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第一話 『道』さん

 まだ夜は明け切らない冬の空。

 その下では一面に田園が広がり、民家がぽつりぽつりと建つ。ひんやりとした透明で澄んだ空気が、辺りを静寂と共に包み込んでいる。

 その中で一件の民家に小さな暖かなオレンジ色をした灯りがポツンと一つ。

 中を覗けば──


 トン、トン、トン


 家屋の中で包丁をの音が、シンとした空気の中で小さく静かに響き渡っていた。少しぎこちないけれど、どこかで聞いた懐かしくて優しい心地の良い音。

 見れば、若い青年が厨房に一人立っている。

 額にタオルをギュッと固く縛り、腰にはエプロンを巻いた姿で、打ち台の上に折りたたまれた生地を一本一本一つずつ手作業で切っていく。

 眉をキリリと立たせ、その表情は真剣そのものだ。

 青年はポツリと、


「スライド式めん切りカッターほしぃー」 


 風情なくつぶやいた。

 ヒョイっとつまみ取った一本の麺を眉根を寄せてにらむと、「規定外っ」と言ってボウルの中に放り込む。

 どうやら麺の太さにこだわりがあるようだ。しかしボウルに溜まった麺の量からして、まだ包丁切りが十分に慣れていないのが分かる。

 切り終えた麺の粉を落とし麺箱に入れると、ふぅ。と一息ついて首を回し凝りをほぐすと、休む暇もなく次の〝だんご〟を打ち始める。

 それは先刻、青年が手ごねして足踏みしたやつ──と言えば聞こえが悪いが、この地では伝統のある技法である。


 ガコンッガンッガンッ


 打ち台に麺棒が当たり派手な音が立つ。気合が入って威勢が良いのは打つ人の心──いや、ただ下手なだけだ。

 肩と腕に余計な力が入ってしまっている。通常、中心から角へ向かって四角に伸ばさなくてはいけないのだが、それが丸型になってしまっている。丸くなればなるほど、麺切りの際に切れ端の部分が多く出てしまう。

 どれもこれも、全く職人技には到底達していない未熟なものだった。なぜこんなにも下手くそなのだろうか? と、青年は少し悩み、そして呟いた。


「あー製麺機ほしぃー」


 それは、もう手打ちではない。

 分かり切っている冗談の愚痴を一つ吐いたところで、チラッと壁にかかった時計を見やる。


「やばっ、もう六時半過ぎてるっ」


 まだ遅くはない時間帯だが、青年にとっては今からが勝負だ。一気に忙しくなる。それは正確には七時からのなのだが、ある面倒な人物により焦らされてしまっていた。

 気を引き締めて再び包丁切りの工程へと移ったところで、


 ──ガラァンッ


 玄関から、その問題の人物はやって来た。玄関の戸を引くのと同時に腹の奥から大きなしゃがれ声を飛ばす。


「うどん屋の息子の息子ぉー! でっきょん(できてるん)かぁー?」


 朝一番のご挨拶。


「ガンさんっ、今何時だと思ってんだよ? うちは七時からだっつってるだろ!」


 負けじと大きな声で怒鳴って挨拶を返す、この青年の名は──鳴瀬道人(なるせみちと)。ここ、手打ち讃岐(さぬき)うどん屋『(みち)』の若き三代目店主である。


「細かいこと言うてやかましいのぅ。息子の息子は気が短こうて(短くて)イカンッ!」


 フンッと鼻を鳴らしたガンさんこと、黒田岩次郎(くろだがんじろう)は、名前に釣り合い肌黒くゴツゴツと彫の深い顔立ちで、体格もよく性格は岩のように頑固ジジイであった。今年で齢八十になるという。


「その息子の息子ってのやめろよ、ややこしい」


「初代店主の息子の息子じゃ、それでおうとる(合ってる)じゃろが」


「それを〝三代目〟っつうんだよ」


「なーにが三代目じゃ。半人前が一丁前に、えらそに口きくのぅ」


 あー言えばこー言う。相手にすればキリがないので、道人は無視してぶっきらぼうに注文の品を聞く。


「今日は? なに?」


「かけの中! いつものじゃ。言わんでも分かっとるじゃろが」


「あいよ」と、気だるく注文を受ける。

 横柄(おうへい)に答えた岩次郎は、店内の二つの長テーブルの中央に置かれてあるダルマ型石油ストーブにマッチで火を点けた。まるでそれが自分の役目だと言わんばかりに。

 店内には長テーブル席の他に、入り口から入って右側の奥に座敷席が二つあった。さほど広くなく、こじんまりとしている。

 岩次郎はこの店が開業して以来、毎日通い続けているという常連客だった。この店の事なら誰よりも何でも詳しい──店主よりも。


「わしゃ、もう二十五年もここに通とるんじゃきんの。常連中の常連じゃあ。その間、ずっと朝はかけうどんと決めて食うてきたんじゃ」


「別に決めなくていいだろ。てか、よく毎日毎日うどんばっか飽きずに食えんな。糖尿病に気をつけろよ、マジで」


 呆れつつも少しばかり心配の声をかけてやる道人。

 それを岩次郎は、パイプ椅子にドカッと座って強情に突っぱねた。


「うどん屋が、なに理屈げに(らしく)言うとる。それを言うたら米もパンも一緒じゃろが。……けんどまぁ、ここも早、開業して二十五年になるんやのぅ。おまえの代になってから何年経つんかいの?」

「まだ一年しか経ってねーよ。ボケるな、ジジイ。あとな、この店は一度休業して間があるからな、今この店は二十三年目に入ったばっかだぁ。だから、あんたが通ったのはまだ二十二年間。ちゃんと覚えとけよ」


 ビシッと菜箸を差して決める。


「おまえは、いらんとこで細かいのぅ。はがいげな(憎たらしい)物の言い方しおって。ほんま可愛げのないやっちゃ。こんまい(小さい)くせして見かけだけは気が強い。若い頃の道さんによぅ似とら」


 けれど、根は素直で優しい。という意味はあえて言葉にせず、ヘッと吐き捨てるよう岩次郎は笑う。その顔は、どこか何かを懐かしんでいる風でもあった。


(道さんてどれだよ、みんな〝道〟さんだっての!)


 うどん釜で麺を茹でながら、若き店主の道人は心の中でぶつくさ言う。

 道人はまだ二十歳という若さで店主となったのには、それなりの理由と事情があった。


 先代の二代目店主である父親、道和(みちかず)が亡くなったのは三年前──道人が高校二年生の時だった。

見通しの良い片側一車線の真っ直ぐな一本道で、居眠り運転でハンドル操作を誤り対向車線からはみ出してきた大型トラックと正面衝突して命を落としたのだ──母親も一緒だった。

 周囲の大人たちは、あまりに不運で不幸な事故だと嘆き悲しむ中、道人だけは歯を食いしばりグッと涙をに耐えていたのをよく覚えている──まだ十三歳だった妹の肩を抱きながら、泣く訳にはいかなかった。


 そうして、道人に残されたのは、たった一人の妹と祖母の二人だけだった。それと──この店、『道』であった。ちなみに、この店『道』の創業者の初代店主である祖父、道重(みちしげ)は道人が十歳の時に肝臓癌により亡くなっている。


 子供の頃から、うどん屋など継ぐ気などさらさらなかった道人。というよりも、将来もまだろくに考えてもいなかった。が、残された家族と生活のために、うどん屋を継ぐという覚悟を決意したのだった。


 とはいえ、うどんなど打ってみた事など一度もなかった道人だ。何も知らず、何も分からないまま、全くのゼロからのスタートでも何とかやって来れたは、他ならぬ昔からの馴染みの常連客たちの支えがあってからこそだった。──無論、岩次郎がその一人なのは言うまでもない。


 うどん鉢に入れた湯気の立つ茹でたての麺にあつあつの出汁をかけると、


「おまちどーさん」


 トンと、道人はカウンターの上へと置く。ちょうど時計の針は七時を回ろうとしていた。

 岩次郎は、やっと出来たかとばかりに広げていた新聞紙をバサリッと閉じると、カウンターでそれを受け取り、テーブル席へと戻ってドカッと椅子に座る。そして、ジロリとうどん鉢の中を吟味(ぎんみ)するかのごとく覗き込み鼻をスンスンッと鳴らして、割り箸を割った。

 それを道人は背中越しに感じつつ、やや緊張した面持ちで様子を(うかが)う。

 ズズッとつゆを一口すすって喉を鳴らした岩次郎は、一気に豪快な音を立てて麺をすすり込む。そして最後の一滴まで残さずつゆを飲み干すと、ドンッとテーブルの上に丼鉢を置いた。


「ハァ、……やっぱし、道さんのうどんには負けるのぅ。比べもんにもならんわい」


「だったら毎日毎日、朝っぱらから熱心に食いに来てんじゃねぇ! 文句言ってもな、勘定はきっちり払ってもらうからな!」


 こうやって毎朝、道人は岩次郎に苦労を踏みにじられ続けている。おかげでずいぶん神経だけはコシのあるうどんのように鍛え上げられたというものだ。毎度の悔しさに、道人は拳を握りしめる。

 そんな道人になどお構いなく、岩次郎は腕組みをしながら更なる追い打ちをかけた。


「麺は、百点満点中……そうやのぅ、六十五点っちゅーところやの。まだまだやけんど、まぁ構わん。わしも入れ歯んなってからあんま噛めんようになったきにの、コシはそなに(そんなに)いらん。問題は、がじゃ。出汁じゃ、出汁がイカンッ。入れ歯で味がよう分からんようになった、わしでさえ思とるんやきんの、これまともに歯がある人やったら……」


 くどくど垂れる岩次郎の評価はもはや耳に入れやしない。一昨日は六十点で、昨日は七十点だったからだ、全く当てにならない。


 道人は、険しい顔で出汁を小皿に取り口に含み、その味を確かめて首を傾げる。

 うどんの決め手は出汁と言っても過言ではない。手打ちうどんならば家庭で真似事はできなくはないが、出汁の取り方は基本を習ったところで、素材へのこだわりなどは店により異なる。もちろん、それに加えて調味料の調合もだ。

 それらは、秘伝の味として『道』にある。祖父から父親へと代々受け継がれて来た。が、道人にはそれが一切、受け継がれていない。受け継ぐ間もなく突然、父親は亡くなったのであるから当然である。


(メモ書きぐらい残しとけよっ)


 秘伝なのでメモ書きなどは一切残されていない。それどころか、厨房には計量カップや計りなども一切見当たらないところからして、目分量と舌で覚えていたのだろうと思われた。

 道人は記憶を辿る。祖父と父親の──『道』の味を──。


「あーっ、ダメだ! 思い出せば出そうとするほど、ワケ分かんねぇーっ」


 道人が一人わめいているところへ、「しょうゆうどん、小」と、小さな声の注文が足元から入る。腰が曲がっていてカウンターから見えないが、白川(しらかわ)のおじいさんだと声ですぐ分かった。

 道人は「あ、ハイ」と、岩次郎より至ってまともなお客に真面目な接客態度で答える。

 七時が過ぎ、ぼちぼちと客が入って来た。訪れる客の大体は、早起きであるご近所の老人や出勤前に朝食代わりに食べに立ち寄る中高年男性が多い。

 足腰が弱く杖を突いてプルプル震えている齢九十歳の白川を見て、エプロンの下のズボンに手を突っ込んでケータイが入っているかどうかをチェックした。この店では救急車をいつでも呼べる準備が必要である。


 白川がテーブル席の椅子へと腰を下ろすより早く、うどんは丼鉢に入って用意され、テーブル席へと道人は運ぶ。──この店は、セルフでもなければフルサービスでもない。特にルールは決まっておらず、店主の機転により変わるという、厄介なスタイルだ。

 少しずつ店が忙しくなり始めた頃、


 ギギィ──ッ


 店先に軽トラックが荒々しく停車する音がした。


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