表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/32

第二十八話 運命の夜

 薄暗いホールの中に、役者たちの朗々とした声が響き渡る。


 スフィア座は、かの劇作家が生きていた時代の情緒を今に残す、王都でも指折りに古い円形劇場である。建物は三層構造になっており、一階に舞台と立ち見のスペースが、二階と三階に観客席が設えられている。収容人数は立見席を含めて二千人を越え、だから三階席から下ろし見ると、予想外の客入りに驚かされたりもする。

 少なくとも、ノエルはそれで、コーディリアに笑われたばかりである。


 昼間渡された封に入っていたのは、この公演のチケットだった。演目は流行りモノではなく古い喜劇で、男装の主人公が複雑に絡み合った好意の矢印の中で翻弄される、とそんなあらすじだったとノエルは記憶していた。


「おお時よ。この縺れを解くのはお前」


 今宵の公演は当時の――つまり初公演がなされた時代の舞台を、できる限り再現しようという趣旨のもとで行われているらしい。照明等の近代的舞台演出は素人目にわかるほど控えられ、主人公であるヴァイオラを演じるのも、女性ではなくうら若い少年だった。


 遠大な時の流れを感じる、微かに埃っぽい空気の中で、数百年前の物語が進行していく。


 舞台のお約束として、主人公ヴァイオラの変装が見破られることはない。彼女が彼として振舞う限り、彼女が想いを寄せる公爵も、彼女に想いを寄せる伯爵令嬢も、そこにいるのが彼だと信じて疑わない。だからこそ劇はときに騒がしく、ときに艶めかしい。


 伯爵令嬢がヴァイオラに迫る。

 公爵がヴァイオラに恋を語り、ヴァイオラが公爵に愛を語る。


 劇は主人公ヴァイオラの双子の兄の登場を以て大団円へと向かう。ヴァイオラは無事想い人と添い遂げ、伯爵令嬢もまた同じ顔をした彼女の兄と結ばれる。


 幕が下がり、一座の人間が拍手で迎えられる。彼らが舞台の裏へと下がり、完全に終劇となったところで、照明が再び灯された。


『良い劇であった……!!』


 感涙にむせぶまでには届かなかったが、ノエルもおおむね同じ感想だった。単なる懐古趣味に収まらない見世物だったことは、浅学な自分が楽しめた以上明らかである。難なら、まだ異国の海街に心が囚われているのか、浮遊感が抜けないくらいだ。


『特にオリヴィア役の少年が良かったな。あれは大成するぞ』

「もしかしなくても結構な演劇好き?」

『まあな。生前はテンプラムの内でも外でも見て回ったものだ』 


 隣に座っていたコーディリアが、


「サイモン様にも楽しんでいただけたようですね」


 昼間よりは幾らか豪奢な、黒の夜会服を着込んだ彼女は、そう言って計算された微笑を作った。劇場の絶妙な光の具合か、ノエルはその笑みに数年先のルークラフト夫人を見た気がした。


「どうしました、兄さん」

「い、いや。なんでもないよ」


「そうですか」彼女は悪戯っぽく笑って、「わたくしに見惚れたかと思いましたのに」


 彼女らしからぬ、直接的な表現だった。ノエルはちょっと驚いたのち、でも否定もできないと生真面目に考え直した。確かに、今宵の彼女は愛らしさよりも美しさの方が前面に出ている。


「でも、コーディリアにはそっちの方が似合うと思うけどね」

「そっちって」

「今みたいな、子供っぽい笑い方だよ」


 彼女は顔を赤らめた。「もう、また子供扱いして」


 もう知りません、と拗ねたふりをするコーディリア。そこにはもう、ココがいるだけで、ルークラフト夫人の幻影はどこにもなかった。そのことに、心のどこかで安堵していた。

 安堵してしまっていた。


 ――ああ。


 大人になれずにいる人間は、間違いなく彼女ではなかった。幻影は望むべきものなはずだった。フォーチュン家の跡取りとしても、コーディリアの兄としても。


 ――やっぱり、こうして顔を合わせるべきじゃないんだ、僕らは。


 ずっと頭の隅あったことが、いや、頭の真ん中にあって先延ばしにしていたことが、重量を持って、すとんとノエルの胸に落ちてきた。それは必要なことに違いなかった。

 自分と彼女は、あまりに近過ぎる。


「ねえ兄さん」


 呼ばれて、顔を上げる。我知らず考え込んでいたらしい。


「まだ、時間はありますか」


 問いかける彼女の頬には、微かに朱が残っている。 

 ない、と言うべきだった。言えたらここにはいなかっただろう。

 無言を了解と得て、コーディリアが立ち上がる。


「少し風に当たっていきませんか」


 決して涼しい夜ではなかったが、演劇の熱で昂った身体に、夜風は心地よかった。二人は気の向くまま通りを歩き、疲れ、最後は脇道の先に見つけた噴水の縁に腰を落ち着けた。裏道の途中にある小広場といった空間である。街灯はなかったが、星月の光と、それを反射する流水のおかげで、真っ暗というほどでもなかった。

 満月だった。


「今日はわたくしのわがままにお付き合い下さり、ありがとうございました」


 かしこまって、コーディリアが頭を下げる。


「わがままなんて」

「いえ、わがままです」


 そこでコーディリアは目を伏せた。


「わたくしは、いつもわがままばかり。迷惑をかけてばかりです」


 一語ごとに、自分の言葉に興奮していくかのように、彼女の声に震えが混じっていく。


「今回だってそうです。兄さんは決めていたはずです。もうわたくしには会わないと。決して顔を合わせず、決して言葉を交わさず、決して触れ合わず。知っていました。痛いほど知っていた。なのに、わたくしは兄さんに会いに行ってしまった。王都へ来る前から、そのことばかり考えてしまっていた。それを、それを!」


 絞り出されたそれは、もうほとんど悲鳴に近かった。


「わがままと言わずして、なんと言いましょう……!」


 コーディリアは手元を見つめたまま、そう自らを責めた。泣いているのかもしれなかった。けれど、手を伸ばせば触れられる距離だというのに、月の光だけでは、それを窺い知ることはできなかった。陽の光が――自分たちには注がれることのない陽の光が、涙を拭うのには必要だった。

 あるいは。

 そう、あるいは。

 自分が、ノエル・フォーチュンでなければ。


「……でも、それも今宵でおしまいにしようと思います」


 湿った息を一つ。コーディリアが立ち上がった。闇に溶けるように黒の裾が翻る。ノエルは水のせせらぎを背に、月光を浴びる少女を目で追った。照らされた彼女の顔は、笑っていた。


「わたくし、明日からルークラフト伯爵のお世話になることを決めました」

「それは」

「婚姻には女王陛下のご裁可が必要ですから、結婚には今しばらくかかるでしょう。しかし、伯爵のお屋敷でお世話になるのですから、もう勝手なことはできないはずです。昨晩のようなことはもちろん、今宵のように出掛けることも容易ではなくなるでしょう」

「ウェルズリ―さんには、そのことは」

「伝えてあります。もちろん、ルークラフト家の方にも」


 コーディリア・ルークラフト。

 ノエルにとって、それは彼女の新たな呼び名ではなく、知らない誰かだ。

 呆けるノエルに、彼女はどこか嗜虐的な笑みを浮かべた。それから、大きく深呼吸をして、ノエルを見据えた。


「ですから、今宵で最後ですから、あと一回だけ、わたくしのわがままを聞いてはくださいませんか」

「なにを」

「サイモン様と、もう一度話をさせていただきたいのです。そして、そのあいだはどうか、兄さんには耳をふさいでいてもらいたいのです」


 何でもない頼みではあった。けれど拍子抜けするようなことはなかった。妹の最後の頼み事だと思うと、同居人を呼び出す声すら枯れそうになった。


「さ、サイモンさん、コーディリアが話したいって、言ってるんだけど」

『構わんぞ』


 落ち着いた声音の返答があった。それを伝えると、


「では、お願いします」


 ノエルは頷き、目をつむり、いつ意識が水底に沈んでもいいように身構えた。

 五秒が過ぎ、十秒が過ぎた。

 水音がして、風の感触があって、コーディリアの息遣いが続いている。


 あれ、とノエルは訝しむ。構わないと返事をしたサイモンが、一向に浮上してこない。以前は有無を言わせず乗っ取ったくせに、死んだように反応がない。どうにも底の方にいて、こちらを窺っている気配はあるのだけれど。


 こんな大事なときに。

 ノエルは苛立ちを覚えながら、目を開けた。コーディリアに謝ろうとしたのだ。


 そして、縋るようにしてこちらを見る、彼女の姿を見た。


 魂をすり減らして、彼女は()()()を視ていた。そのことが、片端である彼にははっきりとわかった。コーディリア・フォーチュン最後のわがままが、何でもない頼みであるはずがなかったのだ。彼女が本当に望んでいること、それは――


 巨大な月が、夜に滲んで青く見えた。


 ――名優である必要はなかった。


 ()は立ち上がり、片肘を身体の前で横に曲げ、恭しく礼をする。


「お待たせいたしました。コーディリア嬢」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「今宵もご機嫌麗しゅう」


 彼の登場に、コーディリアは礼を返す。


「サイモン様もご機嫌麗しゅう。この度はわたくしのわがままでお呼び立てしてしまい、誠に申し訳のほどもありません」

「構いませんとも。言ったではありませんか。貴女様がハーミアのように」言え。「ハーミアのように望みを捨てないのであれば、また会うこともありましょうと」

「しかし、それにしてもこうも早いとはお思いにならなかったのでは」

「花の命を一時とするならば、乙女のそれは一瞬にも満たないでしょう。むしろ遅いくらいですよ」


 コーディリアがぎこちなく微笑んだ。


「今、兄は」

「あれは意識の底で眠っております」

「そうですか」


 言って、彼女は歩を進める。そのまま手を伸ばし、彼の胸触れた。


「しばしのあいだ、胸を、胸を貸していただけないでしょうか」

「わたくしめのですか」

「はい。人に、兄に、見せるわけにはいかないのです」


 彼が腕を開くと、音もなくコーディリアは飛び込んできた。闇に芳香が散る。腕を回すようなことはせず、彼女は無心に、彼の胸に顔をうずめた。最後の矜持だった。


 すすり泣きが聞こえてきた。


 雨粒が集まって川になるように、ぽつぽつとしたそれは、やがて慟哭となった。自らの弱い部分を大気に触れさせるのが嫌なのか、彼女はより強く顔をうずめようとしたが、無駄に終わった。溢れ出すものは留まることを知らず、すべてを包み込むには彼の胸は狭過ぎた。

 何より。


「わたくしは……!」


 痛々しい絶叫が、闇を裂く。


「わたくしは、兄さんと生きたかった……!」


 少女が十数年抱えていた想いは、あまりに膨らみ過ぎていた。


「普通じゃなくてもいい。不自由でもいい。可愛いって、綺麗って言ってもらえなくてもいい。好きって言えなくてもいい。誰に自慢できなくてもいい。それでも、わたくしは兄さんと生きたかった! 兄さんだけが隣にいてくれた! 兄さんだけがわがままを聞いてくれた!」


 少女の腕に力がこもる。彼女が叩くのは彼の胸なんて薄いものではない。倫理という、少女の細腕では絶対に突き崩せない、厚い厚い壁だ。


「せっかく、兄さんの妹として生まれたのに!」


 自己矛盾の中で少女はもがく。兄妹として生まれなければ、決して知り合うことはなかった二人はしかし、兄妹であるがゆえに結ばれることはない。例えその想いを互いに感じ取っていようと。


「わたくしは幸運でした……。絶対に、誰がなんと言おうと。だって、わたくしは兄さんの妹として生まれたんですから。本当です。兄さんのことをいつ好きになったのかは覚えていないけれど、それより前からずっと、わたくしは自分のことを世界一幸運な女の子だと思っていました。今もです。自らの運命(フォーチュン)に感謝しなかった日はありません」


 でも、と彼女は訴える。


「わたしだって、幸福になりたい!」


 少女の叫びが夜の街にこだまする。誰に顧みられることもなく。


 ――ああ。現世はこんなにも遠い。


「教えてくださいサイモン様! 罪深きわたしが、わたしたちが! 人並み以下の幸福をすすって生きる方法を! 魔術が万能の術だと言うのなら!」


 彼は答えられない。腕の力を強めることもできない。


 ☆


 彼は思ってきた。

 ノエル・フォーチュンでなければ、と。

 彼女が自らの運命を(のろ)わなかった日がなかったように、自らの運命を呪わない日はなかった。死ぬまで、後悔と無力感に塗れてくたばるまで、その日々は終わらないと思っていた。

 しかし、少女の慟哭に混じって、誰かが言うのだ。

 本当にそれでいいのか、と。

 それは月より高い場所で睥睨する、運命の声に違いなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ