23.真実
村から半刻ほど北へ離れた、崖に囲まれた開けた地だった。低い灌木がまばらに散り、山並みが灰色の空に霞んでいる。切り立った岩壁が、すり鉢のように四方を囲んでいた。風が、湿った土の匂いを運んでくる。
朝から空は一段と暗かった。厚い雲の底で、雷鳴が遠く響いている。まだ雨は降っていない。だが空気はじっとりと重く、肌にまとわりついた。
ハルは崖の壁に背を預け、空を見ていた。
(来ます。……数は、十一)
脳内にミントの声が届いた。姿は見えない。崖の上、木の陰から、彼女は戦場の全体を見渡している。
「来たか」
ハルは、声に出して短く返した。確かめるためではなく、覚悟を固めるためだった。
ここを選んだのは、賭けだった。
人数の不利を地の利で覆すなら、本来は村の周辺――入り組んで、一度に相手取る数を絞れる場所がいい。だが、それは選べなかった。
一つは、村を巻き込むわけにいかないこと。ガルドは、住民を盾に取ることを厭わない男だ。
もう一つは――ゼインとの約束だ。広い場所でないと意味がない。ゼインの死を明確にガルドに認識させるには目に見える場所で処理する必要がある
それに、ガルドは一対一でリリアと自分を戦わせるだろうという算段がハルにはあった。ライズの殺害現場でもそうだったが、ガルドは自分の駒を消耗させたくはないらしい。両方が消耗したところに一斉に仕掛けてくるだろう。それが一番効率がいい。
問題は、時間だった。
竜との戦いで、思い知らされている。ナノマシンを全力で回せるのは、せいぜい一分。それを使い切った瞬間、まだ敵が立っていれば、待っているのは死だ。今、崖の縁に集うのは十一。リリア一人を退けたところで、残る十が、無傷で待っている。
だから、セーブしながら戦う必要がある。
(ハルさん。リリアさんが一人突貫してきています)
「ガルドの狙いだ。俺とリリアを、勝手に潰し合わせるつもりだろう」
(……私、援護に回りましょうか。炎での支援くらいなら)
「いや。お前は崖の上から、指示だけ出せ。炎は使うな。姿を晒すな」
ハルは短く言った。
「お前に攻撃が向いたら、今の俺じゃ守り切れない。だから、絶対に降りてくるな」
(……わかりました。でも、無理はしないでください)
「わかってる」
返事の代わりに、ハルは壁から背を離した。
崖の切れ目に、影が並ぶ。
その先頭が、地を蹴った。
銀の髪が、曇り空の下で尾を引く。リリア・シュバルツ。五十メートルを、一息で詰めてくる。加速のギフト。空気を裂く音より早く、彼女はもうハルの眼前にいた。
振り抜かれた腕の先で、青白い鞭が伸びる。氷結魔法。
ハルは地を蹴って跳んだ。鞭が地を薙ぎ、岩肌を裂いて破片を散らす。着地と同時に、鞭が形を変えた。鞭から、剣へ。瞬時の硬化。突き込まれた切っ先を、ハルは薄い刃で受け流す。
ヘムが調達した斬ることに特化した片刃の剣。まともに受ければ簡単に折れてしまうだろう。だから逸らすし流す。面で触れて、力の向きだけを変える。剣を「弾く」のではなく、相手の力を「流す」。軍の訓練で叩き込まれた消耗戦の心得、武器を長く使うためのコツ。最小の動きで最大を殺す技術。
異常な動体視力と、力学的見地、先読み、身体操作が必要とされる高等な戦闘技術だった。
眼が赤く灯った。古傷の線が、旅装の隙間で淡く発光する。
「――ようやく」
リリアの声に激情は感じられない。自身の能力のように冷たく研ぎ澄まされていた。
怒りの頂点を通り越して、冷静になった状態。戦闘において最高のパフォーマンスが発揮できる状態になっていた。
「ずっと、探してた。何日も、何日も。眠るのも忘れて」
まるで恋焦がれた恋人にかける言葉のように重いく想かった。
ハルは口を開かない。いや、開く余裕がない。
機械眼のサポートが低い状態で自身でナノマシンのコントロールをしながら、高度な戦闘技術を駆使して戦わなくてはいけない。
0、100の調整であれば簡単だが、微調整はかなり神経を使う。また、リリアと違って武器は一本しかない。これが使えなくなったら一気に不利になる。
二合、三合、四合。氷の剣が空を裂き、細い刃がそれを撫でて流す。リリアの加速が、間合いを支配していた。詰めて、断ち、退いて、また詰める。中距離からは氷の礫を撒き、近づけば剣に変える。隙がない。普通の冒険者なら、最初の一合で胴を割られている。
だがハルは割られない。ぎりぎりで、流し続ける。
流した氷の剣、その勢いに乗って、ハルの膝が跳ねた。リリアの鳩尾へ、浅く。息を詰まらせるだけの、殺さない蹴り。
呼吸が乱れた一拍を突いて踏み込み、細い剣を返す。峰の腹で胴を狙うが、いなされる。
蹴りと峰打ち。急所を外し、戦闘不能にする戦い方。
リリアの眉が、一瞬だけ動いた。
「なんで」
氷の刃を峰で受け、返した刀が、リリアの肩を狙う。
「なんで――殺しに、来ないのよ」
声が、わずかに上ずっていた。
「手加減されるほうが、よっぽど惨めだって、わからないの? あなたを信じた。なのに――それが全部わたしの勘違いだったって。そのうえ、憐れむつもり?」
ハルは答えなかった。
脳裏に、あの夜の声が落ちる。
――リリアを頼む。
ライズの最後の言葉。死にゆく男が、血の泡の向こうから託したもの。あれから何度もハルの頭に繰り返された言葉。呪いのようにハルの行動を縛ってくる。
リリアとハルが戦闘しているのを遠巻きに10人が見ていた。八人の冒険者と、ガルド。そして、ゼイン。誰も、動かない。剣を抜こうともしない。ただ、二人が潰し合うのを、雨の気配の中で、静かに待っている。それが、ガルドの描いた絵だった。
(右。礫が三つ)
崖の上から、ミントの声が死角を埋め続ける。読み上げられる一手先が、ハルの戦闘をかろうじて支えていた。
氷の礫がハルの頬をかすり、裂いた。血が散る。ハルは構わず前へ出た。退いてばかりではじり貧だ。リリアの剣を持つ手首、その内側へ、掌を当てる。
寸勁。
ゼロ距離からの打が、衣を通して骨へ抜けた。氷の剣が、根元から砕け散る。リリアの体が、わずかに泳いだ。
好機。殺すならここだ。首は完全に空いている。ハルの今まで叩き込まれてきた感覚が、体を勝手に動かそうとする。
ハルは体に感情で逆らい、踏み止まった。そこに本来なら絶対生まれない隙が生まれた。
その一拍の逡巡をリリアの本能が読んだ。研がれた感覚が彼女を救う。崩れた体勢から、加速。膝が跳ね上がり、ハルの脇腹を打った。肋骨にピキリと嫌な感触。
息が詰まる。視界の端が、白く滲んだ。
雷鳴が、近づいてくる。ハルとリリアは、跳び退いて距離を取った。
互いに、肩で息をしている。
リリアの右腕は、寸勁の衝撃でまだ痺れていた。指の感覚が、半分ない。ハルの脇腹は、一歩ごとに軋む。
拮抗。
ハルは空を見上げかけてやめた。いつ降ってきてもおかしくない雲が重く空を覆っている。
リリアの息は上がっていた。痺れた右腕を、彼女は左手で握り、無理やり感覚を呼び戻している。
風が止んだ。リリアが地を蹴る。ハルも応じて踏み込む。
最後の一合。氷の刃と、細い刃が、暗がりの中で交わる――
(ハルさん――!)
頭の中でミントの声が跳ねた。
ずっと様子を伺っていただけの冒険者の一人が、動いていた。ハルとリリアの斬り合いに読みを集中させすぎていた分だけ、彼女の未来予測は、一拍遅れた。
その男の掌から、水の塊のようなものが放たれた。青白く、ぬめりを帯びた塊。それが宙を裂き、ハルとリリアに――同時に、着弾する。
触れた瞬間、体が、奪われた。
冷たいものが、皮膚から神経へ這い上がる。麻痺。水を媒介に、全身の感覚と力を、根こそぎ奪っていく能力だった。
万全なら、躱せた。
今のハルには、無理だった。リリアとの戦闘で消耗した体は命令に一拍遅れている。それはリリアも同じだ。
膝が、落ちた。剣が、手から滑り落ちる。立てない。指一本、思うように動かせない。濡れた体の内側で、自分の輪郭が、ぼやけていく。
その時だった、空が堰を切った。
ザーーー
土砂降り。
幾日も垂れこめていた雲が、ここでようやく裂けた。叩きつけるような雨が、荒れ地を白く煙らせる。視界が塗り潰される。
ハルの体から水蒸気が上がる。ナノマシンの出力が安定していく。赤い眼の奥で、数値が一斉に正常化されていく。
元の世界のナノマシンを狂わせる物質が入った雨は天敵だったが、こちらの雨は冷却を行い味方になってくれるようだ。
そして――
(ハルs....)
ミントの声が途切れ、ナノマシンが機能を停止した。
体を動かそうとしても言うことを聞かない。手のひらに溜まる雨が、やけに冷たい。
――なんだ?さっきの液体の影響か?
ハルは冷静に分析しながら周囲を眼だけで見渡す。リリアに近づく影が目に入った。
ぬかるみに片膝をついたリリアは、目だけを動かして影をとらえていた。
その後ろから、雨を割って歩いてくる、もう一つの影を。
「ガルド……?」
臨時ギルド長は、雨を厭う様子もなく、ゆっくりと近づいてきた。細身の体。鋭い目。傘もささず、濡れるに任せている。その表情からは、何も読み取れない。
「なぜ……私まで」
リリアの声が、雨に溶ける。
ガルドは、彼女を見下ろした。その目に、嘲りはなかった。ただ、用済みの道具を見るような、平坦な視線があるだけだった。
「死ぬ前に教えておいてやろう」
ガルドは、言った。
「そこにいる男はライズを殺していない。これだけ言えばいくら盲目になっているおまえにもわかるだろ?」
雨の音が、世界を埋めた。リリアの瞳が、わずかに見開かれる。
「……」
「お前は、よく働いてくれた」
ガルドは続けた。
「だが、お前は今後の国にとっては障害になる。だからここで終わりだ」
ガルドの口の端が、わずかに動いた。笑みではなかった。
「指名手配の犯人と、それを追った娘が、相討ちで果てる。誰も疑わない。きれいな話だろう。一度で面倒ごとが二つ片づく」
頭がスッとクリアになり、いろんなパズルが組みあがっていく。だがもう遅かった、すべてはガルドの思惑通り。
動けないのは、体の痺れのせいだけではなかった。
自分の信じていたことが――いま、足元から音もなく抜けていくのを、感じていた。
雨が、彼女の頬を打つ。
それが雨なのか、別のものなのか、もう、わからなかった。




