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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第9章 第5話:デイビッド・チェンの追跡


あらすじ:レナの証言を基に、デイビッド・チェンへの国際的な追跡が始まる。彼の現在の活動拠点と、グローバル・コグニティブ・ファンドとの関係が、急速に明らかになっていく。同時に、智也は大学の後期試験の準備を進めながら、この事件が自分の研究テーマと深く結びついていることを実感する。推理者としての活動と、大学生としての学びが、初めて、完全に一体化した感覚の中で、智也は、デイビッドという人物の内面を、推理によって描き始める。そして、デイビッドへのアプローチが、これまでの誰とも異なる、全く新しい戦略を必要とすることに、気づく。


---


レナの証言から、一週間が経過した。


その一週間で、複数の動きが、同時に進展した。


木村刑事とインターポールは、レナが提供した情報を基に、デイビッド・チェンの所在地の特定を、急ピッチで進めていた。


「デイビッドの現在の活動拠点について、レナの証言と照合した結果、シンガポールに拠点を置いている可能性が高いことが判明しました」


木村刑事からの報告が届いた。


「シンガポールですか。なぜ、シンガポールを拠点にしているのですか」


「複数の理由が考えられます。まず、シンガポールは、テクノロジー企業が集まる、アジアのハブです。複数の先端技術企業との連携が、容易に行えます。次に、金融規制が、欧米よりも緩やかな側面があり、資金の流れを追跡しにくい。そして、複数の国への移動が、地理的に容易です」


「彼の具体的な活動は、何ですか」


「シンガポールの複数のテクノロジー企業に対して、グローバル・コグニティブ・ファンドの名義で、出資や技術提携の交渉を行っているようです。また、アジア圏の複数の大学との、共同研究の交渉も、進めているという情報があります」


「つまり、アジアへの展開を、新たな軸として、活動を続けているということですか」


「そう見えます。エドワードとシグマ・ファンデーションが解体された後、欧米での活動が困難になったため、アジアを新たな拠点として選んだのかもしれません」


その分析が、智也に、事件の地理的な拡大を、改めて示した。


第一章は、日本の高校という、極めて局所的な場所で始まった。


それが、今や、シンガポールを新たな拠点とする、国際的な組織の追跡へと、発展していた。


「デイビッドへの国際手配の発令は、可能ですか」


「現時点では、まだ、直接的な犯罪の証拠が十分ではありません。レナの証言は、状況証拠として重要ですが、逮捕状の取得には、さらに直接的な証拠が必要です。インターポールとシンガポール当局が、現地での証拠収集を、急いでいます」


「わかりました。私の方では、引き続き、分析を進めます」


その翌日、村上准教授から、技術的な分析の新たな発見が届いた。


「EngageMax Analyticsが提供しているSDKについて、より詳細な解析が完了しました。そして、重要な発見があります」


「何ですか」


「SDKの最新版に、新たな機能が追加されていました。その機能は、ユーザーのスマートフォンの使用パターンを分析する既存の機能に加えて、ユーザーが他のアプリを使用している際の、バックグラウンドでのデータ収集を、可能にするものです」


「バックグラウンドでのデータ収集ですか。それは、技術的にどういう意味ですか」


「ユーザーがEngageMax AnalyticsのSDKを含むアプリを使用していない時でも、スマートフォンのバックグラウンドで、継続的にデータを収集できるということです。具体的には、位置情報、音声環境のパターン、スマートフォンの傾きや動作パターンなどが、常時収集される可能性があります」


「それは、極めて深刻なプライバシー侵害ですね」


「そうです。そして、この機能の追加は、レナの証言が示していた変化と、時期的に一致しています。つまり、レナが懸念を感じ始めた後、彼女の関与が薄れた隙に、ファンドの意向で、さらに踏み込んだ機能が追加されたと考えられます」


「その機能が組み込まれているSDKを使用しているアプリの数は、どの程度ですか」


「現時点での調査では、全世界で約三百万のアプリに、このSDKが組み込まれています。それらのアプリのユーザー数の合計は、約十五億人に達する可能性があります」


その数字が、智也の心に、衝撃をもたらした。


十五億人。


世界の人口の約五分の一が、このシステムの影響を受けている可能性がある。


これは、AcademicMindの二百万人ユーザーとは、桁が違う規模だった。


「その証拠を、できるだけ早く、インターポールと各国の規制機関に、提供してください」


「既に準備を始めています。ただし、技術的な証拠として認められるためには、適切な形式での記録が必要です。それに、数日かかります」


「できる限り急いでください」


その夜、美優との打ち合わせで、智也は、全ての情報を共有した。


「三百万のアプリ、十五億人のユーザー。その規模は、これまでの事件とは、全く異なります」


美優は、その数字を聞いて、しばらく沈黙した。


「報道する規模も、これまでとは、全く異なるわね。ただし、規模が大きすぎると、かえって、人々が実感しにくくなる可能性がある」


「どういう意味ですか」


「被害者が一人や百人なら、その人々の顔が見える。しかし、十五億人という数字は、抽象的すぎて、多くの人には、自分事として感じられないかもしれない。報道の方法を、工夫する必要がある」


「どのような工夫ですか」


「具体的な被害者の声を、前面に出すこと。そして、自分のスマートフォンが影響を受けているかどうかを、一般の人が確認できる、具体的な方法を提供すること。数字ではなく、個人の経験として伝えること」


その指摘が、智也に、報道と推理の本質的な違いを、改めて示してくれた。


推理は、全体の構造を把握することを目指す。


しかし、報道は、その構造を、個人の経験として伝えることを目指す。


「田中陸斗の死から始まった、という最初の物語に立ち返ることが、重要かもしれません」


「そうね。第一章の始まりから、第九章の今まで。一人の死から、十五億人の問題へ。その連続性を、丁寧に伝えることが、最も強い報道になるかもしれない」


「美優さんの三冊目の書籍が、その役割を果たすかもしれません」


「そう思って、書き続けています」


その翌日の午後、智也は、大学の情報倫理の講義を受けていた。


その日の講義のテーマは、「デジタルプラットフォームの責任と、ユーザーの権利」だった。


講師が、以下のように述べた。


「デジタルプラットフォームが、ユーザーの行動データを収集し、分析し、活用することは、現代社会において、一般的な慣行となっています。しかし、その収集と活用の範囲と、ユーザーへの透明性については、未だに、十分な規制が整備されていない部分があります」


その言葉が、智也の研究と、現在の調査を、直接結びつけた。


講義の後、智也は、担当講師に声をかけた。


「先生、一つ質問してもいいですか」


「どうぞ」


「スマートフォンのSDKレベルでの、バックグラウンドデータ収集が、現行の法律で、どの程度規制されていますか」


講師は、その質問に、真剣な表情で答えた。


「非常に難しい問題です。現行の個人情報保護法は、主に、明示的なデータ収集を前提としています。しかし、SDKを通じたバックグラウンドでの収集は、利用規約の中に埋め込まれた形で、技術的には、同意を取得している体裁を取ることが多い。その同意が、実質的な意味での同意と言えるかどうかは、法的に、グレーゾーンです」


「そのグレーゾーンを、明確にするためには、何が必要ですか」


「技術的な証拠と、法的な解釈の両方が必要です。技術的に何が収集されているかを、明確に証明した上で、それが既存の法律の解釈でカバーされるかどうかを、法的に論じる必要があります」


「その作業を、現在、進めています」


講師は、驚いた表情を見せた。


「千葉さん、あなたが?」


「はい。国際民主主義保護条約監視委員会の活動の一環として」


「それは、非常に重要な作業です。もし、法的な解釈について、アドバイスが必要であれば、いつでも声をかけてください」


「ありがとうございます。是非、お願いするかもしれません」


その会話が、智也に、新たな視点を与えた。


推理者としての調査と、大学生としての学びが、完全に一体化しているという感覚。


第一章の最初、図書館の奥の席で一人推理していた頃には、想像もできなかったことだった。


その夜、智也は、デイビッド・チェンという人物の内面を、推理によって描こうと試みた。


これまでに収集した情報を、全て並べ、一つの像を作り上げようとした。


デイビッドは、もともと、神経科学の研究者だった。


レナを指導する立場で、彼女の研究の価値を、誰よりも深く理解していた。


そして、彼女を、グローバル・コグニティブ・ファンドへと誘導した。


その行動の動機は、何か。


単純な利益追求だったのか。


それとも、何か別の信念があったのか。


智也は、デイビッドが大学を去る前に、レナに言った言葉を、改めて思い返した。


「学術の世界では、私たちの研究は、読まれるだけで、実装されない。産業界に入って、内側から変えていく方法を、選ぼうと思う」


その言葉は、単なる口実だったのか。


それとも、本心だったのか。


もし、本心だったとすれば、デイビッドは、当初、真に、研究を社会に実装することを、望んでいたのかもしれない。


しかし、ファンドの目的を知った後も、活動を続けた。


それは、既に、本心を失っていたからなのか。


それとも、ファンドの中で、何らかの立場を守るために、続けざるを得なかったのか。


「デイビッドは、複雑な人物かもしれない」


智也は、そう呟いた。


単純な悪人ではない可能性がある。


しかし、それは、彼の行為の責任を軽減するものではない。


レナを、そして、複数の研究者を、誘導した責任は、重い。


「デイビッドへのアプローチは、これまでとは異なる戦略が必要かもしれない」


智也は、ノートにそう書いた。


これまでの人物は、全員、追い詰められた状況の中で、智也からの問いかけに応じた。


しかし、デイビッドは、現在、まだ、自由な立場で活動している。


そして、グローバル・コグニティブ・ファンドとの関係が、非常に深い。


単純な問いかけが、通用しない可能性がある。


むしろ、彼が最も大切にしているものに、直接訴える必要があるかもしれない。


では、デイビッドが最も大切にしているものは、何か。


その答えを見つけることが、次の課題だった。


「一つ、仮説があります」


智也は、美優にメッセージを送った。


「どのような仮説?」


「デイビッドは、研究の社会的な実装を、心から望んでいた可能性があります。ただし、その実装の方向性が、歪められてしまった。彼が最も大切にしているのは、研究の社会的な意義だと思います。その意義が、現在の活動によって、逆方向に使われているという事実を、彼自身の言葉で理解させることが、最も有効なアプローチかもしれません」


「それは、エドワードへのアプローチと似ていますね」


「本質的には同じです。ただし、デイビッドは、エドワードよりも、より積極的に、現在の活動に参加しています。エドワードは、矛盾を認識しながらも、受動的に継続していた。デイビッドは、能動的に継続しているように見えます。その違いが、アプローチを難しくしています」


「つまり、彼の能動性の根拠を、解体する必要があるということ?」


「そうです。彼が能動的に活動している理由が何か。それを理解した上で、その理由の内部にある矛盾を指摘することが、最も有効かもしれません」


「その理由を、どうやって明らかにするの?」


「レナに、もう一度、聞く必要があります。デイビッドが、なぜ、積極的に活動を続けているのか。彼の動機について、レナが知っていることを、さらに詳しく聞かせてもらいます」


「わかった。その方向で進めましょう」


ノートに、智也は書いた。


**「デイビッド・チェンへのアプローチの鍵は、彼の能動性の根拠だ。なぜ、彼は積極的に活動を続けているのか。その答えを理解することが、次のステップだ。レナへの追加の質問が、その答えを提供してくれるかもしれない。」**


**「この旅を通じて、私は、人間の複雑さを、繰り返し目の当たりにしてきた。純粋な悪意から行動する人間は、実は、少ない。多くの場合、何らかの信念や恐れや欲求が、人を誤った方向に動かす。その根底にあるものを理解することが、推理者の本質的な仕事だ。」**


**「デイビッドも、同じはずだ。彼の根底にあるものを見つけること。それが、第九章の次の課題だ。」**


外では、秋の夜が、静かに更けていった。


キャンパスの灯りが、一つ一つ、消えていった。


その暗闇の中で、智也の推理は、止まることなく、続いていた。


---

第9章 第5話「デイビッド・チェンの追跡」完


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