第5章 第1話:スマートフォンの罠
あらすじ:複数の生徒たちが同じ表情でスマートフォンを見ているという違和感から、智也の推理が動き始める。村上准教授の技術的な分析により、複数の人気アプリに、新たな形の感情誘導システムが組み込まれている可能性が浮上する。かつてのゲームシステムが、物理的な学園内の支配から、デジタル空間への支配へと進化した可能性を、智也は感じ始める。第五章は、見えない敵との、全く新しい戦いの幕開けだ。
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月曜日の朝、智也は、いつもより早く学園に到着した。
図書館が開くまでの時間を利用して、校舎の廊下から、登校してくる生徒たちを、静かに観察した。
観察を始めて、約三十分。
智也は、ある事実に気づいた。
登校してきた生徒の約七割が、校門を入った直後に、スマートフォンを取り出す。
そして、その多くが、ほぼ同じタイミングで、同じような動作をする。
画面を開き、特定のアプリを起動し、しばらく眺めてから、ポケットに戻す。
その一連の動作が、まるで、儀式のように繰り返されていた。
「あのアプリは、何だろう」
智也は、近くを歩く生徒に、勇気を出して声をかけた。
「すみません。さっき、使っていたアプリは、何ですか」
その生徒は、少し驚いた様子で振り返ったが、すぐに、スマートフォンを見せてくれた。
「これ。『デイリーモーメント』というアプリです。毎朝、今日の気分に合わせた、メッセージと音楽を提供してくれるんです。最近、すごく流行ってます」
「ありがとうございます」
智也は、そのアプリの名前を、ノートに書き留めた。
**「デイリーモーメント」**
その日の放課後、村上に連絡を取った。
「『デイリーモーメント』というアプリを、調べていただけますか」
「了解しました。どのような点が気になっていますか」
「複数の生徒が、毎朝、ほぼ同じタイミングで、このアプリを使っています。そして、このアプリを使った後の生徒たちの言動が、均質化している可能性があります」
「具体的には、どのような均質化ですか」
「先日、複数の生徒が、全く同じような表現で、スマートフォンの便利さについて語っていました。そして、よく聞いてみると、彼らの多くが、このアプリを使っていることが分かりました」
「つまり、このアプリが、ユーザーの感情や認識に、何らかの影響を与えている可能性があるということですね」
「はい。ただし、まだ、推測の段階です」
「わかりました。技術的な分析を始めます」
翌日、村上から、初期的な分析結果が届いた。
「『デイリーモーメント』は、三ヶ月前にリリースされた、比較的新しいアプリです。ダウンロード数は、既に、全国で五百万を超えています」
「三ヶ月で、五百万ダウンロード」
「急速な普及です。特に、十代から二十代の若年層に、集中しています」
「その普及の速さは、自然なものですか」
「表面上は、口コミとSNSでの拡散によるものとされています。ただし、その拡散のパターンが、非常に均質で、人工的な印象を受けます」
「AIによる拡散工作の可能性がありますか」
「その可能性があります。複数のアカウントが、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じような内容で、このアプリを推薦する投稿をしていました。そのパターンは、以前、シャドウ・ネットワークが使用していた手法と、類似しています」
智也は、その分析を聞いて、自分の推測が、正しい方向を向いていることを感じた。
「開発会社はどこですか」
「**株式会社モーメントラボ**という、設立一年の新興企業です。代表取締役は、**橘哲也**という人物です」
「橘哲也。シャドウ・ネットワークとの関係は?」
「現時点では、直接的な関係は、確認できていません。ただし、この会社の資金源を追跡すると、複数の匿名の投資ファンドが関与していることが分かりました。その一部は、かつてシャドウ・ネットワークが利用していたスイスの金融機関を、経由している可能性があります」
その情報が、智也の推理を、大きく前進させた。
スイスの金融機関を経由する資金。
それは、シャドウ・ネットワークの残存メンバーが、新たな組織を立ち上げ、新たな形での活動を始めている可能性を、強く示唆していた。
「美優さんに、伝えます」
その夜、美優に連絡を取った。
「第五章が、動き始めた気がします」
「どういう意味?」
「『デイリーモーメント』というアプリについて、調査を始めました。このアプリが、ユーザーの感情や認識に、意図的な影響を与えている可能性があります」
「そのアプリ、私も知ってる。うちのクラスでも、使っている子が多い」
「美優さんも、使っていますか」
「ダウンロードはしていない。なんとなく、引っかかるものがあったから」
「その直感は、正しいかもしれません」
美優は、少し間を置いた後、以下のように言った。
「わかった。私も、独自に調査する。アプリの会社について、取材を始める」
「ありがとうございます。ただし、慎重に。もし、このアプリが、シャドウ・ネットワークの残存メンバーと関係しているとしたら、接触するだけで、危険が生じる可能性があります」
「わかってる。でも、危険を避けるために真実を諦めるのは、私の主義に反する」
その言葉は、美優らしかった。
「わかりました。くれぐれも、気をつけてください」
その夜、智也は、学園の図書館で、このアプリについての情報を、整理し始めた。
「デイリーモーメント」の機能は、表向きには、以下のようなものだ。
毎朝、ユーザーの過去の行動データと、その日の気候、ニュースなどを組み合わせて、その人物が最も「前向きな気持ちになれる」メッセージと音楽を、提供する。
その機能自体は、無害に見える。
だが、智也の推理は、その機能の裏に、別の目的があるのではないかと、告げていた。
もし、このアプリが、ユーザーを「前向きな気持ちにさせる」と同時に、特定の価値観や認識を、徐々に植え付けていたとしたら。
それは、かつての学園内のゲームが、生徒たちの心理的な弱点を利用して支配したのと、本質的に同じことだ。
ただし、今回は、スマートフォンというデジタルデバイスを通じて、より広範に、より目に見えない形で、実施されている。
その推理を、ノートに書き留めた。
**「仮説:『デイリーモーメント』は、ユーザーを前向きにさせるという表向きの機能の裏に、特定の感情状態や価値観を植え付ける、隠れた機能を持っている可能性がある。その目的は、特定の商品や思想への親和性を、ユーザーに対して、気づかれないうちに形成することではないか。」**
その仮説を確認するためには、アプリの内部コードを、技術的に解析する必要がある。
だが、それは、法的に、慎重に行う必要がある。
智也は、村上に、その点について、相談した。
「アプリの内部コードを、法的に解析する方法はありますか」
「通常の方法では、難しいです。ただし、複数の方法があります。一つ目は、研究目的での解析です。私のような研究者が、学術的な目的で、アプリの挙動を分析することは、一定の範囲で、認められています」
「その方法で、隠れた機能を発見することは、可能ですか」
「挙動の分析からであれば、可能性があります。例えば、アプリがバックグラウンドで、どのようなデータを送受信しているかを、監視することができます。もし、表向きの機能に必要なデータ以上の情報を、送受信していれば、それが、隠れた機能の証拠になり得ます」
「では、その分析を、お願いできますか」
「了解しました。複数の技術的なツールを使って、監視を開始します」
翌週の水曜日、村上から、最初の分析結果が届いた。
「興味深い発見がありました」
「何ですか」
「『デイリーモーメント』は、表向きの機能に必要なデータ以外に、以下のような情報を、サーバーに送信していることが確認されました」
村上は、以下のリストを提示した。
**・ユーザーのスマートフォンの使用パターン(どのアプリを、どの順番で、どれだけの時間使用するか)**
**・ユーザーの位置情報(ただし、アプリの機能には不要なレベルの詳細さ)**
**・ユーザーのテキスト入力のパターン(速度、修正の頻度)**
**・ユーザーが聴いている音楽(アプリ外で)**
**・ユーザーのスクリーンタイムの詳細(各アプリでの滞在時間)**
その情報は、智也の仮説を、強く支持するものだった。
これらのデータを組み合わせることで、ユーザーの心理的な状態、行動パターン、そして、感情的な特性を、詳細に把握することができる。
それは、かつての学園のゲームが収集していたデータと、本質的に同じ種類の情報だった。
「このデータは、誰に送られているのですか」
「それが、まだ、特定できていません。送信先のサーバーは、複数の国を経由しており、追跡が困難です。ただし、その経路の一部が、かつてシャドウ・ネットワークが使用していた経路と、類似しています」
その情報が、智也の推理の核心を、さらに固めた。
これは、シャドウ・ネットワークの残存活動だ。
かつては、学園というリアルな空間を舞台にしていた支配が、今度は、スマートフォンというデジタル空間を舞台に、より広範に、より目に見えない形で、再起動しようとしているのだ。
美優に、その分析結果を伝えた。
「やっぱりね」
美優は、落ち着いた声で言った。
「実は、私も、アプリの会社への取材を通じて、気になることを見つけていた」
「何ですか」
「モーメントラボの橘哲也という代表取締役。彼の経歴を調べたところ、五年前まで、シャドウ・ネットワークに関連する企業で、技術開発を担当していたという情報があった」
「つまり、橘は、シャドウ・ネットワークの元メンバーということですか」
「その可能性が高い。そして、ネットワークが解体された後、新たな形で、同様の活動を始めたのかもしれない」
その推測が、第五章の敵の正体を、明確にしつつあった。
シャドウ・ネットワークの元メンバーが、解体後も活動を続けていた。
そして、スマートフォンアプリという、新たなプラットフォームを使って、より巧妙な形で、民意操作を再開しようとしているのだ。
「次の一手は、何ですか」
美優が、智也に聞いた。
「橘哲也と、直接、接触することを考えています」
「また、直接接触の方法を取るの?」
「はい。黒川さんやアレクサンダーとの対話を通じて、直接接触が、最も有効な情報収集の手段だと、学びました」
「橘は、どのような人物だと思う?」
「まだ、わかりません。だから、調べます。彼の経歴、動機、弱点。その全てを理解した上で、接触します」
美優は、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
「わかった。私は、引き続き、取材を続ける。そして、あなたは、推理を続ける」
「はい。それが、私たちの形です」
その言葉が、図書館の静けさの中に、溶けていった。
第五章は、始まったばかりだ。
だが、その始まりの中に、智也は、確かな手応えを感じていた。
今度は、被害者が出る前に、気づくことができた。
今度は、予防的な推理を、実践できる。
それが、推理者としての、次の段階だ。
ノートに、智也は、新たな文字を書き加えた。
**「第五章の核心:デジタル空間での見えない支配を、可視化せよ。」**
その言葉が、第五章を貫く、推理の指針となるのだ。
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第5章 第1話「スマートフォンの罠」完




