第1話「欠陥品の令嬢、辺境へ嫁ぐ」
夜会の喧騒は、いつも嘘みたいに遠かった。
シャンデリアの光が床の大理石に白く踊り、絹のドレスを纏った令嬢たちが笑う声が重なって、まるで硝子越しに世界を見ているようだった。|エレナ・ヴァンホーレン《わたし》は壁際に立ち、ワインのグラスを傾けるでもなく、ただ微笑みを顔に貼りつけて、その喧騒がさっさと終わることを願っていた。
だからフィリップが近づいてきたとき、嫌な予感がした。
侯爵嫡男フィリップ・デュノワは、誰もが認める社交界の寵児だった。燃えるような赤みがかった金髪、すっと通った鼻梁、口を開けば蜜のような言葉が零れる——容姿も弁舌も、何もかもが磨かれた宝石のようなひとだった。二年前、そのひとに求婚されたとき、エレナは夢かと思った。
今にして思えば、夢ではなく、幻だったのだ。
「エレナ、少し話がある」
廊下の柱の影に引き込まれた。喧騒がまた遠くなる。フィリップは周囲に誰もいないことを確かめると、穏やかな、それでいて奇妙に乾いた声で言った。
「婚約を解消させてほしい」
エレナは、一瞬、息の仕方を忘れた。
「……理由を、聞かせていただけますか」
「君は魔力が低い。侯爵家の妻には不適格だ」
それだけだった。それだけで、二年間が終わった。
「欠陥品を妻にするほど、私は慈悲深くない」
笑顔を保ったまま頷いた。エレナは自分でも感心するくらい、上手く微笑めた。右手のひらに、じわりと痛みが滲んだ。爪が食い込んでいたのだと、部屋に戻ってから初めて気がついた。
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それから三ヶ月が経った。
馬車の窓から見える景色は、王都のそれとはまるで違う。整然とした石畳も、手入れの行き届いた並木道も、とっくに消えていた。代わりに広がるのは、果てしない緑と、空を切り裂くような岩山と、川の音だ。辺境というのは、本当に果てにあるのだと、身体で知った。
エレナは膝の上で手を重ねたまま、揺れる車窓を眺めていた。
辺境伯ライナルト・クレッツマー。齢二十九。国境を守る武人。無口。近寄りがたい。怖い。
侍女のハンネが、出立の前夜に集めてきた噂はそんなものばかりだった。「でも、悪い噂はないんですよ」とハンネは明るく付け加えたが、エレナにはそれが慰めになるのかどうか、よくわからなかった。
政略結婚だ。エレナとて、それは理解している。婚約破棄された令嬢の押しつけ先として、辺境伯はちょうど都合がよかったのだろう。家の者は誰も、そうとは言わなかったけれど。
覚悟は、ちゃんとしてきた。愛などというものに淡い期待を抱くほど、もう幼くはない。どうか、せめて穏やかに暮らせれば——それだけを、小さく願っていた。
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辺境伯城は、思ったよりずっと、素朴な場所だった。
装飾に凝った王都の邸宅とは違う、石造りの武骨な佇まい。ただ、手入は行き届いていて、石畳の隙間に雑草ひとつない。出迎えた使用人たちは緊張しながらも、礼儀正しかった。
その奥に、男が立っていた。
上背があった。鎧を脱いでいても肩幅が広く、日に焼けた肌に、剣ができるような手をしている。顔の造形は悪くないのに、表情が乏しすぎて、何を考えているのかまったくわからない。暗い琥珀色の瞳が、まっすぐにエレナを見ていた。
「……来た」
それが、ライナルト・クレッツマーの最初の言葉だった。
歓迎の言葉も、社交辞令の微笑みも、何もなかった。ただ確認するように、短く、それだけ言った。
エレナは一瞬呆気に取られてから、深く礼をした。
「エレナ・ヴァンホーレンです。どうぞよろしくお願いいたします」
ライナルトは頷いた。それで終わりだった。
夜会で磨いた完璧な社交の笑顔が、少しだけ引きつりそうになるのを、エレナは奥歯をかみしめてこらえた。
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案内された自室は、こぢんまりとしていたが、清潔で、窓から川が見えた。
ハンネが荷物を片付け始めるのを横目に、エレナは窓辺に近づいて外を眺めた。夕暮の光が川面に溶けていく。王都では見たことのない、橙色の空だった。
そのとき、ふと気がついた。
窓台の端に、小さな花が一輪、置かれていた。
摘みたてなのだろう、茎にまだ土がついている。どこにでも生えていそうな、名もない白い野花。花瓶も飾り気もなく、ただそこに、置かれていた。
エレナは眉を寄せた。
考えてみれば、城門をくぐる少し前——馬車の窓を開けていたとき、道端に揺れる白い花を見て、エレナは思わず呟いていた。「綺麗ですね」と。声は小さかった。隣を馬で行く辺境伯に届いていたかどうかも、わからない。
わからないのに。
エレナはしばらく、その小さな花を見つめた。胸の奥で、何かが揺れた。痛いような、温かいような——うまく名前のつけられない何かが。
こぼれ落ちそうになったものを、エレナはそっと、奥に仕舞い込んだ。
まだ、信じてはいけない。
それでも手を伸ばして、野花の花弁を、そっと一度だけ指先でなぞった。
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(第2話へつづく)




