第10章 第6話:二年前のアクセス
あらすじ:美優のクラウドへの不審なアクセスを追跡する調査が始まる。木村刑事とサラの協力を得て、アクセス元のIPアドレスが特定されると、そこから意外な人物の名前が浮かび上がる。同時に、マーカスのチームが、第二世代コンテンツのアルゴリズムシグネチャの検出に、部分的な成功を収める。しかしその成果が公表される直前、マーカスのオープンソースリポジトリに、謎のコードが混入される事件が起きる。内部からの妨害か、外部からの介入か。推理者としての智也の判断が、再び試される。
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二月の終わり。
東京では、梅の花が満開になっていた。
智也は、図書館の窓から、その白い花を見ながら、村上との朝の会議を待っていた。
美優のクラウドへの不審なアクセスについての報告を、木村刑事に入れてから三日が経っていた。
その間、サイバー犯罪対策部門が、ログの解析を進めていた。
「千葉さん、接続できます」
村上の声が、イヤホンから聞こえた。
「おはようございます。何か進展はありますか」
「木村刑事から、速報が入っています。IPアドレスの特定が、一部完了したようです」
「どのような結果でしたか」
「まず、アクセスは、複数のVPNを経由していたため、完全な追跡は難しい状況です。ただし、最後の中継点として使われたサーバーが、シンガポールに置かれていたことが分かりました」
「シンガポール」
「そうです。そして、そのサーバーの管理者として登録されていた法人名が、興味深い」
「何という法人ですか」
「コグニティブ・ブリッジ・リサーチという、小さな民間研究機関です。設立は三年前。表向きは、認知科学の研究を行っている団体です」
「設立時期が、EngageMax Analytics設立の直前と重なりますね」
「そうです。そして、この法人の顧問リストに、一人の名前があります」
村上は、少し間を置いた。
「デイビッド・チェン、です」
智也の脳が、その情報を瞬時に処理した。
「デイビッドが、美優のクラウドへのアクセスに、関与していた可能性があるということですか」
「少なくとも、そのアクセスを行った組織と、デイビッドは繋がっていた。ただし、デイビッドが直接アクセスを指示したのか、組織の一員として関わっていただけなのかは、まだ不明です」
智也は、しばらく考えた。
「デイビッドは、第九章の対話で、グローバル・コグニティブ・ファンドの全ての活動について、話したと言っていました。しかし、コグニティブ・ブリッジ・リサーチの名前は、出てこなかった」
「意図的に隠していた可能性もあります。あるいは、彼自身がその組織の存在を、完全には把握していなかったかもしれない」
「どちらにせよ、確認が必要です。デイビッドに、改めて連絡を入れます」
その日の午後、木村刑事から直接連絡が来た。
「千葉さん、コグニティブ・ブリッジ・リサーチについて、追加情報があります」
「何ですか」
「この法人が発行している研究レポートを、過去三年分、洗い出しました。表向きは認知科学の学術的なレポートですが、その配布先を確認すると、複数の特徴があります」
「どのような特徴ですか」
「配布先の多くが、教育関係者、ジャーナリスト、そして、NGO関係者です。特定の思想や活動を持つ、社会的な影響力を持ちやすい職業の人々に、絞り込まれています」
「つまり、社会への影響力を通じて、より広い範囲に、思考パターンを波及させようとしていた可能性がありますね」
「そう考えられます。そして、そのレポートの文章構造を、村上准教授に解析していただいたところ——」
「アルゴリズムシグネチャが検出されましたか」
「一部が、検出されました。EngageMax Analyticsの第一世代とは異なりますが、レナが説明した第二世代の特徴と、複数の点で一致しています」
「つまり、コグニティブ・ブリッジ・リサーチは、第二世代の技術を、研究レポートという形式に落とし込んだコンテンツを、社会的な影響力を持つ人々に配布していた」
「そう見えます」
「その受け取り人の中に、私の名前はありましたか」
木村刑事は、少し間を置いた。
「あります。監視委員会の委員長として、二年前に一度、レポートが届いています」
智也は、その言葉を聞いて、静かに目を閉じた。
「届いていたことを、私は記憶していません」
「スパムとして処理されたか、あるいは、見落とした可能性があります。受信記録は残っていますが、開封の記録はありません」
「未開封なら、影響は受けていないということになりますか」
「コンテンツを実際に読まなければ、第二世代の影響を受けることは難しいと思われます。ただし、配布先リストに名前があること自体が、あなたが標的として認識されていたことを示しています」
その夜、智也はデイビッドに連絡を入れた。
現在、デイビッドは複数の条件のもとで自由の身にあり、インターポールの監視下で、協力的な証言を続けている。
「デイビッドさん、コグニティブ・ブリッジ・リサーチという組織について、聞いてもいいですか」
返信は、翌朝に届いた。
「知っています。ただし、私の直接の管轄ではありませんでした。レナのチームとは別に、グローバル・コグニティブ・ファンドの中の、別の部門が運営していた。私はその存在を知っていましたが、詳細には関与していなかった。なぜ話さなかったかというと、私が証言した時点では、その組織が鮎川さんのデータにアクセスしていたことを、知らなかったからです。今初めて知りました。申し訳ありません」
「その組織を実質的に運営していたのは、誰ですか」
「エドワードの直轄チームです。彼が、特に重要と判断した人物への、個別対応を、この組織を通じて行っていた」
「つまり、エドワードが、私を個別の標的として認識していた、ということですか」
「おそらく。あなたとアレクサンダーの対話について、エドワードから聞いた時、彼は、あなたのことを、特別な注意を払うべき人物として話していました。敵として、ではなく、予測が難しい変数として」
「予測が難しい変数」
「彼の言葉でした。あなたの推理は、データから予測できない動きをする、と」
その言葉が、智也の心の中で、奇妙な感慨をもたらした。
エドワードに、そのように評価されていた。
しかし、その評価が、標的にされることでもあった。
翌日の朝、マーカスからのメッセージが届いた。
「緊急です。今すぐ話せますか」
「話せます」
ビデオ通話を繋ぐと、マーカスの表情が、険しかった。
「昨夜、私たちのオープンソースリポジトリに、謎のコードが混入されました」
「どのようなコードですか」
「一見、軽微なバグ修正のように見えるコミットが、匿名のアカウントから送られていました。チームのメンバーの一人が、そのコードの挙動を詳しくテストしたところ、意図的に含まれた機能が発見されました」
「どのような機能ですか」
「私たちが開発しているシグネチャ検出ツールが、特定のシグネチャを検出した時に、その検出結果をある外部サーバーに送信する、という機能が、隠れた形で埋め込まれていました」
「つまり、私たちのツールが、何を発見したかを、外部に報告する仕組みを、密かに組み込もうとしていた」
「そうです。もし気づかずにリリースしていたら、私たちの調査の進捗が、リアルタイムで外部に漏れていた」
「そのコミットを行った匿名アカウントは、追跡できましたか」
「現在、追跡中です。ただし、プロキシが複数層で使われており、時間がかかりそうです。ただ、一つ、分かったことがあります」
「何ですか」
「そのアカウントが作成されたのは、私たちがシグネチャ検出の研究方針を、チームのチャットで話し合った翌日でした」
「チーム内部の情報が、漏れている可能性がありますか」
マーカスは、苦しそうな表情をした。
「否定できません。チームのメンバーは、全員、誠実だと信じています。しかし、彼らの誰かが、意図せず標的にされている可能性はある」
「あるいは、チームのコミュニケーションツール自体が、監視されているかもしれません」
「その可能性も、調べています」
その情報を、すぐに村上とサラに共有した。
三人でのオンライン会議が、その日の夜に開かれた。
「今回の妨害工作を、どう解釈すべきでしょうか」
サラが、口火を切った。
「少なくとも二つのことが分かります」
智也は答えた。
「一つは、私たちの調査が、正しい方向に向かっているということです。そうでなければ、妨害の必要がない。もう一つは、相手が、私たちの進捗をリアルタイムで把握しているということです。情報の漏れが、どこかにある」
「情報の漏れを止めるためには、コミュニケーション方法を変える必要がありますね」
「そうです。ただし、その変更自体を、相手に察知させないように行う必要があります」
「どのようにして」
「表向きは、通常のコミュニケーションを継続しながら、重要な情報の共有は、別のチャンネルで行う。暗号化された、外部からの解析が難しい方法で」
「具体的には?」
智也は、少し考えた後、答えた。
「対面での会話です。デジタルを介さない、物理的な場での対話。それが、今の状況では、最も安全なコミュニケーション方法かもしれません」
「なるほど。デジタルに依存するシステムへの対抗手段が、アナログな対話、という逆説ですね」
「そうです。かつて、私が一人で図書館の奥の席に座って推理していた時、その思考は誰にも観察できなかった。ただし、一人だったから、限界があった。今は、複数の人間が、同じ場所に集まって対話する空間を、作る必要があります」
「東京に来ることはできますか、サラ」
村上が、サラに向かって言った。
「来ます。来週には動けます」
「マーカスも呼べますか」
「連絡してみます」
その翌日、智也は、今回の妨害工作についての自分の推理を、ノートに整理した。
コミットの混入が、チームの方針共有の翌日に行われたという事実。
そして、その混入コードが、検出ツールの検出結果を外部に送信する機能を持っていたという事実。
これらから言えること。
第一に、相手はチームのコミュニケーションを、何らかの形で監視している。
第二に、相手の目的は、私たちの調査を止めることではなく、私たちが何を発見しているかを、把握し続けることだ。
なぜなら、妨害するなら、もっと根本的な方法がある。リポジトリ自体を攻撃する、チームのメンバーに圧力をかける、あるいは、より大きな混乱を引き起こす。
しかし、今回の手口は、静かに情報を吸い上げることを目的としていた。
「それは、なぜか」
智也は、ペンを持ちながら考えた。
私たちの発見内容を、リアルタイムで知ることで、相手は何を得ようとしているのか。
一つの答えが、浮かんだ。
「先回りするためだ」
私たちが何かを発見しようとしている時、その発見の直前に、証拠を消したり、逃げたりするためではない。
私たちの発見を先に知ることで、私たちの調査の方向性そのものを、制御しようとしている。
私たちが発見に近づいた瞬間に、別の方向への手がかりを提供することで、発見の経路を変えることができる。
「これは、追いかけっこではなく、迷路だ」
そして、迷路の設計者は、どの道が行き止まりかを、知っている。
その認識が、智也に、新たな危機感をもたらした。
しかし、同時に、一つの逆転の可能性も、見えてきた。
もし相手が、私たちの発見を先回りしようとしているなら、私たちがあえて間違った方向に進む素振りを見せることで、相手の手を見ることができるかもしれない。
「罠を逆用する」
それは、かなり危険な方法だった。
しかし、状況を打開する可能性が、そこにあった。
ノートに、智也は書いた。
**「今日の発見。妨害工作の目的は、調査の停止ではなく、調査内容の監視と、方向性の制御だ。相手は私たちを追い払いたいのではなく、私たちを管理したいのだ。」**
**「コグニティブ・ブリッジ・リサーチは、エドワードの直轄チームが運営していた。私はその配布先リストに、二年前から入っていた。しかしレポートは未開封だった。それが、今の自分にとって唯一の幸運かもしれない。」**
**「次の手:対面での会議を東京で開く。デジタルを介さない対話の空間を作る。その中で、罠を逆用する戦術を、チームで検討する。」**
**「ただし、一つ忘れてはならないことがある。チームの誰かが、意図せず監視の媒介になっている可能性がある。その人物を排除するのではなく、その人物を守りながら、監視の網を外す方法を考える。それが、推理者としての、私の在り方だ。」**
窓の外で、梅の花が、風に揺れていた。
白い花びらが、一枚、ゆっくりと落ちていった。
第十章は、まだ深い場所へと向かっていた。
しかし、その深さの中に、出口の形が、微かに見えてきた気がした。
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第10章 第6話「二年前のアクセス」完




