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第97話 手柄なんて一ミリもいらない。お願いだから、あのお母さんたちを助けてよ

 区役所の最上階、重厚な扉の奥にある小会議室。


【鈴木/43歳/区長】


【財前/58歳/区議会議長】


 そこに集まっていたのは、元官僚の区長・鈴木と、区議6期の超ベテラン区議会議長・財前、そして本田課長の三人だった。


「……まったく、国会議員のアポなんぞ、無下に断るわけにもいかんでしょう。しかも、よりによって、与党議員だなんて」


 鈴木区長が、苦々しげに腕を組んだ。

 細身の体に、神経質そうな眼鏡。

 その表情には、隠しきれない不機嫌さが滲んでいる。


「私も同意見ですよ。与党の先生とはいえ、こちらは選挙で選ばれた区の代表。国政の若造に、とやかく言われる筋合いはありませんがね」


 財前議長が、鼻で笑うように応じた。

 恰幅のいい体を革張りの椅子に沈め、大振りに足を組む。


 区長とは長年、水と油のような関係を続けてきた男だ。

 本来であれば、この二人が同じテーブルに着くこと自体が珍しい。

 だが今日ばかりは、「国会議員からの視察依頼」という共通の厄介事の前に、渋々ながら顔を揃えていた。


「本田君」


 鈴木区長が、控えていた本田課長に声をかけた。


「例のギャル議員とやら、一体何を言い出すつもりだ」


「……母親支援ケアの件で、現状のヒアリングをしたいと、伺っております」


「ヒアリング、ね」


 財前議長が、薄く笑った。


「二十五歳の、元ニートとかいう肩書きの娘だろう。国政に運良く滑り込んだだけの小娘に、区政の何が分かるというんだ」


「まったくです。身の丈を、知ってほしいものですね」


 二人は、珍しく意気投合したように、頷き合った。

 本田は、その空気に背筋がじわりと冷たくなるのを感じていた。

 るる奈が、どれだけ本気でお母さんたちを助けたいと思っているか。

 どれだけ本気で、あの改善案に食いついていたか。

 それを、目の前の二人がまるで理解する気がないことが、痛いほど伝わってきたからだ。


(……千道先生。 どうか、変な空気に飲まれないでください)


◇◇◇


 本田が心の中でそう願った、ちょうどその時。

 小会議室のドアが、静かに開いた。


「失礼します。千道るる奈です」


 るる奈は、竹中とともに入室した。

 いつものネイビーのスーツに身を包み、表情は真剣そのものだった。

 鈴木区長と財前議長は、形だけの笑顔を浮かべながら、るる奈を迎えた。


「これはこれは、千道先生。わざわざご足労いただき、ご苦労さまです」


「本日はお忙しい中、お時間いただきありがとうございます」


 定型の挨拶が、交わされる。

 だが、その裏に張り付いた空気は、明らかに歓迎ムードとは程遠かった。

 るる奈は席に着くなり、単刀直入に切り出した。


「単刀直入に言います。母親支援ケアの件、早急に着手してもらえませんか」


 その瞬間、鈴木区長の顔から、笑顔が薄く剥がれた。


「先生。お気持ちは分かりますが」


 鈴木は、わざとらしく穏やかな口調で言葉を続けた。


「その件は、区としても、いずれ然るべき時期に着手する予定です。ですので、口を挟んでいただくのは、正直やめていただきたい」


「いずれって、いつですか」


「それは、区の内部で判断することです」


 鈴木の声には、明確な拒絶の色があった。


「それに、万が一『国会議員の圧力で着手した』などという噂が立てば、区としての体面にも関わります。先生には、その点をご理解いただきたい」


「体面……」


 るる奈の眉が、ぴくりと動いた。

 そこへ、財前議長が追い打ちをかけるように、口を開いた。


「千道先生。そもそも、国会議員と区政というのは、明確に線引きがあるものです」


 財前は、あからさまにるる奈を見下すような視線を向けた。


「あなたのような若い方が、権力さえあれば何でもできると思っているなら、それは大きな間違いです。余計なことをせず、身の程をわきまえていただきたい」


 本田は、隣で息を殺すように、その様子を見守っていた。

 二人の言葉が、るる奈の表情をじわじわと張り詰めさせていくのが分かった。

 るる奈の膝の上で、拳が小さく震え始める。


「……お母さんたちを助けることより、体面の方が大事なんですか」


 るる奈は、声を震わせながら言った。


「面子とか、線引きとか、そんなのどうでもいい。今、この瞬間も、限界超えて誰にも頼れないお母さんが、絶対にどこかにいる」


 るる奈の声が、次第に大きくなっていく。


「……確かに、ウチは元ニートだし、区長さんみたいに頭良くないし、議長さんみたいに実力もない。分かってる。分かってるけど――」


◇◇◇


 その、瞬間だった。

 るる奈は、椅子から勢いよく立ち上がると、そのまま床に膝をついた。


「区長さんと議長さんが、力を合わせてくれれば、絶対に助けられるじゃないですか。だったら、お願いします――」


 誰も止める間もなく、るる奈は額を床に叩きつけるほどの勢いで、深々と頭を下げた。


「――お願いします。あの人たちを、助けてください」


「……せ、先生!」


 竹中が慌てて声をかけたが、止める暇すらなかった。

 るる奈は、額を床に押し付けたまま、肩を震わせて泣き始めた。


「ウチが土下座でも何でもするから……。お願いします……。あのお母さんたちが、これ以上倒れる前に……。お願いします……!」


 涙で声を詰まらせながら、るる奈は何度も何度も頭を下げ続けた。

 鈴木区長も、財前議長も、一瞬言葉を失った。

 仮にも与党の国会議員が、区役所の会議室で土下座をしている。

 その光景は、二人が想定していたどんな展開よりも、はるかに予想外だった。


「……せ、先生。千道先生。頭を上げてください」


 るる奈の前代未聞の行動に、さすがの鈴木も、動揺を隠しきれない声で言った。


「千道先生。これでは我々も、対応に困ります」


 超ベテラン議員の財前も、明らかにうろたえた。

 だが、るる奈は頭を上げなかった。


「手柄でも何でも、全部持っていってください。ウチの名前なんて、一文字も出さなくていいから」


 床に額をつけたまま、るる奈は絞り出すように続けた。


「ウチは、あのお母さんたちが助かれば、それだけでいいんです。それだけで、十分なんです……」


◇◇◇


 小会議室に、重い沈黙が落ちた。

 鈴木と財前は、顔を見合わせた。

 二人とも、明らかにバツの悪さを隠しきれない表情をしていた。

 だが、それでも、二人の対立関係はそう簡単に解けるものではない。


「……鈴木区長」


 財前が、渋々先に口を開いた。


「これだけの形を作られてしまっては、こちらとしても、何かしら動かないわけにはいかないでしょう」


「……そうですな」


 鈴木は、深いため息をついた。


「では、こうしましょう。この件については、区長である私と財前議長の共同提案という形で着手します。千道議員は、一切関わっていない――。ということで」


「仕方ないですな。異論ありません」


 財前も、渋々といった様子で頷いた。


「ただし、今回だけの特例ですぞ」


 その言葉に、竹中がすかさず反応した。


「区長、議長。今のお言葉、確かに承りました」


 竹中の声には、はっきりとした念押しの響きがあった。

 鈴木と財前は、しまったという表情を一瞬浮かべたが、もう遅かった。


「……では、それでよろしいですね。千道先生。」


 鈴木が渋い顔でそう言うと、るる奈はようやく顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、るる奈は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます……! 区長さん、議長さん、本当にありがとうございます……!」


 その笑顔は、あまりにも純粋で裏表のないものだった。

 鈴木も財前も、毒気を抜かれたように何も言えなくなっていた。


◇◇◇


 るる奈は土下座から立ち上がり、会議室を出た後で、竹中が静かに口を開いた。


「先生。手柄を完全に持っていかれましたね」


「うん、いいの。ウチ、それでいい」


 るる奈は、涙の跡が残る顔で晴れやかに笑った。


「あのお母さんたちが助かるなら、それで百点満点。手柄とかウチの名前とか、マジでどうでもいいから」


 竹中は、その横顔をしばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。


「……本当に、先生には敵いませんね」


 廊下の窓から差し込む午後の光が、るる奈の頬に残る涙の跡を、静かに照らしていた。

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― 新着の感想 ―
人間関係と立場人を作るって言葉が一番しっくりくる作品。 面白いです!
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