第8章 第4話:マーカス・ウェンの返答
あらすじ:サラと智也が送った手紙に、マーカス・ウェンから返答が届く。その返答の内容は、これまでの誰とも異なる、全く予想外のものだった。マーカスは、AcademicMindの問題を、既に知っていた。そして、ひとりで戦っていた。だが、その戦いは、彼一人の力では、どうすることもできないほど、巨大な壁にぶつかっていた。彼が求めていたのは、外からの、正当な形での支援だったのだ。智也は、これまでとは全く異なる種類の対話に、向き合うことになる。
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手紙を送ってから、三日が経過した。
その間、智也は、スタンフォードの研究室で、AcademicMindの技術的な分析の詳細を、さらに深めていた。
村上准教授と、毎朝、オンラインで打ち合わせを行い、新たな発見を共有していた。
そして、三日目の午後、マーカス・ウェンから、返信が届いた。
智也の個人メールと、サラの大学メールの、両方に、同時に送られてきた。
「千葉智也さん、サラ・チェン博士へ。お手紙を受け取りました。非常に驚いています。ただし、その驚きは、あなた方が私に連絡してきたことへの驚きではありません。あなた方が、ここまで辿り着いたことへの驚きです。私は、長い間、この問題を、一人で抱えていました。外から、正当な形での支援が来るのを、待っていました。直接、お会いして話したいと思います。場所は、CogniCorpのオフィスではなく、別の場所を指定させてください。マーカス・ウェン」
その返信を読んだ時、智也は、深く息を吸い込んだ。
「一人で抱えていた。外からの支援を待っていた」
その言葉は、これまで接触してきた人物たちの中で、最も直接的な、助けを求める言葉だった。
アレクサンダーは、自分の理論を語りたかった。
黒川は、安堵を求めていた。
河合は、家族を守りたかった。
橘は、逃げ場を求めていた。
エリックは、降伏を選んだ。
北条は、対話を求めていた。
だが、マーカスは、最初から、支援を求めていた。
それは、彼が、自ら問題に気づき、解決しようとしながら、一人では無理だと悟った人間の言葉だった。
「サラ、これは本物だと思います」
智也は、サラに言った。
「私も、そう思います。彼の言葉には、作られた感じがない」
「では、早急に、会う場所を決めましょう」
返信の中で指定された場所は、スタンフォード大学のキャンパスから、車で約三十分の、小さなカフェだった。
翌日の朝、智也とサラは、そのカフェへと向かった。
オリバーとユキも、同席することになった。
ただし、木村刑事に事前に相談した上で、会話の記録を、適切な形で保全する準備を整えた。
カフェに到着すると、すでに、一人の男性が、窓際の席に座っていた。
三十代と思われる、中国系の顔立ちの男性だった。
深く刻まれたクマが、眠れていない夜が続いていることを、示していた。
「千葉さんですか」
「はい。マーカスさんですね」
「はじめまして」
全員が席についた後、マーカスは、すぐに話し始めた。
その言葉には、積み重なった緊張が、滲んでいた。
「どこから話すべきか、考えていました。最初から、全て話します」
「お願いします」
「私がAcademicMindを開発したのは、本当に、認知的自律性を守るためのツールを作りたかったからです。人々が、外部の情報に影響されながらも、自分自身の思考の核を失わないようにするための、プラットフォームを作ろうとしていた」
「その理念と、現在のAcademicMindは、矛盾していますね」
「そうです。その矛盾が生まれたのは、資金調達の過程でした。最初は、複数のベンチャーキャピタルからの資金提供を受けました。ただし、その資金の条件として、特定の機能の追加を、求められた」
「どのような機能ですか」
「最初は、ユーザーの学習傾向を分析し、最適化するためのデータ収集機能、という説明でした。私は、それを、学術的に正当な機能だと、信じていた」
「ただし、実際には、違った」
「そうです。一年ほど経ってから、そのデータ収集機能の中に、私が設計していない追加のコードが、組み込まれていることに、気づきました。そのコードは、私のオリジナルのアルゴリズムを、密かに上書きして、ユーザーの思考を特定の方向に誘導する機能を、持っていました」
「その時点で、どうしましたか」
マーカスは、目を伏せた。
「そのコードを削除しようとしました。しかし、投資家の代理人から、すぐに、警告が来ました。もし、そのコードに触れれば、投資契約の違反として、法的な手続きを取るという内容でした。また、私の研究の一部が、投資家の管理下にあるという、契約条項を、その時に初めて、詳しく確認しました。つまり、私は、自分の研究を人質に取られていたのです」
「その状況は、黒川さんや河合さんと、本質的に同じですね」
「それが、誰ですか」
「日本で、同様の状況に置かれていた人たちです。研究や仕事の成果を人質に取られ、抜け出せなくなっていた」
マーカスは、その言葉を聞いて、深く頷いた。
「その人たちは、どうしましたか」
「最終的に、真実を語ることを選びました」
マーカスは、しばらく沈黙した。
「私も、真実を語りたかった。ただし、一人で動くことには、限界がありました。私の行動が、法的な反撃を受ける可能性があった。また、AcademicMindのユーザー数が二百万人に達しており、急に閉鎖すれば、多くの学生の学習が中断されるという、現実的な問題もあった。だから、外からの、正当な形での支援を、待っていた」
「その外からの支援が、私たちということですか」
「そうです。あなた方の手紙を読んだ時、ようやく、動けると思いました」
智也は、その言葉を聞いて、マーカスへの信頼感が、急速に高まるのを感じた。
彼は、本当に、問題に気づいていた。
そして、一人で抱えていた。
外からの支援を、ひたすら待ちながら。
「では、一つ確認させてください。AcademicMindに組み込まれた追加のコードの、誘導の目標値は、誰が設定しているのか、ご存知ですか」
「知っています」
マーカスは、鞄から、一枚のUSBメモリを取り出した。
「これに、全ての証拠を入れてあります。誘導の目標値が、どこから来ているか。投資家の正体。そして、シグマ・ファンデーションとの関係」
智也と全員が、息を呑んだ。
シグマ・ファンデーション。
マーカスも、その名前を知っていた。
「シグマ・ファンデーションについて、何を知っていますか」
「設立者は、アレクサンダー・ヴァイスです。ただし、彼が逮捕された後、現在のトップは、**エドワード・クレイン**という人物です。イギリス人で、七十代です。複数の国の政府の顧問を務めてきた人物で、表向きは、著名な教育政策の専門家として知られています」
「エドワード・クレイン。初めて聞く名前です」
「彼は、意図的に、自分の存在を公の場に出さないようにしています。シグマ・ファンデーションの名前も、彼の名前も、外部には、ほとんど知られていない。それが、彼の戦略です」
その情報が、第八章の推理を、大きく前進させた。
アレクサンダーの逮捕後、シグマ・ファンデーションを引き継いだ人物。
それが、エドワード・クレインだった。
「そのUSBメモリの内容を、共有していただけますか。私たちの調査チームと、法執行機関に」
「それが、私の目的です。ただし、一つ条件があります」
「何ですか」
「AcademicMindのユーザーへの影響を、最小限にしてほしい。突然の閉鎖ではなく、段階的な移行期間を設けてほしい。ユーザーたちは、この問題の被害者です。彼らが、学習の手段を失うことのないように、代替のシステムへの移行を、支援してほしい」
その条件は、マーカスが、ユーザーのことを、真剣に考えていることを、示していた。
「その条件は、受け入れます。インターポールやFBIとの協議で、段階的な移行期間を、確保するよう、働きかけます」
「ありがとうございます」
マーカスは、USBメモリを、智也の手に渡した。
「これで、私は、ようやく、本当の研究に戻れます。認知的自律性を守るための研究に」
その言葉が、智也の心に、深く響いた。
マーカスは、ずっと、本来の目的に戻りたかったのだ。
その目的を、外部の力によって、歪められていた。
そして、今、その歪みから、解放される機会を得た。
「一つだけ、聞かせてください」
智也は、マーカスに言った。
「何ですか」
「あなたは、長い間、一人で抱えていた。その間、諦めなかった理由は、何ですか」
マーカスは、その質問を聞いて、少し驚いた様子を見せた後、静かに答えた。
「博士論文を書いていた時の、自分の言葉を、ずっと覚えていたからです。『認知的自律性こそが、人間の尊厳の基盤だ』という言葉を。その言葉を裏切ることが、どうしても、できなかった」
自分自身の言葉が、最大の防衛だった。
その事実が、智也に、推理者としての信念を、新たな角度から照らし出した。
人が最も深く信じる言葉は、その人の核心を守る。
外部からの誘導や圧力に対して、その核心が抵抗し続ける。
マーカスは、シグマ・ファンデーションに取り込まれながらも、博士論文の言葉という核心を、失っていなかったのだ。
会合が終わった後、サラが言った。
「あなたの手紙が、マーカスを動かした」
「手紙の内容が、彼の研究の核心に、届いたのだと思います」
「それは、あなたの推理の力ですよ。相手が何を大切にしているかを、見抜く力」
「サラ博士の分析と、美優さんの取材がなければ、マーカスの博士論文テーマを知ることはできませんでした。チームの力です」
研究室に戻ると、全員がUSBメモリの内容を確認し始めた。
その内容は、シグマ・ファンデーションの資金フロー、エドワード・クレインとの通信記録、AcademicMindの誘導目標値の設定記録など、極めて重要な証拠の集積だった。
「これは、完璧な証拠です」
オリバーが、興奮した様子で言った。
「エドワード・クレインへの国際的な捜査が、これで、可能になります」
ユキも、頷いた。
「カナダ側でも、この証拠を基に、即座に動けます」
アンナが、補足した。
「ヨーロッパでも、インターポールへの提出を、急ぎます」
その夜、智也は、美優に報告した。
「マーカスが、全ての証拠を提供してくれました。シグマ・ファンデーションの現在のトップ、エドワード・クレインの存在も判明しました」
「エドワード・クレイン。調べてみる。イギリス人で、教育政策の専門家、ね」
「はい。そして、一つ、改めて感じたことがあります」
「何?」
「マーカスは、博士論文の言葉を守ることで、誘導から抵抗し続けていた。それが、今日の対話を可能にした。つまり、人間の核心にある言葉や信念が、最大の防衛になる。これは、AIやアルゴリズムには、理解できない人間の強さだと思います」
美優は、少し間を置いて、答えた。
「それ、書籍に入れましょう。三冊目の書籍の核心になるかもしれない」
「はい。あなたが書いて、私が推理で補完する」
「それが、私たちの形ね」
その会話が終わった後、智也は、ノートを開いた。
**「マーカス・ウェンは、博士論文の言葉を守ることで、誘導への抵抗を続けていた。人間の核心にある言葉や信念は、外部からの操作に対する、最強の防衛だ。これが、シグマ・ファンデーションが、最終的に克服できない壁だ。なぜなら、その壁は、人間の内側に存在するからだ。」**
**「エドワード・クレインという、新たな標的が現れた。だが、私は、もはや、彼を『標的』とは呼びたくない。彼も、人間だ。何らかの信念を持ち、何らかの経緯で、この道を歩んできた人間だ。その信念を理解することが、推理者としての次の一歩だ。」**
スタンフォードの夜は、静かで、冷たかった。
だが、智也の心は、温かかった。
世界中に、信頼できる仲間がいる。
そして、どんな人間の中にも、核心にある言葉が、存在する。
その確信が、第八章の推理を、さらに深いところへと、導いていた。
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第8章 第4話「マーカス・ウェンの返答」完




