第11章 第1話:春の残影
あらすじ:桜が散り始めた四月。智也は大学の二年目を迎え、新たな授業と新たな仲間に囲まれながら、並行して続く調査の進捗を追っている。インターポールによるヴィクトラム・ナイルの追跡が続く中、マーカスのチームが開発した第二世代シグネチャ検出ツールの初期バージョンが、ようやく完成する。しかしそのツールをテストした結果、予想外の場所で高濃度のシグネチャが検出された。それは、智也が毎日通っている大学図書館の、電子データベースの中だった。
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四月の第一週。
桜が散り始めていた。
風が吹くたびに、花びらが舞い、キャンパスの石畳が白とピンクに染まった。
智也は、その光景を眺めながら、図書館へと向かった。
新学年が始まり、キャンパスには新入生の顔が増えていた。
昨年の自分を思い出した。
あの時も、同じように桜が咲いていた。
あの時と今では、見ている景色の意味が、変わっていた。
桜は同じだ。
しかし、その桜を見ている自分の目が、一年分の経験を積んでいた。
図書館の奥の席に座り、パソコンを開いた。
マーカスからのメッセージが届いていた。
「ツールの初期バージョンが完成しました。テストを開始します」
その一文に、智也は静かな興奮を覚えた。
マーカスのチームが開発してきた、第二世代コンテンツのシグネチャ検出ツール。
コンテンツの文章構造から、特定の設計思想に基づくアルゴリズムの痕跡を抽出する技術だ。
完全ではないが、既にEngageMax AnalyticsのSDKについては、七十パーセント以上の精度で検出できることが確認されていた。
第二世代への対応は、まだ難しいとされていたが、部分的な検出は可能になってきていた。
「テストの結果が出たら、知らせてください」
返信を送り、智也は今日の授業の予習を始めた。
二年目の比較情報法は、一年目よりも実践的な内容になっていた。
特定の事例を用いた模擬法廷形式の演習が中心で、学生が弁護側と検察側に分かれて議論する。
その事例の一つが、スマートフォンのアルゴリズムによるユーザー行動誘導の法的責任だった。
智也には、その事例が、単なる演習ではなかった。
自分が直接関与してきた問題が、法学の授業のテーマになっていた。
その二重性が、奇妙な感覚をもたらした。
授業が終わった午後、マーカスから追加のメッセージが届いた。
「テスト中、予想外の場所でシグネチャが検出されました。至急、確認してほしいことがあります。今夜、話せますか」
その文面の「予想外の場所」という言葉が、智也の推理者の直感を、強く刺激した。
「話せます。夜九時に」
夜九時、指定の暗号化チャンネルで、マーカスとサラが接続してきた。
マーカスの表情が、複雑だった。
緊張と、驚きと、何か腑に落ちないものが混在しているような表情だった。
「何が見つかりましたか」
智也は、単刀直入に聞いた。
「ツールのテストを、複数の環境で行いました。SNSのフィード、ニュースサイト、動画プラットフォーム。それぞれで一定のシグネチャが検出されましたが、濃度は予想の範囲内でした」
「しかし、予想外の場所があった」
「そうです。日本の複数の大学の電子データベースです。学術論文や、講義資料を提供するプラットフォームです」
智也は、その言葉を聞いて、一瞬、思考が止まった。
「学術データベース、ですか」
「はい。特に、認知科学、情報倫理、デジタル社会論、に関連するカテゴリーで、高濃度のシグネチャが検出されました」
「それらは、私が最もよく使うカテゴリーです」
「そう思いました。だから、至急連絡しました」
サラが、補足した。
「智也さん、あなたが使っている大学の電子データベースは、どのシステムを使っていますか」
「エデュポータルというシステムです。国内の複数の大学が共同で使っているプラットフォームです」
「そのエデュポータルの運営会社について、調べました」
サラは、画面を共有した。
「運営会社は、株式会社エデュテクノロジー。設立は三年前。出資者の中に、フューチャーマインド・ラボの関係者が含まれています」
その情報が、智也の脳の中で、複数の推理を瞬時に呼び起こした。
「つまり、私が大学の図書館で毎日使っている電子データベースが、コグニティブ・ブリッジ・リサーチ系列の組織と関係している」
「そう見えます」
「そのデータベースが提供しているコンテンツの一部に、第二世代のシグネチャが埋め込まれている可能性がある」
「可能性というより、部分的には確認されています」
「つまり、私は毎日、そのコンテンツに接触していた」
部屋が静まり返った。
智也は、しばらく、その事実を頭の中で展開した。
「西島先生の実験で、私の正答率が、専門領域に関する文章で低下していた理由が、これで説明できるかもしれません。毎日、そのデータベースを通じて、特定のシグネチャを持つコンテンツに接触していれば、そのパターンに馴染むのは自然なことです」
「私もそう思います」
サラが言った。
「そして、もう一つ、重要な点があります。シグネチャの高濃度が確認されたのは、日本の大学だけではありません」
「他にも、ありますか」
「スタンフォードを含む、複数の海外の大学の電子データベースでも、同様のパターンが検出されています。ただし、濃度は日本ほど高くない」
「なぜ、日本が高濃度なのでしょうか」
「そこを、今、分析中です。ただし、一つの仮説があります。日本では、エデュポータルという共通プラットフォームが、多くの大学で採用されています。一つのプラットフォームに集中させることで、効率的に広範囲を覆える。それが、日本での濃度が高い理由かもしれません」
「それは、EngageMax AnalyticsのSDKが、多くのアプリに組み込まれていた構造と、同じ発想ですね」
「そうです。今回は、アプリではなく、学術プラットフォームです。対象がより知識層に絞られている分、影響の精度が高い可能性があります」
マーカスが、続けた。
「もう一つ確認したことがあります。エデュポータルを通じて提供されているコンテンツのうち、シグネチャが検出されたものは、全て外部から提供されたものです。大学が独自に作成したコンテンツには、シグネチャは見られません」
「つまり、コンテンツプロバイダーのレベルで、シグネチャが埋め込まれている」
「そうです。コンテンツプロバイダーの一覧を調べると、複数の民間の教育コンテンツ会社が含まれています。それらの会社の一部が、フューチャーマインド・ラボやコグニティブ・ブリッジ・リサーチと、資金や人員の面でつながっている可能性があります」
「その確認は、進んでいますか」
「今夜から、調べ始めます」
「木村刑事にも、今夜中に報告します」
智也は、通話を切った後、しばらく動けなかった。
毎日座っている図書館の席。
毎日開いているデータベース。
毎日読んでいる論文。
それらが、全て、調査の対象になっていた。
自分の日常の中心にあるものが、調査の対象だった。
その事実は、智也に、これまでと異なる感覚をもたらした。
外にある問題を追うのではなく、自分の生活の中に問題が入り込んでいた。
いや、正確には、最初から入り込んでいたのかもしれない。
気づいていなかっただけで。
翌朝、美優に連絡した。
「重要な発見がありました」
「どんな?」
智也は、前夜のマーカスとサラの報告を、要約して伝えた。
美優は、全て聞いた後、少し間を置いて言った。
「それは、書籍の内容を、更新しなければいけないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「第三部に、認知的自律性を守るための方法として、信頼できる情報源を選ぶことを書いた。学術データベースは、その信頼できる情報源の代表として挙げていた」
「それが、実は、問題のある情報源だった可能性があると」
「そう。書籍を読んだ人が、学術データベースを信頼して使えば、逆に影響を受けやすくなる可能性がある。その矛盾を、どう書くべきか」
智也は、少し考えた。
「美優さん、一つ提案があります」
「何?」
「その矛盾を、そのまま書いてください。完全な解決策は存在しないという事実の、最も具体的な例として。そして、だからこそ、複数の情報源を横断的に使うこと、そして、人との対話を情報源の一つにすることが重要だと」
「情報源として、人との対話を」
「はい。データベースが操作される可能性があっても、複数の人間が直接対話する場は、現時点では最も操作が難しい領域です。だから、対話を情報収集の習慣にすることが、一つの対抗手段になります」
「それは、説得力がある。でも、対話も、操作される可能性はあるわよね」
「あります。だから、完全な解決策ではない。ただし、現時点での最善です。そしてその最善を、常に問い直し続けることが、大切だと思います」
「それを書く。そして、読者に、問い直し続けることの価値を伝える」
「それが、この書籍の、最も大切なメッセージになると思います」
その日の午後、木村刑事に状況を報告した。
木村刑事は、報告を受けてすぐに動いた。
「エデュポータルと、コンテンツプロバイダー各社への任意の資料提出要請を、検討します。ただし、学術機関への強制的な調査は、慎重に進める必要があります。学術の自由という保護があります」
「第七章での行動科学研究所の事例と、同じ慎重さが必要ですね」
「そうです。まず、大学の倫理委員会を通じた正規の手続きを踏むことを、優先します。千葉さんが在籍している大学の倫理委員会に、今回の発見を報告することから始めるべきかもしれません」
「分かりました。倫理委員会への申請を、準備します」
電話を切った後、智也は、倫理委員会への申請書の準備を始めた。
第七章で、同じ手続きを経験していた。
その経験が、今回の準備を、より速く、より適切に進める助けになった。
申請書を書きながら、智也は、自分の成長を、具体的な形で感じた。
かつては、警察署の前で立ちすくんでいた。
今は、倫理委員会への申請書を、淡々と、しかし丁寧に書いている。
その変化が、この旅の証だった。
その夜、図書館の奥の席で、ノートを開いた。
**「第十一章の始まり。エデュポータルという、日本の複数の大学が使う電子データベースに、第二世代のシグネチャが検出された。私が毎日使っている場所が、調査の対象になった。外にある問題を追うのではなく、自分の生活の中に問題が入り込んでいた、あるいは最初から入り込んでいた。」**
**「しかし、だからといって、パニックになる必要はない。この発見も、一つの情報だ。調査を進める材料だ。第七章で倫理委員会に申請した経験が、今回の動きを速くしている。経験は積み重なる。」**
**「美優との対話で、一つのことが明確になった。完全な解決策はない。しかし、問い直し続けることが、最善の在り方だ。それを書籍に書く。それが、この旅の結晶になる。」**
**「次のステップ。倫理委員会への申請。エデュポータルのコンテンツプロバイダーの調査。ヴィクトラム・ナイルの追跡の継続。それらを、並行して進める。一つ一つ、丁寧に。」**
窓の外に、夜風が吹いていた。
桜は、もう散りかけていた。
白い花びらが、夜の闇の中に消えていく。
一つの季節が、次の季節へと移ろっていた。
推理者の旅も、また、新たな季節に入っていた。
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第11章 第1話「春の残影」完




