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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第15章 第2話:国語という場所


あらすじ:五月。橋本文子先生との対話が始まる。国語という教科が持つ固有の豊かさと、その豊かさが失われていく現象について、橋本先生は丁寧に記録し続けていた。マーカスのチームがナビゲート・ラーニングの技術的な解析を進める一方、村上准教授が「国語の読みの多様性」という観点から、認知操作の影響を測る新しい手法を提案する。そして、長谷川が大学院の研究室で得た、ある先行研究の発見が、この問いに予想外の深さを加えた。思考のスタイルが形成される中学生の時期に、文学の多様な読みが摘まれることが、何をもたらすのか。その問いが、第十五章の核心へと近づいていく。


---


五月の初旬。


連休が明け、街に日常が戻ってきていた。


智也は、区立図書館の窓際の席で、橋本先生からの返信を読んでいた。


返信は、連休の最終日に届いていた。


---


**千葉さん、**


**返信をありがとうございました。調査を開始していただけるとのこと、心強いです。**


**おっしゃる通り、授業の記録を続けています。今週、一つ、実験的なことを試みました。**


**同じ授業の二つのクラスに、同じ小説の一節を読ませました。感想を書く前に、片方のクラスには、ナビゲート・ラーニングでの検索を「あえてしないで、まず自分の感想を書いてみてください」と伝えました。もう片方のクラスには、通常通り、使ってよいとしました。**


**結果は、私が予想していた以上に、明確でした。**


**ナビゲート・ラーニングを使わなかったクラスの感想は、多様でした。登場人物への共感や批判、場面の描写への気づき、自分の経験との重ね合わせなど、それぞれが異なる読み方をしていた。**


**一方、ナビゲート・ラーニングを使ったクラスの感想は、似た枠組みで書かれているものが多かった。「○○という場面から、登場人物の△△という気持ちが読み取れます。それは、□□という言葉に表れています」という形の感想が、多数を占めていました。**


**その形式が、悪いわけではありません。むしろ、論理的な感想の書き方として、評価できる部分もあります。**


**しかし、その感想には、生徒自身の「驚き」や「引っかかり」が、ほとんど含まれていませんでした。「この場面が、なんか気になった」「なぜ登場人物はこうしたのか、よく分からない」という、個人的な反応が、ほぼ見えなかった。**


**文学の読みにとって、最も大切なのは、その「引っかかり」だと私は思っています。引っかかりが、問いになる。問いが、読みを深める。その連鎖が、国語の授業の核心だと思っています。**


**その連鎖が、失われているとしたら、それは、国語という教科の存在意義に関わる問題だと感じています。**


**橋本文子**


---


智也は、手紙を読み終えて、ゆっくりと息を吐いた。


「引っかかりが、問いになる。問いが、読みを深める」


橋本先生の言葉が、この旅全体と、深く共鳴していた。


智也の旅も、田中陸斗の死という「引っかかり」から始まった。


その引っかかりが、問いになった。


問いが、旅を深めた。


国語の授業で起きていることと、この旅で起きていることが、同じ構造を持っていた。


そして、その構造が失われつつある。


引っかかりが生まれる前に、正解の形をした感想が、アプリによって提供される。


引っかかりなしに、感想を書ける。


その「便利さ」が、問いの芽を、摘んでいるかもしれなかった。


---


その日の午後、村上准教授に、橋本先生の手紙を転送した。


村上の返信は、翌朝届いた。


「非常に重要な観察です。そして、国語という教科での問題は、これまでの事件とは異なる、固有の深刻さを持っています」


「どういう意味ですか」


「これまでの事件では、既に形成された思考スタイルへの介入が問題でした。しかし、国語の授業での問題は、思考スタイルが形成される最初の過程への介入です。中学生が文学を読む経験は、思考の柔軟性と、他者の視点を想像する力を育てます。その育成の場で、多様な読みの代わりに、均質な解釈が提供されているとすれば、それは、思考スタイルの形成そのものへの介入です」


「以前に、スタディナビについて議論した時の、思考スタイルの形成期への介入という問いと、繋がっていますね」


「繋がっています。しかも、国語の読みという、より根本的なレベルで、その問題が起きている可能性があります」


「どんな手法で、その影響を測ることができますか」


村上は、少し間を置いてから答えた。


「一つ、提案があります。橋本先生が実施した比較実験を、より厳密な形で再現することです。ナビゲート・ラーニングを使った場合と使わない場合で、感想の多様性を計量的に測定する。その測定指標として、感想に含まれる視点の数、個人的な経験への言及の有無、引っかかりや疑問を示す表現の有無などを使えます」


「それは、倫理委員会への申請が必要な実験ですね」


「そうです。橋本先生の学校が協力してくれれば、研究として成立します。ただし、今回は高校でも大学でもなく、中学校です。生徒の年齢が若い分、倫理的な配慮がより厳格になります」


「橋本先生に相談してみます」


橋本先生への連絡は、その日の夕方に行った。


「村上准教授から、より厳密な比較実験の提案があります。先生の学校で実施できれば、研究として意義があります。ただし、生徒と保護者の同意を得ることが必要になります。先生の学校の状況として、可能でしょうか」


橋本先生からの返信は、翌朝届いた。


「相談してみます。ただし、一つだけ、お願いがあります」


「何ですか」


「実験のために授業を設計するのではなく、普段の授業の中で、自然な形で記録を取れる方法を考えてほしいです。実験という形にすると、生徒が普段とは違う意識で授業に臨む可能性があります。それでは、普段の状態を測れない」


「それは、重要な指摘です。村上先生に伝えます」


村上に、橋本先生の要望を伝えると、村上は、少し考えてから答えた。


「橋本先生の感覚は、正しいです。実験という意識が生まれると、普段とは異なる行動が生じます。これは、『観察者効果』と呼ばれる現象です。普段の授業を、自然な形で記録することを、研究の方法論にする。その方法は、エスノグラフィーという手法として、教育研究でも確立されています。橋本先生に、エスノグラフィー的な記録の方法を説明します」


「橋本先生に、研究協力者として参加してもらう形ですね」


「そうです。先生自身が、研究の一部になる。本多先生や中川先生と同じ形です」


---


その週の水曜日、マーカスから報告が来た。


「ナビゲート・ラーニングの技術的な解析が、進んできました。一つ、重要な発見があります」


「何ですか」


「このアプリの感想例の推薦アルゴリズムに、ユニバーサル・キャンパスやスタディナビとは異なる、新しい設計思想が入っています」


「どのような設計思想ですか」


「前の二つのシステムは、ユーザーが考えた後に、その考えを誘導していました。しかし、ナビゲート・ラーニングの感想例の推薦は、考える前に、感想の形を提示しています」


「考える前に形を提示する」


「そうです。感想を書く前に検索すると、正解の形をした感想の例が出てくる。その例を見た後に感想を書くと、自分でも気づかないうちに、その形に沿った感想を書くようになる。これは、思考の後処理ではなく、思考の前処理への介入です」


「以前の世代のシステムより、さらに根本的な介入ですね」


「そうです。考える前に、正解の形を見せる。それが、考える過程自体を変えてしまう可能性があります」


「橋本先生が観察した、『引っかかりがない感想』は、その結果かもしれない」


「その可能性が高い。自分の引っかかりを感じる前に、正解の形を見てしまえば、引っかかりを言語化する機会が失われる」


その分析が、この問いの核心を、一段深いところへ連れていった。


引っかかりを感じる機会が失われる。


引っかかりとは、自分の内側と、外の世界が接触する瞬間だ。


その接触が起きる前に、外の世界の「正解」が提示されれば、内側と外の世界の間の摩擦が、生まれない。


摩擦がなければ、熱が生まれない。


熱がなければ、問いが生まれない。


「考える前処理への介入は、考えることの意欲そのものへの介入になりうる」


智也は、そう書きながら、この問いの重さを、改めて感じた。


---


その週の後半、長谷川から、大学院での発見を伝えるメッセージが来た。


「先行研究の調査をしていて、一つ、興味深い研究を見つけました。送っていいですか」


「送ってください」


届いた論文の要旨を読むと、こう書かれていた。


「中学生の段階での文学的な読みの経験が、成人後の他者への共感能力の発達に、有意な相関を持つことが示された。特に、文学の読みにおいて、登場人物の視点を想像し、自分の視点との差異を認識する経験が、他者理解の認知的な基盤を形成する」


「文学の読みと、他者への共感能力が、繋がっている」


「そうです。そして、もう一つ」


長谷川は、別の論文の要旨も送ってきた。


「文学の読みの多様性を経験した生徒は、単一の解釈を正解として提示された生徒と比較して、道徳的な判断における柔軟性が高く、複雑な状況における対話能力が高い傾向が見られた」


「つまり、文学の多様な読みの経験は、他者への共感と、道徳的な柔軟性と、対話能力の基盤になっている」


「そうです。国語の授業で、多様な読みが失われることは、これらの能力の発達への影響を意味する可能性があります」


「それは、民主主義の基盤への影響でもありますね」


「そうです。対話能力と、他者への共感と、道徳的な柔軟性は、民主主義的な社会の基盤です。その基盤が、中学生の段階で影響を受けるとすれば、それは、社会全体への長期的な影響になりうる」


「長谷川さん、その先行研究を、村上先生と共有してください。そして、橋本先生の観察と組み合わせた論文の可能性を、探ってみましょう」


「分かりました。動きます」


電話を切った後、智也は、この問いの広がりを、頭の中で整理した。


国語の授業での多様な読みの喪失。


それは、単なる教育の問題ではない。


他者への共感能力の発達への影響。


対話能力の形成への影響。


民主主義的な社会の基盤への、長期的な影響。


一つの学習支援アプリが、そこまで繋がっていく可能性があった。


「これが、問いの源流に向かうことの意味かもしれない」


智也は、そう思った。


問いが源流に近づくほど、その問いの影響範囲が広がる。


田中陸斗という一人の死から始まった問いが、今、民主主義の基盤に関わる問いに辿り着いていた。


その連鎖の大きさを、智也は、静かに受け止めた。


---


その夜、美優に電話した。


「第十五章が、予想以上に深いところに向かっています」


「どういう方向ですか」


「国語の読みの多様性が失われることは、他者への共感能力と対話能力の発達への影響になりうる、という研究があります。その二つの能力は、民主主義的な社会の基盤です」


「つまり、学習アプリの問題が、民主主義の基盤に繋がっている」


「そうです。これは、第一章から繰り返されてきたテーマと、同じです。民主主義保護条約監視委員会という形で、この旅は始まりました。そして今、民主主義の最も根本的な基盤、つまり、他者を理解し、対話できる人間の育成という問いに辿り着いている」


「旅が、始まった場所に、より深く戻ってきている」


「そうです。螺旋のように、同じテーマを、より深い場所で問い直している」


美優は、しばらく沈黙した。


「四冊目の書籍が出版される前に、第十五章が始まってしまった。でも、良かったかもしれない」


「どういう意味ですか」


「問いの連鎖は、書籍が完成した後も続く、というメッセージを、読者に伝えることができます。終わらない旅の記録として、四冊目が存在することが、より正確な形になる」


「書籍の続きが、現実に起きている、ということですね」


「そうです。それが、この旅の形の正直な姿だと思います」


「あとがきに、追加の一行を入れてもいいですか」


「どんな一行ですか」


「『この書籍を書き終えた後も、問いは続いている』という一行です」


美優は、少し間を置いてから、笑った。


「入れましょう。それが、最も誠実な一行かもしれません」


---


その夜、ノートを開いた。


**「五月の整理。ナビゲート・ラーニングの技術解析で、考える前処理への介入という新しい設計思想が確認された。感想を書く前に正解の形を見せる。引っかかりが生まれる前に、引っかかりの代わりを提示する。それは、問いの芽を、芽吹く前に摘む設計だ。」**


**「長谷川が、先行研究を見つけてくれた。文学の多様な読みの経験が、他者への共感と対話能力の基盤を形成する。その基盤が、民主主義的な社会を支える。国語の授業での多様な読みの喪失は、民主主義の基盤への長期的な影響になりうる。」**


**「第一章で、民主主義保護条約監視委員会という形で、旅は始まった。今、民主主義の最も根本的な基盤への問いに辿り着いている。螺旋が、より深い場所で同じテーマを問い直している。」**


**「美優の書籍の最後に、『この書籍を書き終えた後も、問いは続いている』という一行が加わる。それが、最も誠実な一行だと思う。」**


**「橋本先生との連携が始まる。村上先生のエスノグラフィー的な記録手法が、橋本先生の授業に入る。長谷川の先行研究が、この問いに深さを加える。チームは、前を向いている。」**


ノートを閉じた。


五月の夜は、温かかった。


窓を少し開けると、夜風が入ってきた。


その風の中に、どこかの庭の花の香りが混じっていた。


問いは、続いていた。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第15章 第2話「国語という場所」完


---


翌朝、橋本先生から、短いメッセージが届いた。


「昨日の授業で、一つ、気づいたことがあります」


「どんなことですか」


「ナビゲート・ラーニングを使わないで感想を書いた後に、生徒に聞いてみました。『今日の感想を書いた時、どんな気持ちがありましたか』と。すると、何人かの生徒が、こう言いました。『なんか、うまく書けなかった気がする』と」


「うまく書けなかった気がする、ですか」


「そうです。しかし、私が読んだ感想は、正直で、個性的で、引っかかりに満ちていた。うまくないと感じていたのに、実は、豊かな感想が書けていた。その逆説が、気になりました」


智也は、その報告を読んで、一つの考えが浮かんだ。


「橋本先生、その逆説は、重要かもしれません」


「どういう意味ですか」


「ナビゲート・ラーニングの感想例に慣れた生徒にとって、『うまい感想』とは、例と似た形の感想になっているのかもしれません。自分の引っかかりを素直に書いた感想は、例とは違う形をしているから、うまくないと感じる。しかし実際には、その引っかかりこそが、感想の本質です」


「正解の形に慣れることで、正解以外の表現を、うまくないと感じるようになった」


「その可能性があります。正解の形が、評価の基準を書き換えてしまった」


「それは、学習の評価という観点からも、深刻な問題ですね。教師が正しく評価できていても、生徒自身が、自分の良い表現を低く評価してしまう」


「そうです。外部からの評価だけでなく、内側からの自己評価まで、書き換えられている可能性がある」


橋本先生は、少し間を置いてから言った。


「千葉さん、この観察を、論文に使ってください。この生徒たちの経験が、誰かの役に立てるなら、それが一番です」


「ありがとうございます。村上先生と相談して、最も適切な形で記録します」


「よろしくお願いします。そして、千葉さん、一つだけ聞かせてください」


「何ですか」


「あなたは、なぜ、こういった問いを追い続けているのですか。卒業して、自由な身になっても、問いを続けている。その理由を、聞いてみたかった」


智也は、その問いを、正直に受け取った。


「一人の学生の死から、この旅が始まりました。その学生は、考えることが好きな子だったと、お母さんが言っていました。その学生の死が、今も、私を動かしています」


「考えることが好きな子の死が、考えることを守るための旅を生んだ」


「そうです。その連鎖を、できる限り続けたい。それが、理由です」


橋本先生は、しばらく沈黙した。


「分かりました。私も、自分の生徒たちが、考えることを好きでいられるように、続けます。それが、私の理由です」


「同じ理由を、異なる場所で持っている。それが、問いの連鎖の形ですね」


「そうですね。では、また、報告します」


「はい。お待ちしています」


---


その夜、智也は、田中陸斗の母親に、短い手紙を書いた。


「恵子さん、先日もありがとうございました。今、中学校の国語の授業で起きていることを調査しています。考えることが好きな子供たちの、その好奇心を守るための調査です。陸斗さんのことを、思いながら、続けています。千葉智也」


手紙を書き終えて、封筒に入れた。


この手紙が届く頃には、また何か新しいことが起きているかもしれない。


しかし、手紙を書く、という行為そのものが、この旅の一部だった。


記録し、伝え、繋がり続けること。


それが、問いを生き続けさせることだった。


ノートに、最後に一行加えた。


**「橋本先生が、自分の感想を低く評価してしまう生徒の姿を報告してくれた。外部の正解が、内側の自己評価まで書き換える。その深刻さを、今日、改めて受け取った。しかし、その深刻さを知ることが、対抗の出発点だ。問いは、深まるほど、解決の可能性も深まる。」**


**「田中陸斗のお母さんに、手紙を書いた。陸斗さんが考えることが好きだったことを、思い出しながら。この旅は、彼への約束の続きだ。」**


五月の夜が、窓の外に広がっていた。


問いは、続いていた。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第15章 第2話「国語という場所」完


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