第15章 第3話:引っかかりの正体
あらすじ:六月。橋本先生の観察が積み重なり、ナビゲート・ラーニングが国語の授業に与える影響が、より具体的な形で見えてきた。村上准教授がエスノグラフィー的な記録手法を橋本先生に伝え、授業の記録が本格化する。一方、長谷川が大学院で進めている研究から、「引っかかり」という体験の認知科学的な意味が明らかになってくる。引っかかりとは、自分の内側と外の世界が摩擦する瞬間であり、その摩擦こそが学びの駆動力だという。その理解が深まる中、智也は、この問い全体を貫く一つの言葉を見つける。それは、「摩擦の保護」という言葉だった。
---
六月の初旬。
梅雨が始まっていた。
東京の空は、灰色の雲に覆われ、しとしとと雨が降り続けていた。
智也は、区立図書館の窓際の席で、長谷川から届いた研究の進捗を読んでいた。
大学院に入って二ヶ月が経ち、長谷川の研究が、少しずつ形を持ち始めていた。
「千葉さん、最近の研究の進捗を報告します。指導教員との議論の中で、『引っかかり』の認知科学的な意味を、より深く理解できてきました。送っていいですか」
「ぜひ」
届いた文書を開くと、こう書かれていた。
---
**「引っかかり」の認知科学的な定義と意味について
「引っかかり」とは、認知科学的には、「予期の違反」と呼ばれる現象に近い。人間の脳は、常に次の状況を予測しながら情報を処理している。その予測と、実際に入ってきた情報の間に差が生じた時、脳は強い注意を向ける。その注意の向きが、日常的な言葉で言えば「引っかかり」である。
この「引っかかり」には、二つの重要な機能がある。
第一に、記憶の定着。予期の違反が生じた時の体験は、予期通りの体験よりも、長期記憶に残りやすいことが示されている。引っかかった経験が、深く印象に残るのは、このためである。
第二に、問いの発生。予期の違反は、「なぜ、予測と異なったのか」という問いを自然に生む。この問いが、さらなる探索と学習の動機になる。
以上から、「引っかかり」の体験は、学習における最も根本的な駆動力の一つである。
一方、ナビゲート・ラーニングのような、感想の形を事前に提示するシステムは、この「引っかかり」の発生を阻害する可能性がある。感想の形を先に見ることで、予測が形成され、文章を読む時に、その予測に沿った処理が行われやすくなる。その結果、予期の違反が生じにくくなり、引っかかりも生まれにくくなる。
---
智也は、その文書を、ゆっくりと読んだ。
「予期の違反」
「引っかかりが、記憶の定着と問いの発生という二つの機能を持つ」
「感想の形を事前に提示することが、引っかかりの発生を阻害する」
この三つが繋がった時、ナビゲート・ラーニングの問題の核心が、より明確な形を持った。
「長谷川さん、この文書は、非常に重要です」
智也はすぐに返信した。
「どのように重要ですか」
「引っかかりという体験の認知科学的な定義が、これまで直感的に感じていたことを、学術的な言語で裏付けてくれました。そして、ナビゲート・ラーニングがその引っかかりを阻害するメカニズムが、明確になった」
「村上先生も、同じことを言っていました。予期の違反という概念は、認知科学では確立した知見です。それが、教育の問題と繋がったのは、面白い発展です」
「この発見を、橋本先生の観察と組み合わせると、論文として成立しますか」
「指導教員に相談しました。可能だと思います。橋本先生の実践的な観察と、私の認知科学的な分析を、組み合わせた論文を書くことを、提案してくれました」
「それは、本多先生の論文と同じ形ですね。現場の観察と、学術的な分析の組み合わせ」
「そうです。そして、本多先生の論文が中川先生に届いたように、この論文も、現場の教師に届くものを目指したいと思っています」
---
その日の午後、村上准教授との定例会議があった。
オンラインで繋がると、村上は、少し興奮した様子で話し始めた。
「橋本先生のエスノグラフィー的な記録が、進んでいます。一週間分の授業の記録を送ってもらいました。その記録を読んで、一つ、印象的な場面がありました」
「どのような場面ですか」
「ある授業で、橋本先生が、生徒に『この物語の登場人物の気持ちが、よく分からなかった部分はありましたか』と聞きました。すると、最初は、誰も手を挙げなかった。しかし、橋本先生が『分からなかった部分がある人の方が、実はよく読んでいる証拠かもしれないよ』と言うと、半分以上の生徒が手を挙げた」
「分からなかったことを言いにくい雰囲気があった」
「そうです。橋本先生の記録には、こうありました。『生徒たちは、分からないことを恥ずかしいと感じているようだった。正解が分かることが良いことで、分からないことが悪いことだという感覚が、いつの間にか形成されていた』と」
「その感覚は、どこから来たのでしょうか」
「ナビゲート・ラーニングが、常に正解の形の感想を提示してきたことと、関係しているかもしれません。正解がいつも提供される環境では、分からないことが異常に感じられるようになる」
「分からないことが、恥ずかしいという感覚は、引っかかりを言語化する妨げになりますね」
「そうです。引っかかりは、分からないという感覚から始まります。その感覚を恥ずかしいと感じれば、引っかかりを口に出せなくなる。そして、口に出せなければ、問いにならない」
「問いが生まれる入り口が、塞がれている」
「まさにそうです」
その分析が、智也の中で、一つの言葉を生んだ。
「摩擦の保護」
「どういう意味ですか」
「これまでの問いの中で、対抗手段として考えてきたのは、情報の多様性を守ること、対話の場を作ること、道筋を言語化することなどでした。しかし、今の話を聞いて、それらに先立つ、より根本的なことが見えてきた気がします」
「それは何ですか」
「自分の内側と、外の世界が摩擦する機会を守ること。分からないと感じる瞬間を、大切にできる環境を作ること。その摩擦を保護することが、問いの発生の最も根本的な条件かもしれない」
村上は、少し間を置いてから言った。
「『摩擦の保護』という概念は、認知科学の観点からも、非常に正確だと思います。引っかかりとは、内側と外側の摩擦です。そして、学習の多くは、その摩擦から生まれます。ナビゲート・ラーニングのような設計は、その摩擦を回避させることで、使いやすさを実現しています。しかし、使いやすさが、摩擦を奪っているとすれば、使いやすさそのものが問題になる」
「使いやすさが、学びを損なう逆説」
「そうです。その逆説を、論文で示せれば、非常に重要な貢献になります」
「その論文は、長谷川さんと橋本先生が、共同で書けるかもしれません」
「その方向で、進めましょう」
---
その夜、智也は、「摩擦の保護」という言葉を、ノートに書いた。
そして、その言葉が、この旅全体とどう繋がるかを、考えた。
田中陸斗の死は、一つの摩擦だった。
理解できない、受け入れられないという摩擦が、問いを生んだ。
その問いが、この旅を始めた。
しかし、もし、あの時、その摩擦がなかったら。
もし、「田中陸斗は自殺した。それだけのことだ」という正解が、最初から提示されていたら。
引っかかりが生まれなかったかもしれない。
問いが生まれなかったかもしれない。
旅が始まらなかったかもしれない。
摩擦があったから、問いが生まれた。
問いが生まれたから、旅が始まった。
旅が始まったから、多くの人と出会えた。
その連鎖の最初に、摩擦があった。
「摩擦を保護することは、問いの連鎖を保護することだ」
智也は、そう書いた。
そして、もう一行書いた。
「引っかかりのない世界では、旅は始まらない。田中陸斗への引っかかりが、この旅を生んだ。分からないという感覚を恥ずかしいと思わないこと。それが、全ての始まりだ」
---
翌日の朝、橋本先生に連絡した。
「授業の記録、ありがとうございます。村上先生が、重要な場面を発見してくれました。分からなかった部分がある人の方が、よく読んでいると伝えた場面です。それが、授業のターニングポイントになりえます」
橋本先生の返信は、その日の夕方届いた。
「あの場面の後、クラスの空気が、少し変わりました。分からないことを口にしていいという雰囲気が生まれた。すると、生徒から、予想外の発言が出てきました」
「どんな発言でしたか」
「ある生徒が、『先生、この登場人物って、なんで急に考えが変わったんですか。ナビゲート・ラーニングで調べたら、説明があったんですけど、なんかしっくりこなかったんです』と言いました」
「調べた説明を、そのまま使わなかった」
「そうです。ナビゲート・ラーニングの説明を読んで、しっくりこないという感覚を持った。その感覚を、授業で口にしてくれた。それが、私には、とても嬉しかった」
「その生徒は、摩擦を感じていた。そして、その摩擦を、口にできた」
「そうです。しっくりこないという感覚こそが、その生徒の引っかかりです。その引っかかりから、本当の問いが始まる」
「橋本先生、その生徒の発言を、記録に残してください。それが、この問いにとって、最も重要な証拠の一つになります」
「分かりました。残します」
その発言が、智也に、確信を与えた。
引っかかりは、まだ生きている。
ナビゲート・ラーニングがあっても、その答えに「しっくりこない」と感じる生徒がいた。
そして、その感覚を口にできる環境があれば、引っかかりは、問いになれる。
摩擦は、完全には消えていなかった。
しかし、摩擦を口にできる環境が、失われつつあった。
その環境を守ることが、この問いへの答えだった。
---
その夜、長谷川と田島と、三人でオンラインで話した。
定例の報告会だった。
「摩擦の保護という言葉を、今日、考えました」
智也が切り出すと、長谷川がすぐに反応した。
「それは、私の研究テーマとも繋がります。被害者の回復において、最も重要なのは、自分の感覚を信頼できるようになることです。認知操作の影響を受けた人は、自分の引っかかりを信頼できなくなっています。誰かに誘導された感想を、自分の感想だと思ってしまう。その回復は、引っかかりを信頼することを、少しずつ取り戻す過程です」
「引っかかりを信頼することを、取り戻す」
「そうです。橋本先生のクラスで起きたことも、同じだと思います。分からなかった部分を言っていい、という一言が、引っかかりを信頼する機会を生んだ」
田島も言った。
「私も、シャドウ・ネットワークの影響から回復する中で、最も難しかったのは、自分の感覚を信頼することでした。何が自分の感覚で、何が誘導された感覚か、分からなくなっていた。その区別を取り戻すのに、時間がかかりました」
「その経験が、研究に活きていますね」
「はい。だから、引っかかりを守ることの重要性が、とても実感として分かります」
「三人それぞれが、異なる場所で、同じ問いを追っている。その多様性が、問いを深めている」
長谷川が言った。
「問いの連鎖ですね」
「そうです」
会話が終わった後、智也は、もう一度ノートを開いた。
**「摩擦の保護。引っかかりを信頼すること。分からないことを恥ずかしくないと感じること。それらが、問いの発生の最も根本的な条件だ。」**
**「橋本先生のクラスで、しっくりこないという感覚を口にした生徒がいた。その生徒の中で、引っかかりが、問いになろうとしていた。その瞬間を、橋本先生が守った。それが、教育の核心だ。」**
**「長谷川は、引っかかりを信頼することの回復を、研究している。田島は、誘導された感覚と自分の感覚の区別を、体験として知っている。三人が、異なる場所で、同じ問いを追っている。」**
**「この旅全体を、一言で言えば、今日この瞬間は、摩擦の保護だと思う。田中陸斗への引っかかりが、この旅を生んだ。その引っかかりを守ることが、この旅の目的だった。そして今、その目的が、教育の現場という最も根本的な場所で、問われている。」**
梅雨の雨が、窓を静かに打っていた。
その音が、この季節の正直な声だった。
問いは、続いていた。
推理者の旅は、今日も続いていた。
一歩一歩、丁寧に。
信頼できる仲間と共に。
そして、次の問いへと向かって。
---
第15章 第3話「引っかかりの正体」完




