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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第5章

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第5章 第2話:橘哲也の野望


あらすじ:シャドウ・ネットワーク元メンバーの橘哲也について、智也と美優の調査が進む。彼の経歴と動機が明かされるにつれ、第五章の敵が、かつての敵とは本質的に異なることが分かってくる。橘は、アレクサンダーのような哲学的な野望ではなく、より実利的で、より現代的な目的を持っていた。そして、その目的のために選んだ手段が、かつての学園のゲームを、スマートフォンというプラットフォームで再現しようとするものだった。智也は、デジタル時代の支配の本質を、初めて直視する。


---


橘哲也の調査は、美優が中心となって進めた。


彼女は、複数の情報源を通じて、橘の経歴を、細かく掘り起こしていった。


「まず、表向きの経歴から」


美優は、調査結果を、智也の前に広げた。


「橘は、現在三十八歳。東京工業大学の情報工学部を卒業後、複数のIT企業を経て、六年前にシャドウ・ネットワーク関連の企業、**テクノフューチャー**に入社した」


「テクノフューチャー。岩本達也専務の会社ですね」


「そう。橘は、そこで、学習支援システムへのデータ収集モジュールの開発を、担当していた。つまり、学園での生徒データ収集の、技術的な実行者の一人だった」


「その後、どうなったのですか」


「シャドウ・ネットワークの解体が始まる約半年前に、テクノフューチャーを退社している。解体を察知して、先に逃げたのかもしれない」


「そして、退社後に、モーメントラボを設立した」


「そうだ。設立のタイミングが、シャドウ・ネットワーク解体のほぼ直後だ。彼は、ネットワークが崩壊する前に、独自の活動基盤を構築しようとしていたのかもしれない」


智也は、その分析を聞きながら、橘という人物の像を、頭の中で組み立て始めた。


アレクサンダーのような、哲学的な理想を持つ人物ではないようだ。


黒川や河合のような、弱点を突かれて取り込まれた人物でもない。


橘は、最初から、自分の利益のために、この技術を利用しようとしている、純粋に実利的な人物のように見える。


「橘の動機は、何だと思いますか」


「それが、非常に現代的なのよ」


美優は、別の資料を取り出した。


「橘は、シャドウ・ネットワーク時代から、**データエコノミー**という概念を、強く信奉していたらしい」


「データエコノミーとは、何ですか」


「個人データを収集し、分析し、そのインサイトを販売するビジネスモデルよ。現代では、複数の大手IT企業が、同様のビジネスを展開している。ただし、彼らは、少なくとも、ユーザーの同意を得た上で、データを収集している」


「橘の方法は、同意なしのデータ収集だということですか」


「そう。彼は、ユーザーが気づかないうちに、より深い次元のデータを収集することで、より高い精度のインサイトを生み出せると考えている」


「つまり、違法なデータ収集によって、合法的な競合他社よりも、高い競争優位を得ようとしているということですか」


「そう。そして、そのインサイトを、複数の企業や政治団体に販売することで、巨額の利益を得ようとしているのだと思われる」


その分析が、橘の動機を、明確に示していた。


彼は、アレクサンダーのような、世界を変えたいという野望を持っているわけではない。


単純に、金儲けのために、人々のデータを、違法に収集しようとしているのだ。


だが、その実利的な動機が、ある意味で、アレクサンダーの哲学的な動機よりも、より広く、より深く、社会に影響を与える可能性があった。


なぜなら、橘の方法は、スマートフォンという、全ての人が持つデバイスを通じて、実施されているからだ。


「橘の『デイリーモーメント』が、単なるデータ収集だけでなく、感情誘導の機能も持っている理由は、何だと思いますか」


智也は、美優に質問した。


「それが、データの価値を高めるからよ」


美優は、すぐに答えた。


「単なる行動データよりも、感情状態と行動データを組み合わせたデータの方が、マーケティングや政治キャンペーンにおける、価値が高い。なぜなら、感情状態を把握することで、より効果的なタイミングで、より響く形で、特定の情報を提供できるからよ」


「つまり、感情誘導は、データの品質を高めるための手段だということですか」


「そう。橘は、データを集めるだけでなく、ユーザーを特定の感情状態に誘導することで、より高品質なデータを、効率的に収集しようとしているのよ」


その分析が、「デイリーモーメント」の本当の目的を、明確にした。


このアプリは、ユーザーを「前向きな気持ちにさせる」ことで、特定の感情状態を作り出し、その状態でのユーザーの行動データを収集する。


そして、その感情状態と行動データの組み合わせを、高品質なマーケティングデータとして、販売する。


「ただし、感情誘導には、一つの問題があります」


智也は、新たな視点を、美優に伝えた。


「どのような問題ですか」


「感情誘導は、ユーザーの自律的な判断を、徐々に侵食する可能性があります。毎朝、アプリからの感情誘導を受け続けることで、ユーザーは、自分の感情が自然に生じているものか、アプリに誘導されたものかを、区別できなくなる可能性があります」


「つまり、長期的には、ユーザーの意思決定そのものが、アプリに依存するようになるということ?」


「その可能性があります。そして、その状態は、かつてのゲームシステムで、敗北者が実行者側に取り込まれていった状態と、本質的に似ているのではないでしょうか」


美優は、その言葉を聞いて、深く考え込んだ。


「つまり、気づかないうちに、依存状態を作り出すということね」


「はい。明確な支配ではなく、緩やかな依存を通じた、見えない支配です」


その日の夕方、村上から、新たな技術的な発見の報告が届いた。


「『デイリーモーメント』の音楽選択アルゴリズムに、興味深い特徴があることが判明しました」


「どのような特徴ですか」


「アプリは、ユーザーの感情状態を、毎日、複数の指標で測定しています。そして、その感情状態に合わせて、音楽を選択しているのですが、その選択には、興味深いパターンがあります」


「具体的には?」


「ユーザーが、特定の感情状態にある時、特定の音楽を提供する。その音楽は、その感情状態を、特定の方向に変化させる効果を持つものが、選ばれています」


「つまり、音楽を通じて、感情を誘導しているということですか」


「そうです。そして、その誘導の方向性は、複数の調査から、**消費行動を促進する感情状態**へと向かわせるものだということが、分かりました」


「消費行動を促進する感情状態とは、何ですか」


「具体的には、軽い幸福感と、軽い不安感の組み合わせです。幸福感は、購買意欲を高めます。そして、軽い不安感は、何かを購入することで、その不安を解消したいという、衝動的な行動を促します」


その分析は、「デイリーモーメント」の機能の、より深い層を明かしていた。


このアプリは、単なる感情誘導ではなく、特定の消費行動を促進するための、精巧な感情操作システムだったのだ。


智也は、その事実から、以下の推理を立てた。


「つまり、橘は、このアプリのユーザーを、特定の感情状態に誘導することで、消費行動を操作し、その操作されたデータを、複数の企業に販売しているのかもしれません。そして、その企業は、そのデータを基に、より効果的なマーケティングを展開できる。これは、単なるデータビジネスではなく、人間の感情と行動を、商品として扱うビジネスです」


「それは、法的に問題がありますか」


美優が、確認した。


「同意なしのデータ収集は、個人情報保護法に違反する可能性があります。また、感情誘導機能を、アプリの利用規約に明記していない場合、消費者への不当な誤解を招く行為として、法的に問題になり得ます」


「では、その法的な問題を指摘することが、第一歩になりますね」


「はい。ただし、法的な問題を指摘するだけでは、不十分です。なぜなら、橘は、おそらく、法律の境界線を巧みに利用して、完全な違法を避けているはずだからです」


「では、どうする?」


智也は、しばらく考えた後、答えた。


「ユーザー自身が、このアプリの本当の機能を理解することが、最も重要です。ユーザーが、自分の感情が誘導されていることを知れば、アプリへの依存が弱まり、橘のビジネスは崩壊します」


「つまり、今回の戦いの鍵は、ユーザーへの啓発ということ?」


「そうです。かつてのゲームシステムは、被害者を孤立させ、誰にも相談できない状況を作ることで、機能していました。だが、今回のアプリは、ユーザーが孤立していなくても、感情誘導によって機能します。だから、ユーザーが自ら、この仕組みを理解することが、最大の防衛になるのです」


「その啓発のために、私の報道が役立てるわね」


美優の目が、輝いた。


「はい。美優さんの報道が、ユーザーへの啓発を実現する、最も有効な手段だと思います」


「わかった。では、報道の準備を始める。でも、その前に、もう一つ確認したいことがある」


「何ですか」


「橘が、なぜ、今、このタイミングで動き始めたのか。シャドウ・ネットワークが解体された後、すぐに動き始めることもできたはずなのに、半年以上、待っていた。その理由は、何だと思う?」


智也は、その質問を聞いて、深く考えた。


「おそらく、タイミングを計っていたのだと思います。社会的な関心が、シャドウ・ネットワークの問題から離れるまで、待っていた。そして、今、その関心が、ある程度、薄れたと判断して、動き始めた」


「つまり、私たちが油断するのを、待っていたということ?」


「そう言えるかもしれません」


「では、その期待を、裏切ってやろう」


美優は、そう言いながら、ノートを開いた。


「第五章は、私たちが先手を取る。受け身ではなく、積極的に動く」


その言葉が、智也に、強い意欲をもたらした。


かつての戦いは、常に、被害者が出てから、後追いで対応していた。


だが、今回は違う。


被害が広がる前に、先手を打つ。


それが、第五章の、新しい戦い方だ。


智也は、ノートに書き加えた。


**「橘哲也を先手で動かす前に、こちらが先に動く。デジタル時代の推理者は、見えない支配を、見えるものにする。」**


その言葉が、第五章の戦略の、核心を示していた。


---

第5章 第2話「橘哲也の野望」完


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