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αの悲劇  作者: 馬場悠光
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第三章 αの悲劇

 目立つ外傷こそ見当たらなかったものの、アテナの姿は痛ましかった。収納を開けた時、彼女は両足を投げ出し、力なく壁に寄りかかっていた。顔はやつれ果て、豊かだった髪は短く刈られていた。そしてなぜか、頭部を除く首からつま先までの全身を包み込むような身体のラインがはっきりと分かる、光沢のある真っ黒なスーツを着せられていた。

 

 少しでも安堵を与えてやろうと、一詩は励ましの言葉を掛けながらアテナの肩や背中をさすり続けた。その甲斐あってか、アテナはポツポツと事情を一詩と真介に語り出した。

 

 一詩達の推察通り、彼女は金曜の晩にアパートの自室で眠っている所を、部屋に侵入してきた相須により脅迫され、拉致された。月曜の朝、アテナの周囲に彼女が行方をくらませた事を怪しまれぬよう相須は退職代行の人間、カメナシを名乗ってアテナの職場である桐谷電工にアテナ退職の旨を伝え、アテナには彼女のガラケーを使って父親に連絡を入れさせた。その後、ガラケーは壊され、ベランダから外へ捨てられた。

 

 一詩と真介はやって来た救急隊にアテナを託した後、同じくやって来た警察に聴取のため、マンションのロビーで待つよう指示された。その間、マンションを出入りする物々しい制服姿の警官達の囁き声が否応でも耳に入ってきた。

 

 それによれば、どうも相須の死は自殺などではなく、他殺であるらしい。

 

 二人を聴取するという二人の刑事が来ると、素直に一詩と真介は彼らに一連の経緯と自分達の名前、職業を告げた。

 

「もしかして……あなたはあの小森真介さんですか!」

 

 意外にも、轟(とどろき)と名乗る男の中年刑事は彼らに、特に真介に対し好意的な反応を見せた。一詩は拍子抜けする。非常時とは言え、相須の部屋に踏み込んだ事と、真介が探偵というある意味警察と対極に位置する存在である事から、多少の叱責と顰蹙を覚悟していたのだ。そして同時に、友人が警察の信望をも得ているほどの存在である事を知った。

 

「真介お前、そんなに有名人だったのか」

 

「そうですよ桐谷さん。小森さんは数年前にペンション『スケープゴート』で起こった事件の真相に辿り着いたすごい方なんです」

 

 その事件に関しては、世間に疎い一詩も知っていた。真介は顔の前で「いやいや」と片手を振ったが、その表情はまんざらでもなさそうだ。

 

「別に私はあのペンションで起こった事件を解決した訳じゃありません。ただ、事件の裏にあった事実を暴いただけです。過大評価ですよ」

 

 知らぬ間に、友人は至高の存在となっていたらしい。それは一詩にとって、我が事のように誇らしかった。……そんな想いの一詩に冷や水を掛ける者がいた。

 

「そうですね。あなたはすでに解決した事件をほじくって、引っ搔き回しただけ。何もすごい事なんてありません」

 

 轟刑事の隣にいた若い女の刑事が言い放つ。歳は一詩、真介と同じぐらいだろうか。セミロングの黒髪を後ろで一つにまとめた、いかにも気の強そうな女だ。

 

「大鷲アテナ……病院へ搬送される前、私達は彼女からも色々と事情を伺いましたが、あなた達、相須の部屋に乗り込んだそうですね。警察が来るまで素直に待てなかったのですか?」

 

「確かに、皆さんが来られる前に相須の部屋へ踏み込んだ事は不適切な行動であったかもしれません。ですが、あの時は相須に拉致されたと思しき大鷲さんの安否を確保するのが第一だと考えたものですから」

 

 元より予想されていた叱責であったため真介は動じる事なく、はにかみながら平謝りする。しかし、女刑事は容赦なく言葉を続けた。

 

「私が言いたいのはそんな事じゃありません。私は、大鷲とあなた達が共謀して相須を殺したんじゃないかと言いたいのです」

 

 予想外の反撃に、思わず一詩の背筋は凍り付いた。真介も表情が強張る。

 

「相須がマンションへ帰って来たのを見計らい、大鷲はベランダから凶器となるような重りを落として相須を撲殺。そして彼女から密かに連絡を受けていたあなた達が現場へ赴き、凶器の回収、大鷲を収納へ閉じ込めたりなどの工作を行う……いや、そもそも大鷲は収納に閉じ込められてさえいなかったのかもしれない。どうです? 警察でもない素人が現場に踏み込むというのはこういう事ですよ」

 

 女刑事は冷たく二人を見据えた。しかし彼女の指摘は鋭く、正論そのものだった。一刻も早くアテナを救出しなければとそこまで頭を回す事が出来なかったが、確かに客観的に見れば、警察が来る前に現場に踏み込む輩など、怪しい事この上ない。

 

 一詩は真介の方を向いたが、彼はいつもの飄々とした表情に戻っていた。

 

「なるほど、確かにそういう見方も出来ますね。ですが、それは誤りです」

 

 真介は人差し指で自身が掛けている黒縁眼鏡を指した。

 

「この眼鏡、実はブリッジ部分に小型カメラが仕込んであるんですよ」

 

「えっ……」

 

 彼の掛けた眼鏡をよく見ると、眼鏡のブリッジ部分に小さなカメラのレンズが微かに光っているのを確認出来た。

 

「相須の部屋を覗こうとドローンを飛ばした所から今現在に到るまで、ノーカットで撮り続けています。これが、私達が凶器を回収したり、大鷲さんをまた閉じ込めたりなどした工作をしていない証拠となると思います。映像のデータは後ほどお渡ししますね」

 

 どうやら首は繋がったらしい。思わぬ証拠の出現に場は沈黙に包まれたが、それを苦笑しながら轟刑事が破った。

 

「いやあ、ウチの部下が申し訳ありません。……ですが、あのお嬢さんが危うい立場にあるというのは残念ながら事実なのですよ」

 

 相須の死因は鈍器による撲殺と判明した。死亡推定時刻は医師の検分によるとおおよそ十二時頃。その時刻、アテナ以外のマンションの住人は全員出払っていた。そして十三時頃まで赤いセダンに乗った相須と、彼の死体を発見する一詩と真介の三人以外、駐車場に出入りする者はカメラに映っていない。また、マンション全階の廊下に設置されたカメラを確認しても、アテナ救出のため相須の部屋へ向かう一詩と真介と、二人に救出されたアテナ以外の人物の姿は映っていない。そのため、廊下やベランダの避難梯子を通って一階のベランダに出る事は出来ない。その上マンション周辺の防犯カメラにも、鮎池をボートや遊泳で渡る者もいなかった。これらを総合すると、相須に近づいて撲殺は不可能。したがって警察は、相須の部屋にいた大鷲アテナがベランダから鈍器を落とし、相須を殺害したと見ている……。轟刑事は語った。

 

 それに対し、真介は反論する。

 

 アテナは南京錠とチェーンで鍵を掛けられた収納に閉じ込められていた。そこからどうやって脱出するのか。仮に何らかの手段で脱出が出来たとしても、ベランダに出るにはまた鍵付きの戸を開けなくてはならない。そして、相須の命を奪った凶器の鈍器とは具体的には一体何なのか。自分達が現場に着いた時、周辺にそれらしきものは落ちていなかった。相須の部屋にいたアテナが、どのようにしてそれを回収したのか。

 

「……大鷲さん以外に犯人と思しき人間はいないのかもしれません。ですが、これらの謎が残っている以上、大鷲さんを犯人と断定するのも、無理があるのではないでしょうか」

 

「そこなのですよ、我々が頭を悩ませているのは」

 

 轟刑事は頭を掻いた。現場は実質密室だった。事件発生時、マンションにいたのはアテナのみで、相須を殺した犯人と思しき人物は彼女の他にいないが、そのアテナも相須の手で部屋に閉じ込められていたため、犯行は不可能のように思われる……。皮肉にも、相須の作り出した邪悪な牢獄は、警察のアテナ逮捕を留まらせていたのだった。

 

「轟さん、もしよろしければ私達も、捜査に協力させては頂けないでしょうか。依頼人であり、友人の大切な部下が今度は殺人事件の犯人として逮捕の危機に陥った以上、黙って見過ごす訳にはいきませんから」

 

 真介の申し出に、場が揺れた。

 

「私達って……俺も捜査に参加するのか」

 

「無論だ。名探偵には名助手が付きものだろう」

 

 女刑事が抗議を入れる。

 

「そんなの出来るわけないじゃないですか! 捜査に協力って事は、また相須の部屋へ入るって事ですよね? 部外者を現場へ入れるなんて……」

 

「おい、お二人を相須の部屋までお連れしろ」

 

 叫ぶ部下を轟刑事は制す。信じられない物を見るように、彼女は上司の方を向いた。

 

「もはや彼等を部外者などとは呼べないだろう。それに、小森さんは過去に実績もある。我々が気付かない意外な発見をしてくれるかもしれない」

 

「ありがとうございます、轟さん」

 

 真介の顔が明るくなる。……捜査に加わる事に関して、真介も一か八かであったのだろう。

 

「そういう事ですので、よろしくお願い致します。……そう言えば、あなたのお名前まだうかがっておりませんでしたね。何とお呼びすればよろしいですか?」

 

「……今西。今西葵(いまにしあおい)です」

 

 女刑事……もとい、今西はそっけなく自身の名を告げて踵を返すと、枷でも付けられているかのような足取りでエレベーターへ向かう。

 

「真介」

 

 それを軽快な足取りで追おうとする真介を、一詩は呼び止めた。言わなくてもいいのかもしれない。だが何となく、改めて言っておく必要があると思ったのだ。

 

「俺からの新しい依頼だ。どうかアテナを、助けてくれ」

 

 新たな依頼に探偵は何も言わず、ただ、力強く頷いた。

 


 再び足を踏み入れた相須の部屋は、青い服を着た鑑識と思しき人々がいるためか、最初の時と異なり、僅かに活気があった。

 

「さあ、始めましょうか」

 

 警察関係者ではない自分達を訝し気に眺める鑑識達の眼を気にする事なく、真介は貸与された手袋を意気揚々とはめると、鉄格子前右方向にある台所へ入る。台所はリビングよりか物があったが、異様なほど整理整頓されており、また違った不気味さを感じさせる。シンクには汚れはおろか水滴一つ付いていない。カップ麺やペットボトルのコーヒーが入った段ボール箱の隣には、電子レンジを上に載せた小型の冷蔵庫が設置されており、まず真介はそれに手を伸ばした。冷蔵庫の中はコーヒーやジュース類で占められ、冷凍庫のスペースも冷凍の餃子やスパゲッティなどが所狭しと押し込められている。どうやら相須という人間は、自炊をしない人間であったらしい。

 

「凶器の問題ですが、この十階の高さから落とせば例え1キロ程度の重さの物体でも、一階へ落ちる頃にはその重さは大体250キロになります。人の頭蓋を砕くには十分でしょう」

 

 冷蔵庫の扉を閉めると、真介は一詩と今西に向き直った。

 

「どのように凶器を回収したのか、あるいは消したのか……推理小説では氷で作られた凶器が消える凶器の代表なのですが、この冷凍庫の状態では1キロはおろか、僅かな氷でも精製、保存は出来そうにありませんね」

 

「なるほど……それに、そもそも俺達が来た時にも駐車場にそんな氷が溶けた跡のような水溜まりは見当たらなかったな」

 

 一詩の呟きに、真介は満足そうに微笑んだ。

 

 再び鉄格子を潜りリビングに出ると、真介は向かって左手の襖を開ける。その先には畳張りの和室があった。ここが相須の自室のようだった。机や本棚には古代ギリシャの詩人の詩集や爬虫類の図鑑、ホッチキスで留められた雑誌が並べられている。一詩はこの部屋に来てようやく、人の生活の営みを感じる事が出来た。

 

 真介が机に向かい、今西が箪笥に手を掛ける中、一詩は適当に本棚の爬虫類図鑑を手に取った。図鑑には様々な種類のヘビやトカゲの画像、生態、そして飼育方法が細かく記載されている。どうやら、相須は爬虫類が好きだったらしい。

 

 ある程度図鑑を眺めた後、今度はその隣の雑誌類に手を伸ばした。

 

「これは……」

 

 雑誌はいずれもファッション誌。被写体はどれも、短髪で身体のラインが分かる、全身を覆う黒いスーツを着た若い女の外人モデル達。それはまさに、アテナがさせられていた恰好と同じだった。

 

「完全に、相須の趣味ですね」

 

 いつの間にか今西も、一詩の肩越しに雑誌を覗き込んでいた。

 

「そこの箪笥に着替えのラバースーツがいくつも並んでいました。自分の趣味を他人に押し付けるなんて、本当に気色悪い」

 

「ラバースーツ?」

 

 耳馴染みのない言葉が出てきたため、思わず聞き返す。「そんな事も知らないのか」とでも言うかのように、今西は冷めた視線を一詩に向けたが、それでもその問いに答えてくれた。

 

「ラバーやラテックスなどのゴム由来の素材を使った、こういった衣装の事です。……それ以上の事は語りたくありません」

 

「すみません今西さん、ちょっとよろしいですか」

 

 真介が今西に声を掛けた。素早く雑誌を元の位置へ戻すと、一詩も今西に付いて彼の元へ向かう。真介は机の上に置かれた青い金属の箱の中を調べていた。覗いてみると、箱の中は雑多な工具が入っている。用途の分からない工具も多々あったが、一詩の眼を引くものがあった。チェーンニッパだ。おそらくはこれで、アテナの部屋のドアチェーンを切断したのだろう。

 

「これの中身ですが……」

 

 真介が今西に差し出したのは、茶色の革製の入れ物だった。厚さはやや薄く、形は長方形。三辺のファスナーを開けると、本のように開くようになっている。しかし、そこには何も入っていなかった。

 

「さあ?」

 

 今西は小首を傾げる。

 

「何か小さくて細長い物が入っていたようですけど……もしかすると、相須が前職の業務で電池交換をするために使っていたドライバーが入ってたんじゃありませんか」

 

「電池交換? ……今西さんその情報、どこから仕入れました?」

 

「大鷲アテナから少し事情を聴いたって言ったじゃないですか。その際、彼女が教えてくれたんですよ。大鷲と相須が以前勤めていた会社は、色々と手広くやっていたようです。スマホ、タブレット端末の電池交換から靴、鞄、傘の修理。表札、印鑑、名刺の作成……小森さんあなた、これらの業務内容については彼女を捜索した時に調べたんじゃないんですか?」

 

「調べましたよ。……ええ、調べましたとも」

 

 今西の問いに真介は静かに答えると、その革製の入れ物をそっと箱に戻した。

 

 リビングに戻ると、真介は黒いフィルムの貼られたベランダの戸へ向かった。彼はまず戸をコツコツと叩いたりしながら調べていたが、やがてそれ自体には何の仕掛けもない事を確認すると、戸の取っ手に手を掛けて解放する。鑑識が開けたのか、すでに戸のクレセント錠の鍵は開いていた。

 

 この相須の部屋において、このベランダの光景が最も異様であった。マンションの部屋と部屋の境目にあるベランダの隔て板は、火災などがあった時のため隣の部屋へ逃げられるよう簡単に破れる素材で作られており、また一番端に位置する部屋のベランダの床には、真下の部屋へ逃げられるよう避難梯子が設けられているのだが、それらは分厚いアクリル板と大量の接着剤で完全に封じられていた。

 

 絶対にアテナを逃がさないという相須の強固な意志に一詩は戦慄すると共に、本当に火災でもあったら奴はどうするつもりだったのかという疑問と呆れが頭に浮かぶ。

 

「ああ、本当にこの部屋は事件現場の真上に位置しているんですね」

 

 真介がベランダの柵から頭を出して真下を確認する。一詩も真似して遥か下の駐車場の光景を見たものの……すぐに眩暈を起こし、後悔する羽目になった。

 

 ベランダで他に眼に付いた箇所は、隔て板の反対側に置かれたベランダの幅ほどもある巨大な水槽だった。水槽に蓋はなく、そのまま中を覗く事が出来た。左半分は砂利で作られた陸地があり、キャベツと思しき野菜の破片が散らばっている。左半分は浅く張られた水の中を数匹のメダカが泳いでいた。

 

「女だけでなく、メダカも飼っていたようですね。……癒しを求めたいのであれば、どうして小動物だけで満足出来ないのかしら」

 

 今西は小さく溜息を吐く。――そう言えば真介との友情も、飼育係として一緒にメダカの世話を行ったのが始まりだった。学校の飼育係の候補者が誰もいなかったため、当時の担任はクジでそれを決めた。その当時はクジに外れたと大いに絶望したが、真介という頼もしい友人が出来たので、長い目で見ればあのクジは大当たりだったと言えるだろう。

 

 ベランダから出ると、真介は思い出したかのように、戸の鍵付きのクレセント錠を調べ始めた。

 

「どうやらこの戸のクレセント錠は、閉める際には鍵は必要ないみたいですね。そう言えば今西さん、私達が皆さんに渡した相須の鍵束の鍵にスペアはないのですか?」

 

「今の所は見つかってません。……相須という男の執念深さを鑑みるに、存在する確率は低いでしょうけど」

 

 三人は改めてアテナが監禁されていた収納を見ておく事にした。中を見ると、一詩は思わず溜息を吐いた。何もない、二畳にも満たない狭く、光源のない暗い収納の中……。さすがに常にここへ閉じ込められていた訳ではないだろうが、それでも相須が仕事に出ている間や眠っている間、ここへ閉じ込められていたのだとすると、アテナの苦痛と恐怖は想像を絶するものであっただろう。

 

「私達が駆けつけた時にはここに、チェーンと南京錠が取り付けられていました。仮に大鷲さんが犯人であるとして、どうやって彼女はここから抜け出したのか……」

 

「ああ、簡単な話です」

 

 今西は懐から鍵束を取り出した。ただし、それは一詩と真介が渡した相須の物ではなかった。

 

「大鷲アテナが持っていた物です。用心深い相須も、これはノーマークだったようですね」

 

 今西の言葉の意図に、始めに気付いたのは真介ではなく、一詩だった。刑事の持つアテナの鍵束には、数多の鍵に混じってそれらがぶら下がっていた。一見すると普通の鍵のように見える物……

 

「創立記念のドライバー……か」

 

「これのプラスの方を使って、大鷲は内部から蝶番のネジを緩め、扉ごと外し、収納から脱出したのでしょう」


 ――マズい。これで、アテナ犯人説に一歩近づいてしまった。しかし、それに待ったを掛けたのはやはり真介だった。

 

「今西さん、これをよくご覧下さい」

 

 真介が指したのはその収納の蝶番だった。

 

「完全にネジ山が潰されています。もしこれが、大鷲さんが再びこの収納へ戻る際に彼女自身が潰したのではなく、初めから用心深い相須が潰していたものだとしたら、どう説明するのですか」

 

 相手の論証に、すぐその反証を挙げる探偵小森真介。だが、今回ばかりは今西の方が上手だった。

 

「……そうだ、少々お待ち下さい」

 

 そう二人に言い残して、今西は再び相須の自室へと入っていく。そして、箪笥の中から出したのか、ラバースーツをその手に持って戻ってきた。

 

「……なるほど」

 

 真介が感心したように呟くが、一詩にはさっぱり今西の意図が分からない。

 

「収納に閉じ込められた大鷲が使えるのはこれとドライバーだけ。ですが、開けるのはこれだけで十分」

 

 左手にラバースーツ、右手に創立記念のドライバーを持った今西は、二人にそれを実演してみせた。ラバースーツをネジ山に被せると、更にその上からドライバーを押し当てる。

 

「ラバーを……ゴムをネジ山に噛ませて、その摩擦を利用してネジ山を緩めたり締めたりする方法です。本来は、輪ゴムを噛ませてやるものですが」

 

 そう言いながら今西はドライバーを回していく。しばらくすると、潰れていたはずのネジが外れ、床へ落ちた。

 

「後はどうしたらベランダへ出られるか……ですね」

 

 ――マズいマズいマズい! このまま今西がベランダへ出られる方法を見つけた場合、殺人犯としてアテナは逮捕されてしまう。

 

 焦る余り、一詩は思わず今西に食いかかる。

 

「あなた、やけに大鷲に対して敵対的じゃないですか。俺、婦警には被害者、特に女性に寄り添うイメージがあったんですけど」

 

 今西は一詩から少し顔を逸らす。その表情に怒りなどはない。

 

「誘拐犯である相須が死んでいる以上、大鷲が完全な被害者と言えないかもしれない状況だからですよ。……私も彼女の肩を持ちたい。そのために警察官になったのですから。されど警察官である以上は中立的、多角的な視点で事件を見なければなりません。……そんな中で、私は大鷲が収納から脱出出来る方法を見つけてしまった。それだけです」

 

 今西の言葉を聞き、己の失言に血の気が引いた。――ああ、この人は別に愉しんでアテナを追い詰めようとしてる訳ではない。ただ、警察としての勤めを果たそうとしているに過ぎないのだ。

 

「なんか……すみません」

 

「いえ、別に」

 

 暗い顔をした二人に対し、友人はどこ吹く風と言わんばかりに涼しい顔をしていた。

 

「今西さん、あなたは優秀な刑事だ。今のネジの開け方、私には思いつきませんでした。お礼と言ってはなんですが、私の推理も一つ、聞いては頂けないでしょうか」

 

「……何でしょう」

 

 真介はその推理に、絶対の自信があるのだろう。顔だけではなく刑事に掛ける言葉もどこか飄々としていた。

 

「こうは考えられないでしょうか? 犯人は何らかの方法を用いてベランダに出たのではなく、初めからベランダにいたと」

 

「ベランダにいた? ……なるほど、大鷲が閉じ込められていたのは収納ではなく、ベランダなんじゃないかと言いたいのですね。あなたも大鷲が犯人だと……」

 

「ベランダにあった水槽ですが、あの中には何がいて、何があったか覚えていますか?」

 

 発言を無視され腹を立てたのか、今西は鼻の穴を膨らませて押し黙る。そんな彼女に代わり、一詩がその問いに答えた。

 

「確か……メダカがいたな。それと、砂利の上には野菜の切れ端が落ちていたと思うが。……それが事件と何の関係があるんだ?」

 

「小学校時代のメダカの飼育を覚えていないか? どんな水槽で飼っていたか、どんな餌を与えていたか」

 

 その言葉でメダカの飼育方法の詳細を思い出した一詩は、電撃をくらったかのように衝撃を受けた。メダカの水槽は下に砂利を敷き、全体に水を入れていた。餌も顆粒状の人口餌だった。

 

「メダカを水槽で飼うのに、なぜ砂利で陸地を設ける必要があるのか。なぜ野菜の切れ端をばら撒く必要があるのか。……答えは、あの水槽で飼われていたのはメダカではなく、別の生き物であるという事。あのメダカは、その生き物の生餌であるという事」

 

 そして真介は、今西に対し慇懃に頭を下げる。

 

「ここから先の私の推理を証明させるには、皆様警察の数と機動力が重要になってきます。お願いします。今からお伝えするヤツを探してきては頂けませんか?」

 


 幸い、警察の数と機動力を頼らずとも、探しものは早々に見つかった。

 

 一詩はとりあえずこれでアテナの無実を証明出来ると口元を緩め、轟刑事は驚きの表情を浮かべ、今西は首を傾げている。そして真介は、自身の推理の正しさが証明されてご満悦の様子だ。

 

 大きなバケツに入ったそれを、それぞれ異なる面持ちと感情で見つめた。

 

「小森さん、これが……こいつが凶器ですか」

 

「それと同時に、相須究朗を殺害した真犯人でもあります。これでお分かりでしょう。ベランダから落とされた凶器は一体何だったのか。そして、その凶器は一体どのようにして現場から消えたのか。……本当に、沼に逃げ込まれなくて良かった」

 

「誰かに回収されたのではなく、自ら歩いて移動した……か」

 

 その甲羅には、すでに黒ずんだ血痕がねっとりと付着している。バケツの中には、沼の畔で日向ぼっこをしていた体長15センチほどのカメが元気にうごめいていた。

 

「いやいやいや……ちょっと待って!」

 

 今西が叫ぶ。

 

「相須を殺した凶器がこいつなのは違いないんでしょうけど、水槽から逃げたカメがベランダから落ちて、帰ってきた飼い主の頭に直撃した? 普通に考えて有り得ないでしょうが! 水槽から逃げただけならまだしも、ベランダから落ちるのは有り得ない。だって、あのベランダの柵には隙間も穴もなかった。それに都合良く人の頭に落ちるなんて、どう考えても……」

 

「今西さん、あなたの言う事も一理あるでしょう。ですがあなたは、大鷲さんがベランダから出る方法が分かったのですか? それが分からなければ、彼女を逮捕する事は出来ませんよ」

 

 真介がそう諭すと、今西はそれ以上口を開く事はなかった。代わりに轟刑事が口を開く。

 

「いやはや、まさか犯人がカメだとは。……ですが、被害者がどのような人間であろうと、その死に対し何人も責任がないに越した事はありません。仕事とはいえ、人に手錠を掛けるのは良い気分はしませんからな」

 

 そう言うと、轟刑事は一詩と真介に向き直り、深々と頭を下げた。

 

「お二人のお力がなければ、我々は罪なき人を罪に落としていた所でした。捜査のご協力、誠に感謝いたします」

 

 こうして、相須究朗殺害の犯人は、彼がベランダで飼っていたカメという事となり、大鷲アテナの容疑は完全に晴れたのだった。


 

「それで、お前はどうするんだ」

 

 ワゴンに乗り込んだ時にはすでに、外は橙に染まっていた。そんな景色を車窓から眺めていた一詩に、真介は問い掛ける。

 

「何がだよ」

 

「大鷲さんの件だ」

 

 それはお前が疑いを解いてくれたじゃないか――一詩はそう言おうとしたが、いつになく真剣な眼差しの真介に、その事を尋ねたいのではないのだと察した。

 

「お前、大鷲さんの事が好きなんだろ? このままだと、ただの上司と部下の関係だけで終わってしまうぞ」

 

 一詩は長い溜息を吐く。一詩も悩んでいた。高校時代、先輩後輩として毎日のように顔を合わせていたくせに、とうとう彼女に想いを伝える機会をふいにしてしまった。そして今、また上司と部下として毎日顔を合わせるくせに、その想いを伝える踏ん切りがつかないでいる。今回の事件があった以上、もしかするとアテナは桐谷電工を辞めてしまうかもしれない。本当に、残された機会は僅かかもしれなかった。

 

 赤信号に引っ掛かり、ワゴンが停まる。真介は脇のポーチからある物を取り出して、一詩に差し出した。

 

「それは……」

 

 アテナの壊れたガラケーだった。

 

「つい、警察に提出するのを忘れちまった。このぐらい、お前なら直せるだろ。直したら大鷲さんに返してやればいい。あの収納の牢獄から助け出された事もあって、お前に対する彼女の評価も更に上るはずだ」

 

「それは……ちと卑怯なんじゃないか? 今アテナは心に深い傷を負っているんだ。その隙につけ込むのは……」

 

 そんな奥手の一詩を真介はやや強い口調で諭す。

 

「何が卑怯だ。友情だけならともかく、恋愛ともなれば多少の打算は必要だろ。桐谷電工就職の誘いを受けたのだって、もしかすると新たな仕事探しに途方に暮れていたせいもあるのかもしれないが、いくらそうでも、嫌っている相手の誘いはいくらなんでも受けないはずだぜ。大鷲さんのお前への好感度は、少なくともゼロやマイナスじゃないだろう。それに、今の大鷲さんには何らかの心の支えが必要なはずだ。彼女の高校の先輩であり、雇用主であるお前がそれにならないで一体どうする?」

 

 友人の熱い弁を聴いていく内に、希望が湧いてきた。一詩は真介の手から、アテナのガラケーを受け取る。

 

「それもそうだな。誰かが、あいつの傍にいてやらないと駄目だよな。……それは、俺であるべきだ」

 

「よしいいぞ、その意気だ」

 

 赤信号が青へと変わり、真介はワゴンを発進させる。それにより、ドリンクホルダーに置かれたペットボトルが僅かに揺れた。

 

 一詩は気付いた。

 

「真介、このペットボトルのコーヒー、どこで手に入れた?」

 

 記憶の糸を辿っていけば、フィラキイAへ出発前のコンビニにて、昼食に真介が買ったのはお茶だったはずだ。それに自分が見る限り、それ以降コンビニも自動販売機も利用していない。真介のささやかな荷物からして、あらかじめ持っていたとも考えにくかった。

 

「ああ……これか」

 

 少し躊躇いがちに真介は答える。

 

「あの現場から持ってきた。……とってもバレないと思ったんだ」

 

 一詩の記憶の糸が完全に繋がった。そうだ。このペットボトルコーヒーのラベルには見覚えがある。相須の部屋の台所の、段ボールに入れてあった物と同じだ。

 

「お前なあ……」

 

 友人の奔放さに開いた口が塞がらなかったが、その友人はあっけからんとした様子で一詩に切り返す。

 

「まあ、そんな顔してくれるなって。俺は要らないからお前、飲んでいいぞ」

 

「いや、いらねえよ!」

 

 コーヒーはもうすでに何口か飲まれているらしく、量を少し減らしていた。一詩は異性愛者である。

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