第15章 第5話:夏の調査と、問いの広がり
あらすじ:八月。長谷川と橋本先生の共同論文が学術雑誌に掲載される。同時に、美優の四冊目の書籍が増刷を重ね、全国各地の現場教師から問い合わせが届き始める。その中に、小学校の教師からの手紙も混じっていた。問いが、小学生という、さらに若い世代に近づいていく。一方、木村刑事から、ナビゲート・ラーニングと同系列の設計を持つ小学生向けアプリが、既に複数の小学校に導入されているという情報が届く。そして智也は、この問いの全体像を、改めて俯瞰しようとする。第一章から第十五章まで。問いがどこから来て、どこへ向かっているのかを。
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八月の初旬。
夏が、真っ盛りだった。
区立図書館の窓際の席から見える空は、強烈な青さだった。
冷房の効いた静かな空間の中で、智也は、長谷川から届いたメッセージを読んでいた。
「論文が、掲載されました」
「おめでとうございます。橋本先生にも、伝えましたか」
「はい。橋本先生は、号泣したそうです。自分の授業の記録が、学術論文になったことが、信じられないと言っていました」
「橋本先生の誠実な観察が、論文の核心でした」
「そうです。私の指導教員も、橋本先生の記録の質の高さを、高く評価していました。専門の研究者でなくても、誠実に観察を続ければ、学術的に価値ある記録が生まれる。その実例だと」
「それが、この旅全体の形ですね。本多先生も、中川先生も、橋本先生も、専門の研究者ではなかった。しかし、誠実な観察が、学術を動かした」
「問いの連鎖が、学術という場所でも起きている」
「そうです。そして、その連鎖はまだ続きます」
論文掲載の知らせは、学術コミュニティの中でも反響を呼んでいた。
複数の研究者から、共同研究や、データの提供を求める連絡が来始めた。
長谷川の指導教員は、「これは、教育工学と認知科学の境界領域に、新たな研究の方向性を開いた」と評価した。
橋本先生からは、こんなメッセージが届いた。
「論文が掲載されてから、同僚の先生方が、読んでくれています。一人の先生が、『私も、自分の授業で、同じことを感じていた』と言ってくれました。その先生と、一緒に授業の記録を始めることになりました。問いの連鎖が、職員室でも始まりました」
「職員室での問いの連鎖」
智也は、その表現を、ノートに書き留めた。
教室の中だけでなく、職員室の中でも、問いが広がっていく。
一人の教師の誠実な観察が、同僚の問いを引き出した。
それが、学校という場所での、問いの連鎖だった。
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その週の水曜日、木村刑事から、重要な連絡が届いた。
「千葉さん、一つ、報告があります。ナビゲート・ラーニングの設計と、同系列の設計を持つアプリが、既に小学校でも導入されていることが確認されました」
「小学校まで」
「そうです。『まなびルーム』というアプリです。文部科学省の学習支援ツールの推薦リストに掲載されていて、全国の約二百の小学校で使われているという情報があります」
「二百の小学校」
「そうです。そして、開発元の会社を調べると、ナビゲート・ラーニングの開発元と、出資者の一部が共通しています」
「問いが、小学生という世代にまで及んでいる」
「その可能性があります。ただし、小学生への影響については、中学生や高校生とは異なる倫理的な配慮が必要です。調査を進める前に、専門家の意見を聞く必要があります」
「村上先生と、発達心理学の専門家に相談します」
電話を切った後、智也は、しばらく動けなかった。
小学生。
まなびルーム。
その言葉が、頭の中で静かに響いていた。
中学生の段階での文学的読みの多様性の喪失が、共感能力と対話能力の発達に影響するという長谷川の研究がある。
もし、その影響が、さらに若い小学生の段階から始まっているとすれば。
思考の形成のより根本的な段階での介入。
「問いが、源流の源流に向かっている」
智也は、ノートにそう書いた。
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その日の夕方、美優から連絡が来た。
「書籍への反響で、一つ、気になることがあります」
「何ですか」
「書籍の感想の中に、小学校の先生からのものが、複数あります。自分の学校でも、同じような変化を感じているという内容です。そして、その変化の原因として、まなびルームというアプリへの言及が、複数の感想に出てきている」
「まなびルームという名前が、複数の読者から出てきた」
「そうです。私が把握しているだけで、五人の小学校の先生が、その名前を挙げています。五人が独立して同じアプリの名前を挙げているということは、そのアプリへの違和感が、現場に広がっている可能性があります」
「木村刑事から、今日、同じ名前の情報が来ました」
「やはり。では、調査を始める必要がありますね」
「はい。ただし、小学生という対象は、慎重さが必要です。村上先生と相談します」
「分かりました。私の方でも、感想を送ってくれた先生方に、追加の情報収集をしてみます」
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翌日、村上准教授に相談した。
「小学生を対象とした影響の調査については、発達心理学の専門家の関与が必要です。私の専門は、認知科学であって、発達心理学ではありません。ただし、一人、適切な方を知っています。東京大学の発達心理学の山田恵子教授です。彼女は、デジタル環境が幼児期・児童期の認知発達に与える影響を研究しています。連絡してみましょうか」
「ぜひ、お願いします」
「ただし、一つだけ、確認させてください。今回は、より若い世代が対象になります。その責任の重さを、改めて確認しておきたい」
「分かっています。慎重に、丁寧に進めます。証拠を積み上げることを優先し、生徒や保護者への影響を最小限にした上で、調査を進めます」
「それが前提であれば、動けます。山田教授に連絡します」
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その週の後半、長谷川から連絡が来た。
「論文の掲載後、指導教員から、一つ提案がありました」
「何ですか」
「研究の範囲を、中学生から小学生にも広げることを、検討してほしいという提案です。ただし、私の専門は認知心理学で、発達心理学は専門外です。その点を、正直に伝えた上で、村上先生が接触する山田教授との連携が必要だと考えています」
「村上先生から山田教授への連絡と、長谷川さんの研究拡張が、同時に動いています。繋がりましょう」
「そうしましょう。ただし、一つだけ確認させてください」
「何ですか」
「私はこれまで、被害者の経験から守り手になる過程を研究してきました。しかし、小学生という、被害が認識されにくい年齢の問題に取り組む時、自分の研究の方向性が変わるかもしれない。その変化について、恐れがあります」
「どのような恐れですか」
「これまでの研究は、被害に気づいた人の回復を扱っていました。しかし、小学生の問題は、被害に気づかない段階での影響です。気づいていない被害について、研究することの倫理的な難しさを感じています」
「その難しさは、この旅全体を貫く難しさでもあります。気づかない人の状況を研究することが、気づかせることに繋がるか。あるいは、気づかせることで、不必要な不安を生むか。そのバランスを、常に問いながら進む必要があります」
「そのバランスを、山田教授と一緒に考えます」
「その姿勢が、正しい研究者の在り方です」
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八月の中旬、山田教授との最初のオンライン会議が行われた。
参加したのは、智也、村上准教授、長谷川、そして山田教授だった。
山田教授は、五十代の女性で、穏やかだが、鋭い目を持っていた。
「村上先生から、概要を聞きました。デジタル学習支援アプリが、思考の多様性に影響を与えているという問いですね」
「そうです。中学生では、実証的なデータが積み重なっています。そして今、小学生向けのアプリにも、同様の設計が確認されています」
「小学生の段階での影響については、私自身も、関心を持ってきた分野です。デジタル機器の使用が、幼児期の言語発達や、思考の柔軟性に与える影響については、複数の研究があります。ただし、学習支援アプリという特定の種類のアプリについては、まだ研究が少ない」
「その空白を、共同で埋めることができるかもしれません」
「可能性があります。ただし、私は一つだけ、確認したいことがあります」
「何ですか」
「この調査の目的は、特定のアプリを批判することですか。それとも、デジタル学習支援環境の設計が、発達に与える影響を理解することですか」
「後者です。特定のアプリへの批判が目的ではなく、設計の問題を理解し、より良い設計を提案することが、目標です」
「それなら、協力できます。ただし、一点だけ、研究の方向性についての提案があります」
「どのような提案ですか」
「批判的な研究だけでなく、肯定的な事例も、同時に探してください。つまり、デジタル学習支援環境の中で、引っかかりを促進する設計を持つアプリがあれば、そちらも研究対象にする。悪い事例と良い事例を比較することで、何が問題で、何が問題でないかが、より明確になります」
「それは、マーカスのチームが開発しているバージョン四のツールの発想と、同じですね」
「そうかもしれません。良い設計とはどういうものかを具体化することが、批判だけよりも、社会への貢献が大きい」
「分かりました。その方向で進めます」
会議が終わった後、智也は、山田教授という人物の明確さに、爽快感を感じた。
目的を確認し、方向性を提案する。
その在り方が、誠実で、建設的だった。
この問いに、また新しい視点が加わった。
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八月の終わり。
夏が、峠を越えようとしていた。
智也は、この夏を振り返りながら、今のこの旅の全体像を、頭の中で描こうとした。
第一章から第十五章まで。
田中陸斗の死から始まった問いが、今、どこにいるのか。
**出発点**:一人の高校生の死。その死への引っかかり。
**第一の拡大**:学園内のゲームシステムから、国際的なネットワークへ。
**第二の拡大**:デジタル感情操作から、認知均質化システムへ。
**第三の拡大**:大学生から高校生、中学生、そして小学生へ。思考の形成期への遡及。
**現在地**:問いの源流。引っかかりが生まれる最も根本的な場所。思考の多様性が育まれる最も初期の段階。
その全体像を描いた時、智也は、一つのことを感じた。
この旅は、外に広がっていくのではなく、内に向かって深まっていった。
最初は、外の世界の問題を追っていた。
しかし、今は、人間の思考が形成される最も内側の部分に、近づいている。
引っかかりとは、自分の内側と外の世界が接触する瞬間だ。
その接触の場所を、守ること。
その場所が、人間の思考の根本だ。
「この旅は、外から始まって、内に向かっていた」
智也は、ノートにそう書いた。
そして、もう一行書いた。
「田中陸斗の死への引っかかりが、この旅を始めた。その引っかかりそのものが、問いの根にあった。問いの根を守ることが、この旅の目的だった。その目的が、今、最も具体的な形で、問われている」
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九月が、近づいていた。
秋の気配が、夏の盛りの中に、少しずつ混じり始めていた。
区立図書館の窓から、空を見上げると、雲の形が、少し秋らしくなっていた。
問いは、続いていた。
しかし、問いの深さが、また一段、増していた。
小学生。まなびルーム。引っかかりの源流。
次の調査の方向が、見えていた。
それは、これまでの調査よりも、より根本的で、より慎重に進める必要がある調査だった。
しかし、その慎重さの必要性が、問いの重さを示していた。
重要だから、慎重になる。
慎重になることが、問いへの敬意だった。
智也は、ノートを閉じた。
夏の光が、窓を温めていた。
秋が来ても、問いは続く。
冬が来ても、問いは続く。
推理者の旅は、今日も続いていた。
一歩一歩、丁寧に。
信頼できる仲間と共に。
そして、次の問いへと向かって。
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その夜、美優に電話した。
「夏の調査の整理ができました。次は、小学生という世代への影響を、慎重に調べる段階に入ります」
「段階が、また一つ深まりましたね」
「そうです。問いが、思考の形成の最も根本的な場所に向かっています」
「怖くないですか」
「怖さより、使命感が大きいです。この問いを追う人間が、必要だと感じています」
「それが、あなたらしい」
「美優さん、五冊目の書籍のテーマは、もう見えていますか」
美優は、少し間を置いてから答えた。
「見えています。タイトルは、『引っかかりの保護——問いが生まれる場所を守るために』にしようと思っています」
「それは、この旅の今の段階を、正確に言語化していますね」
「あなたの旅が、タイトルを教えてくれた。それが、私の書籍の歴史です。あなたが先を歩いて、私がそれを書く」
「美優さんが書くから、次の誰かが歩ける。それが、私たちの形ですね」
「そうです。これからも、この形で続けましょう」
「はい」
夏の夜が、窓の外に広がっていた。
問いの連鎖は、続いていた。
そして、その連鎖を支えている根が、信頼だということを、智也は知っていた。
その知識が、この夏、より深く、より確かに、根付いた。
推理者の旅は、今日も続いていた。
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第15章 第5話「夏の調査と、問いの広がり」完




