第十話 赤と白まみれ
早朝の四時過ぎ、道人は大きくあくびをしながら台所の勝手口から庭へと出ると、店へと向かう。家の台所と店は、ほぼ隣接していた。
頭がキーンと冷える寒さに空を見上げれば、まだ星が瞬いて見えている。晴れの日はたくさん星が見えるが、曇に覆われた日よりも寒かった。
誰もいない静けさに包まれた厨房内へと入ると、エプロンを腰にビシッと巻き、額にタオルをギュッと固く結ぶ。さぁ気合いれてうどんを打つぞ! として、
ガラッ──
「店主さん! おはようございます!」
「早っ!」
玄関のドアが勝手に開かれたかと思いきや、早過ぎる時刻に現れた初出勤のたぬ子に、道人はお笑いコントのように足元をすっ転ばせそうになる。
「あれ? 俺、昨日時間伝えてなかったっけ?」
「店主さんが朝早くから働いているからには、わたくしだけぬくぬくと眠ってはいられません! 何をいたしましょう? なんなりとご命令下さい!」
心がけは十分に立派だったが、そんなことを突然言われても「えーと……」逆に道人は戸惑う。人を雇った経験がないので、的確な指示を出すのに慣れていない。
「じゃあ、そこのジャガイモの皮むき頼むよ」
「はいっ!」
たぬ子はダンボール箱の中に入ったジャガイモを手に取って握る。
(ええと、)
(包丁さばきなら練習してきましたよ?)
片方の手に包丁を持ち、もう片方の手でジャガイモを動かし、包丁にグイッと差し込んだ。
「あたーっ!」
見事、スパッと切れた指。少し遅れてから痛みが現れ、ジャガイモを持った左手の親指からじんわりと血が滲み出て垂れる。
「だ、大丈夫っ? 見せてっ」
だらりと垂れ流れる血に道人は、くらっと貧血を起こしグラッと倒れかける。よろめいた拍子に、作業台の上においてあった小麦粉の袋に手が当たって落っことしてしまい、小麦粉が床の上にドバッーとぶち撒けた。
「店主さん! 大丈夫ですかっ?」
「いや、俺は大丈夫だから。それより止血、止血……」
とりあえず、道人はたぬ子の指の傷口を水道水で洗い流すと、キッチンペーパーで押さえて止血した。しかし、キッチンペーパーは血でみるみると赤く染まっていく。
(ダメだ、止まらねぇ。こうなりゃ……)
やむを得ない。と、まだ眠っているだろう歩に助けを求めるべく、ケータイの入ったズボンのポケットに手を突っ込んだところへ──、
「お兄ちゃん! どしたのっ?」
電話をかけるより早く勝手口がバタンッと開かれた。
(──俺の妹はエスパーか)
まるで兄の危機を救うがごとく登場した歩だが、たまたまウトウトと目を覚ましていたところへ、何やら聞き慣れない騒がしさに様子を見にやって来たのだった。
歩の目の前には、小麦粉まみれになった兄と厨房。その上にポツポツと滴り混じる赤い斑点。そして、指先から腕までダラダラ流血させている若い女の子の姿があった。
「あ、歩ぅ……」
すぐに状況を把握した歩は、情けない顔で追いすがる兄を「どいて」と押しのけ、たぬ子の傷口を確かめる。
「あ、歩さんですか? わたしく、今日からお世話になるたぬ子と申します。よろしくお願いします!」
たぬ子は律儀に真っ先に挨拶の言葉を述べた。
「たぬ子ちゃん? うん、こっちこそよろしくね! ……んー、だいぶ深く切っちゃってるなぁ」
「病院行くか? 近くの総合病院って夜間外来やってるよな?」
「そこまでじゃないよ、もー大げさ。っと、血に弱いよねー」
血に弱いのは子供の頃からだが、両親の事故後にもっと敏感になるようになってしまった。
「とりあえず、血が止まったら消毒して、絆創膏……いや、包帯した方がいいかなぁ? ちょっと待ってて、救急箱持ってくる」
歩が母屋へと戻っている間、たぬ子は傷口を強く握って止血を続けながら、
(とんだ、ご迷惑をかけてしまいました)
(これではお役に立つどころではありません)
(あぁ、どうしましょう、どうしましょう)
ショックに思わず涙ぐみそうになる。
「痛い? 俺も包丁で何度か切ったことあっけど、末端神経って痛いよなぁ」
肩を震わせ涙をこらえているたぬ子の姿を、道人はてっきり傷口が痛むせいだと勘違いする。
(いいえ)
(痛いのは心です)
(けれど……)
たぬ子はグイッと顎を引く。
(負けませんっ)
(失敗は成功のなんとやらです!)
メラメラと瞳に闘志を燃やす。
その姿に、やっぱり何だかよく分からない子だと、道人は昨日と同じく今日も深く気にしないようにしようと決めた。
そうこうしている内に、救急箱を片手に戻って来た歩は、慣れた手つきで傷の手当をする。くるくると綺麗に巻かれた包帯は、いつしかの道人が狸に応急手当てを施したもとはえらい違いだった。
「ハイ、これでよし! 多分、すっごい痛みあると思うし、二、三日は水仕事しない方がいいよ。傷口開いちゃうかもしれないから。ってか、ゴム手袋もできないし。ね、お兄ちゃん?」
と、歩は肘で道人の横っ腹を突っつく。
「あぁ、そうだな。たぬ子ちゃん、仕事に入ってもらうのは明後日くらいで、傷口が塞がってからでいいよ」
「えぇ、でも、そんな……」
たぬ子は再び気を落としてしまう。
(早くお役に立ちたいです……)
(けれど)
(焦っても傷は治らないことくらいは分かります)
頭をクイッと上げ、
「店主さん!」
「なに?」
「わたくし、今日のことは反省して教訓として習い、明後日から365日、休まず働きます! なので、どうか見捨てず、どうぞよろしくお願いします!」
両手を拳にファイティングポーズで力強く宣言した。
「あ、あぁ、うん」
ちりとりを手に床に広がった小麦粉を掃いていた道人は中腰の姿勢で、半ば気圧されながら返事をすると、「うち、定休日はあるから」と付け足した。
「しっかし、お兄ちゃん。4時はいくらなんでも早すぎでしょ? しかも、この寒くて手のかじかむ日にジャガイモの皮むきなんてぇー、可哀想! 先に茹でてから皮むけばいいでしょ?」
何の事情も知らない歩が兄を罵る。「うっ」と言葉を詰まらせ、勤務時間については弁解しようとしたが、ジャガイモの皮むきについては、その方法があったと、ポンッと手を叩く。この、時々間抜けな兄に、歩は呆れて物も言えないとばかりにハァーと、わざとらしく手の平を上に大きく息を吐き出した。
「あ、あの、わたくしはこれ以上、足手まといにはならぬように帰った方がよろしいでしょうか?」
兄妹の険悪なムードの中、たぬ子はおずおずと尋ねる。
「あーそうだな。って、足手まといとか思ってないから。じゃ、また明後日にって事で……」
そこですかさず歩が、
「たぬ子さん、せっかくだし、兄のうどん打ちでも見てったら?」
「よ、よろしいのですかっ?」
「え? いや……まぁ、いいけど」
道人は躊躇いがちに口ごもってしまう。なぜなら、わざわざ披露するほどの腕前ではないからだ。うどん作りを真面目に修行するならば、三年や五年はかかるものだ。
余計な一言を……と、チラリと歩を横目に見ると、
「あたしも目が覚めちゃった。ジャガイモの皮むいたげるぅ」
歩は鍋を取り出し、湯を沸かし始めている。普段なら、厨房に立つことを許さない道人だが、たぬ子の前でもあるし、何よりつい今しがたピンチを助けてもらったばかりなので、弱みもあり強いことは言えなかった。
たぬ子が見学する中、道人は気を引き締め直してうどんを打つ準備にかかった。