第98話
家族以外は面会はできないと、事前に聞いていた。
梨花が病棟の談話スペースで立ったまま待っていると、背後から「お待たせ」と梶田の声がした。
梨花が振り返ると、よれよれの梶田がほっとしたように笑う。
気を張っていたのだろうなと、彼の心情を想像すると、梨花の胸がきゅっと締まった。
「これ、お弁当。ご飯ちゃんと食べてないのかなって思って」
梨花が差し出した紙袋を、嬉しそうに受け取る梶田。
「ありがとう。言われてみれば、昨日からエネルギーゼリーしか食べてないや」
やっぱり。
あぶらものは控えて、和食中心の胃腸を労わるメニューにして正解だった。
「こういうときこそ! しっかり食べましょ」
それで、と、梨花は梶田の表情を読みながら問いかける。
疲れているけど、穏やかな表情。きっと悪い知らせはないだろう、と思いながら。
「容態は? 紅子さんの」
「落ち着いてる。脳梗塞だったみたい。経過をみないとわからないけど、少し麻痺は残るかもって。でも、命に別状はないよ」
「そう────」
安堵の息をはいて、梨花は近くの椅子に腰を下ろした。
「翔太さん」
ぽんぽん、と隣の椅子をたたいて、座ってくれと意思を示す。
梨花の空気から何かを察したのか、おずおずと隣に腰掛けた梶田の目をじっと見て、梨花は意を決して言う。
「こんな時に何なんですけど。私、福岡には、行きません」
すっ、と、梶田の表情が曇る。
あ、と。梨花は、しまったと思う。
また、話の順序を間違えた。これじゃ、別れ話みたいじゃないか。
えっと、そうじゃなくて────。
慌てて言葉を選んでいると、梶田がぎこちない笑顔をつくった。
「そう────そっか。まだ、すぐには行けない。っていう話でもなくて?」
ああ、ほら、もう。
違うんですって。
ぶんぶんと首を振る梨花。
「違います。でも、前向きな話でっ」
重要なのはその点だ。
「うん」
「私、実家に戻ろうと思って」
「? うん?」
梶田の困惑の表情も当たり前だ。
(私、こんなに説明下手だったっけ)
大事なことだからと言葉を選びすぎて、ゆっくりにしか話せない。
「ええっと。まず、実家の事なんですけど。私にとって、両親との思い出も、おばあちゃんとの思い出も、たくさんつまった家で……。大好きな場所だったのに、そこに1人でいるのは広すぎて。耐えられなくて。安アパートを借りて、そっちに住んでたんです。────でも、住めない場所だけど、その実家を手放すのは、もっとできなくて」
「うん。わかる気がする」
例えるなら、四ツ辻に立ち止まったまま、進む先を選ぶことすら出来ないような。どっちつかずの状態だった。
────でも。
「このままじゃ、楽しいたくさんの思い出まで、悲しみにコーティングされちゃいそうで。そのままだと、前には進めないなって。翔太さんとの未来のその前に、自分ひとりで、悲しみと向かい合う時間を持ちたいと思ったんです。だから、福岡には、いけません」
「ああ、なるほど」
ほっとしたように笑う梶田。
そんな彼が愛しいなと、心からそう思う。梨花は目を細めた。
「この決意がついたのは、翔太さんのおかげです」
そして、あちらの世界に転げ落ちてから出会った、たくさんの縁のおかげでもある。
胸に手を当てれば、温かい気持ちがあふれてくる。だから、いまなら大丈夫。
「ちゃんとひとりぼっちになって、自分と向き合って、それから、新しい家族をつくりたい。他の誰でもない、あなたと。わがままだけど、見守ってくれますか?」
「わかった。────ああ、よかった、ちびっとだけ、フラれるかと思っちゃったよ」
「そんなわけない」
自分の説明能力不足を棚に上げて梨花が口を尖らすと、梶田は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ちびっとだけ。ね?」
「まぁ私の言い方も悪かったです」
ああ、そうだ。それに────。
もうひとつ、伝えたいこと。
「紅子さんのそばにも、いたいし」
「梨花」
嬉しいような、申し訳なく思っているような、そんな梶田の表情がまた魅力的だ。
梨花がそんな事を思っているなんて、気づいてないのだろうな。
いつか伝えよう。────五十年後、くらいに。
ああ、また思考が飛躍しちゃった。
「じゃあ、梨花の気持ちが結婚に向くまで待ってる。それから改めてプロポーズを────」
と、言いかけた梶田の言葉は、申し訳ないけれど遮らせていただく。
「あ、それはちょっと」
手のひらを向けて待ってくださいポーズをする梨花。
「え」
固まる梶田。
「その件に関してはですね────」
今回の事で、よくわかったのだ。
たかが紙一枚、されど紙一枚。
戸籍をともにすることの重さと、その必要性を。
まず自分と向き合ってからと言った、先ほどの自分とは矛盾するけれど。
何かあったときに、最善の動きをできるように。備えておきたい。
入籍したその日から、いきなり家族になるわけじゃないと、梨花は思うのだ。
お互いを思いあう時を過ごし、少しずつ本当の家族になっていくのだと思う。
だけど。
たとえ心が繋がっていても、社会的に繋がりを証明できるものがないと、どうしようとないこともある。
だから。
にっこりと笑って、梨花は狐につままれたような表情の梶田の手をとった。
「結婚は、したいです。なるはやで!」
ああ、可愛いな。逆プロポーズにぽかんと口を開けている彼の顔も。
私にも、こんないたずらっ子みたいな気持ちがあったのね。
少し前には想像もつかなかった。
あの時、こんな気持ちだったの。
いつか縁側でお茶を飲みながら、実はねと話したいエピソード。どんどん増えすぎて、困ったものだ。




