第二章 恋慕
年賀状に記載されていた住所から薄々感づいてはいたが、小森探偵事務所は誰もが一度は耳にした事のあるような、大企業の本社ビルが建ち並ぶオフィス街に位置していた。そしてその内部は、事務所という堅苦しい言葉からはかけ離れた、まるでリゾート地の高級別荘のようだった。様々な不安、不満を抱えてやって来る依頼人達に気を利かせてか、クリームのソファなど、落ち着いた暖色の調度品が並べられ、それらをふんだんに設置された光源が照らしている。
小森真介は連絡したその日の内に二人に会い、話を聞いてくれた。
「それで、私の所まで来たという訳ですか。しかし酷い話ですね。お父様と上司を前に、警察もよくそんな事が言えたものだ」
真介は深い同情を示してくれた。一詩は仕事着姿の真介を観察する。彼は人々がイメージするような最近の若者像とは良い意味でかけ離れていた。真面目で溌溂な印象を相手に与える真っ黒の短髪に、深い知性をうかがわせる黒縁眼鏡、初々しさを感じさせない洗練された紺のスーツ。金色に染め上げた頭髪にピアスだらけの耳、皺まみれの水色の作業着の自身とは、同い年で同じ経営者とは思えぬ隔絶した風格の差があった。
小森真介とは、小学校時代からの友人だった。小学四年生の時、同じクラスになってから仲良くなり、共同で夏休みの自由研究に取り組んで、ラジオや嘘発見器などを作成した。小学校卒業後は一詩の両親の仕事の都合により、他県への引っ越しを余儀なくされたため、疎遠になってしまったものの、年賀状のやり取りなど定期的な近況報告は欠かさず行っていた。
「お嬢さんの部屋に、スマートフォンはありませんでしたか? もしなかったのであれば、スマホは誘拐犯がお嬢さんに、お父様へ連絡させるために持ち出された可能性が高いでしょう。GPSを使えば簡単に居場所を特定する事が出来ます」
真介は大鷲氏に尋ねると、大鷲氏は無念そうに答える。
「それは、できかねますね。娘が使っているのはスマホではなくガラケーなのです。それも、GPSも付いていないような型の古い……」
一詩は何度もそのガラケーを眼にしていた。元は赤色だったのだろうが、塗装が剥げに剥げ、下地が露出してほとんど真っ白になっていた。アテナに尋ねた所、彼女が幼稚園の時に病死した、母親の形見の品なのだという。
「それは仕方ありませんね……そうだ桐谷さん、例の物はお持ちして下さいましたか」
「あ? ……ああ、どうぞ」
一詩はしどろもどろになりながら、真介から指定された大鷲アテナの履歴書を彼に手渡した。
「コピーを取らせていただいた後にお返しします。しかし、可愛らしいお嬢さんですね」
それを聞いた時、一詩は思わず拳を握ってしまった。父親に対し、単に世辞を言っただけであろう。真介の言葉に下心など邪念は一切ないのは明らかであったが、その言葉が一詩の神経を逆撫でさせた。また、今の自分達が依頼人と探偵の関係である事と、他人である大鷲氏が同席している事もあってか、一詩に対し真介は敬語を用いていた。それが返って自分達の関係に大きな隔たりを感じさせる。
――本当に、こいつに任せて大丈夫なのだろうか。
そんな思いが脳裏をよぎったものの、大鷲氏の方は真介の事を完全に信頼しきった様子で、すでに依頼料の打合せに入っていた。
こうして一詩はこの探偵に対し、力量とは別の不信を少なからず抱いたまま、大鷲アテナの捜索を依頼する事となった。翌日には仕事に戻ったものの、消息を絶ったアテナの事が気掛かりで身が入らない。
――アテナがどこかへ監禁されていたとして、真介のやつがその消息を突き止めて、監禁場所から彼女を救い出したとしたら……
脳内でそんな、あらぬ妄想を浮かべる日々が続いた。
アテナ捜索の依頼をして五日後の昼頃。一詩は真介と再会を果たした。
週末ではあったが家電の修理を依頼された一詩は、依頼主の元へ向かう前に腹ごしらえをしようとコンビニへ立ち寄ると、そのコンビニでちょうど真介も弁当を物色していたのだ。
真介のワゴンの中で二人は、並んで昼食をとる事にした。自身の薄い財布の中を鑑みた一詩の昼食が薄いキュウリのサンドイッチなのに対し、真介の昼食は卵焼き、焼きサバ、コロッケなどが入った具沢山の幕ノ内弁当である。
「それで、大鷲の件は何か進展はあったか」
「幸運な事に、すぐ調査の目途が立ったよ」
一詩が問うと真介は手を伸ばし、一詩が座っている助手席の前の収納を開けて、中から白いファイルを手に取る。そして卵焼きを咀嚼しながら彼は調査の成果を語り出した。五日前とは異なり、友達口調だった。
「お前から提供された大鷲さんの履歴書の職歴に書いてあった、お前の会社に来る前に彼女が勤めていたというマキー株式会社へ行って、そこの社長や元同僚から話を聞いた。すると一人、怪しい男が浮かんできた。こいつだ」
真介はファイルをめくっていき、マキー株式会社の従業員達の名刺と共に収められた一枚の写真を指した。
「相須究朗、四十三歳。マキー株式会社の元社員で大鷲さんの元同僚だ」
写真には縁なし眼鏡を掛けた、見るからに陰険そうな男が映っていた。しかし、男の容姿で特筆すべきは一切の頭髪、眉毛が確認できない所である。陰険そうに見えたのもそのせいだ。人間、体毛がないだけで、こうも人相が凶悪に見えるものなのか。
「相須は技術職として雇われていた。口数は少ないものの、実直に仕事をこなすこいつを社長は信頼し、大鷲さんが入社した際、彼女の教育係にした。……これが間違いだった」
ここで真介は、ドリンクホルダーに入れたペットボトルの緑茶に手を伸ばし、それで口を湿らせる。
「社長や他の元同僚の話によると、最初の頃の二人の関係は良好そうに見えたらしい。しかし何カ月か経つと、そんな二人の関係は、どうした訳かこじれてしまったようで、社長や他の同僚が気付いた時には精神的、肉体的暴力にまで発展していたそうだ」
それは一詩にとって驚くべき報告であった。あの明るく気の利くアテナが、人の不興を買うとは到底考えられない。
「大鷲さんは誰に対しても礼儀正しい女性だったそうだな。……多少の社会通念があれば誰にでも行う振る舞いを、場慣れしていない者は自分だけに向けられた好意であると勘違いする。これが「単なる勘違いでした」で済めばいいんだが、性格に難のある奴だと「思わせぶりな態度しやがって」と激昂する。相須もその手合いだったんだろう」
一詩のその疑問に答えるかのように、真介は相須の心理を分析する。
「社長の牧氏や他の同僚達が再三相須に注意したものの、奴は態度を改めるどころか、今までの寡黙さが嘘のように彼らに逆ギレしたらしい。だから最終的に社長の牧氏も、相須を解雇する決断を下したそうだ。そして相須がいなくなったとはいえ、この騒動で会社にいづらくなったのか、それから間もなく大鷲さん自らも会社を退職した」
「そうか……色々と調べてくれてありがとう。俺はもう行くよ、仕事もあるからな」
一詩は残ったサンドイッチを無理矢理口に押し込み、ワゴンから降りようとした。真介は素早く身を乗り出すと、一詩が開けたドアを抑える。
「待て、どこへ行く気だ」
その声はいつになく厳しいものだった。一詩の脳にはすでに、ファイルの相須究朗の写真の下に記されていた相須の住居の住所が刻み込まれていた。一詩の考えていた事、やろうとしていた事は、探偵には全てお見通しであったらしい。
そして、見通していたのは一詩が起こそうとしていた行動だけではなかった。
「……一詩お前、大鷲さんの事が好きだろ」
「どうしてそれを」
反射的に認める言葉が出た。それを否定する事を、精神が拒絶していた。
「あんな顔で睨みつけられたらな。ちょっとお世辞で大鷲さんの容姿を褒めただけだろ」
アテナの親父さんと事務所へ依頼をしに行ったあの時、俺はそんな顔を、眼をこいつに向けていたのか! 羞恥で真介の顔を直視できなかったが、それを聞いても茶化したりしないだろうと判断した一詩はアテナとの出会いを真介に語った。
一詩が通っていた工業高校には、『ものづくり部』という旋盤、溶接などの工業技術の向上を目的とした部活動があった。将来は電気技師となる夢を持っていた一詩はそこで日夜、電気工事の腕を磨いていた。
大鷲アテナと出会ったのは、一詩が三年生の時だった。その時の情景を一詩は今でも覚えている。一年生新入部員達の中に、ひときわ激しい炎を瞳に宿した少女がいた。スラリとした女子にしては高い背丈に豊かな茶髪、均整の取れた顔立ち。そんな容姿端麗な少女が、電気工事をやりたい。どうか教えて欲しいと言ってきた時は嬉しかったものだ。
第一印象の通り、アテナはやる気と情熱に満ちており、また要領も良かったため、あっと言う間に一詩ら先輩達の誰よりも、その腕を向上させていった。それでいて一切驕る事のないアテナに、部活内でもっとも彼女と行動を共にしていた一詩が好意を、恋愛感情を抱くのは当然だった。しかし奥手な一詩は、自身の想いをアテナに告げる事なく高校を卒業してしまった。
一詩が桐谷電工を創業するにあたり、人手が欲しいと勤めていた会社の同僚や、かつてのものづくり部の仲間達に声を掛けていったが、誰も首を縦に振ってはくれなかった。そんな中で唯一、首を縦に振ってくれたのがアテナだった。
真介は、少しの沈黙の後に口を開いた。
「一詩、実は俺はこれから、相須の暮らしているマンションへ向かう所だったんだ。お前が相須の部屋に突撃するといった、勝手な真似をしないと誓ってくれるなら、そこへ連れて行って、調査の手伝いをさせてもいい。どうだ?」
それを聞くと一詩はシートベルトを引っ張り出し、自身の身体にしっかりと装着させる。答えを口に出す必要はなかった。
「よし、それじゃあ行くとしよう」
真介は満足げに微笑を浮かべると、車を発進させるべく、ズボンのポケットから鍵束を取り出した。車の鍵を初め、大小様々な鍵が付けられていたが、その内の二つは鍵でない事を一詩は一目で見破った。一見すると普通の鍵のように見えるそれは、先端がプラスとマイナスの形をしていた。一詩が会社を創業した際に、記念品として家族や従業員、親しい友人らへ配った簡易のドライバーである。
――ちゃんと使ってくれていたんだな。
友人の好意の数々に、一詩の胸は熱くなった。
都心から伸びた高速道路を約一時間走った辺りの、古く低い家屋が建ち並ぶ住宅地の中に、灰色のその建造物【フィラキイA】はそびえ建っていた。まさにここが、相須究朗が暮らしているマンションだった。真介はその近くの路肩にワゴンを停めると、トランクからそれなりの大きさのアタッシュケースを取り出して、マンションと反対方向へ歩き始めた。一詩も黙ってそれについて行く。真介の荷物はワゴンの中を含め、このケースと腰に付けたポーチぐらいしかない。
「どうしてこんな所にマンションなんざ建てようと思ったのか」
マンションを横目で見ながら、あきれたように真介は言った。
「日本の地名は、かつてその地で発生した災害を想起させる漢字が含まれていることが多々あるんだ。津波などの水害が起こった過去があれば『釜』や『袋』。土砂崩れが起こった過去があれば『蛇』や『萩』といった具合にな。あの沼は【鮎池】という名らしい」
フィラキイAの傍には、ぽかりと大きな沼があった。遠目からでも酷く濁っていることが分かる。何らかのはずみで落ちてしまおうものなら、死んでも水面へ浮かび上がってこれない……そんな気がした。
「『鮎』という字は『揺く』に由来して、液状化現象の起きやすい土地に付けられるそうだ。きちんと基礎工事を行ったのかもしれないが、俺だったらそんな名前の沼が近くにある土地にマンションなんて建てたくないし、住みたくもないな。……よし、ここにしよう」
真介はマンションから少し離れた空き地の前で足を止めると、針金の柵を潜ってその中へと入る。季節はまだ初夏であったが、空き地にはすでに腰ほどの高さまで草が伸びていた。こうした草むらに軽率に入り、落ちていた(おそらく犬の)フンをおもいきり踏みつけてしまった少年時代の悪夢を思い出したので、足元に多大な注意を払いながら一詩は彼の後に続く。不動産会社の看板が立ってある付近で真介はアタッシュケースを下ろすと、その中身を取り出した。
「所長一人しかいない小さな事務所は、こういったハイテク装置を積極的に使っていかないとな」
真介が取り出したのはドローンだった。一詩もそれについては詳しくないのでよく分からなかったが、中央の部分が拳サイズなので、おそらくドローンの中でも最小クラスなのだろう。
「いいか。今回はあくまでやつの部屋を、このドローンに付けられたカメラで覗き見るだけだ。仮に大鷲さんの姿が見えたとしても、変な気を起こすなよ」
「……分かってるよ」
一詩はマンションを睨みつける。……そうは言ったものの、もし本当にアテナがあのマンションにいるのだとしたら……真介の言いつけを守れる自信はなかった。
「よし、なら、調査開始だ」
真介は自身が掛けている眼鏡の丁番辺りを指先で触れた後、画面と一つになったドローンのコントローラーを握った。ドローンの四つのプロペラが、低い音を発しながら回転し始め、垂直に宙へ浮いたかと思えば、瞬く間に空き地を飛び出し、徐々に高度を上げながら滑るようにマンションへと向かっていく。しかし、ドローンは沼の中央付近で停まると、その場でホバリングし始めた。ドローンとマンションにはまだ距離があった上、高度もおよそマンションの五階付近までしかない。一瞬たりとも最上階の相須の部屋が覗けたとは思えなかった。
「おい、どうした」
「……こいつはモニター越しではなく、直接自分の目で見た方がいいだろう」
ドローンがまだ飛んでいるにも関わらず、真介はコントローラーを放り出して駆け出した。そして針金の柵を再びくぐった所で思い出したように振り返り、「お前もこい」と一詩に叫ぶ。
勘が乏しいなりに、ただ事でない事態が発生したのを察した。二人は先ほど歩いた沼に沿った道を逆走する。停めていたワゴンを越え、もう少し先に進むと、先行していた真介が道を逸れてその建物の敷地へ飛び込んだ。一詩も薄々感づいてはいたが、その敷地は相須のマンションの駐車場だった。
距離にすれば大したものではなかったが、学生時代は体育の授業でしか。社会に出てからは全く運動をしていない一詩にとって、このダッシュは拷問にも等しかった。両膝を両手で握り、アスファルトの地面へ向かって頭を垂らす。
「真介! お前、一体何をそんなに焦って……」
しばらく肩で息をした後、頭を上げる。そして、立ち尽くす真介の足元に転がるそれが視界に入った瞬間、身体を蝕んでいたきつさ、痛みは全て消え去った。
昔、真介に勧められて読んだ推理小説の中で撲殺死体が出てきた際、このような表現が使われていた。『割られた頭はまるで、弾けたザクロのようだった』と。二人の眼前には、まさにその弾けたザクロのような頭をした男が斃れていた。うつ伏せだったため顔は見えなかったが、一目でその男の正体を察した。巨大な傷口の周囲には、毛が一本も生えていなかったからだ。
「こいつ、相須か」
「そうだな」
一詩の問いに、死体にかがみ込んで顔を確認した真介が短く答える。
「どうしてこんな所で斃れてるんだよ」
「さあな。事故か、自殺か、他殺か……」
真介は立ち上がると、素早く辺りを見渡した。駐車場には沼を背に、赤いセダンが一台停まっているだけだったが、彼の視線は間もなくある一点に注がれる。
「一詩、大鷲さんはスマホではなく、ガラケーを使っているって話だったな」
「ああ。……それがどうした」
「俺の見間違いだといいが」
マンションと沼の間には、二メートルほどの急な斜面があった。真介は足を滑らせ沼に転げ落ちぬよう、慎重にその斜面を降りていく。沼の浅瀬には小さな草木の欠片の他、スナック菓子の包装や、黒い中身がまだ三分の二ほど残ったコーヒーのペットボトルなどのゴミが浮いていた。真介は舌打ちをすると、ゴミの中から半ば泥に沈んだそれをつまみ上げ、一詩に向かって突き出した。塗装が剥げに剥げ、下地が露出して真っ白になったガラケー……それはまさに、アテナのガラケーだった。しかし、今やそのガラケーは無残にも真っ二つにへし折られ、わずかなコードでかろうじて画面部分とボタン部分がつながっている状態だ。
「……決まりだな。ここに、大鷲さんがいる」
真介は壊れたガラケーを腰のポーチに仕舞い、斜面から上ると、自身のスマホを取り出し、消防と警察に連絡を入れた。
「フィラキイAというマンションの駐車場で、男性が頭から血を流して倒れています。すぐに来て下さい」
彼は善良な市民としての義務を果たした。そこまでは良かった。問題はここからだった。両者への通報を終えた真介が再び相須の死体に歩み寄ったかと思えば、彼は死体の側に落ちているカバンをあさり始めたのだ。
「お……おい、お前!」
思わず一詩は叫んだ。さすがの一詩も、警察が来るまで現場を荒らしてはならないという知識と常識は持ち合わせていた。しかし、真介はそんな友人の叫びを黙殺し、カバンをあさる。何かを探しているようだ。そして目当ての物がカバンにないと見切りを付けるやいなや、カバンを放り出して今度は死体に手を伸ばし、それが履いているズボンのポケットをまさぐり始める。
一体、こいつは何をしているんだ。一詩には友人の行動が理解出来ない。まさか、金目の物を拝借しようとしているのでは……
「よし、あった」
真介がポケットから引っ張り出した物は、鍵束であった。大小様々な鍵が付けられたそれは、日の光を浴びて鈍く輝く。
「お前、自分が何をしているのか分かっているのか。現場を荒らすなんて」
「お前こそ、今がどんな状況なのか分かっているのか」
真介の行為を咎めると、逆に咎められた。
「俺は探偵であって法医学者じゃない。この頭の傷が何者かに殴られた事によって付けられたのものなのか、あるいはこのマンションから飛び降りた時に付いたものなのかは判断しかねる。だが、もし後者だった場合、多少現場を荒らしてでも一刻も早く大鷲さんの無事の確認をするべきだろ」
アテナの無事の確認? ……そうか、飛び降りる前……自殺する前に彼女を道連れにしているかもしれないのか!
「俺はこれから相須の部屋に向かい、大鷲さんを救出しに行くが、お前はどうする? ここで待っていてもいいが」
「行くに決まってるだろ!」
一詩のその答えに。友人はまた満足したように微笑を浮かべる。それと同時に、沼の上でホバリングしていたドローンがついに力尽き、ボチャリと音を立てて沼へ落ちた。
フィラキイAは十階建てのマンションであり、相須は最上階の一番端の部屋を借りていた。
二人は相須の部屋の扉の前に立つと、扉に見慣れない物が設置されている事に気が付いた。正確に言えば、それ自体は見慣れてはいたものの、玄関の扉にそれが付けられているのを見るのは初めてだった。
「南京錠?」
「明らかに外付けの錠だな。……内側からこいつを外す事は出来ない仕組みになってる」
真介は元から付いている玄関の二つのシリンダー錠と外付けの南京錠を、鍵束の鍵を用いて開錠する。
玄関の扉を開けると、まず眼に飛び込んだのは天井まで届いた黒い鉄格子の扉だった。一詩は以前、拘置所だったか、あるいは刑務所だったか、その内部を扱ったドキュメンタリーを観た事があった。それによると、囚人の脱獄を防ぐために牢そのものは勿論の事、廊下にも数多の鍵の付いた鉄格子の扉が設けられているらしい。眼前に現れたそれも拘置所や刑務所の物と比べればかなり小さな物ではあるが、同様の目的で設けられた事は想像に難くなかった。
「ここに……絶対にここに、アテナがいるんだ」
鉄格子の扉の錠を開けてリビングへと入ると、壁の電気のスイッチを入れ、部屋に明かりを灯す。白いフローリングの上には灰色の敷物、そしてまたその上に小さな四角いガラスのテーブルが置かれていた。……それだけである。テレビも本棚もなく、部屋には異様に物がない。しかし、このリビングで本当に異様なものは他にあった。まずは正面に位置する真っ黒な戸。近づいてよく見てみると、黒色のフィルムが戸の大部分を占めるガラス全体を覆っている。おそらくこの戸はベランダへ通じていると思われた。仮に当初の予定通りドローンで部屋の内部を覗こうと試みたとしても、この黒いフィルムに阻まれていた事だろう。そして、その戸に付いているクレセント錠。これもただのクレセント錠ではなく、側面に鍵穴が付いていた。つまり、鍵がなければ開けられないのだ。
「こいつといい玄関の外付け南京錠といい、本来は防犯や、幼い子どもや認知症の患者が勝手に出て行くのを防ぐためにあるんだがな」
「クズが使えば、簡単に部屋を牢獄にする事が出来るって訳か」
その時、背後で何かが動くような物音がした。リビングの殺風景な部屋の様子や正面の異様な戸に眼を奪われ、今まで気が付かなかったが、その隅には腰ほどの高さの小さな両開きの扉があった。扉の取手には禍々しい鎖が巻きつき、それを大きな南京錠が繋ぎ止めている。
音がしたのは扉の向こうからだ。
「収納か」
「アテナ!」
二人は素早くその扉の前に駆け寄った。真介が鎖を引き、しっかり錠が掛かっているのを確認する。
「ほら」
真介は鍵束を一詩に突き出すと、小さな声で囁く。
「この鍵はお前が開けろ。大鷲さんを探し出すのは俺の役目だが、ここから彼女を連れ出すのはお前の役目だ」
その言葉を聞いた瞬間、一詩は真介がアテナを狙っているのではないかと疑った事を大いに恥じたのだった。