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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第15章 第6話:小学校という場所


あらすじ:九月。秋学期が始まる時期、山田恵子教授との連携が本格化する。小学校向けアプリ「まなびルーム」の解析が始まり、予想外の設計の精巧さが明らかになってくる。一方、美優の四冊目の書籍への反響として、全国の複数の小学校教師から、自分の学校での観察を報告する手紙が届き始める。その中の一通が、智也に、この旅全体を通じて最も根本的な問いを突きつけた。小学一年生の子供が、「なんで?」と聞かなくなってきた、という教師の観察だった。「なんで?」という問いが生まれにくくなっている。その事実の重さに向き合いながら、智也は、この旅の今の意味を、改めて問い直す。


---


九月の初旬。


秋の空気が、少しずつ混じり始めていた。


区立図書館の窓から見える木々の葉が、まだ緑だったが、その緑の中に、わずかに黄みが混じり始めていた。


智也は、その変化を眺めながら、今日届いた手紙を開いた。


美優の書籍経由で転送されてきた、一通の手紙だった。


差出人は、「大阪府、某市立小学校 教諭 篠原康子」とあった。


---


**千葉智也様**


**突然のお手紙をお許しください。大阪の公立小学校で、一年生を担任しております、篠原康子と申します。**


**夏休みに、鮎川美優さんの「問いの連鎖」を読みました。読み終えた翌朝から、自分の授業を見る目が、変わってしまいました。**


**私が気になっているのは、一つのことです。**


**小学一年生の子供は、本来、「なんで?」という質問をたくさんします。これがなんで赤いの?あの雲はなんでこんな形なの?先生、なんでこの字はこう書くの?そういう問いかけが、一年生の授業の豊かさを作っていました。**


**しかし、今年度から、学校全体で「まなびルーム」というアプリが導入されました。そのアプリには、子供が疑問を入力すると、すぐに答えが表示される「なんでも答えてくれる」機能があります。**


**子供たちが、そのアプリを使い始めてから、三ヶ月ほど経ちました。そして、私は、一つのことに気づきました。**


**「なんで?」という声が、減っています。**


**以前は、授業中に、一時間に十回以上、「なんで?」という質問が飛んでいました。しかし、最近は、三回、四回になることが多い。**


**子供たちが、まなびルームで調べれば答えが出ることを、知ってしまったのかもしれません。だから、先生に聞くより、アプリに聞く方が早いと、無意識に感じているのかもしれません。**


**しかし、私が恐れているのは、それだけではありません。**


**「なんで?」という声を出すこと自体が、減っている気がします。アプリに入力して、答えを見て、「ああ、そういうことか」と完結する。そのサイクルが、答えを知ることへの慣れを生んでいる一方で、疑問を声に出して共有するという体験が、失われているような気がします。**


**疑問を声に出す体験が、人と人を繋ぐことを、私は信じてきました。「なんで?」と聞いた子供が、別の子供の「わかる、私も不思議だった」という言葉に繋がる。その繋がりが、学びを豊かにするだけでなく、友達との関係を作ることにも繋がっていました。**


**その体験が、少しずつ、失われているとしたら。**


**私は何をすべきか、迷っています。的外れな心配かもしれません。でも、気になって、お手紙を書きました。**


**篠原康子**


---


智也は、手紙を読み終えた後、しばらく、その場に座ったまま動けなかった。


「なんで?」という声が、減っている。


小学一年生の子供の、「なんで?」という問い。


それは、問いの最も根本的な形だった。


理論もなく、前提もなく、ただ、不思議だから問う。


その純粋な問いが、失われようとしている。


「答えを知ることへの慣れ」


篠原先生の言葉が、頭の中で繰り返された。


答えがすぐに手に入る環境では、答えを待つ体験が失われる。


答えを待つ間に、考える時間がある。


考える時間に、別の問いが生まれる。


しかし、答えが即座に提供されれば、その考える時間が、存在しない。


そして、疑問を声に出すことが、他者との繋がりの一形態だという、篠原先生の観察。


「なんで?」と問いかけることが、関係を作る。


その体験が失われれば、問いは孤立した作業になる。


孤立した問いは、共有されない。


共有されない問いは、連鎖しない。


「これが、問いの連鎖の断絶の、最も根本的な形だ」


智也は、ノートにそう書いた。


---


その日の午後、村上准教授に電話した。


「篠原先生からの手紙を受け取りました。小学一年生の『なんで?』の減少です。山田教授に、早急に相談したい」


「分かりました。今日中に、山田教授に連絡します。ただし、一つだけ確認させてください。この観察は、まなびルームの問題である可能性と、スマートフォンの普及など、より広い文脈の問題である可能性の両方があります。単一の原因に帰属させることは、慎重にすべきです」


「そうですね。複数の要因の可能性を、研究の中に組み込む必要があります」


「それができれば、より信頼性の高い研究になります。山田教授に伝えます」


山田教授からの返信は、翌朝届いた。


「篠原先生の観察は、私の専門分野と、直接関わります。幼児期から児童期の『なぜ?』という質問行動は、認知発達の重要な指標の一つです。その減少は、単なる行動の変化ではなく、好奇心の発達そのものへの影響を示唆する可能性があります。詳しく話し合いましょう。今週末、時間はありますか」


「あります」


週末の会議では、山田教授、村上准教授、長谷川、そして智也の四人が、オンラインで繋がった。


山田教授は、開口一番、こう言った。


「『なんで?』という質問行動の発達的意義から、話を始めたいと思います」


「お願いします」


「生後一年から二年の間に、子供は、周囲の世界への強い好奇心を示し始めます。指さし行動と、そこから発展する質問行動がその代表です。『なに?』『なんで?』という問いかけは、三歳から六歳の間に急増し、この時期を、発達心理学では『なぜなぜ期』と呼びます。この時期の質問行動が豊かであるほど、その後の認知的発達が良好である傾向があることが、複数の研究で示されています」


「つまり、この時期の質問行動は、発達の重要な指標」


「そうです。そして、その質問行動には、二つの機能があります。一つは、情報の収集。もう一つは、もっと重要なことで、他者との関係形成です。『なんで?』と聞くことは、相手に問いを投げかけることです。その投げかけが、対話の始まりになる。つまり、質問行動は、認知の発達だけでなく、社会的な関係の形成にも、深く関わっています」


篠原先生の観察が、発達心理学的に裏付けられた。


「まなびルームのような、即座に答えが得られるシステムが、この時期の子供に与える影響は、どう評価しますか」


山田教授は、少し慎重に答えた。


「まだ、十分な研究がありません。しかし、理論的には、二つの懸念があります。一つは、答えの即時性が、待つことを学ぶ機会を奪う可能性。子供の認知発達において、答えが分からない状態に耐えながら考え続けることは、重要な練習です。二つ目は、答えを得る過程で、他者との対話が介在しないことの影響。人から答えを得る体験と、システムから答えを得る体験は、認知的には似ていても、社会的には大きく異なります」


「その二つの懸念を、実証的に確認することが、次の研究の目標になりますか」


「そうです。ただし、急いでほしくない。小学生の研究は、保護者の同意と、学校の協力と、倫理委員会の承認が必要です。時間をかけて、正しい手続きを踏む必要があります」


「分かりました。慎重に進めます」


---


会議の後、智也は、篠原先生への返信を書いた。


「篠原先生の観察は、発達心理学的な観点から、非常に重要な示唆を含んでいます。『なんで?』という質問行動は、認知の発達だけでなく、社会的な関係の形成にも深く関わっています。その観察を、研究として記録するために、協力していただけますか。急ぎません。先生のペースで、一緒に進めましょう」


篠原先生からの返信は、翌日届いた。


「協力します。子供たちのために、できることをしたいです。ただし、一つだけ、お願いがあります」


「何ですか」


「まなびルームを全否定する方向には、進みたくない。子供たちも、先生方も、今はそのアプリに助けてもらっている部分もあります。どこが問題で、どこが問題でないかを、丁寧に分けてほしいです」


「もちろんです。山田教授も、同じことを強調していました。良い設計と悪い設計を、比較することで、何が問題かを明確にする。その方向で進めます」


「それなら、安心です。よろしくお願いします」


---


その夜、智也は、美優に長い電話をした。


「篠原先生からの手紙と、山田教授の分析を、話しました」


「どんな内容でしたか」


「『なんで?』という質問行動が、認知発達と社会的な関係形成の両方に関わっているということです。その行動が失われつつあるとすれば、それは発達そのものへの影響を意味する」


「小学一年生の問い。それが、この旅の今の問いなのですね」


「そうです。第一章で、田中陸斗という高校生の死から始まった問いが、今、小学一年生の『なんで?』という声に辿り着いた」


「逆方向に旅してきたのかもしれない。時間軸を逆に辿って、問いがどこで生まれるかという源流に向かって」


「そうです。問いが生まれる最も根本的な場所は、小学一年生の『なんで?』という声の中にあったかもしれない」


「その声を守ることが、この旅の根本的な目的だったとしたら」


「そう感じています。田中陸斗の死への引っかかりが、私の問いを生んだ。その引っかかりも、小学一年生の『なんで?』と、本質的には同じものだった。純粋に、不思議だから問う。その衝動が、この旅の出発点だった」


美優は、しばらく沈黙した。


「それを書きます。五冊目の書籍の核心に、その繋がりを書きます」


「どのように書きますか」


「推理者の旅は、高校生の死から始まった。しかし、その旅が辿り着いたのは、小学一年生の『なんで?』という声だった。問いには、年齢がない。問いには、専門知識が要らない。問いは、ただ、不思議だから生まれる。その事実が、この旅全体を照らしている」


「それが、五冊目の核心になります」


「あなたが先を歩くから、私が書ける」


「美優さんが書くから、次の誰かが歩ける」


「その繰り返しが、問いの連鎖ですね」


「そうです」


---


その夜、ノートを開いた。


**「九月。篠原康子先生から手紙が届いた。小学一年生の『なんで?』が減っている。まなびルームというアプリが、答えを即座に提供することで、質問行動の文脈が変わっている可能性がある。」**


**「山田教授の分析。『なんで?』という質問行動は、認知発達と社会的関係形成の両方に深く関わっている。その行動が失われることは、発達への影響を意味する可能性がある。」**


**「問いが、源流の源流に向かっている。小学一年生の『なんで?』が、問いの最も根本的な形だとすれば、その形を守ることが、この旅の最も根本的な目的だった。」**


**「田中陸斗の死への引っかかりと、小学一年生の『なんで?』は、本質的に同じものかもしれない。純粋に、不思議だから問う。その衝動が、問いの連鎖の出発点だ。」**


**「推理者の旅は、問いを守るための旅だった。その問いの最も根本的な形が、子供の『なんで?』という声だとすれば、この旅はまだ、最も大切な場所に辿り着いていない。しかし、その場所が見えてきた。」**


**「一歩一歩、丁寧に。信頼できる仲間と共に。そして、次の問いへ。」**


ノートを閉じた。


秋の夜が、窓の外に広がっていた。


涼しくなり始めた空気が、窓の隙間から入ってきた。


どこかで、虫の声がしていた。


その声が、秋の問いだった。


問いは、続いていた。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第15章 第6話「小学校という場所」完


---


翌朝、長谷川から連絡が来た。


「篠原先生の手紙の内容を、聞きました。村上先生から。一つ、気になることがあります」


「何ですか」


「『なんで?』という声を出すこと自体が減っている、という観察の中に、もう一つの問いが含まれている気がします」


「どんな問いですか」


「声に出すことの意味です。まなびルームがあれば、答えは一人でも得られます。でも、声に出して問いかけることは、一人ではできません。声に出すことは、他者に向かうことです。その他者への向かい方が、失われているとしたら」


「それは、美優さんの四冊目の書籍のテーマと、繋がっていますね。声に出すということ」


「そうです。声に出すことが、問いの連鎖を作る。声に出さなければ、連鎖が始まらない。篠原先生の観察は、その連鎖の最初の一歩が、失われつつあることを示しているかもしれない」


「その分析を、論文に入れられますか」


「橋本先生との論文の続編として、篠原先生との共同研究を考えています。指導教員にも相談しました。小学生の質問行動と、デジタル学習支援環境の関係についての研究です。山田教授との連携が、その核心になります」


「チームが、また広がりましたね」


「そうです。それが、問いの連鎖の形です」


その言葉を聞いて、智也は、一つのことを感じた。


長谷川は、一年前は、ゼミの被害者だった。


今は、自分の研究チームを広げている。


問いを持ち、問いを贈り、問いの連鎖を作っている。


その変化の大きさを、静かに、しかし確かに、感じた。


「長谷川さん、一つだけ聞かせてください」


「何ですか」


「一年前と比べて、自分の変化を、どう感じていますか」


長谷川は、少し間を置いてから答えた。


「被害者から研究者になった、という変化が一番大きいです。でも、それより大きな変化があります」


「何ですか」


「問いを持つことを、怖いと感じなくなりました。以前は、問いを持つことが、怖かった。問いを持つと、答えが見つからないかもしれない。答えが見つからないことが、失敗だと感じていた。でも今は、問いを持つことそのものが、前に進む力だと分かっています」


「その変化は、この旅の中で、最も重要な変化の一つかもしれません」


「そうかもしれません。千葉さんが、問いを持つことを恐れない姿を、ずっと見せてくれたから、私も変われました」


「それが、問いの連鎖の力です」


「はい。私も、それを次の誰かに贈ります」


電話が終わった後、智也は、窓の外の秋の空を見た。


雲が、高く、白く、澄んでいた。


問いは、今日も続いていた。


小学一年生の「なんで?」という声から、この旅が辿り着いた場所は、まだ前に向かって開かれていた。


その開かれた先に、何があるのかを、智也はまだ知らなかった。


しかし、開かれていることが、旅の証だった。


問いが続く限り、旅は続く。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


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第15章 第6話「小学校という場所」完


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