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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第19章 第7話:問いは、一人じゃない


あらすじ:二月。「なんでを、いっしょに」という言葉が、様々な場所に静かに広がっていく。篠原先生の教室の絵が表紙になった美優の七冊目が、来月の発売に向けて最終準備に入る。岡田教授の施設での最初の観察データが届き、引っかかりを声に出す体験が、高齢者の生活の質にどう関わるかという最初の手がかりが見えてくる。そして、吉川亜希が、施設の入居者のある変化を報告してきた。シルバーケアナビの暫定的な運用変更として、タブレットの使用時間を短くした後の一週間で、九十二歳のおばあさんが、吉川に三回、なんで?を聞いてきたというのだ。その三回の「なんで?」が、何より雄弁に、この問いへの答えを示していた。第十九章は、静かに、しかし確かに、終わりに向かっていた。


---


二月の第一週。


立春が過ぎていた。


暦の上では春だったが、東京の朝はまだ冷たかった。


しかし、その冷たさの中に、かすかに春の予感があった。


光が、少し変わっていた。


冬の光より、少し柔らかく、少し長く、降り注いでいた。


智也は、その光の変化を感じながら、今日の準備をしていた。


---


朝、吉川から連絡が来た。


「千葉さん、報告があります」


「何がありましたか」


「先週、白井施設長の判断で、シルバーケアナビの使用時間を、暫定的に短くしました。入居者お一人ずつに声かけをして、タブレットを使わない時間を、以前より一日あたり二時間増やしました。その変化が、一週間経ちました」


「何か変化がありましたか」


「ありました。特に、あのおばあさんです。先週一週間で、私に三回、なんで?を聞いてきました」


「三回」


「そうです。最初は、なんで今年は梅の花が遅いの?という問いでした。次に、なんで夜になると眠くなるの?という問いでした。そして三回目は、なんであなたはここで働いているの?という問いでした」


「なんであなたはここで働いているの?」


「そうです。最後の問いが、一番嬉しかった。私自身への問いでした。その問いを受け取って、私も答えながら、少し話が続きました。入居者の方と、自分のことについて話せたのは、久しぶりでした」


「タブレットの使用時間が短くなったことで、問いかける機会が生まれた」


「そうです。答えがすぐに得られる環境がなくなることで、人に聞くという選択が戻ってきた。その変化が、一週間で三回の問いとして現れた」


「三回という数字が、どれだけ意味を持っているか、分かりますか」


「少し調べました。導入前のデータを振り返ったら、あのおばあさんが一週間に私に問いかけた回数は、シルバーケアナビ導入前は、平均で週に五回から七回あったそうです。導入後は、週に一回以下になっていた。そして今週、三回戻ってきた」


「まだ半分にも戻っていないが、動き始めた」


「そうです。動き始めた。そして、私自身も、その三回の問いを受け取ることで、何かが戻ってきた気がしています。介護の仕事を選んだ理由が、その三回目の問いを受け取った時に、思い出せた気がしました」


「なんであなたはここで働いているの?という問いが、あなた自身の問いを呼び起こした」


「そうです。入居者の方の問いが、私の引っかかりを生んだ。問いが、双方向に働いた」


「問いは、一人じゃない。その実例ですね」


「そうだと思います」


---


その日の午後、岡田教授から、最初の観察データの報告が届いた。


「あかね施設での最初の一ヶ月の観察が終わりました。まだ予備的なデータですが、一つの傾向が見えています」


「どのような傾向ですか」


「引っかかりを声に出した体験を持った日と、持たなかった日を比較すると、引っかかりを声に出した日の方が、その日の夜の睡眠の質が高い傾向があります。主観的な報告ですが、よく眠れたという回答が増えている」


「引っかかりを声に出すことが、睡眠の質に影響する」


「まだ相関の段階ですが、興味深い傾向です。引っかかりを声に出すことが、一種の情動的な解放として機能しているのかもしれない。閉じ込められていたものが、言葉になることで、解放される。その解放が、夜の安眠に繋がる可能性があります」


「引っかかりを受け取ってもらえることが、安心に繋がるという吉川さんの観察と、同じ方向を指していますね」


「そうです。引っかかりを声に出すことと、それを受け取ってもらえることが、情動的な安定をもたらす。その仮説が、データの方向と一致しています。今後、より詳細な測定を行います」


「長谷川さんの認知的な勇気の研究との連携が、ここでも重要になりますね」


「そうです。引っかかりを声に出せる環境、つまり認知的な勇気を育てる環境が、高齢者の生活の質にどう影響するかを、縦断的に追う研究として進化させていきます。長谷川さんと来月、詳細を詰める予定です」


「ありがとうございます。この研究が、介護の現場を変える力を持つと思います」


「その力を信じています。吉川さんの観察から始まった問いが、ここまで来た。その事実が、私たちを動かし続けています」


---


その週の金曜日、美優から連絡が来た。


「七冊目の最終確認が終わりました。来月の発売が確定しました」


「いよいよですね」


「そうです。表紙は、あの絵になりました。出版社も、あの絵の力を、すぐに分かってくれました。なんでを、いっしょに、という言葉と、二人の人物が問いで繋がっている絵。それが、七冊目全体を一枚で表している、と」


「子供の絵が、本の顔になる」


「そうです。そして、智也のあとがきが、最後を締めてくれる。この組み合わせが、七冊目を特別なものにしてくれると思っています」


「子供の絵と、大人の言葉が、同じ本の中にある」


「そうです。それが、問いに年齢がないということの、最も視覚的な表現かもしれない」


智也は、その言葉を受けて、この本が届く場所を想像した。


本を手に取った人が、表紙の絵を見る。


二人の人物が、それぞれ「?」を持って、線で繋がっている。


なんでを、いっしょに。


その言葉が、本を開く前に、その人の引っかかりを呼び起こすかもしれない。


なんで、こんな絵が表紙なんだろう、と。


その引っかかりが、本を読む最初の問いになる。


「美優さん、一つだけ」


「何ですか」


「この本を手に取った人が、表紙を見て、最初に感じることは何だと思いますか」


美優は、少し考えてから答えた。


「なんで、こんな絵なんだろう、だと思います」


「私も同じことを考えていました」


「その引っかかりが、この本の最初の問いになる。問いが問いを呼ぶ。それが、この本の最初の一歩だと思います」


「表紙が、問いを贈っている」


「そうです。子供の絵が、読者に問いを贈っている。そして、読み終えた時に、なんでを、いっしょに、という言葉が残る。最初と最後が、同じ方向を向いている本になりました」


---


二月の第二週、村上准教授から、一つの提案が来た。


「千葉さん、今月の後半に、あかね施設で、一つの小さなイベントをできないかと思っています」


「どのようなイベントですか」


「問いを、一緒に持つ場所を作ることです。入居者の方々と、職員と、研究者と、外から来た人たちが、一緒になって、一つの問いを考える時間。フォーマットは、問いを出し合って、それについて話すだけ。答えを出すことが目的ではなく、一緒に不思議だと思う時間を作ること」


「問いの生態系を、意図的に作る場ですね」


「そうです。岡田教授のデータの収集にも使えますし、現場の職員の方々にとっても、引っかかりを受け取るという体験を積む機会になる。そして、入居者の方々にとっては、問いを持つことが安全だと感じられる場になるかもしれない」


「白井施設長と吉川さんに、相談してみます」


白井施設長は、即座に賛成してくれた。


「ぜひ、やりましょう。実は、職員全体で、そういう時間が必要だと感じていました。問いを持つことの大切さを、頭で分かっていても、実際に体験する機会がなかった。この機会に、みんなで経験したい」


吉川は、こう言った。


「入居者の方々は、喜んでくれると思います。特に、あのおばあさん。何かを一緒に不思議だと思う時間が、その方の一番好きな時間になっていると感じています」


イベントは、二月の最終週の午後に設定された。


---


二月の最終週の木曜日。


あかね施設の共有スペースに、入居者と職員と研究者が集まった。


十五人ほどの、小さな集まりだった。


椅子を丸く並べて、全員が向き合う形にした。


岡田教授が、最初に口を開いた。


「今日は、答えを出す場ではありません。一緒に不思議だと思う時間です。誰かが何かを気にしていたら、聞かせてください。みんなで、一緒に不思議だと思いましょう」


しばらく、静かな時間があった。


誰かが口を開くのを、待った。


最初に声を出したのは、九十二歳のおばあさんだった。


「なんで、人は歳をとるの?」


その問いが、部屋に落ちた。


誰も、すぐに答えなかった。


智也も、答えを持っていなかった。


しかし、その問いが、全員に届いていた。


吉川が言った。


「私も、分からないです。でも、一つだけ、思うことがあります。歳をとるたびに、なんで?の数が増えていく気がします」


おばあさんが、少し嬉しそうな顔をした。


「そうよね。若い時は、なんでって思う暇がなかった。今は、いっぱいなんでって思えるから、それが良かったって思っているのよ」


「なんでって思える時間が増えることが、歳をとることの良いところ」


「そうよ。ゆっくり考えられるようになった」


その言葉が、部屋全体を柔らかくした。


次々と、問いが出てきた。


「なんで、春になると花が咲くの?」


「なんで、人は眠るの?」


「なんで、音楽を聞くと懐かしくなるの?」


「なんで、誰かが笑っていると、こっちも嬉しくなるの?」


それぞれの問いに、答えは出なかった。


でも、それぞれの問いに、みんなが反応した。


「それ、私も気になってました」


「私も分からない」


「一緒に不思議ですね」


部屋の中に、問いの生態系が育っていた。


智也は、その場に座りながら、この光景を、しばらく眺めていた。


九十二歳の方が問いを出す。


三十代の介護職員が受け取る。


六十代の研究者が一緒に不思議だと思う。


二十代の長谷川が、その場を観察しながら、自分も引き込まれている。


全員が、同じ問いの中にいた。


年齢も、立場も、関係なかった。


問いが、全員を同じ場所に連れていた。


「なんでを、いっしょに」


篠原先生の教室の子供が描いた絵の言葉が、この部屋で、最も具体的な形として存在していた。


---


イベントが終わった後、しばらく、誰も急いで動かなかった。


その余韻を、誰もが感じていた気がした。


岡田教授が、智也の隣に座って言った。


「研究者として、今日のデータを収集しながら、一方で、研究者でいることを忘れていました」


「どういう意味ですか」


「私自身が、問いを楽しんでいた。なんで音楽を聞くと懐かしくなるの?という問いが出た時、私も、分からないし、気になると思った。その瞬間、研究者の観察モードが外れて、一人の人間として、一緒に不思議だと思っていた」


「研究者が、問いの生態系の一部になった」


「そうです。それが、今日の最も大切な体験でした。研究する側が、研究の対象の中に入っていた」


「問いは、観察者を許さない。問いを持てば、問いの生態系の一部になる」


「その通りです。完全な観察者でいられる人間は、この場にはいなかった。みんなが参加者だった」


その言葉が、今日の場の本質を示していた。


---


帰り際、吉川が声をかけてきた。


「千葉さん、今日、来てくれてありがとうございました」


「こちらこそ。今日の場が、この問いの最も具体的な形でした」


「あのおばあさんが、楽しそうでした。こんなに楽しそうなのを見たのは、久しぶりかもしれない」


「なんでを、いっしょに持てる場所が、ここにできた」


「これからも、続けたいと思っています。月に一回でも、こういう時間を持てれば、施設の文化が変わっていくかもしれない」


「続けてください。続くことが、生態系を作る」


「はい。続けます」


吉川の目が、少し光っていた。


その光が、問いを持ち続けることを選んだ人間の目だった。


---


その夜、智也は、ノートを開いた。


春が近づいていた。


窓から入る夜風が、少し温かくなっていた。


**「二月。あかね施設で、問いを、いっしょに持つ場所が生まれた。」**


**「九十二歳のおばあさんが、なんで、人は歳をとるの?と問いを出した。誰も答えを持っていなかった。でも、みんなが一緒に不思議だと思った。その時間が、問いの生態系だった。」**


**「吉川さんの報告。タブレットの使用時間を短くした一週間で、おばあさんが三回、なんで?を聞いてきた。三回の問いかけが、この問いへの最も雄弁な答えだった。」**


**「岡田教授の観察。引っかかりを声に出した日の夜は、よく眠れる。その傾向が見え始めた。引っかかりの言語化が、情動的な解放をもたらす可能性。」**


**「七冊目の発売が来月に決まった。あの子供の絵が、表紙になる。なんでを、いっしょに。」**


**「問いは、一人じゃない。その言葉が、今月の核心だった。問いを一緒に持つことが、繋がりを作る。その繋がりが、問いの生態系を支える。」**


**「田中陸斗さん。今日、あなたが一人で持っていた問いが、十五人の輪の中で、みんなの問いになっていました。あなたの問いは、今日、一人じゃなかった。」**


ノートを閉じた。


春が近かった。


窓の外に、冬の最後の星が輝いていた。


その星の光が、一つ一つ、遠い場所から届いていた。


問いも、そうだった。


遠い場所から来た問いが、今日、この部屋に届いた。


そして、今日の部屋で生まれた問いが、また遠い場所へと届いていく。


その連鎖が、この旅の形だった。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


なんでを、いっしょに。


そして、次の問いへと向かって。


---

第19章 第7話「問いは、一人じゃない」完


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