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第6話 Entrance to Hell(地獄の入口)

 選挙当日の朝、るる奈のスマホに着信があった。


「一時間以内に近所の公園に来い。結果が出るまで事務所で大人しく待機してもらう。逃げたら家族がどうなるか。もちろん、わかってるよな?」


 その瞬間、るる奈の脊髄を冷たい汗が伝った。今まで「なんとかなる」で生きてきた脳内が、初めて本気で警鐘を鳴らした。


 指定された公園に着くと、そこには絵に描いたようなガチの反社が三人待っていた。

 金髪にタトゥー、派手なブランドジャージを着込んだマサル、ケンジ、リュウジ。

 SNSでたまに見かける「ヤバい人たち」が、現実になって目の前に立っていた。


「よお、るる奈ちゃん。今日は一日、俺たちと一緒に事務所で待機な。黒金さんのご指示だ」


 マサルがニヤニヤしながら近づき、るる奈の手からスマホをひったくった。


「これ、預かっとくわ。変なこと呟かれたら面倒だからな」


 その瞬間、るる奈は自分の心臓が取り出されたような感覚に襲われた。

 膝がガクガクと震え、声も出せない。支えを失った体が、ただ震えるだけだった。


 車の中でコンビニに寄らされ、「最後の晩餐かもしれねえから好きなもん食えよ」と笑われた。るる奈はいつも大好きな新作スイーツにすら手が伸びず、ただおにぎりと緑茶だけをカゴに入れた。


 後部座席ではケンジとリュウジが、「あいつ、この前のお店の娘に似てね?」「落選したら楽しみだな」と、心の底から吐き気がするような下品な会話を楽しんでいる。

 るる奈は窓の外を見つめながら、ただ唇を噛みしめるしかなかった。


 やがて、車は雑居ビルに着くと、るる奈は事務所の狭い一室に軟禁状態にされ、壁の時計だけを見つめる時間、これまでの人生が、すべて馬鹿げた夢のように思えてきた。


(……ウチ、まだ誰ともちゃんと付き合ったことないのに……。そういう経験だって、本当に一回もないのに……)


 黒金の言葉が脳裏に蘇る。


『落選した瞬間、お前の髪も爪も、戸籍も、二十四時間の自由も、全部俺の物になる』

 それは比喩でも脅しでもない。

 この部屋の隅に敷かれたマットレスと、三脚に固定されて冷たく光る複数のスマホが、その「使い道」を無言で証明していた。


(ヤバい……マジでヤバい……ワンチャンとか言ってる場合じゃなかった……無理、無理、絶対無理……お父さん、お母さん、しし兄……助けて……)


 午後七時五十五分。マサルが扉を開けた。


「黒金さんが呼んでる。特等席で開票結果、見せてやるよ」


 応接間に連れていかれた瞬間、るる奈は息を飲んだ。

 高級な寿司やピザ、唐揚げやビールが並ぶ豪勢なテーブルの横で、顔を腫らした借金まみれの男たちが何人も床に正座させられている。


 ソファに深く腰掛けた黒金が、冷徹な眼鏡の奥から、獲物を値踏みするような目でるる奈を見た。


「いい顔になってきたな、るる奈。その怯えた表情……マニアには高く売れそうだ」


 黒金は大型モニターの投資チャートを閉じ、テレビの開票速報特番に画面を切り替えた。

 そして、手元に置かれた600万円の借用書を、細い指先でトントンと叩いた。


「るる奈。お前、自分がサインした『600万円』の異常さを、本当は一ミリも理解していなかったろ」


「どういう事……? ただの、エントリー代でしょ……?」


 るる奈は必死に声を絞り出したが、喉がカラカラに乾いていた。黒金は低く、クツクツと笑った。


「ただのエントリー代、か。底抜けのバカだな。じゃあ聞くが、お前の家に今、600万円のキャッシュがあるか?」


「あるわけないじゃん……あったら、こんなトコ来てないし……」


「そうだ。お前の親が、毎日汗水垂らして介護の夜勤を何年も回して、ようやく貯められるかどうかの大金だ。それを、お前はベッドの上でスマホをいじりながら『年収2000万円のイージー☆モード』なんて妄想のために、たった数分で消費した」


 黒金は身を乗り出し、強面の顔に冷酷な笑みを浮かべた。

 そのデスク周りだけが、冷徹な数字の論理で凍りついている。


「その『600万円』という供託金はな、お前みたいな持たざる貧乏人を、国家が合法的にハジくための『門番』なんだよ。お前ら一般庶民に、国政という利権の椅子に座る資格はない。身の程をわきまえろと、法律そのものが拒絶しているのさ。お前はその門番を、闇金という禁忌の手を使って強引に突破した。……その対価が、これだ」


 黒金が顎でマットレスが置いてある部屋の扉のほうを指す。


 るる奈の脳裏に、初めて「600万円」という数字の、血も涙もない本当の重さがドスンと伸しかかってきた。


(ウチ……何してんの……? しし兄が毎月3万、必死に家に入れてくれてるのに……ウチが勝手に使っていい金額じゃなかったんだ……)


「身の程知らずのバカが博打を打てば、どうなるか。時計を見ろ」


 午後七時五十九分。


「五! 四! 三! 二! 一!」


 周囲のチンピラたちが下品な声を上げ、拳を突き上げてカウントダウンを始めた。


 テレビ画面が、一斉に緊迫した開票速報のスタジオへと切り替わる。


 鷹町旋風は、るる奈を救う神風となるのか。それとも、彼女を奈落の底に突き落とす、ただの悪風で終わるのか。


 生まれて初めて、るる奈は心の底から神に祈った。


(神様……仏様……何でもいいから……お願い……これからは真面目に生きるから……ちゃんと働くから……ウチを……ウチを助けて……!!)


 青白く光るテレビ画面に、ついに、運命の数字が浮かび上がろうとしていた。

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