第5話「愛を言葉にしない夫が、初めて『好きだ』と言った夜」
王都から辺境へ帰る馬車は、夜の道を揺れながら進んだ。
車内は狭く、向かい合わせに座ると互いの息が届く距離だった。エレナは膝の上で手を重ね、窓の外を見ていた。ライナルトも窓の外を見ていた。
沈黙はいつものことだった。しかし今夜の沈黙は、質が違う気がした。水が満ちるような、静かに何かが溜まっていくような——。
どれほど経ったころだろう。ライナルトが、ぽつりと口を開いた。
「……俺は、言葉が駄目だ」
エレナは窓から視線を外した。
「知っています」
短く返したら、ライナルトが苦しそうに眉を寄せた。否定されると思っていたのか、肯定されると予想していなかったのか。
「知っていて……いたのか」
「最初から、ではありません。でも途中から、少しずつ」
ライナルトは長い間、黙っていた。馬車が石畳を抜けて、土の道に入った。揺れが柔らかくなる。
「お前が離縁を言い出したとき」とライナルトが続けた。「何も、考えられなかった」
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声が、低く沈んでいた。
「戦場で敵に囲まれたときも、部下が重傷を負ったときも——頭は動いた。次に何をすべきか、何を守るべきか。いつもそうだった」
一度、息を吸う音がした。
「お前の口から離縁という言葉が出た瞬間——何も出てこなかった。空白だった。生まれて初めて、次を考えられなかった」
エレナは何も言えなかった。言葉が喉の奥で固まって、出てこない。
「俺は、言葉の形を知らない」とライナルトは続けた。「親に愛されたことがどんな感触か知らない。人を愛しているとき、何を言えばいいか知らない。だから——言葉にしたら、お前を縛り付けてしまうと思った」
エレナの眉が、静かに上がった。
「縛り付ける、とは」
「俺の中にある感情は……重い。重すぎて、言葉にしたら、お前が逃げ出したくなると——怖かった」
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馬車が、ゆっくりと揺れた。
エレナは長い時間をかけて、その言葉を飲み込んだ。
言葉にしたら縛り付けてしまう——それほど重い感情を、この男はずっと、一人で抱えていたのだ。言えなかったのではなく、言わないことが愛だと思っていた。
泣くつもりはなかったのに、涙が溢れた。音もなく、静かに。
「……バカ」
呟いたら、ライナルトが眉を上げた。
「縛られても良かったんです。最初から」とエレナは続けた。声が震えていた。「私は逃げたかったんじゃない。捕まえてほしかったんです、ずっと」
沈黙。
そして——ライナルトが、真っ直ぐにエレナを見た。
「好きだ」
たった三文字だった。飾りも迂回もない、剥き出しの三文字。
「ずっと。言い方を知らなかっただけで、ずっと——好きだった」
エレナは泣きながら、笑った。
ライナルトは慌てて、不器用に、大きな手でエレナの頭をそっと引き寄せた。|どこかぎこちなくて、でも確かで、温かかった。
エレナは目を閉じた。聞こえるのは馬車の揺れと、夜の風と、ライナルトの服の布の感触だけ。
辺境まで、まだ遠い。でも今はそれが、少しだけ嬉しかった。
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【エピローグ】
三年が経った。
辺境の朝はあいかわらず早く、城には子供の声が響くようになっていた。薬草園は三倍の広さになり、王都の医療院にも薬を送るようになっていた。
エレナはその朝も、夜明け前に目が覚めた。
机の上に、白い野花が一輪置かれていた。
変わらない。結婚した日から、この習慣だけは変わらなかった。ライナルトは今日も言葉が少なく、表情が乏しく、食卓で話題を振ることもほとんどない。
ただ——たった一つだけ、変わったことがある。
エレナは花の横に添えられた小さな紙を、手に取った。
筆跡は武骨で、字の大きさも揃っていない。それでも、四文字だけ書かれていた。
——「好きだ」と。
エレナは花と紙を胸に抱いて、窓の外を眺めた。辺境の空が、橙に染まり始めていた。
遠くから、足音が聞こえる。重くて、確かで、毎朝同じ場所から聞こえてくる足音。
エレナは気づかないふりをして、机に向かった。
唇の端が、自然に上がっていた。
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【完】
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