第二十八話 運命の夜
薄暗いホールの中に、役者たちの朗々とした声が響き渡る。
スフィア座は、かの劇作家が生きていた時代の情緒を今に残す、王都でも指折りに古い円形劇場である。建物は三層構造になっており、一階に舞台と立ち見のスペースが、二階と三階に観客席が設えられている。収容人数は立見席を含めて二千人を越え、だから三階席から下ろし見ると、予想外の客入りに驚かされたりもする。
少なくとも、ノエルはそれで、コーディリアに笑われたばかりである。
昼間渡された封に入っていたのは、この公演のチケットだった。演目は流行りモノではなく古い喜劇で、男装の主人公が複雑に絡み合った好意の矢印の中で翻弄される、とそんなあらすじだったとノエルは記憶していた。
「おお時よ。この縺れを解くのはお前」
今宵の公演は当時の――つまり初公演がなされた時代の舞台を、できる限り再現しようという趣旨のもとで行われているらしい。照明等の近代的舞台演出は素人目にわかるほど控えられ、主人公であるヴァイオラを演じるのも、女性ではなくうら若い少年だった。
遠大な時の流れを感じる、微かに埃っぽい空気の中で、数百年前の物語が進行していく。
舞台のお約束として、主人公ヴァイオラの変装が見破られることはない。彼女が彼として振舞う限り、彼女が想いを寄せる公爵も、彼女に想いを寄せる伯爵令嬢も、そこにいるのが彼だと信じて疑わない。だからこそ劇はときに騒がしく、ときに艶めかしい。
伯爵令嬢がヴァイオラに迫る。
公爵がヴァイオラに恋を語り、ヴァイオラが公爵に愛を語る。
劇は主人公ヴァイオラの双子の兄の登場を以て大団円へと向かう。ヴァイオラは無事想い人と添い遂げ、伯爵令嬢もまた同じ顔をした彼女の兄と結ばれる。
幕が下がり、一座の人間が拍手で迎えられる。彼らが舞台の裏へと下がり、完全に終劇となったところで、照明が再び灯された。
『良い劇であった……!!』
感涙にむせぶまでには届かなかったが、ノエルもおおむね同じ感想だった。単なる懐古趣味に収まらない見世物だったことは、浅学な自分が楽しめた以上明らかである。難なら、まだ異国の海街に心が囚われているのか、浮遊感が抜けないくらいだ。
『特にオリヴィア役の少年が良かったな。あれは大成するぞ』
「もしかしなくても結構な演劇好き?」
『まあな。生前はテンプラムの内でも外でも見て回ったものだ』
隣に座っていたコーディリアが、
「サイモン様にも楽しんでいただけたようですね」
昼間よりは幾らか豪奢な、黒の夜会服を着込んだ彼女は、そう言って計算された微笑を作った。劇場の絶妙な光の具合か、ノエルはその笑みに数年先のルークラフト夫人を見た気がした。
「どうしました、兄さん」
「い、いや。なんでもないよ」
「そうですか」彼女は悪戯っぽく笑って、「わたくしに見惚れたかと思いましたのに」
彼女らしからぬ、直接的な表現だった。ノエルはちょっと驚いたのち、でも否定もできないと生真面目に考え直した。確かに、今宵の彼女は愛らしさよりも美しさの方が前面に出ている。
「でも、コーディリアにはそっちの方が似合うと思うけどね」
「そっちって」
「今みたいな、子供っぽい笑い方だよ」
彼女は顔を赤らめた。「もう、また子供扱いして」
もう知りません、と拗ねたふりをするコーディリア。そこにはもう、ココがいるだけで、ルークラフト夫人の幻影はどこにもなかった。そのことに、心のどこかで安堵していた。
安堵してしまっていた。
――ああ。
大人になれずにいる人間は、間違いなく彼女ではなかった。幻影は望むべきものなはずだった。フォーチュン家の跡取りとしても、コーディリアの兄としても。
――やっぱり、こうして顔を合わせるべきじゃないんだ、僕らは。
ずっと頭の隅あったことが、いや、頭の真ん中にあって先延ばしにしていたことが、重量を持って、すとんとノエルの胸に落ちてきた。それは必要なことに違いなかった。
自分と彼女は、あまりに近過ぎる。
「ねえ兄さん」
呼ばれて、顔を上げる。我知らず考え込んでいたらしい。
「まだ、時間はありますか」
問いかける彼女の頬には、微かに朱が残っている。
ない、と言うべきだった。言えたらここにはいなかっただろう。
無言を了解と得て、コーディリアが立ち上がる。
「少し風に当たっていきませんか」
決して涼しい夜ではなかったが、演劇の熱で昂った身体に、夜風は心地よかった。二人は気の向くまま通りを歩き、疲れ、最後は脇道の先に見つけた噴水の縁に腰を落ち着けた。裏道の途中にある小広場といった空間である。街灯はなかったが、星月の光と、それを反射する流水のおかげで、真っ暗というほどでもなかった。
満月だった。
「今日はわたくしのわがままにお付き合い下さり、ありがとうございました」
かしこまって、コーディリアが頭を下げる。
「わがままなんて」
「いえ、わがままです」
そこでコーディリアは目を伏せた。
「わたくしは、いつもわがままばかり。迷惑をかけてばかりです」
一語ごとに、自分の言葉に興奮していくかのように、彼女の声に震えが混じっていく。
「今回だってそうです。兄さんは決めていたはずです。もうわたくしには会わないと。決して顔を合わせず、決して言葉を交わさず、決して触れ合わず。知っていました。痛いほど知っていた。なのに、わたくしは兄さんに会いに行ってしまった。王都へ来る前から、そのことばかり考えてしまっていた。それを、それを!」
絞り出されたそれは、もうほとんど悲鳴に近かった。
「わがままと言わずして、なんと言いましょう……!」
コーディリアは手元を見つめたまま、そう自らを責めた。泣いているのかもしれなかった。けれど、手を伸ばせば触れられる距離だというのに、月の光だけでは、それを窺い知ることはできなかった。陽の光が――自分たちには注がれることのない陽の光が、涙を拭うのには必要だった。
あるいは。
そう、あるいは。
自分が、ノエル・フォーチュンでなければ。
「……でも、それも今宵でおしまいにしようと思います」
湿った息を一つ。コーディリアが立ち上がった。闇に溶けるように黒の裾が翻る。ノエルは水のせせらぎを背に、月光を浴びる少女を目で追った。照らされた彼女の顔は、笑っていた。
「わたくし、明日からルークラフト伯爵のお世話になることを決めました」
「それは」
「婚姻には女王陛下のご裁可が必要ですから、結婚には今しばらくかかるでしょう。しかし、伯爵のお屋敷でお世話になるのですから、もう勝手なことはできないはずです。昨晩のようなことはもちろん、今宵のように出掛けることも容易ではなくなるでしょう」
「ウェルズリ―さんには、そのことは」
「伝えてあります。もちろん、ルークラフト家の方にも」
コーディリア・ルークラフト。
ノエルにとって、それは彼女の新たな呼び名ではなく、知らない誰かだ。
呆けるノエルに、彼女はどこか嗜虐的な笑みを浮かべた。それから、大きく深呼吸をして、ノエルを見据えた。
「ですから、今宵で最後ですから、あと一回だけ、わたくしのわがままを聞いてはくださいませんか」
「なにを」
「サイモン様と、もう一度話をさせていただきたいのです。そして、そのあいだはどうか、兄さんには耳をふさいでいてもらいたいのです」
何でもない頼みではあった。けれど拍子抜けするようなことはなかった。妹の最後の頼み事だと思うと、同居人を呼び出す声すら枯れそうになった。
「さ、サイモンさん、コーディリアが話したいって、言ってるんだけど」
『構わんぞ』
落ち着いた声音の返答があった。それを伝えると、
「では、お願いします」
ノエルは頷き、目をつむり、いつ意識が水底に沈んでもいいように身構えた。
五秒が過ぎ、十秒が過ぎた。
水音がして、風の感触があって、コーディリアの息遣いが続いている。
あれ、とノエルは訝しむ。構わないと返事をしたサイモンが、一向に浮上してこない。以前は有無を言わせず乗っ取ったくせに、死んだように反応がない。どうにも底の方にいて、こちらを窺っている気配はあるのだけれど。
こんな大事なときに。
ノエルは苛立ちを覚えながら、目を開けた。コーディリアに謝ろうとしたのだ。
そして、縋るようにしてこちらを見る、彼女の姿を見た。
魂をすり減らして、彼女はノエルを視ていた。そのことが、片端である彼にははっきりとわかった。コーディリア・フォーチュン最後のわがままが、何でもない頼みであるはずがなかったのだ。彼女が本当に望んでいること、それは――
巨大な月が、夜に滲んで青く見えた。
――名優である必要はなかった。
彼は立ち上がり、片肘を身体の前で横に曲げ、恭しく礼をする。
「お待たせいたしました。コーディリア嬢」
なぜなら、舞台の上では、当人が名乗るまで、変装が見破られることはないからだ。
「今宵もご機嫌麗しゅう」
彼の登場に、コーディリアは礼を返す。
「サイモン様もご機嫌麗しゅう。この度はわたくしのわがままでお呼び立てしてしまい、誠に申し訳のほどもありません」
「構いませんとも。言ったではありませんか。貴女様がハーミアのように」言え。「ハーミアのように望みを捨てないのであれば、また会うこともありましょうと」
「しかし、それにしてもこうも早いとはお思いにならなかったのでは」
「花の命を一時とするならば、乙女のそれは一瞬にも満たないでしょう。むしろ遅いくらいですよ」
コーディリアがぎこちなく微笑んだ。
「今、兄は」
「あれは意識の底で眠っております」
「そうですか」
言って、彼女は歩を進める。そのまま手を伸ばし、彼の胸触れた。
「しばしのあいだ、胸を、胸を貸していただけないでしょうか」
「わたくしめのですか」
「はい。人に、兄に、見せるわけにはいかないのです」
彼が腕を開くと、音もなくコーディリアは飛び込んできた。闇に芳香が散る。腕を回すようなことはせず、彼女は無心に、彼の胸に顔をうずめた。最後の矜持だった。
すすり泣きが聞こえてきた。
雨粒が集まって川になるように、ぽつぽつとしたそれは、やがて慟哭となった。自らの弱い部分を大気に触れさせるのが嫌なのか、彼女はより強く顔をうずめようとしたが、無駄に終わった。溢れ出すものは留まることを知らず、すべてを包み込むには彼の胸は狭過ぎた。
何より。
「わたくしは……!」
痛々しい絶叫が、闇を裂く。
「わたくしは、兄さんと生きたかった……!」
少女が十数年抱えていた想いは、あまりに膨らみ過ぎていた。
「普通じゃなくてもいい。不自由でもいい。可愛いって、綺麗って言ってもらえなくてもいい。好きって言えなくてもいい。誰に自慢できなくてもいい。それでも、わたくしは兄さんと生きたかった! 兄さんだけが隣にいてくれた! 兄さんだけがわがままを聞いてくれた!」
少女の腕に力がこもる。彼女が叩くのは彼の胸なんて薄いものではない。倫理という、少女の細腕では絶対に突き崩せない、厚い厚い壁だ。
「せっかく、兄さんの妹として生まれたのに!」
自己矛盾の中で少女はもがく。兄妹として生まれなければ、決して知り合うことはなかった二人はしかし、兄妹であるがゆえに結ばれることはない。例えその想いを互いに感じ取っていようと。
「わたくしは幸運でした……。絶対に、誰がなんと言おうと。だって、わたくしは兄さんの妹として生まれたんですから。本当です。兄さんのことをいつ好きになったのかは覚えていないけれど、それより前からずっと、わたくしは自分のことを世界一幸運な女の子だと思っていました。今もです。自らの運命に感謝しなかった日はありません」
でも、と彼女は訴える。
「わたしだって、幸福になりたい!」
少女の叫びが夜の街にこだまする。誰に顧みられることもなく。
――ああ。現世はこんなにも遠い。
「教えてくださいサイモン様! 罪深きわたしが、わたしたちが! 人並み以下の幸福をすすって生きる方法を! 魔術が万能の術だと言うのなら!」
彼は答えられない。腕の力を強めることもできない。
☆
彼は思ってきた。
ノエル・フォーチュンでなければ、と。
彼女が自らの運命を祝わなかった日がなかったように、自らの運命を呪わない日はなかった。死ぬまで、後悔と無力感に塗れてくたばるまで、その日々は終わらないと思っていた。
しかし、少女の慟哭に混じって、誰かが言うのだ。
本当にそれでいいのか、と。
それは月より高い場所で睥睨する、運命の声に違いなかった。




