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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第9章 第7話:デイビッドとの対話


あらすじ:デイビッド・チェンへの接触が実現する。彼は、智也からの問いかけに対して、最初は防御的に、次第に哲学的に、そして最後には、驚くほど率直に応答していく。人間の認知力への絶望という、この旅で出会った中で最も深い問いを前に、智也は、これまでの全ての経験を動員して、対話に臨む。その対話は、単なる事件解決を超えた、人間の本質についての、深い問答となった。そして、その問答の末に、デイビッドは、智也が予想もしなかった告白をする。


---


十二月の初旬。


東京は、冬の入り口に立っていた。


冷たい空気が、街全体を包み込んでいた。


デイビッド・チェンへの接触は、予想外の形で、実現した。


木村刑事からの連絡によれば、インターポールとシンガポール当局が、デイビッドに対して、任意同行の要請を行ったところ、彼は、素直に応じたのだという。


「彼は、要請を受けた瞬間に、こう言ったそうです」


木村刑事は、智也に報告した。


「何と言ったのですか」


「『千葉智也という人物と、話したい。その後なら、何でも話す』と」


その言葉が、智也に、深い衝撃をもたらした。


デイビッドは、既に、智也の存在を知っていた。


そして、智也との対話を、条件として提示した。


「彼は、なぜ、私を名指しで指定したのでしょうか」


「それは、分かりません。ただし、彼がそれを条件として提示したことは、確かです。千葉さんは、応じますか」


「応じます」


対話の場所は、シンガポールではなく、東京に決まった。


デイビッドが、自発的に東京に来ることを、希望したのだ。


インターポールの担当者が同席する形で、都内の指定施設での対話が、設定された。


対話の前日の夜、智也は、美優と最後の打ち合わせをした。


「準備はできてる?」


「はい。ただし、今回は、これまでとは異なる緊張感があります」


「どのような緊張感?」


「デイビッドが提示する問いは、これまでの誰よりも、根本的なものになるかもしれません。人間の認知力への絶望という問いは、単純な言葉では答えられない。私自身の、この旅全体の経験が、試される感覚があります」


「あなたは、十分に経験を積んできた。その経験が、最大の武器よ」


「はい。ただし、一つだけ、不安があります」


「何?」


「私が、デイビッドの絶望に、完全に向き合えるかどうか、分かりません。彼の絶望は、長年の研究から生まれた、非常に深いものです。その深さに、私の経験が届くかどうか」


美優は、少し間を置いて、答えた。


「あなたは、第一章の最初から、ずっと、人間を信頼し続けてきた。それが、あなたの最大の強みよ。デイビッドの絶望は、人間への不信から来ている。あなたの信頼が、その不信と正面からぶつかること。その対決が、この対話の核心になるはずよ」


その言葉が、智也の心に、静かな確信をもたらした。


翌日の午後、智也は、指定された施設に向かった。


会議室に入ると、デイビッド・チェンが、既に座っていた。


五十代と思われる、中国系の顔立ちの男性。


精悍な顔つきだが、その目には、疲弊と、何か深いものが、宿っていた。


智也を見ると、デイビッドは、日本語で挨拶した。


「千葉智也さんですね。初めまして」


「はじめまして。日本語を話されるのですか」


「若い頃、一年間、東京で研究していたことがあります。その時に学びました。あなたとは、日本語で話したかった」


「なぜですか」


「あなたが、この旅を始めた場所の言語で、話すことが、この対話にとって、最も適切だと思いました」


その言葉が、智也を、驚かせた。


デイビッドは、智也の旅の始まりを、知っていた。


「私の旅を、詳しく知っているのですか」


「エドワードから、聞きました。そして、レナからも。そして、あなたの書籍を、読みました。三冊とも」


「三冊とも」


「はい。特に、最初の書籍を、繰り返し読みました。田中陸斗という少年の死から始まった物語。その物語が、私に、多くのことを考えさせました」


「どのようなことを、考えましたか」


「それが、今日、あなたに聞いてほしいことです。ただし、その前に、一つだけ言わせてください」


「何ですか」


「私は、あなたに謝罪したい。グローバル・コグニティブ・ファンドの活動、そして、EngageMax Analyticsを通じた、世界中の人々への影響。その責任の一端を、私は担っています。その謝罪を、まず、伝えたかった」


「謝罪を受け入れます。ただし、謝罪よりも、今日の対話の中で、もっと重要なことがあると思います」


「何ですか」


「あなたが、この活動を続けた理由を、理解したい。単なる利益追求ではないことは、分かっています。何か、より深い動機があったはずです。その動機を、聞かせていただけますか」


デイビッドは、その問いを聞いて、長い沈黙の後、語り始めた。


「私が、神経科学の研究を始めた頃、一つの確信がありました。人間の認知の多様性こそが、社会を前進させる力だという確信です。異なる考え方を持つ人々が、互いに補い合うことで、より深い洞察が生まれる。その確信から、私の研究は始まりました」


「その確信は、どこで変わったのですか」


「変わったのではなく、歪んだのです」


デイビッドは、そう言って、窓の外を見た。


「研究を続けるうちに、私は、人間の認知が、いかに容易に、外部の影響を受けるかを、繰り返し確認することになりました。多様性を守ろうとしても、情報環境が均質であれば、思考は自然と均質化していく。独立した思考を持っているつもりでいても、その思考は、周囲の情報環境によって、深く形成されている。その事実を、データとして何度も見るうちに、私は、絶望するようになりました」


「人間の認知力への絶望ですね」


「そうです。そして、その絶望が、私の考え方を、歪めた。もし、人間の認知が、外部環境によって形成されるのであれば、その外部環境を、より良い方向に設計することが、可能なはずだ。そして、より良い方向に設計することは、悪いことではないはずだ。その論理が、私を動かすようになりました」


「その論理の問題点を、どこかで気づいていましたか」


「気づいていました。その論理には、誰が『より良い方向』を定義するかという問いが、常に、隠されている。私は、その問いを、意図的に見ないようにしていた。なぜなら、その問いに正直に向き合えば、自分の活動を続けることができなくなるから」


「その問いを見ないようにしていた。その自覚は、あったのですか」


「ありました。それが、最も恥ずかしいことです。無知から誤りを犯したのではない。知りながら、見ないようにして、誤りを犯した」


その告白が、会議室に、重く響いた。


「一つ、聞かせてください」


智也は、静かに言った。


「何ですか」


「あなたが、人間の認知力への絶望を感じるようになったのは、研究データを見た結果でしたね。では、そのデータを見る前の、若い頃の確信、認知の多様性こそが人間の最大の強みという確信は、どこから来ていたのですか」


デイビッドは、その問いを聞いて、しばらく考えた。


「経験から来ていました。若い頃、私は、様々なバックグラウンドを持つ人々と、多くの対話をしていました。その対話の中で、一人では到達できなかった洞察が、生まれる瞬間を、何度も経験しました。その経験が、認知の多様性への確信の根拠でした」


「つまり、データではなく、対話という経験が、最初の確信の根拠だったのですね」


「そうです」


「そして、研究を始めてから、データを見るようになった後、その確信が、絶望に変わった。しかし、最初の確信の根拠だった対話の経験は、その後も、続いていましたか」


デイビッドは、その問いを聞いて、何か大切なものを思い出したような表情をした。


「それは、思い返すと、続いていませんでした。研究に没頭するうちに、純粋な対話の機会が、減っていった。データを見ることが、対話に取って代わった。そして、データは、人間の認知の限界を、繰り返し示し続けた」


「つまり、対話を通じた経験からの確信が、データを通じた分析による絶望に、取って代わられた、ということですか」


「そのように言われると、そう思えます」


「私は、この旅を通じて、あなたとは逆の経験をしてきました」


智也は、静かに、しかし力強く言った。


「私は、最初、完全な人間不信の状態でした。誰も信頼できなかった。一人で推理していました。しかし、美優さんという人物との対話が始まり、その対話を通じて、一人では解けなかった謎が、解けるようになりました。さらに、複数の人々との対話を重ねるうちに、人間の認知の多様性が、実際に、限界を超える力を持つことを、繰り返し経験してきました」


「それは、データとして確認できましたか」


「データではありません。経験として確認してきました。そして、その経験が、私にとって、最も信頼できる根拠です」


デイビッドは、その言葉を聞いて、長い沈黙に入った。


智也は、その沈黙を、急かさずに、待った。


やがて、デイビッドは、以下のように言った。


「あなたは、私が若い頃に持っていた確信を、今も持ち続けているのですね。データに打ち砕かれることなく」


「はい。ただし、私の確信は、データを無視しているのではありません。データが示す限界を認識した上で、それでも、対話を通じた経験から、確信を持ち続けています。両方を見た上での確信です」


「その両方を見るということが、私にはできていなかった。データだけを見続けることで、対話の経験から生まれる確信の根拠を、失っていった」


「今からでも、遅くはありません」


「そうでしょうか。私は、多くの人に、多くの害を与えてきました」


「害を与えたことは、事実です。その責任は、これから、誠実に向き合っていく必要があります。しかし、それと、変わることの可能性は、別の問題です」


デイビッドは、その言葉を聞いて、目を閉じた。


長い沈黙の後、彼は、静かに言った。


「千葉さん、私は、あなたに告白したいことがあります」


「何ですか」


「私は、ずっと、あなたのような存在を、探していました。人間の認知力を信頼し続ける根拠を、持っている人間を。データを見ながら、それでも信頼できるという、確信の根拠を持つ人間を。その確信の根拠が、どこにあるのかを、ずっと、知りたかった」


その告白が、智也に、この旅全体で最も深い衝撃をもたらした。


デイビッドは、絶望の中で、信頼の根拠を探し続けていた。


その探求が、グローバル・コグニティブ・ファンドへの関与という、誤った形を取ってしまったのかもしれない。


「あなたは、信頼の根拠を探していた。しかし、その探求の方法が、誤っていた」


「そうです。信頼の根拠が見つからなかったから、信頼を諦めた。そして、信頼を諦めた先に、誘導という選択があった。今、思えば、信頼の根拠が見つからないのは、探し方が間違っていたからかもしれない」


「対話を通じた経験の中に、その根拠はありました。ただし、その根拠は、データとして積み重なるものではなく、一つ一つの対話の中で、都度、確認されるものです。その都度の確認を積み重ねることが、信頼の根拠を維持する唯一の方法だと、私は思っています」


デイビッドは、その言葉を、ゆっくりと、噛みしめるように聞いていた。


そして、以下のように言った。


「全て、話します。グローバル・コグニティブ・ファンドの全ての活動の詳細を。私が関与した全てのことを。そして、現在も活動を続けている全てのメンバーの名前と所在を」


その言葉が、対話の、最も重要な瞬間だった。


「ありがとうございます。ただし、一つだけ、確認させてください」


「何ですか」


「あなたは、この告白を、誰かに強いられたからするのではなく、自分自身の選択として、しているのですか」


デイビッドは、静かに答えた。


「はい。自分の選択です。あなたとの対話を通じて、私が長年失っていたものを、見つけた気がしました。信頼の根拠ではなく、信頼を探し続ける姿勢そのものを。それが、この選択の理由です」


その対話が終わった後、デイビッドは、インターポールの担当者と共に、正式な証言の手続きに入った。


会議室を出た智也は、廊下で、深く息を吐いた。


今日の対話は、これまでの全ての対話の中で、最も深いものだった。


人間の認知力への絶望という、最も根本的な問いと、向き合う対話だった。


美優に、すぐに連絡した。


「対話が終わりました。デイビッドは、全てを話すことを選びました」


「どんな対話だった?」


「彼は、信頼の根拠を探し続けていました。見つからなかったから、信頼を諦めた。その諦めが、誘導という選択につながった。その構造が、見えました」


「あなたは、その絶望に、何を持って向き合ったの?」


「経験です。対話を通じた、一つ一つの経験。それが、信頼の根拠だと、伝えました」


「それが、届いたのね」


「届いたと思います。ただし、確信はありません。人との対話は、常に、不確かなものです。その不確かさを受け入れた上で、対話し続けることが、信頼の維持の方法だと、改めて感じました」


電話を切った後、智也は、ノートを開いた。


**「デイビッド・チェンとの対話が終わった。彼は、信頼の根拠を探し続けていた探求者だった。その探求が、誤った方向に向かってしまった。しかし、探求を続けていたこと自体は、消えていなかった。その探求に訴えることが、対話の鍵だった。」**


**「人間の認知力への絶望と、人間の認知力への信頼。この旅全体が、その二つの間の、長い対話だったのかもしれない。そして、私が選び続けてきた答えは、常に、信頼だった。その一貫性が、この旅を通じて積み重なった。」**


**「第九章は、まだ終わっていない。しかし、その核心に、今日、ついに触れることができた。」**


冬の夜が、静かに更けていった。


だが、智也の心の中には、温かい確信が、静かに灯っていた。


---

第9章 第7話「デイビッドとの対話」完


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