第1話 出会いの夜、撫子は甘い香りを漂わせて… Part4
〈2122年 5月7日 1:57AM 第一次星片争奪戦終了まで残り約35時間〉 ―グラウ―
十分という時間をこうももどかしく感じたのは久しぶりだ。ソノミは不機嫌そうに柱に寄りかかっているし、ゼンは横になって眠りにつこうとしていた。こういう微妙な空気の時に役立つのはスマートフォンである。それを取り出して、特に何をするわけでもいじくる。百年近く前から若者はそうやって時間を潰してきた。「スマホいじりは悪しき文化」という批判もある。しかしスマホは情報収集端末として優秀、いじりそれ以外にも音楽は聞けるし、電子書籍も読むこともできる。過度に囚われるのは良くないが、今を生きる上でそれはほぼマストアイテムと言ってもよいだろう。もちろん結界の内部は電波が届かない。その機能の大半を使えないわけだから、画面を横にスライドしたり、縦にスライドしたり。無駄に時間が過ぎていく。
「時間だ」
ソノミがそうつぶやいたのは、まさに集合時間ちょうどのことだった。
「来ないっすね。もしかしてここに来るまでへばっちゃったとか?」
ゼンの言う通り、体力のない人間だったら確かに上り切るのが厳しいのかもしれないが……さすがにそんな人間をラウゼが雇うとは考えられない。もしくは本当にへばったということも考えられる。ここに辿り着く寸前で事切れた。その場合、この周囲に他の勢力がいるという可能性も浮かび上がる。
「怪しさが頂点に達したな。彼女が本当に所属している組織に行ってからここにこようとして、それで遅れたということも……グラウ、どうする?」
なんとでも考えられるのは確かだ。俺たちが時間に厳しすぎるのかもしれないが、今は星片の争奪戦という大仕事の最中。日本では五分前行動というものがある。予定時刻よりも五分前に現地入りしろ、という教訓だ。それを厳守せよとは思わない。予定時刻ちょうどについていてくれさえいればよい。だが結果として、彼女は今もなお現さない。
「ここを離れる。もしも彼女が裏切り者であった場合、この場所が他の勢力に知らされている可能性がある。彼女が既に死亡している場合でも、彼女の遺体から集合地点が割れてしまっている可能性もある。何にせよ、ここにいるのは最善とはならないだろう。俺が始めにいたビルには敵影がなかった。あそこに移り、状況を確認する」
「了解っす」
「ああ」
立ち上がり、ボディバックを背負う。ソノミも柱から身体を離し、ゼンも起き上がった。俺を先頭に、後ろにソノミとゼンが横に並ぶ。さて、ここまで来たのは徒労に終わったか――
ふと、甘い香りが鼻腔をくすぐった。奥ゆかしく、ほのかな甘い匂い。昔、巨大な花園に行ったことがある。その時この匂いを嗅いだことがある。撫子。薄紅色をした花。日本では「大和撫子」という言葉があるくらいには親しまれている花だ。しかしおかしい。撫子の花は、石段を上り切って、この境内にたどり着くまでに咲いてはいなかったし、そもそも開花の季節が違う。
「あっ――」
視界に入ったのは、深き闇夜に似たこの空間の中で青い光に照らされた一人の女性。
気が付いた時には、彼女を捉えようと眼球を激しく働かしていた。彼女を構成する情報の量は、あまりにも多かった。
肩までの長さの髪は、クリーム色をしていた。その瞳はアメジストの様な気高い紫色。鼻筋が通っていて、唇は官能的。そのまばゆい顔立ちは、俺の言葉では語り尽くせない。スタイルもすさまじい。メリハリがそこにある。そのスタイルの良さをより魅力的なものにしているのは、黒の戦装束。レオタード状のアーマーの下に、伸縮性があり、その肌のつややかさを露わにする戦闘スーツ。膝まで覆い隠す紫色のブーツも、彼女の足を艶めかしくみせるのに貢献していて――
「おい」
ソノミに背中を小突かれたことでようやく我に返った。完全に、彼女に見惚れていた。俺らしくない。でも、仕方ないだろう。誰だって並外れて美しい花がそこにあれば、目を奪われるはずだ。
だが……彼女が例の人物であるというのなら、それは棘の生えた薔薇だ。下手をすれば血を流すことになる。
「あんたが……ネルケ・ローテか?」
毅然と、こちらの腹の内を悟られないように。未だ俺を悩ませる甘い匂いに抗いながら。
「ええ、そうよ」
鼓膜が慰撫されたような感覚に陥る。そんな柔らかな声。
「久しぶりね、グラウ――」
「はっ?」
何を言っているんだ、この人は。俺とこの人は初対面。今日、この時邂逅した。もしも以前に出会っていたとすれば……忘れることなど出来ないだろうに。
ふと、彼女は微笑んだ。それにドキりとした。ん?彼女が…消えた?
「愛しているわ、グラウ」
「―――――――――っ!??」
十メートルは距離があった。けれど気が付いた時には、ふわりと甘い風を漂わせながら、彼女は目の前に現れた。心臓の脈が速まる。
今、彼女はなんて言った?理解できない。ちゃんと聞こえた。決して難しいことを彼女が言ったわけじゃない。でも思考が追い付いていない。
「ちゅっ」
目の前に彼女の顔があった。彼女のことで頭はパンクしており、他に何も考えられないし感じられない。でも、少しずつ落ち着いてきた。
そして感覚を取り戻してようやく気が付いた。
彼女の唇が俺の唇と重なっているということに。