第19章 第1話:秋の手紙と、新しい声
あらすじ:九月。第十八章の各動きが一段落する中、智也のもとに、また一通の手紙が届く。差出人は、高齢者介護施設の職員、吉川亜希だった。その手紙には、認知症の入居者たちが、デジタル学習支援アプリに似た「高齢者向け認知維持システム」を施設で使い始めてから、引っかかりを声に出すことが減ったという、切実な観察が綴られていた。問いの生態系の問題が、今度は人生の終わりに近い場所にいる人々にも及んでいることを知った智也は、この問いの普遍性を、改めて深く受け止める。問いは、年齢を問わない。生まれたばかりの子供から、人生の最後期を生きる人まで、問いを持つことは人間の本質的な在り方だ。第十九章の問いが、静かに、しかし確かに始まった。
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九月の第一週。
秋学期が始まっていた。
区立図書館の周辺の木々が、少しずつ色づき始めていた。
まだ緑が主体だったが、端の葉に、黄色が混じり始めていた。
智也は、その変化を眺めながら、今日の作業を始めた。
長谷川の論文の査読結果が、早ければ今月中に来る予定だった。
規制案の修正審議も、今月中に一区切りを迎える見通しだった。
第十八章の各動きが、次の段階に移りつつあった。
そして、また新しい問いが来る予感があった。
それが、いつどこから来るかは、分からない。
しかし、来ることは確かだった。
その予感が、今朝の空気の中に、かすかに混じっていた。
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午前中、郵便が届いた。
大学経由で転送されてきた封書だった。
差出人は、「神奈川県 あかね介護施設 吉川亜希」とあった。
智也は、封書を手に持ちながら、この差出人を記憶の中で探した。
知らない名前だった。
しかし、介護施設という文字が、智也の推理者の直感に、かすかな信号を送った。
区立図書館の窓際の席に座り、封を開けた。
便箋が三枚、入っていた。
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**千葉智也様**
**突然のお手紙をお許しください。神奈川県の高齢者介護施設で介護職員をしております、吉川亜希と申します。三十二歳です。**
**鮎川美優さんの著書を、この春から読んでいます。五冊全部、順番に読みました。最初の「見えない設計」から始まって、最新の「問いを持って生きる」まで。読み進めるうちに、自分の職場で感じていたことに、言葉が与えられていく感覚がありました。**
**今日、お手紙を書いたのは、一つのことを伝えたかったからです。**
**私が働く施設は、認知症の方々を主な対象としています。入居者の方々は、七十代から九十代の方が多く、中には百歳を超えた方もいらっしゃいます。**
**今年の春から、施設全体で「シルバーケアナビ」というシステムが導入されました。認知機能の維持と向上を目的とした、タブレット端末を使うシステムです。脳トレのゲームや、昔の写真や音楽を使った回想療法のコンテンツ、毎日の天気や簡単なニュース、そして健康に関する情報などが、AIが個人に合わせて提供されます。**
**導入当初は、入居者の方々も職員も、歓迎していました。タブレットに触れることで、入居者の方々が生き生きとした様子を見せてくれることがあり、私も嬉しかった。**
**しかし、三ヶ月ほど経った頃から、私はある変化に気づきました。**
**以前は、食事の時や、散歩の時、入居者の方々が、ふとした瞬間に声をかけてくれることが多くありました。あのね、昨日の夜中に、月がすごくきれいだったの。あなた、見た?とか。この花の名前、なんていうの?とか。なんで、秋になると葉っぱは赤くなるの?とか。**
**そういった、何気ない問いかけが、日常の中にたくさんありました。それが、私の仕事の一番の豊かさでした。その言葉を受け取って、一緒に考えたり、調べたり、話したりすることが、入居者の方々との本当の繋がりだと思っていました。**
**しかし、シルバーケアナビが導入されてから、そういった問いかけが、少しずつ減っている気がします。**
**入居者の方々がタブレットを開いている時間が増えた分、職員との直接のやり取りが減っている。それだけなら、仕方ないことかもしれません。しかし、タブレットを使っていない時間でも、何かを問いかけるという行為が、以前より少なくなっている気がします。**
**ある日、以前はよく「なんで?」を聞いてくれていた九十二歳のおばあさんに、ふと感じた変化を確認したくて、こんなことを聞いてみました。最近、気になることはありますか?と。**
**おばあさんは、しばらく考えてから、こう言いました。**
**「あのタブレット、何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきた気がする」と。**
**その言葉が、頭から離れません。**
**何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきた。**
**引っかかりが、奪われているのではないか。人生の最後期を生きる方々から、問いを持つ機会が、奪われているのではないか。その恐れが、私の中にあります。**
**的外れな心配かもしれません。でも、この手紙を書かずにいられませんでした。**
**吉川亜希**
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智也は、手紙を読み終えた後、しばらくその場に座ったまま動けなかった。
「何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきた気がする」
九十二歳の、人生の最後期を生きている人の言葉だった。
その言葉が、篠原先生の教室の小学一年生の変化と、鏡のように向き合っていた。
小学一年生の「なんで?」が減っている。
九十二歳の「なんで?」が、なくなってきた気がすると、当事者が感じている。
人生の始まりと、人生の終わりで、同じことが起きていた。
問いを持つことは、年齢を問わない。
それが失われることも、年齢を問わない。
「問いの生態系の問題は、人間の一生を貫いている」
智也は、その言葉をノートに書いた。
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その日の午後、美優に電話した。
「また一通の手紙が届きました」
「今度は、どこから」
「介護施設からです。認知症の入居者たちが、高齢者向けのデジタルシステムを使い始めてから、問いかけが減ったという観察です」
「介護施設から」
「そうです。人生の最後期を生きている方々に、同じことが起きているかもしれない」
美優は、しばらく沈黙した。
「それは、問いの普遍性の問題ですね」
「そうです。小学一年生から九十二歳まで、問いを持つことは人間の本質的な在り方だ。そして、デジタル環境がその在り方を脅かすことも、年齢を問わない」
「第十九章が、始まりましたね」
「そうかもしれません。今度は、人生の終わりに近い場所からの問いです」
「高齢者。認知症。介護。そういった、これまでとは異なる文脈が入ってくる」
「そうです。これまでの旅で蓄積してきた知識が、この文脈で通用するかどうかも確認しながら、進む必要があります」
「でも、何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきたという言葉は、これまでの旅で見てきたことと、同じ構造を指していますね」
「正解を先に渡されることで、引っかかりが失われる。その構造は、同じです」
「では、智也がこれまでに学んできたことが、この文脈にも通じるかもしれない」
「通じる部分と、通じない部分があるかもしれない。どちらも確認しながら進みます」
「その慎重さが、あなたの強みです。では、吉川さんに返信を書きましょう。私の書籍を読んでくれたことへの感謝と、この問いの重要性を伝えて」
「今日中に書きます」
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電話を切った後、智也は、村上准教授にメッセージを送った。
「高齢者介護の現場から、問いの生態系に関連した観察が届きました。第十九章の問いかもしれません。認知症の高齢者と、問いの生態系の関係について、専門的な知見を教えてもらえますか」
村上准教授からの返信は、翌朝届いた。
「認知症と問いの関係は、認知科学の観点から非常に重要な問題です。認知症の進行は、記憶の喪失だけでなく、世界への好奇心、つまり問いを持つ能力にも影響することがあります。しかし、逆の視点もあります。問いを持つことを支援することが、認知機能の維持に貢献する可能性があるという研究もあります。この問いを扱うためには、老年医学と認知症ケアの専門家との連携が必要です。一人、適切な方を知っています。東京大学老年医学の岡田洋子教授です。紹介しましょうか」
「ぜひ、お願いします」
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その日の夕方、吉川亜希への返信を書いた。
「吉川亜希様。お手紙をありがとうございました。何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきた気がするという入居者の方の言葉は、この旅で最も深く刺さった言葉の一つです。その観察は、的外れどころか、非常に重要な問いを指しています。人生の最後期を生きている方々の問いを守ることは、その方々の尊厳を守ることに繋がるかもしれません。詳しく話を聞かせてもらえますか。老年医学の専門家と一緒に、この問いを探りたいと思っています。千葉智也」
手紙を送った後、ノートを開いて、今日感じたことを書いた。
**「第十九章が、秋の一通の手紙から始まった。吉川亜希さん。神奈川の介護施設の職員。九十二歳のおばあさんの言葉。何でも教えてくれるから、気になることがなくなってきた気がする。」**
**「問いの生態系の問題は、人間の一生を貫いている。小学一年生から九十二歳まで。問いを持つことは、年齢を問わない人間の本質だ。」**
**「この章で向き合う問い。人生の終わりに近い場所で、問いを守ることはどういう意味を持つか。認知症と問いの関係は何か。そして、問いを持つことが尊厳の一部だとすれば、デジタル環境によってそれが奪われることは、どのような害をもたらすか。」**
**「村上先生が岡田教授を紹介してくれる。老年医学との連携が始まる。この旅は、また新しい専門性と出会う。」**
**「田中陸斗さんから始まった問いが、今、九十二歳のおばあさんの言葉と繋がった。問いは、年齢を超える。その連鎖の形が、また一つ、見えた。」**
ノートを閉じた。
秋の夕暮れが、窓に差し込んでいた。
橙色の光が、部屋を温かく照らしていた。
その光の中で、新しい問いが、静かに輪郭を持ち始めていた。
今度は、人生の終わりに近い場所からの問いだった。
しかし、問いの本質は、変わらない。
なんでっていうのが、たのしい。
その感覚を守ることが、人生の最初から最後まで、変わらない意義を持っている。
推理者の旅は、今日も続いていた。
一歩一歩、丁寧に。
信頼できる仲間と共に。
そして、次の問いへと向かって。
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第19章 第1話「秋の手紙と、新しい声」完
**沈黙の推理者 第十九章、開幕。**




