第95話 建前とかどうでもいいから。母親支援、ちゃんとできてるのか教えて
地元の母子総合支援センターは、駅から歩いて十分ほどの、こぢんまりとした複合施設の中にあった。
外観は特に変哲もない、公共施設らしい無機質な建物。
だが、その日は朝から、施設の中がどこか落ち着かない空気に包まれていた。
「……本当に、いらっしゃるんですか。国会議員の先生が」
「アポは正式に取れています。視察という名目です」
「視察って言っても……。なんで、うちに?」
職員たちの間で、囁くような会話が交わされていた。
与党の、しかもテレビやSNSで何かと話題になるあのギャル議員が、突然自分たちの施設に来る。
その情報が数日前に伝わって以来、センターの職員たちは、緊張とそれ以上の疑心暗鬼に包まれていた。
「パフォーマンスじゃないんですか、これ」
「写真だけ撮って帰るとか、そういうやつじゃ……」
「予算削減の口実にされたら、たまったもんじゃないですよ」
そんな空気の中、るる奈は竹中とともに、施設のエントランスに足を踏み入れた。
途端に、周囲の視線が一斉に集まる。
好奇の目、警戒の目、そして、あからさまな「何しに来たんだ」という目。
るる奈は、思わず竹中の袖を軽く引いた。
「……ねえ、竹中さん。なんか、めちゃくちゃ見られてるんだけど」
「当然です。突然、国会議員が視察に来ると言われたら、現場の職員は身構えます」
「身構えるって、ウチ、敵じゃないんだけど」
「先生がそう思っていても、向こうにはまだ伝わっていません。信頼というのは、会った瞬間にできるものではありませんから」
るる奈は、なんとも言えないいたたまれなさを感じながら、施設事務員に案内された小会議室へと歩いていった。
◇◇◇
【本田/45歳/母子支援課課長】
テーブルを挟んで座ったのは、母子支援課の課長・本田だった。
四十代半ばと思しき、疲れの色が濃く滲んだ顔つきの男性だ。
手元には、分厚いファイルが積まれている。
「……本日は、お忙しい中、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「本田課長、こんにちは。今日は、よろしくお願いします」
定型の挨拶が、交わされる。
だが、本田の声には、明らかに硬さが残っていた。
るる奈は、そんな空気を察してか、あるいは察さずか、いきなり本題に切り込んだ。
「本田さん。建前とか、そういうのマジでどうでもいいんで」
「……はい?」
「単刀直入に聞きたいんですけど。ここの、お母さんたちへのケアって、ちゃんとできてます?」
本田の眉が、わずかに動いた。
竹中が横で小さく息を吐くのが分かったが、るる奈は構わず続けた。
「ウチ、この前、地元の公園で見たんです。すごい顔色悪くて、目の下真っ黒で、ベビーカー押してる人。声かけたら『大丈夫です』って言われたけど、絶対大丈夫じゃなかった。あれ、見なかったことにできない」
るる奈の声は、ギャル特有の軽さを保ちながらも、確かな熱を帯びていた。
「制度があるとか、窓口があるとか、そういう話はいいです。実際、あの人みたいな人が、ちゃんと助けられてるのか。それだけ、教えてください」
しばらくの沈黙のあと、本田は深く長いため息をついた。
「……単刀直入に仰っていただいて、逆にありがたいです」
「え?」
「先生が、パフォーマンスで来られたわけではないと分かりましたので」
本田は、目の前のファイルを、ゆっくりと開いた。
◇◇◇
「正直に申し上げます。ご指摘の通りです。制度上は、産後ケア事業や母子相談窓口など、支援メニューは一通り揃っています。ですが、実際に助けを必要としている母親のうち、制度を利用できているのは、恐らく半分にも満たないでしょう」
「……半分も、届いてないってこと?」
「はい」
本田は、ファイルの中の資料を、るる奈と竹中の前に滑らせた。
そこには、地域のアンケート結果や、支援の利用状況を示すグラフが、細かく整理されていた。
「制度を知らない母親が多いこと。相談することへの罪悪感。そして何より、誰にも頼らず、限界まで我慢してしまう傾向。これらは、以前から我々も課題として把握しています」
「知ってたなら、なんで放っておいたの?」
るる奈の問いに、本田の表情が苦いものに変わった。
「放っておいたわけでは、決してありません」
本田は、ファイルの奥から、もう一枚の資料を取り出した。
そこには、細かく段階分けされた対策案がびっしりと書き込まれていた。
「見てください。すぐにでも動ける『緊急対策』案です」
本田は、指で資料をなぞりながら説明を始めた。
「まず、SNSや区報、駅や保育園、小児科、産婦人科などを使った、集中的な周知キャンペーン。『ひとりで抱え込まないで』というメッセージを、あらゆる場所で目にするようにする案です。それから、二十四時間対応の相談窓口――。これは既存の窓口の案内を強化するだけでも、実現可能です」
「夜中でも相談できるってこと?」
「はい。『いつでも頼っていい』という安心感そのものが、支援になります。加えて、保健師による重点フォロー。最近、相談が途絶えている家庭を優先的にリストアップして、電話や訪問で様子を確認する。家事や育児のヘルプ券の期間限定拡充。そして、一時預かりを活用した『母親向け休息デー』の導入――。これらは、一から三か月ほどあれば、動かせる内容です」
るる奈は、資料に食い入るように目を通していた。
「……これ、めちゃくちゃちゃんとした案じゃん」
「さらに、半年から一年ほどかけての中期対策もあります」
本田は、次のページをめくった。
「産後ケア事業の利用条件の見直し。今は対象が狭すぎるので、これを広げる。『母親応援ガイド』を全家庭に配布し、支援制度をQRコード付きで分かりやすくまとめる。LINEなど、電話より気軽に相談できる窓口の整備。母親同士が孤立しないための地域交流会。そして、父親向けの育児講座――。母親だけが頑張る状況そのものを、減らしていく取り組みです」
「これも……。もう、ちゃんと考えてあるんですね」
竹中が、初めて口を挟んだ。
本田は、静かに頷いた。
「そして、長期的には、母子総合支援センターそのものの機能強化も視野に入れています。保健師、助産師、心理士、社会福祉士など、多職種の配置。妊娠期から出産後まで、継続して見守る体制の構築。地域ボランティアとの連携。利用状況の定期調査によるアンケートやデータ分析――。一年から三年かけて、根本的な体制を作り直す計画です」
◇◇◇
本田は、資料を閉じると、静かにるる奈を見た。
「先生。これらの案は、すべて用意できています。すぐにでも、動かせます」
「……だったら」
るる奈が、身を乗り出しかけたところで、本田は首を振った。
「動けないんです」
「はっ? なんで!こんなに、ちゃんと考えてあるのに!」
「予算と、決裁権の問題です」
本田の声が、さらに低く苦いものになっていく。
「この区は、区長の鈴木と、区議会議長の財前が、長年にわたって対立関係にあります。どんな施策も、最終的には『どちらの手柄になるか』が最優先される。そういう体質が、根深く染み付いているんです」
「手柄って……。お母さんたちが困ってるのに、そんなことより手柄が大事なわけ?」
「情けない話ですが、その通りです」
本田は、拳を握りしめながら続けた。
「時には、相手の陣営が進めようとしている施策の足を引っ張るために、意図的に予算を止めることさえあります。この母親支援ケアの改善案も、去年、担当部署から一度提出されました。ですが、区長側の施策として動こうとした瞬間、議長側の議員たちから『唐突な予算計上だ』と横槍が入り、そのまま棚上げになりました」
「……何それ!?意味、分かんない」
るる奈の声が、震え始めた。
「大人の、しょうもないプライドの取り合いのせいで、あのお母さんみたいな人が、ずっと放っておかれてるってこと?」
「情けないことに、そうです」
本田は、深く頭を下げた。
「我々職員は、何度も改善案を出しています。ですが、上の政治的な事情で、いつも引き出しの奥に眠らされてしまう。歯痒い思いを、ずっとしてきました」
るる奈は、拳をぎゅっと握りしめ、勢いよく立ち上がった。
◇◇◇
「もう無理。今から区長と議長のとこ行って、直接言ってやる。『いい加減にしろ』って」
「先生!」
竹中が、すかさず制止に入った。
「気持ちは分かります。ですが、感情のまま乗り込んでも、また『国会議員が圧力をかけてきた』という話にすり替えられるだけです。相手は、手柄と面子で動く人たちです。頭ごなしに叩いても、意固地になるだけですよ」
「じゃあ、どうすればいいの!このままじゃ、また放置されるだけじゃん!」
竹中は、少し考えるように間を置いてから、本田の方を向いた。
「本田課長。単刀直入に伺います。区長か、議長。どちらか一方でも、面会のアポイントを取ることは可能でしょうか」
「……アポ、ですか」
「はい。あくまで、視察の延長という形で構いません。国会議員が、地元の子育て支援の現状について、区の代表者と意見交換したい――。という体裁であれば、無下に断られることもないかと思います」
本田は、しばらく黙り込んだあと、静かに頷いた。
「……分かりました。できる限り、やってみます。正直、うまくいく保証はありませんが」
「十分です。まずは、その一歩から」
竹中がそう言うと、るる奈もようやく肩の力を少しだけ緩めた。
「……本田さん。ありがとう。ちゃんと、話してくれて」
「いえ。こちらこそ、本気で聞いてくださって、ありがとうございます」
本田は、初めて少しだけ表情を緩めた。
小会議室の窓の外には、午後の穏やかな日差しが差し込んでいた。
だが、るる奈の胸の中では、静かな怒りの火が、まだくすぶり続けていた。




