第11章 第2話:エデュポータルの深層
あらすじ:倫理委員会への申請が受理され、大学側がエデュポータルとの契約内容の確認を開始する。その一方で、村上准教授とマーカスのチームが、シグネチャ検出ツールを使ったより詳細な解析を進める。すると、エデュポータル内のコンテンツのうち、シグネチャが検出されたものには、ある共通した構造的特徴があることが判明する。それは、読者が能動的に考えているという感覚を強化する仕掛けで、ちょうど読者の思考が結論に近づいた瞬間に、微妙なフレームのずれを生じさせるものだった。智也は、その仕掛けの設計思想に、ヴィクトラム・ナイルという人物の手の痕跡を感じ取る。
---
四月の第二週。
桜は完全に散り、キャンパスは深い緑に覆われ始めていた。
倫理委員会への申請書を提出してから五日が経った。
委員会の事務局から、審査開始の通知が届いた。
前回、第七章での経験とほぼ同じ手順だった。
ただし、今回は一つ異なる点があった。
前回は、外部の不正な研究機関が、学園内でデータを収集していた。
今回は、学術コンテンツそのものの中に、問題が潜んでいた。
その違いが、対応の難しさを倍加させていた。
コンテンツの問題は、データの問題よりも、証拠の特定が難しい。
何が「正常な学術コンテンツ」で、何が「設計された誘導」かを、明確に線引きするのは、法的にも技術的にも、容易ではなかった。
「その線引きが、今回の調査の核心です」
村上准教授は、朝の会議でそう言った。
「技術的には、シグネチャの検出という形で、一定の客観的な証拠を示せます。しかし、それだけでは、法的な問題を立証するには不十分かもしれません。なぜなら、そのシグネチャが、意図的に埋め込まれたものか、偶然の一致かを証明する必要があるからです」
「意図の証明、ですね」
「そうです。ヴィクトラム・ナイルの存在が確認できれば、その意図の証明に繋がります。彼がコンテンツの設計に関わっていたことを示す証拠が、鍵になります」
「ヴィクトラムの追跡は、インターポールが進めています。ただし、時間がかかっています」
「並行して、私たちは技術的な側面を深めましょう。シグネチャの特徴が、より詳細に解明されれば、設計者の特定に繋がるかもしれません」
「どのような方向で解析を進めますか」
「シグネチャを持つコンテンツの、構造的な特徴を抽出します。文章レベルではなく、より深い認知的なパターンのレベルで」
その日の夜、村上とマーカスのチームが、合同で解析を進めた。
翌朝、村上からメッセージが届いた。
「重要な発見がありました。今夜、話せますか」
「話せます」
夜の会議が始まると、村上は、画面に複数の図を表示した。
「シグネチャを持つコンテンツを、百件以上分析しました。そして、共通する構造的特徴が、一つ見つかりました」
「どのような特徴ですか」
「読者が能動的に考えているという感覚を強化する仕掛け、と言えばいいでしょうか」
「具体的には、どういうことですか」
「これらのコンテンツは、問いかけの形式が非常に巧みです。読者に問いを投げかけ、読者自身が考えるための余白を作る。その設計自体は、良質な学術コンテンツと見分けがつかない」
「しかし、何かが違う」
「そうです。違いは、その余白の後に来るものです。読者が問いに向き合い、自分なりの答えが見えてきた、ちょうどその瞬間に、コンテンツが次の文章を提示します。その文章が、読者の答えに対して、微妙なフレームのずれを生じさせる」
「フレームのずれ、とは、どういう意味ですか」
「読者が考えていた答えを、完全に否定するのではなく、少しだけ別の枠組みから捉え直すように、誘導します。読者は、自分の考えが深まったと感じます。しかし実際には、考えの方向性が、わずかにずらされています」
「それは、検出が非常に難しいですね。良質な対話型コンテンツと、表面上は同じように見える」
「そうです。違いは、フレームのずれの方向性に、一貫性があることです。どの問いに対しても、ずれの方向が、特定の認知パターンに向かっています。その一貫性が、意図的な設計の証拠になります」
「その認知パターンとは、どのようなものですか」
村上は、少し間を置いた。
「批判的思考の対象が、外部の権威や制度に向かいにくくなるパターンです。読者は、自分がしっかり考えていると感じる。しかし、その思考の先に、既存の権威や制度への批判が生じにくくなっている」
「つまり、考えているという感覚は与えながら、そのしているはずの考えの方向性を、ある範囲内に収める」
「そう言えます」
マーカスが、補足した。
「それは、私が AcademicMind を設計していた頃に、ファンドのチームから求められた方向性と、本質的に同じです。ユーザーが自発的に考えているという体験を維持しながら、その思考の範囲を制御する。私は、そのような機能を実装することを拒否しましたが、別のチームが、別の形で実現していた可能性があります」
「そのチームが、ヴィクトラムのチームだった可能性がありますね」
「そう推測しています」
智也は、その説明を聞きながら、推理を展開した。
「フレームのずれの方向性が一貫しているということは、設計者が、どの認知パターンを目標にしたかが、技術的に読み取れるということですか」
「その通りです。そして、その目標パターンは、既存の政治や社会への根本的な問いが生まれにくい状態と、一致しています」
「現状維持への親和性、とも言えますか」
「そう言えるかもしれません。あるいは、特定の方向への変化への親和性と言う方が正確かもしれません。完全な保守でも急進でもなく、特定の設計者が望む方向への親和性です」
「その方向性が、ヴィクトラムの設計思想と一致するかどうかは、まだ確認できていませんが」
「エドワードやデイビッドの証言から、推測はできます。ヴィクトラムは、心理戦の専門家として組織に参加していたと聞きました。心理戦の目標は、相手の意思決定の基盤を、相手に気づかれることなく弱体化することです。その観点から見ると、批判的思考が外部に向かいにくくする設計は、非常に合理的です」
「外部への批判が生まれにくい社会は、既存の権力構造が維持されやすい社会でもある」
「そうです。そして、その権力構造の中で、特定の誰かが利益を得ている可能性があります」
「誰が利益を得ているかを、追う必要があります」
「そこが、次の問いですね」
その夜の会議が終わった後、智也は、木村刑事に状況を報告した。
木村刑事は、報告を聞きながら、手帳に書き取っていた。
「フレームのずれが、批判的思考の外部指向を弱める方向に設計されているということは、その技術の受益者は、既存の権力構造の中にいる誰かである可能性が高い」
「そう思います。ただし、それが誰かを特定するためには、さらなる証拠が必要です」
「コグニティブ・ブリッジ・リサーチとフューチャーマインド・ラボの親ファンドの実態解明が、その鍵になりますね」
「はい。親ファンドが、誰の利益のために動いていたかが分かれば、全体の構造が見えてきます」
「現在、インターポールと連携して、親ファンドの資金フローを追跡中です。ただし、複数のシェルカンパニーを経由しており、時間がかかっています」
「ヴィクトラムの追跡は、どうですか」
「渡航記録の解析から、最後に確認されたのが、二ヶ月前のドバイです。その後の足取りは、現時点では不明です」
「消えた、ということですか」
「逃亡の可能性もありますし、潜伏の可能性もあります。まだ断言できません」
「分かりました。引き続きよろしくお願いします」
翌日の昼、智也は、西島誠一郎教授に連絡を入れた。
「先生の実験で、フレームのずれを測定する手法はありますか」
「どういう意味ですか」
「読者が、特定の問いに対して考えを深める過程で、その考えの方向性が微妙にずらされているかどうかを、測定できる実験です」
西島は、少し考えてから答えた。
「面白いアプローチですね。完全には難しいですが、近いことはできます。読者に問いを与え、考えた後に答えを書いてもらう。そして、途中に特定のコンテンツを挿入した場合と、挿入しなかった場合で、答えの傾向を比較する」
「その実験を、エデュポータルのコンテンツを使って行うことは、可能ですか」
「倫理委員会の承認が必要ですが、申請は可能です。ただし、一つ難しい点があります」
「何ですか」
「実験参加者に、コンテンツの内容が問題のある可能性があると伝える必要があります。しかし、そう伝えることで、参加者の判断に、別のバイアスが生じる可能性があります」
「ダブルブラインドにする必要がありますね。参加者には、コンテンツの問題については伝えずに実験を行う。しかし、実験終了後に、全ての情報を開示する」
「そのデザインなら、倫理的に成立する可能性があります。一緒に設計しましょうか」
「ぜひ、お願いします」
その日の夕方、智也は、美優に今日の進展を共有した。
美優は、全て聞いた後、静かに言った。
「つまり、学生たちが毎日使っているデータベースが、彼らの批判的思考を、知らないうちに方向付けている可能性がある」
「その可能性があります。ただし、まだ実験で検証する段階です」
「それは、書籍の刊行を、少し待つべきかもしれないということ?」
智也は、少し考えた。
「むしろ逆だと思います。今の状況を、そのまま書くべきです。完全な答えが出ていない段階での、リアルタイムの記録として。調査の過程で、さらなる発見があれば、それも含めて書く。推理者の旅は、終わったものを記録するのではなく、進行中のものを記録することでもあります」
「それは、書き手として、非常に難しいことよ。書籍は、ある程度の結論が必要だから」
「結論は、一つだけあります。問い続けることが、最善だという結論です。その結論は、今の段階でも、変わっていません」
美優は、しばらく沈黙した。
「分かった。そう書く。そして、あなたの言う通り、調査の進行中の状態も含めて記録する。それが、この書籍の誠実さになるかもしれない」
その夜、智也は図書館に戻った。
奥の席に座り、電子データベースを開いた。
そして、意識的に、コンテンツを読む自分の思考過程を、観察しながら読んだ。
問いが提示される。
考える。
答えが見えそうになる。
次の文章が来る。
その文章を読んだ後、自分の答えの感覚が、微かに変化していないか。
以前と同じように読んでいるつもりで、何かが違う感覚があるかどうか。
三十分ほど、その観察を続けた。
完全には分からなかった。
自分の思考の変化を、自分で観察することの難しさを、改めて感じた。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
こうして、自分の思考過程を意識的に観察しようとする行為そのものが、外部からの設計に対する、最もシンプルな抵抗だった。
気づこうとすること。
観察しようとすること。
それが、完全な解決策ではないとしても、何もしないよりは確かに、自分の認知を守る行為だった。
ノートに、智也は書いた。
**「今日の発見。シグネチャを持つコンテンツには、共通した構造がある。問いを与え、考える余白を作り、思考が結論に近づいた瞬間に、フレームを微妙にずらす。読者は考えが深まったと感じるが、方向性がわずかにずれている。その一貫したずれが、意図的な設計の証拠になる。」**
**「その設計の目標は、批判的思考の外部指向を弱めること。考えてはいるが、その考えが現状への根本的な問いに向かいにくい。使う人間が、自分が考えていると信じながら、考えの範囲を制御される。」**
**「しかし、こうして自分の思考を観察しようとすること自体が、抵抗だ。完全な解決ではない。でも、気づこうとすることをやめなければ、完全には操作されない。それが、今の私の確信だ。」**
**「西島先生と共同で、実験のデザインを始める。倫理委員会への申請を追加する。ヴィクトラムの追跡を継続する。親ファンドの実態解明を進める。それぞれが、同時進行で動いている。」**
**「一歩一歩、丁寧に。それが、変わらない在り方だ。」**
図書館の外では、夜風が吹いていた。
春の夜が、静かに深まっていた。
電子データベースの画面が、机の上で静かに光っていた。
その光の中に、問いが、また一つ、生まれていた。
---
第11章 第2話「エデュポータルの深層」完




