が言葉を続ける。

「二年半、友人している身から言わせていただきますと、荒川はいいやつですよ。気の利かせ方が間違ったり、言葉数が少なかったり、女心が判ってなかったりしますけど。真面目だし頭もいい。見てくれだってちょっと気をつければあの通りですからね。いい物件だと思いますよ」

「それは、まあ判っているんだが。感情だからな。仕方がないと思ってくれ。嫌とかそういうわけでもないしな。強いて言えば……寂しい、かな」

「寂しいなら、ここにもいい物件がいますけど」

「それは却下だ」

 即答だった。


 夕食はバーベキューの予定だ。日が暮れるまでに食べ終えられるが理想だが、無理そうだった。

「山は日が暮れるのが早いからなぁ」

 まだ十七時なのだが、夏なのに昼の明るさはなくなっていた。太陽が山の稜線に隠れ始めているだ。

 沢から上がって一息つくと、そのまま準備に取り掛かったが間に合わなかった。暗くなる前に焼き始められれば御の字だろう。

「ま、暗くなっても焚き火で明かりをとりながら、焼いてもいいしな。慌てる必要はないさ」

 ジーパンとティーシャツの修とジャージ姿の一志は焼くところを石を組み合わせて作り、火の準備をしている。外に設置した折りたたみ式のテーブルの上で夕が材料を切り分け、菜々美が串に刺していく。二人ともジャージに長袖のシャツと動きやすい格好だ。

「せやね。準備さえ終われば、焼くだけやしね」

 紗奈は居ない。よほど疲れたのか、着替えて一休みしている間にソファで寝てしまったのだ。全員一致で、食べる頃まで寝かしておこうとなった。

 石組みが済み、上に網を載せる。その下で修が薪を組んで、新聞紙や落ち葉を使って火を付けようとしているが、うまくいかない。新聞はすぐ燃えるが薪に火が移らないのだ。

「まだか?」

「せかすな」

 修が悪戦苦闘の末、一志にライターを渡す。あきらめたらしい。

 次に一志がやってみるが、やはりうまくいかない。一度は小さい木に火が付いたが、ほどなく消えてしまった。

「難しい……」

 普段ガスコンロやIHに慣れているので、こういうのはなかなか難しかった。

「バーナーでも持ってくりゃ良かったな」

 研究室に転がっている携帯タイプのガスバーナーを思い出す。あれなら十秒も炙れば火がついただろう。

「まだですかー?」

 菜々美が肉と野菜を指した串を両手に持ってせかす。女性陣の準備は終わったらしい。

 徐々に暗くなってくるが、火はなかなか付かない。

 どうしたものか、と悩み悪戦苦闘していると、車の音が聞こえてきた。しばらくするとその車が目の前にやってくる。ヘッドライトで一瞬眼がくらんだ。

「よう。食いに来たぞ」

 勇武が降りてくる。仕事が終わったらしい。

「なんだ? まだ準備中か?」

「いえ、あの、火が付かなくて……」

 一志と修を見て、勇武は盛大に溜息をついた。貸してみろとライターを受け取る。勇武は一度網をどけ、薪を取り出すと、手馴れた手つきで再び組み上げる。途中で新聞紙や枝葉を混ぜるのも忘れない。

 着火。

 しばらくすると火が広がり、盛大に煙が出てくる。テーブルの上にあった薄いプラスチックのまな板を借りると、それで盛大に仰ぐ。煙を吹き飛ばす勢いで風を送ると、一気に火が炎となり、薪が燃え出した。

「ほれ」

 ライターとまな板を一志に押し付ける。

「すげー」

「おお、さすが」

 修と菜々美が感嘆の声を上げる。あまりに鮮やかな手並みだった。

「とっとと焼いて食おうぜ。腹減った」


「……?」

 肩を揺すられた。閉じていた眼を開けると、夕が覗き込んでいた。

「大丈夫か?」

 どうかしたんだろうか?

 まどろみから抜け出せず、思考がまとまらない。

 幾度か瞬きをしていると、徐々に色々思い出してきた。旅行に山に来て、沢で泳いで、トウモロコシを食べて、先輩と話をして、コテージに戻って暖かいココアを飲んで……

「ぇ、あ!」

 飛び起きる。いつの間にかソファで寝ていたらしい。掛けられていたタオルケットがパサっと床に落ちる。

「夕食の準備できたぞ。食べるだろ?」

「ぁ、は、はぃ。ぇ、準備は、ぁ、す、すみません。寝て、しまって」

 起きたてはいつも思考が遅くなるが、今はオーバークロックしたかのように頭が回る。若干熱暴走気味だが、すぐさま状況が把握できた。

「いいんじゃないか。今日ぐらい」

「?」

「それより、早く行こう。みんなが待ってる」

 どこからともなく肉の焼ける香ばしい匂いがしてきた。窓が開いてるのかもしれない。思い出したかのように腹の虫も眼を覚ました。

「……は、はい」

 恥ずかしくて顔が赤くなる。起きて夕のあとについて外に出る。外はすっかり暗くなっていた。みんなが居る場所だけ火の明かりがあった。机の上にもローソクか何かの明かりがあるようだ。

 彼女が前に行くように背中を押した。怪訝に思いながらも素直に歩いていく。足元が暗いがすぐそこなので問題なかった。

 パパパパパーン

 いきなりの破裂音。びっくりして足を止めてしまう。

『ハッピーバースデー』

 全員がこちらに向かって叫んだ。先ほどの破裂音はクラッカーだったらしい。紗奈の思考が、割り込みを受けたスレッドのように一時停止してしまった。

 ランタン型のLED照明を付ける。わざと暗くしていたようだ。

 良く見ると、机の上のローソクの明かりはケーキに刺さったローソクだった。「HAPPY BERTHDAY SATSUKI」と書かれたチョコレートのプレートがのっている。

「ぇ、え、え?」

 止まった思考が徐々に動き出す。状況把握にしばらくかかった。

「今日誕生日やってな。おめでとう!」

「ほんとほんと。十七歳の誕生日おめでとう!」

 菜々美と修が祝福の言葉を送る。それに一志が意外な反応をしてしまう。

「え、十七歳?」

 その声に全員が一志に注目する。

「は? 知らなかったのかよ? おまえが誕生日調べてきたんじゃねぇか」

 修があきれたように言う。

「ほんまに? 有名な話やで? 十六歳で大学入学したから、結構話題になったし」

「俺でも知ってるぞ。なんで知り合いのお前が知らないんだ?」

「誕生日を調べて来たと聞いて、大したものだと思ったが……視野の狭さは驚異的だな」

 やれやれと全員があきれてしまう。

 修がふと気づいた。

「おい、ひょっとして誕生日違うんじゃないよな?」

『あ』

 調べてきた一志が年齢を知らなかったのだ、間違っている可能性がある。

「ど、どうなん? 違ってた?」

 菜々美が慌てて紗奈に聞く。一瞬ビクリとした。紗奈の頬を涙が流れていたからだ。彼女自身気づいてなかったのか、慌てて手の甲で拭く。

 そして首を左右に振った。

「ぁ、合ってます。今日です。私自身、忘れて、たん、で、すけ、ど」

 ボロボロと涙が溢れてくる。止まる気配も無く、ずっと溢れてくる。

「あ、ありが、とう、ござ、い、ます……あ、あれ、おかし、い、です……うれしい、のに、あれ……」

 だんだん言葉にならなくなっていく。夕が胸を貸すように抱くと、堪えられなくなったのか、一気に涙が溢れ号泣しだした。

 しばらく紗奈の嗚咽だけが、静かな山で聞こえていた。

「……ありがとう、ございます。落ち着き、ました」

「はい」

 菜々美が差し出してくれた濡れタオルで顔を拭く。涙は止まっていた。少し眼が充血しているが、すぐ治るだろう。

「あ、改めて、ありがとう、ございます」

 紗奈は深々と頭を下げた。みんなから拍手がとんでくる。座って座って、と菜々美がケーキの前の席に座らせる。

「ほな恒例のを、おねがいしますー」

 ランタンの明かりを消す。ケーキの上のローソクの火が揺ら揺らとゆれていた。

「ぇ、あの、吹き消せば、いいんですよね? 初めてだから、うまく、消えるかな?」

 声が弾んでいた。嬉しさが溢れ出ている。紗奈は息を目いっぱい吸うと、思いっきり吹いた。程度がわからないので全力だ。

 ローソクの火が一気に消える。しかし最後の一本が離れていたからかなかなか消えない。肺の空気を吐ききるころにようやく消えてくれた。紗奈がハアハアと肩で息をする。

 再び拍手の嵐。ランタンを付けて明るくする。

「おめでとう。はいこれ」

 菜々美がリボンの付いた小さな箱を渡す。プレゼントだった。

「ありがとう」

「俺のも受け取ってよ」

「おめでとう」

「気に入ってもらえるといいんだけど」

「大したものじゃないが、まあ受け取ってくれ」

 修、夕、一志、なんと勇武までもプレゼントを渡してくれた。

「あ、開けていい、ですか?」

 全員が頷く。

 紗奈が順番に開けていく。包装を丁寧にはがしているので、少々時間がかかる。

 菜々美はネックレス。ペンダントトップに緑の石、宝石ではないが綺麗な自然石だ、をあしらっている。

 夕はイヤリングだった。こちらはアメジストをあしらってあり、紫色が焚き火の光に反射して綺麗だ。

 修はスウォッチ。水色の可愛らしいデザインのだった。

 勇武は髪留め。琥珀色のクリップ状の本体に細かく布で作った花があしらってある。

 そして一志は銀のブレスレット。シンプルなデザインだが、ワンポイントに白い石、水晶だろうか、が埋め込んであった。

「みなさん、ありがとう、ございます」

 また涙がでてきた。嬉しくてたまらない。

「な、な。今全部付けてみいひん?」

 紗奈は朝のワンピースを着ている。これらを身に着けると結構映えそうだ。

「お、それいいな」

「ぇ、でも、もったいない、ですよ」

 紗奈の言葉に、しかし夕は無言で彼女の髪をまとめ始める。

「減るものじゃないから大丈夫」

 夕と菜々美が二人がかりで紗奈を飾っていく。スウォッチとブレスレットだけは付ける場所が重なっていたので、左手にスウォッチ、右手にブレスレットとなった。

「完成ー」

 菜々美が紗奈を立たせる。

「さ、荒川一志君、感想を」

 修がマイク代わりに細い薪を持って、一志の前に持ってくる。

「え、ああ、綺麗だな」

 おお、言うね。修が茶かかす。ストレートに言われて、紗奈が耳まで赤くなる。

 実際、身に着けたものに炎とランタンの光が乱反射していて、幻想的な光り方をしていて綺麗だった。ネックレスとイヤリング、ブレスレットがキラキラと光を反射して、スウォッチも鈍く光を放っている。髪留めも花だけかと思ったら少し金属部分があるらしく、それが時々キラっと光る。それらの光が彼女自身を、まるで妖精のような幻想的な美しさに仕上げている。

「ありがとう、ございます」

 また紗奈は深深と頭を下げた。そして拍手が起こる。

 勇武が、さ、食うか、と炎が当たらない位置に置いておいた串を一人一人に渡していく。一志と修が飲み物をを適当に配っていった。

『いただきますー』

 全員が一斉にかぶりつく。少し焦げているが、十分うまかった。

「つぎつぎ焼くから、どんどん食えよー」

 勇武が新しい串を並べていく。肉がジュージューと炎にあぶられる。食べた終えた人から次の串を受け取って食べた。暗いので焼き具合は半分勘。そのため焼きすぎか生焼けかのどちらかになりやすいが、それでも単純に旨い。

「さっきは一瞬ひやっとしたぜ。間違ってたら台無しだからな」

「ほんまほんま。こっちがどっきりやったで」

「……そういえば、どうやって、調べた、です?……誰にも、言ってない、はずですけど」

 紗奈が不思議そうに一志に聞いた。

「ネットを色々調べてたら、載ってるサイトの記事を見つけたんだよ。一応、教授に確認してもらった。確かに月日だけメモして年までは気にしてなかったな。教授も合ってるとしか言わなかったし」

 一志が頭を搔く。そんなサイトあったか? と修が首を傾げる。

「ああ、フランス語のサイトだったから、普通に日本語でググっても引っかからないと思うぞ」

「え、荒川先輩、フランス語読めはるん?」

 一応、と頷く。

「こいつ機械馬鹿に見えて、実は英語とフランス語、話せるんだよ」

「馬鹿に見えてってなんだよ。論文とか仕様書とか英語が多いから便利だぞ。フランス語のも結構あるしな」

 すごい、と紗奈と菜々美が驚いていた。

「なんか、今日は、サプライズ、だらけ、です」

 紗奈が嬉しそうに口にする。

「いやしかし、俺も驚いたんだけど。十六歳で大学入学ってできるんだな」

 一志の言葉に、紗奈はちょっと言いにくそうに答える。

「高卒資格試験は、十六歳、になる年度に、受けられる、です。六月のは、駄目だった、ですけど、九月のには受かれて。大学は、この資格があれば、入れる、ので」

「へぇ、すごいな」

「……高校、行ってなかったから、資格だけでも、欲しくて。その年に、受かれるとは、思わなかった、ですけど……」

「まあまあ、過去の話はそのぐらいにして。どんどん食べなぁ」

 菜々美が割って入って新しい串を二人に押し付ける。

「お、おう」

「どんどん食えよ。いっぱい焼けるからな」

 勇武が豪快に笑う。


 肉をこれ以上食べれないと食べた後で、ケーキを切って食べた。男性陣は食べれないと断ったが、女性陣は普通に別腹と言って食べている。

「毎度思うが、女性ってなんで満腹の後に甘いもの食べれるんだろうな」

「さあ……本当に胃が二つあるんじゃないか」

 一志と修が口に手を当てて、おいしそうに食べている三人を見た。二人とも肉の食べすぎでかなり気持ち悪い。

「さて。おい荒川。韋駄天の話聞かせろ」

 一段落した頃合に、勇武が声を掛ける。

「ぁ、じゃ、私も、いいですか?」

「え、主賓いなくなるん? これから花火しようかと思ったんやけど」

 紗奈が迷う。両方魅力的だった。

「先輩に設計図見せるだけだから。ほら、行きしなに見せた奴」

 一志が言うと、そうですか、と彼女は座りなおす。

「わりぃな。ちとこいつ借りるな」

 勇武が一志の首根っこを掴んで引きずっていく。

 紗奈はいってらっしゃいと手を振った。なぜ勇武が彼女に断りを入れたのかには、気づかなかった。


「で、どうよ」

 コテージに戻り明りを付ける。一志がロフトの自分の荷物から折りたたんだ設計図を取り出して机に広げた。

「まあ、こんな感じですね」

 韋駄天四号と書かれた設計図。紙のサイズはA2だが、前と同じ二面図。持ってくるのにA1だと大きすぎたので、このサイズに印刷したのだった。おかげで細かく書かれた箇所がさらに密になっている。

 しばらく睨むように勇武は設計図を見る。

「強度、大丈夫か?」

 見て感じたことを口にする。実際にコンピューターに計算させないと確信は持てないが、各部の強度が不足気味な気がしたのだ。

「さすが、見ただけでわかりますか。計算上はギリギリいけます。全速力で走ったりしたら、歪みが生じるでしょうけど。とにかく大平際で見せたいので、時間短縮に複雑な加工は省きました」

「なるほど。まあしかたないか。お手製だからな……」

 しかし、と言葉を続ける。

「三年前は人力だったのに、随分ごつくなったな」

「全身にパワードを追加してますしね。重量は一号の四倍ですよ。自重二百キロ。私が乗るから二百六十キロ超えますね。」

「無茶しやがる」

 勇武は笑っていた。何かと心配だが、自分が作った一号がここまで成長したのは素直に嬉しい。

「コケた二号の動画を見たときは、思わず吹いちまったが、一年で随分変わったな」

「ええ、まあ」

「彼女のおかげか?」

 親指で背後の外を指す。

「まあ、そうですね。期待されるとはかどります。それにいいアイデアももらいましたし」

「で、どこまでやった?」

「ええ、エアーマッスルの検品は終わりました。今はフレームの補強をしています。八月は作業できないんで、九月から本格的に組む予定です」

「そっちじゃねぇよ。彼女とどこまでやったか聞いてるんだ。十六歳は犯罪だぞ」

 いきなりな言葉に、一志の思考がOSごとハングアップした。

「まあ知らなかったなら情状酌量の余地はあるだろうがな。キスまでなら、まあ許容だろう。で、どこまでだ?」

 一志の思考が再起動するまで、しばらく時間を要した。

「ち、違いますよ。恋人でもなんでもないです!」

「へ? 付き合ってんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょう!」

 声を上げる一志に、ポンと肩を叩く。

「悪いことは言わん。犯罪に走っとけ」

「意味わかりません!」

「じゃあ、詳しく言ってやろう」

 勇武がわざとらしく咳きをしてから言葉を続ける。

「いいか。お前は機械馬鹿だ。ぶっちゃけ機械にしか興味ないだろう。女性に興味持ったとして、普通の女性を口説けるか?」

「う……」

「無理だろう。いきなり興味を持っても振られるのがオチだ」

 一志は反論できない。

「だが、彼女は韋駄天に興味を持ってる。お前の得意分野にわざわざ入ってきてくれてるんだ。逃すのはそれこそ馬鹿だ」

「いやしかし……」

「それにだ」

 勇武が語彙を強めて、一志を黙らせる。

「あんな可愛い娘が、ほっておかれると思うか? たぶん今でも引く手数多だろう。今はまだ韋駄天しか見ていないから断ってるかもしれんが、少しでも興味を失ったら声を掛けてきてくれている男のほうを見るぞ」

 そしておまえは一生童貞だ、と勇武が難しい顔をして唸る。

「いやいやいや。関係ないし」

「ついでに言うと、彼女はお前に気があるぞ」

 一志の思考にポーズがかかる。解除に約三秒。

「な、なにを根拠に……」

「状況だけだがな。興味のある韋駄天にもっとも近いのがお前だろう? それにプレゼントの中で、ブレスレットを一番気にしていたぞ」

 彼女のこと嫌いか? と聞かれて、首を横に振る。一志は確かに機械だけに興味を持ちそのまま進んできた。目の前に現れた白銀の少女は、今までの人生、いやさ人生全てにおいて、これ以上ない異性として認識している。彼女と話している間は、それが韋駄天のことでなくても非常に楽しかった。もし恋人になれたなら、それは至福なことだと考えている。しかし、そうは思っていてもその一歩と踏み出す勇気が無かった。踏み出したが最後、今の関係が壊れそうな気がするのだ。

「お前、八月は恒例の手伝いだろう? 今のうちに捕まえておかないと後悔するぞ」

「そ、それは……」

 一志は八月に親戚の海の家に手伝いに行く。高校の時からの恒例行事であり、例年ならすでに海に行っている。今年はこの小旅行のために、レポート云々の理由をでっち上げて少し時間を延ばしているが、終わったらすぐに向かわなければならない。

 海に行けない紗奈と会うのは、九月以降となってしまうのだ。

「まあ、いい。いきなり言われて動けるほど器用な奴じゃないのは知ってる。後悔しようとしまいとお前の勝手だしな」

「……」

 勇武は一志の反応の鈍さに溜息をつく。視線を設計図に向けようとして、ふとクリアファイルに入っているもう一枚の紙に気づいた。

「おい、それはなんだ?」

「え?あ、これは」

 取り出して、バサリと広げる。同じA2サイズの紙。もう一枚の韋駄天の設計図だった。同じく韋駄天四号と書かれている。

「骨格フレームを素材と形状から計算しなおしたバージョンです。こっちが四号のオリジナルなんですが。重量増加を見越して強化したんです」

 ただ、と頭を搔く。

「各パーツの加工難易度が高くて時間がかかるんです。材質も特殊ですし。私の技術じゃ、とても大平祭に間に合わない計算になったんで、没にしました」

 比較的スリムな韋駄天。加重を正中線に集めるように曲げられた骨格フレーム。無骨な直線フレームと異なり、複雑な曲線を持つフレームはエアーマッスルを空間的に効率よく収めれれるため、細身にできるのだ。

 曲線を持つフレームは、一見弱そうに見えるが人の骨が微妙なカーブを描いているように、実は力の吸収分散という面では非常に有効な形状である。ただしカーブの具合をしくじると、とたんに強度が落ちるので高い加工精度が要求されてしまう。しかも材質が普通の金属ではないので、特殊な加工技術も必要だ。

 それを見た勇武が唸る。

「確かに加工精度がいるが、これなら重量を減らした上に強度を格段に上げられる。先にこんなもの書くとは大したもんだ」

「作れないんじゃ、絵に描いた餅ですよ」

「うちなら、四日で作ってやれるんだがな。二千万ぐらい用意してくれれば」

「いや、お金ないですから」

 そりゃそうだ、と笑う。勇武も同じ研究室出身である。予算の無さは良くわかっている。

「おーい。お二人さんー。いい加減に来ないと花火終わっちまいますぜー」

 修が玄関から声を掛けてきた。

「いいもの見せてもらった。まあ頑張れよ」

「はい」

「告白を」

 片付けかけた一志がこけそうになる。勇武は適当に笑いながら一足先に玄関から出て行った。

「……できるなら、そうしたいですけどね……」

 一志の呟きは、誰にも聞こえなかった。


 焚き火の横で花火をし、落ち着いたぐらいで勇武が帰っていった。街灯一つ無い山道だが、慣れている、と言って普通に運転していった。

 その後は、線香花火などをやりながら、五人で語り合っていた。

 それも徐々に静かになっていくる。まずビールを飲んでいた菜々美が眠いと言ってコテージに入り、紗奈もそれに続いた。修も、酔った、と言って入っていく。

 一志と夕が、なんとなく残った。

 パチパチという焚き火の音がする。コテージの明かりもすぐに消え、焚き火の明かり以外は真っ暗だ。

「お酒、強いんですか?」

 夕はずっとビールを飲んでいる。それなのに酔った気配が無い。

「別にビールの五缶十缶で酔わんよ」

 言いながら缶を飲みほす。ビールは二箱買ったが、すでに残り数本だった。かなりの量を飲んでいるはずだが、顔にも声にも酔いは出ていない。

「そっちも強いな」

「俺は、最初だけであとはジュースですから。下戸なんで」

 そうか、と新しいビール缶を開け、ゴクゴクと旨そうに飲む。

「……一つ聞いておきたいことがあるんだが」

「? なんです?」

「新条のことをどう思っている?」

 ぶほ。飲みかけたジュースを吹き出した。

「な、なんですか、一体?」

「私は彼女の護衛をしていた」

「? はい」

「それが縁でしかないが、ここ四ヵ月、ずっと毎日一緒に居た」

 ビールを飲む。さっき空けたばかりなのに、もう飲み干しそうな勢いだ。

「護衛というのは、ボディーガードは、対象の人物が危険に会わないための存在で、それ以上であってはならない」

「? はあ」

「だからこれは個人的な感情だ。たぶん友達としてな」

 ふー、と一息はいてから、ビシっと指を指された。

「彼女を不幸にする奴は許さん!」

「あの? ちょっと?」

「気があるなら、とっとと告白しろ! そして幸せにしろ!」

 夕の様子がおかしい。

「ひょっとして酔ってます?」

「私は酔ってない!」

「いや、でも」

 焚き火のせいで赤く染まっているのかと思ったが、良く見ると明らかに頬辺りの色が他と違う。

「私は、私は……・」

「?」

「ぐー」

「え?」

 座ったまま寝てしまった。持っていたビール缶が足元に転がる。中身はほとんどなかった。

(ある程度を超えると一気にくるタイプなのかな?)

 器用に座ったまま寝る夕を見て、どうしようかと思案に暮れる。修を叩き起こして二人がかりでコテージまで運ぶのがいいのだろうが、彼女は焚き火の前に座っている。もし万が一焚き火に向かって倒れたら大やけどを負う。消そうかとも考えるが、今の光源はこれだけだ。ランタンは、紗奈に戻りの足元を照らすのに持って行かせたので、手元に無い。

(仕方ないか)

「もしもし、もしもし」

 夕の肩を揺すってみる。しかしぐーぐーという寝息だけしか返ってこない。

「失礼します……よいっしょっと」

 夕の前にしゃがむと両腕を引っ張り、無理やり背負う。紗奈サイズならまだ抱えることもできるだろうが、夕の体格だとちょっと無理だ。男勝りな身長なうえに脂肪より重い筋肉を身に着けているため、むしろ太っている人より体重がある。なんとか背負うが、立つのがかなり厳しい。

 渾身の力で立ち上がると、夕を背負ったままコテージのほうに歩いていく。お互い薄着なので彼女の適度な膨らみが背中にあたるが、気にしている体力的余裕は無かった。

 コテージの入り口に辿り着き、なんとか扉を開ける。中は真っ暗だったが、明かりをつけるために片手を離す余裕はない。カーテン越しに入ってくる僅かな焚き火の明かりを頼りに、彼女をソファーまで運ぶと横たえる。

「ぜぇぜぇぜぇ」

 重かった、とは口にしないが、汗だくになった。

 しばらく床に座り込む。フローリングの床が少しだけ冷たくて気持ち良い。

(焚き火を消さないとな)

 消して、沢で涼むか。と少し息が整ったので、立ち上がろうとした時、寝室のドアが開いた。誰かが出てきたのだが、暗くて判らない。

「誰?」

「ぁ……荒川、先輩?」

 声から紗奈だと判った。

「あ、ごめん。起こした?」

「ぃえ。起きて、ましたから」

 小さな声で答え静かに戸を閉めると、音を立てずに歩いてきた。ワンピースからパジャマに着替えている。寝るつもりだったのは確かなようだ。

「菜々美さん、寝てます、から……ぁ、篠山さんも?」

 ソファーで横たわり寝息を立てている夕を見る。

「外で寝てしまって。酔ったみたいだ。ここまでなんとか運んだんだけど」

 さすがに寝室までは無理だな、と呟く。二人がかりなら運べるだろうが、確実に菜々美を起こすぐらいの音を立ててしまうだろう。

「ぁの、これ」

 紗奈がリビングに干してあったバスタオルを数枚持ってきた。泳いだ時に使ったもので、すでに乾いている。それを夕に毛布代わりにかける。夏とは言え山だから、やはりそこそこ冷えてきている。とはいえ、こうしておけば風邪をひくほどのことは無いだろう。

「さて、じゃ焚き火消してくる」

 出て行こうとした一志は、一度振り返った。そして立ったままだった紗奈を見る。

「一緒に来る?」


 ジュウウウウウ

 バケツに汲んでおいた水をかけると、焚き火が盛大な音を立てて煙と水蒸気を吹き上げて消えていく。一度足で蹴って炭化した薪を転がすと、さらに念入りに水をかけて燻りを消していく。

「これで大丈夫だろ」

 紗奈がランタンを持って明かり役をしている。焚き火が消えると同時に真っ暗になるからだ。

「すごい、音」

 彼女は興味深げに水を掛けられた薪を見る。勢い良くあがった水蒸気は、徐々に少なくなっていた。燻るように煙が少しでているが、炎はなくなっていた。

「あ、ちょっと明かり消して」

 一志の指示を少々怪訝に思いながら、ランタンのスイッチを切る。電気式のランタンなので、付けるも消すも簡単だ。

「!」

 辺りが真っ暗になる。ランタンの光を真近で見ていた彼女には、周囲が完全な闇になってしまう。

 思わず息を呑む。

 単純に暗闇が怖かった。

「もう、火は付いてないな」

 すぐそこで薪が転がされる音がする。たぶん足で転がして全体の火を、明かりを消したことで見える小さな火種を探しているのだろう。

 一志の声と薪を転がす音に、少しだけ安堵する。

 どのぐらいそうしていただろうか。理性では暗闇はただ単に光が無い空間であるとわかってるが、異様な圧迫を感じる。あまり長いと耐えられなくなりそうだった。

「そろそろかな。上見てみ」

 唐突な一志の声。

「上?」

 なんだろうと怪訝に思いつつ、上を、空を見る。

「!!」

 空は満天の星空だった。星が多すぎて、山の稜線が、星の有無でわかるほどだ。

 夕食や花火をしていた時も見たが、ここまで多くの星は見えなかった。

「見える?」

「は、はい。すごい星……」

 見上げた視界のすべてが、無数の星の煌きで埋まっている。

 星の数、まさに比喩どおりの星星が夜空に輝いていた。

 見続けていると、まるで全身を星空が覆っているような錯覚を覚える。

「どうして?……さっき、までは、見えなかった、のに……」

「さっきまでは、焚き火とかランプの明るい光で眼が暗順応してなかったから、小さい星までは見えなかったんだよ」

 そのため普通にどこかで見た程度の星空にしか見えなかったそうだ。

「今日は天気がいいから、良く見えると思った。月もないし。ここまで雲ひとつないと思わなかったけど」

「はい!」

 魅入る。普段、街では見ることができない暗い星、赤い星、青い星、白い星、言葉にできない程の星星が空を覆っている。

 夜空に暗闇なんてない。

 そう思えた。

 あちこちを見るのに、思わずクルクルまわってしまう。

「良かった」

「?」

「弱視だと聞いてたから、ひょっとして見えないかと思った」

「え? あ、なるほど。大丈夫です。確かに、くっきり、全部、見えるわけじゃ、ないですけど。それでも、ものすごい数、の星が、あるのは、判りますから」

 アルビノである紗奈は、色素の一種、メラニンを作れない。本来瞳にあるはずのメラニンも無いため、眼が血液の色で赤くなり、正常に機能しない。遮られるはずの光がそのまま眼球に入ってくるため、網膜できちんと像が結ばれなのだ。そのため彼女は、補正用の眼鏡をかけている。レンズに色が付いているのも、不要な光をある程度遮るためだ。

「すごい!すごい!」

 はしゃぐ声。飛び跳ねそうな雰囲気で空を見上げ続けている。

『あ』

 空を見上げて動き回っていた紗奈は、勢いあまって一志にぶつかってしまった。見上げたまま立っていた一志は倒れそうになるが、どうにか踏ん張る。彼女は傾いだ彼に半ばもたれる形で動きを止めた。

「大丈夫か?」

「あ、はい……」

 紗奈はなんとなくもたれたまま答える。

 いつもなら反射的に、すみません言って離れるだろうが、なぜかこの時は、その反応は言葉ごと消えてしまった。

 鼓動が聞こえた。それが自分のなのか、相手のなのか、判らなかった。

「……」

 寄り添ったまま二人の時間が過ぎていく。周囲には虫たちの声が、風が枝葉を揺らす音が囁かれているが、二人の耳には入らない。

 鼓動のほかに、互いの息遣いも聞こえてくる。

 だんだんと互いの身体が出す音しか聞こえなくなり、そしてそれすらも意識の外へ消えていく。

「……」

 二人の世界。

 陳腐な表現だが、今の二人はまさにその状態だった。

 相手のこと以外、全てのことが消えていく。

 周囲の闇が全てを無くす。先ほどまで見続けていた星の海も見えない闇。

 しかしそれは恐怖を煽る闇ではなかった。

 しばらくして、ゆっくりと一志の腕が紗奈の身体を包むようにまわされる。

「!……」

 紗奈は一瞬身体を強張らせ、声がでそうになるのを堪えた。ほんの一言、わずかな動きで今の世界が壊れそうだったから。

「…………・」

 優しい抱擁に、紗奈は力を抜き、そのままされるままに身体を預けた。

 星明かりではお互いの顔すら見えない。それでもお互いがお互いの顔を見ている、目が合っているのが判った。視覚も、聴覚も、嗅覚も味覚も不要だった。ただただ触れ合っているだけで、まるで有線の通信、否、記憶領域を共有しているかのように、相手のことが判る。

 二人は今、完全に心が重なっていた。

 おずおずと紗奈の腕が一志の首にまわされる。

 そして二人の距離が縮んでいく。


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