第85話
シェアハウスからあちらに戻る時は、高い場所から落ちなくても良いから楽だ。
梨花はオレンジ色の川にかけられた、丸いフォルムの橋の前に立つ。
浴衣の裾をまくれば歩いて渡れそうな小川だ。
等間隔に並んだ橋は、それぞれ別の場所につながっている。
梨花が渡れる梨花のための橋、梨花は渡れない他の人のための橋。
ひとつひとつ、役割が決まっている。
(今日使うのは、この橋)
木でできた太鼓橋の真ん中まで進むと、向こう岸の空気がゆらりと溶けるように歪み、『道』のあちらの景色がうっすらと見えた。
路地の先、表通りを歩く人影は、こちらを見ることもない。
あちらからは、ただの薄暗い路地にしか見えていないのだろう。
橋を渡ると、温かい水の中を通り過ぎるような肌感触がある。
すぐに蝉の鳴き声と、湿気をまとった空気が梨花を迎えた。
日本に戻るたびに、シェアハウスには四季が無いんだなと実感する。
いつも寒くもなく暑くもなく、じとつく湿気もなければひどい乾燥もしていない。
食べ物の旬もあまり関係が無いらしく、大家さんに頼むと、夏真っ盛りの今だって、冬の物が手に入るのだ。
路地の出口から少しだけ顔を出して、知り合いがいないか確認する。
────よし。
路地からぴょこんと出てきた梨花を、通りすがりの男性が驚いたように一瞥したけれど、すぐに目を逸らせて立ち去った。
(ふう)
人気のない谷底アパートの階段と違って、やはり多用できる道ではないなと、心の中で頷く。
待ち合わせの20分前。
早めに着いたから、まだ梶田は来ていないだろうと思っていたのに、すでに駅前にはすらりとした長身が。
梨花が浴衣を着ると言ったからだろうか、梶田は濃紺の甚平をさらりと着こなしていて、街行く女性たちの視線を集めていた。
前髪と着物の裾をささっと直し、梨花は梶田に歩み寄った。
「お待たせしました」
梶田がスマホから顔を上げて、くしゃりと破顔する。
「おお、可愛いー! いいね」
「あ、ありがとうございます」
そう真っ直ぐに言われると照れる。
シェアハウスのメンバーに褒められるのとはまた違う、体の奥まで沁みるような嬉しさ。
「梶田さんも、お似合いです。甚平」
しかし、そんな余韻に浸っている場合ではなかった。
「ありがと。あれ? どこか寄ってたの?」
と、梶田は梨花が来た方に目を向けた。
それは、駅とは反対側。
本来であれば、梨花は電車を使って、駅から出てくるはずだったのだ。
「あっ、はい! ちょっとドラッグストアに────傷テープ! 靴擦れになる前に、あらかじめ貼っておこうと思って」
「あっ、なるほど。痛くない? 大丈夫?」
「全然おっけーです」
「そう、よかった。無理せず言ってね」
心配してくれる梶田の顔を見て、ちくりと胸が痛くなった。
あらかじめ貼っておこうと思ったのは本当だけれど、貼ったのはシェアハウスを出る前だ。
嘘をつくのは、いつも慣れない。
「あっ、先に食べ物買おうか?」
きょろきょろとあたりを見まわして、梶田が言った。
「そうしましょうか。混む前に。今日はどのあたりで見るんですか? 川のほう?」
15分くらい歩くと、川岸に出る。
そこは花火を見やすいスポットとして有名だ。
このあたりを歩く人たちは、多くがそちらに向かっているだろう。
梨花が問うと、梶田はいたずらっぽく笑う。
「うんっとね、今日は穴場にしよー。着いてからのお楽しみ。あっ、この辺のお店もいろいろ売ってるよ」
「あ、私焼きそば食べたい、です」
お好み焼きと焼きそばのお店が、目に留まった。いつもは無いテーブルが今日は店先に出され、品物が並べられていた。
山のように用意された焼きそばが、具沢山でとても美味しそう。
「おっけー!」
「いやー、買った買った」
両手にビニール袋をさげて、梶田が言う。
「食べ切れるかな」
と、梨花。
「大丈夫、大丈夫」
「ふふ。このやりとり、こないだもやりましたね」
「お弁当ね」
そんなふうに他愛ない話をしながら歩く。
迷いなく歩く梶田に着いていくと、見慣れた会社のビル前で、梶田は急に足を止めた。
「ここでーす」
「会社? 今日お休みなのに。いいんですか?」
梨花が目を丸くすると、梶田は満足そうに胸をはった。
「屋上ね。去年ぶりの特等席。沙月さんに協力してもらっちゃった。うーん。見返りが高くつきそうだな」
チャリ、と裏口の鍵を顔の横まで持ってきて、梶田が真面目な顔で呟く。
「わ。さすがです、沙月さん。私からもお礼を言っておきます」
「うん。ね、敬語やめない? 前も言ったっけ? ふたりだけのときとかさ」
「はい。────あ、うん」
つい、というか、無意識なのだ。染みついた癖は、なかなか抜けない。
「とはいえね。ゆっくりで大丈夫だから」
わかってるよ、と言うように、ぽんぽん、と頭を撫でられた。
自分に尻尾がなくてよかった。と思ったのは、梨花の人生で初めてだ。
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良いお年を!




