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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第10章 第1話:春の問い


あらすじ:大学の冬休みが終わり、二年目の春学期が始まった千葉智也。マーカスの認知的自律性プロジェクトへの参加、美優の三冊目の書籍の出版、そして、委員会の新たな活動方針。複数の変化が重なるその春、智也は、田中陸斗の命日に、初めて、彼の墓を訪れる決意をする。そして、帰り道、ある場所で、新たな問いの種が、ひそかに芽吹くのを感じた。


---


三月の第三週。


東京は、桜の季節を迎えていた。


キャンパスの入り口付近の桜の木が、白に近い薄いピンクの花を、咲かせ始めていた。


その花を見上げながら、智也は、去年の春、このキャンパスに初めて足を踏み入れた日を、思い返した。


あの日も、桜が咲いていた。


だが、あの日の智也には、その花を見上げる余裕が、あまりなかった。


新しい場所への緊張と、既に始まっていた第七章の調査への集中が、視野を狭めていた。


今年は、違った。


花を、ただ花として、見ることができた。


「奇麗ですね」


隣で声がした。


中村彩香だった。


入学初日に話しかけてきた、同じ学部の同期だ。


「はい。去年は、こんなに奇麗だと気づきませんでした」


「私も、去年は、慌ただしくて。でも、今年は少し、落ち着いて見られる気がします」


「そうですね」


二人は、しばらく、並んで花を見ていた。


会話は、それだけだった。


だが、その静かな共有が、智也には、自然で心地よかった。


かつての自分には、そのような共有を、心地よいと感じる余裕が、なかった。


その変化を、智也は、静かに確認した。


春学期の最初の授業が、午後から始まった。


今学期から、智也は、新たに「法哲学」という授業を履修していた。


担当の教授は、七十代の老教授で、定年を前に、最後の年度を迎えていると、噂で聞いていた。


教室に入ると、数十人の学生が、既に席についていた。


老教授は、黒板の前に立ち、静かに話し始めた。


「法哲学は、法律そのものではなく、法律の根拠を問う学問です。なぜ、法律は存在するのか。なぜ、人は法律に従うのか。その問いに、正解はありません。しかし、問い続けることが、法律を生きたものにし続ける」


その言葉が、智也の心に、すとんと落ちた。


正解はないが、問い続けることが重要。


それは、推理者としての智也の在り方と、全く重なっていた。


授業が終わった後、智也は、図書館へ向かう前に、スマートフォンを確認した。


美優からのメッセージが届いていた。


「三冊目の書籍、来週、最終校正が終わる。四月の出版が、確定した」


「おめでとうございます。三冊目、どのような完成度になりましたか」


「自分では、最も大切な本になったと思う。第一章から第九章まで、書籍で追いかけてきた全ての問いが、この一冊に収まっている感じ。あとで、読んでほしい」


「必ず読みます」


「それと、一つ相談がある。田中陸斗さんの命日が、来週だと気づいた。彼のお母さんに連絡したら、来週、墓参りをする予定だと教えてもらった。私たちも、一緒にどうかな」


その提案が、智也の心に、静かな衝撃をもたらした。


田中陸斗の命日。


この旅の始まりとなった日。


「行きます」


智也は、間を置かずに、返信した。


その夜、智也は、図書館の奥の席で、これまでの推理ノートを、一冊ずつ、取り出して積み上げた。


第一章から第九章まで。


九冊のノートが、机の上に積まれた。


その高さが、この旅の密度を、物理的に示していた。


智也は、一番下のノート、つまり第一章のノートを、開いた。


最初のページには、あの言葉が書かれていた。


「飛び降り事件。田中陸斗。なぜ、彼は死んだのか。自殺か、事故か。それとも、別の何かか。この問いが、気になって仕方がない。」


あの日の自分の字が、そこにあった。


少し、震えた字だった。


緊張していたのだろう。


誰かに見られることも、自分の推理が間違っていることも、あの頃の智也は、全てを恐れていた。


今でも、全てが怖くなくなったわけではない。


ただ、その恐れと、共存できるようになった。


それが、最も大きな変化だと、智也は思った。


翌週の木曜日、田中陸斗の命日。


智也と美優は、都内のある墓地を訪れた。


田中の母親が、先に来ていた。


彼女の手には、小さな花束があった。


「千葉さん、美優さん、来てくれてありがとうございます」


「こちらこそ、お誘いいただいて」


三人は、田中陸斗の墓の前に立った。


しばらく、誰も、何も言わなかった。


花を供え、手を合わせた。


冬の名残を含む、冷たい春風が、墓地を静かに通り抜けた。


やがて、田中の母親が、口を開いた。


「今日、ここに来るのは、三回目です。一回目は、全然、泣き止めなかった。二回目は、怒りでいっぱいだった。今日は、何か、違う気持ちがあります」


「どのような気持ちですか」


「息子が、ここから、誰かのためになることにつながったという、不思議な感覚。もちろん、息子に生きていてほしかった。でも、息子の死が、世界を少し変えるきっかけになったという事実は、本物だと感じています」


「そうです。田中さんの死から始まった問いが、ここまで来ました」


「千葉さん、一つだけ聞いていいですか」


「はい」


「息子は、今頃、どこかで、あなたたちのことを、見ていると思いますか」


智也は、その問いに、すぐには答えられなかった。


それは、推理で答えられる問いではなかった。


しばらく考えた後、智也は言った。


「分かりません。でも、私は、田中さんのことを、いつも思い出します。何か重要な決断をする時に、田中さんのことが、頭をよぎります。それが、彼がどこかから見ているということなのか、それとも、単に記憶の中に生き続けているということなのか、私には判断できません。ただ、彼は、私の中に、確かに生きています」


田中の母親は、その言葉を聞いて、静かに涙を流した。


「ありがとうございます。それで、十分です」


墓地を後にして、三人で、近くの喫茶店に入った。


田中の母親は、コーヒーを手に、息子のことを、少し話してくれた。


「陸斗は、本が好きな子でした。図書館によく行っていた。千葉さんと、どこか似ているところがありますね」


「そうですか」


「孤独そうに見えるけど、実は、誰かとつながりたかった子だったと思います。でも、どうつながればいいか、分からなかっただけで」


その言葉が、智也の心に、静かに刺さった。


どうつながればいいか、分からなかっただけ。


それは、第一章の自分にも、言えることだった。


喫茶店を出た後、智也と美優は、並んで最寄り駅に向かった。


「どうだった」


美優が聞いた。


「来てよかったと思います。田中さんのお母さんの言葉が、印象的でした。孤独そうに見えるけど、誰かとつながりたかっただけ、という言葉」


「あなた自身のことでもあるね」


「そうです。そして、この旅で出会った、多くの人のことでもある。アレクサンダーも、エドワードも、デイビッドも、みんな、何かとつながりたかっただけかもしれない。その方法が、誤っていた」


「つながり方を間違えることが、この事件全体の根本的な問題だったのかもしれない」


「そう思います。そして、正しいつながり方を見つけることが、解決の根本的な道だった」


「それが、三冊目の書籍の核心よ。脅威を語るのではなく、正しいつながり方を、具体的に示すこと」


「美優さん、その本、とても重要なものになると思います」


「ありがとう。あなたが言ってくれると、自信が持てる」


駅で美優と別れた後、智也は、帰り道を少し遠回りした。


田中陸斗が通っていた高校の近くを、通って帰ろうと思ったのだ。


その高校の前を、ゆっくり歩いた。


放課後の高校生たちが、正門から出てきていた。


笑い声や、友人に呼びかける声が、聞こえた。


その光景は、第一章の頃と、外見上は何も変わっていなかった。


だが、今は、この高校に複数の心理カウンセラーが配置され、生徒たちが安心して相談できる体制が整っていることを、智也は知っていた。


その変化は、外見には、見えない。


だが、確かに、存在している。


見えない変化を、見えるようにすること。


それが、推理者の仕事だ。


見えない設計を可視化すると同時に、見えない改善も、可視化する。


それが、より完全な推理者の役割なのかもしれない、と智也は感じた。


帰宅後、ノートを開いた。


「田中陸斗の命日に、彼の墓を初めて訪れた。お母さんの言葉が、心に残っている。孤独そうに見えるけど、誰かとつながりたかっただけ、という言葉。それは、多くの人に当てはまる言葉だと思う。そして、私自身にも。」


「この旅全体を通じて、私が出会った問いは、常に、つながりに関わるものだった。支配とは、つながりを歪めることだ。そして、自由とは、正しい形でつながることができることだ。その認識が、今の私の推理の根底にある。」


ページをめくり、新しいページに、一行だけ書いた。


「第十章の問い:正しいつながり方は、どのようにして守られるのか。」


その問いを書いた後、ペンを置いた。


春の夜が、静かに更けていった。


窓の外では、桜の花が、風の中に揺れていた。


その花びらが、街灯の光の中で、ほんの一瞬、輝いた。


推理者の旅は、続く。


だが、今夜は、その問いを、ゆっくりと、春の空気の中に置いておこう。


答えは、明日以降に、来るはずだ。


いつも、そうしてきたように。


沈黙の推理者、第十章、始まる。


---

第10章 第1話「春の問い」完


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